阿川弘之の「大人の見識」を読んで感じたこと 坂本幸雄 2016.10.13
<はじめに>
・阿川弘之氏は1920(大正9年広島県生まれ。東大国文科を繰り上げ卒業、海軍に入り、中国で終戦。戦後志賀直哉に師事、終戦。「春の城」「雲の墓標」のほか「山本五十六」「米内光政」「井上成美」の海軍提督3部作などを書き、1999年に文化勲章受賞。なお氏のお嬢さんは、TVで日曜日の朝毎週いろいろなタレントの皆さんとの爽やかな対話を茶の間に届けてくれている阿川サワコさんである。彼女には、また、「強父論」という著書がある。読んだわけではないが、この本についてググると「没後1年前代未聞の追悼本。瞬間湯沸器だった父に罵倒されること何千回。でも時にはユーモラスなところも。故人を全く讃えない(!)「父と娘」の記録とある。この本も、読んでみたくなったが、このお二人からは、サワコさんが父の良き影響で様々な面で精神的に強く逞しく育てられたのであろうか、と想像するのである。
・「大人の見識」の帯封には「軽躁なる日本人へ」という文字が大書されている。軽躁なるとは、辞書を引くと「思慮が浅くて軽はずみなこと」を意味すると書かれている。
・この本の第一章は「日本人の見識」と題して太平洋戦争を首相や陸軍大臣などの要職に在ってこの戦争を遂行した東条英機とその戦争を終結に導いた鈴木貫太郎。更に戦後処理を巡ってマッカーサーと丁々発止を演じた吉田茂を取り上げ、この三人が、それぞれに直面した政治の局面で、いかなる「大人の見識」を示したかということが、歴史上の事実、または一部伝聞として面白く描かれている。それを読み、それぞれ三人三様の言動を知ることによって、なるほど「こんな素晴らしい大人の見識」で然るべき重大な局面を切り抜けていたのかという「プラスの大人の見識」と、こんな重大な局面でも「こんなみみっちい見識」しか発揮していなかったのか、という「マイナスの大人の見識」の両面の見識が読み取れるのである。
・その一:「東条英機に見る大人の見識」
・この本の帯封に大書されている「軽躁なる日本人」とは、具体的には東条のことなのであろうか、と思えるほどにこの本の第一章では、東条の「大人の見識」の欠落について様々な事例を通じてその軽躁さを執拗に検証している。
<東条の演説>
・まず東条の演説なる章では、阿川氏が東大3年生のS17年に、戦時下の臨時処置で文科系学生が半年繰り上げ卒業になった際の式典に来賓として訓示を述べた時の東条首相の事が書かれている。氏は、その演説を聴いたのをきっかけに、国の運命を左右する要職にありながら「つゆ和魂なかりけるもの」の代表は東条であろうという印象を持った、との感想が書かれている。その演説とは、「諸君はこの度半年繰り上げで戦場に向かうが、かく申す我輩も日露戦争の最中に士官学校を繰り上げ卒業したにもかかわらず、今日ここに日本帝国の総理大臣として立っている大いなる体験を持っている」という内容であったらしく、式典会場の安田講堂には失笑の輪が広がったが、氏はその時にも「こんな総理大臣は大人物じゃない」と思ったとある。
<かくのごとき幼稚愚昧なる指導者>
・その東条の総理在任中にはゴルフを「打球」と呼ばしたり、新聞にはアメリカのことを米利犬(メリケン)、イギリスのことを暗愚魯(アングロ)と書かせたりするなどの滑稽なことが大まじめで通用していたのであり、重箱の隅をつつくようなその“みみっちさ”があちこちに見られたのであると書かれている。またある学校の校名に英国の「英」の字が入っているので、その「英」を「永」に変えたという事例も紹介されている。それなら東条の英機も永機に変えなきゃね、と思ったがそれはしなかった、とある。
・当時、東条に対して極めて批判的だった知識人の一人である清沢冽の「暗黒日記」(岩波文庫)の次のような記述も紹介されている。「世界においてかくのごとき幼稚愚妹な指導者が国家の重大時期に、国家を率いたることありや。ーー僕は毎日、こうした嘆声を漏らすのを常とする。帝大の某教授(辰野隆)曰く『東条首相というのは中学生ぐらいの頭脳だね』と。
<高松宮による東条暗殺事件>
・ そんな記事の中に、驚くべきことに、高松宮様(昭和天皇の弟君)の私設情報係を務めた細川護貞さんの「細川日記」(中公文庫:坂本注。戦後の出版であろう)の記事として東条暗殺未遂事件が出ていたとある。その経緯は以下の通りである。高松宮は早い時期から、もう日本の敗戦は必至とみて、今後は戦争目的を如何に上手に負けるかに切り替えていくより仕方がないと考えられ「必勝の信念を持つ東条が政権を握っていてはどうにもならないと考えておられ、ある日沈痛な面持ちで細川さんに「もうこうなったら東条を殺すしかないな。誰かやる奴はいないか」と言い出されたのである。がしかし、その結果は、二人暫し長考の末、「陛下の大命を拝して首相を務めている者を、自分の意思で勝手に殺すということはできない。やめよう。」となったと書かれている。その本には、東条暗殺は海軍の高木惣吉も車の衝突事故を起こして東条を暗殺しようとした件も紹介されている。東条はサイパン陥落の責任を取ってS19年7月に嫌々ながら総辞職するのであるが、とにかく政権末期の東条は、さながら征夷大将軍の如き振る舞い。こんな人物を葬ってしまわなければ日本を救えないと思い詰める人があちこちに表れていたのであるとも書かれている。
<彼の姑息な周辺懐柔策>
・また彼の姑息な狡猾さを示す次のような話も書かれている。時代は“もののない時代”である。彼はその“もののない時代”をも利用して御前会議に出るような重臣達には、帰りの車の中に、服地や高級タバコ、ウイスキーなどを密かに積み込み彼の重要会議での発言に反対を唱えないような姑息な手段をも講じているのである。また、彼は、親米英的な、あるいは厭戦的な発言をする者に対しては、それがジャーナリストであればすぐさま彼に召集令状を出して最前線へと駆り立て、陸軍軍人ならば、玉砕必死に最前線へと送ったのだそうである。(当時の陸軍には、シンガポール占領時に現地の麻薬組織などから奪った隠し金塊・資金はたんとあったという話。浅田次郎の小説「シェラザード」の関連でもそのように理解した)
<東条の陸軍第一主義>
・しかもこの本には、さらに驚くほどの東条の陸軍第一主義の思想が書かれている。それは彼の陸軍内部での訓示である。「勤皇には二種あり。一つは狭義のもの、二つは広義のものにて、前者は君命是従うことにて、陛下より和平せよとの勅命あればこれに従うことになるも、後者はさにあらず、国家永遠のことを考え、たとえ陛下よりお仰せあるも、先ず諌めまつり、度々諫言したてまつり、御許しなくば、強制奉りになるとも所信を断行すべし。余はこれを取る」と彼は訓示しているのである。彼が、驚くべき「陸軍第一主義、国家第二主義の思想」の持ち主であることに驚くのである。さらに著者阿川氏は、東条のこの陸軍第一主義は長年にわたる陸軍の伝統とも言える皇室観だったのではないかとの意見を述べ、昭和の初年には、満州の出先あたりで、陸軍の将校連中が、「今の天皇さんにも困ったものだ」とか「天皇といえども愚暗の場合がある」とひそかに言い合っていたとも書かれている。そしてその理由の一つとして著者は、二・二六事件の将校たちは、天皇絶対と信じていたその天皇から終始反乱軍扱いを受け、逆賊扱いを受けて死んだことから、陛下に万斛(ばんこく)の恨みを抱いたまま死んでいったのもその一つの背景であろうとも書いている。
<陸軍第一主義に闘った人々もいた>
・ここで著者は、こんな陸軍に対して言論で大いに闘った勇敢な政治家として、S12年1月の国会で痛烈な陸軍批判をやった衆議院議員浜田国松と、S15年2月に国会で有名な反戦演説を行った斎藤隆夫議員の例をあげている。その内容はグーグルでも全文が読めるので省略するが、その一部を紹介すると、斎藤は「いたずらに聖戦の美名に隠れて国民的犠牲を閑却し(中略),国家百年の大計を誤るようなことあれば、現在の政治家は死してもその罪を滅ぼすことはできない」と勇気を持って断じているのである。彼の反戦演説の内容は是非ググって読んでいただきたい。彼の世界観、平和への願いに感銘を受けるのではなかろうか。
<全てはドイツの温泉地バーデンバーデンから始まった陸軍第一主義;福田和也氏の見解>
・ここで小生が思い出すのは、2,3年前に読んだ福田和也氏の「日本の近代化(下巻)に掛かれている下記の一節である。
・大正10年(1921年:第一次大戦終結1918年の3年後)10月、ドイツの南西部にある国際的温泉地バーデンバーデンに、小畑敏四郎少佐、岡村寧次郎少佐、永田鉄山少佐(3人は陸軍士官学校16期の同期)が集まり,一日遅れでそこに陸士17期の東条が参加する。(坂本注:永田鉄山について:軍務官僚として常に本流を歩み「将来の陸軍大臣」「陸軍に永田あり」と言われ「永田の前に永田なく、永田の後に永田なし」とまで評される秀才だったが、陸軍内部の統制派と皇道派の抗争に関連して相沢三郎陸軍中佐に殺害されている)。
・彼らは、第一次大戦前後の欧州諸国の駐在武官などの役割で、欧州諸国が国家総動員体制で戦われた現状をつぶさに見ており、その時の彼らの討議の結論は「日本は欧米の如く総力戦で戦う体制には完全に遅れている。それを是正するには、陸軍刷新と総動員体制を構築しなければならない」という誓いであった。この「バーデンバーデンの誓いこそ」がその後の昭和史に様々な問題を提起した日本陸軍暴走の根源となったというのが、福田氏の歴史観である。福田氏の歴史観の考察は続く。欧米諸国がそのような総動員体制のための、例えば国民の福祉政策などにも注力し出しているような中でも、日本の政治は、そのような世界の政治の激動に対応できずに混迷しているさなか、軍部だけが国の目指すべき姿を描いていたというのは非常に興味あることだ、とも氏は指摘している。
<政権は東条から鈴木貫太郎へ>
・戦争中権勢をほしいままにした東条もS19年7月には、サイパン失陥の責任を取って彼の内閣は総辞職し、その後は、天皇の意を介して、日本を如何に戦争終結に導くかを至上命令とする鈴木貫太郎が首相に就くのである。ここでまた東条の話に戻ることになるが、この本に書かれている著者の東条への嫌悪感を示す次の逸話はどうしても記載しておきたい。それは、S20年4月の鈴木貫太郎内閣成立直前、重臣会議での東条の発言をめぐるやり取りである。東条は「国内がいよいよ戦場になろうとしている現在、よほど御注意にならぬと陸軍がそっぽを向く恐れがある。陸軍がそっぽを向けば内閣が崩壊する」と発言する。これを聞いて岡田啓介提督(二・二六事件の時の首相)は、この発言は、「今度の内閣が、もし和平を画策するならば、只では済まさないぞ」との東条の恫喝と受け止め、「この大国難の秋にあって、いやしくも大命を拝した者にそっぽを向くとは何事か」と食ってかかると、東条は「いや、その懸念がある故に御注意願いたいということをも申しあげておる」とその場を取り繕っているのであるが、自分は、予備役ながらも、自分の意見が陸軍全体の意見だと言わんばかりである、と同書には書かれている。なんたる東条の非見識であろうか。
<鈴木内閣の「国家の品位」:ルーズベルト大統領の弔意に対する国際的評価>
・そのような陸軍などの恫喝的姿勢の中で、鈴木内閣がいかに苦労して連合国との和平にこぎつけていったかについては、「日本のいちばんながい夏」などの映画・小説などで周知のことであるが、この本には、この鈴木内閣があの終戦直前の時期に、「国家の品位」を守った、とこの本が高く評価している逸話が記載されている。それを紹介したい。
・鈴木内閣成立後の5日後アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトが急逝する。その時鈴木首相が共同通信を通じて発したステートメントは、故人の政治的成功を認め、「深い哀悼の意をアメリカ国民に送る」という簡単なものであった。がしかし、その弔意文が、世界各国で意外に大きな反響を呼んだのだそうである。いろいろな反響の中で、当時アメリカに亡命中のトーマス・マンが鈴木内閣のこの弔意を受けて、故国ドイツ国民に語りかけている。その言葉だけを紹介したい。「これは呆れるばかりのことではありませんか。日本はアメリカと生死をかけた戦争をしているのです。あの東方の国には騎士道精神と人間の品位に関する感覚が、また、死と偉大性に関する畏敬が、まだ存在しているのです。これがドイツと違う点です。ドイツでは12年前に一番下のもので人間的に最も劣ったものが上部にやってきて、国の面相を決定したのです」と、ヒットラーとの対比で鈴木貫太郎を褒めているのである。
・著者阿川弘之氏は、この逸話を受けて「鈴木貫太郎に備わる人間としての品位がヒットラーや東条と違うということは、他国の人にもすぐ分かり、それがそのまま国家の品位と受け止められ、あの東方の国にはまだ騎士道精神が存在するという解釈に繋がった」と書いている。
<マッカーサーとユーモアでやり合った吉田茂>
・終戦の大任を果たし鈴木内閣は8月15日総辞職、更に次の東久邇内閣も2ヶ月で退任後、いよいよ吉田茂の登場である。その吉田が首相就任にあたり鈴木貫太郎を訪ねた際に、鈴木は吉田に対して次のように語ったそうである。「戦争は勝ちっぷりが良くないといけないが、負けっぷりも良くないといけない。鯉は俎板に載せられたら、包丁をあてたってピクリともしない。そんな調子で吉田さん、負けっぷり良くやってください」
・吉田は実際に「戦争に負けても外交で勝った歴史がある」という言葉を残しているが、吉田は、鈴木貫太郎に教えられたことを彼のプリンシプルにしたのであろうと書かれている。
・阿川氏が挙げたマッカーサーに対する、吉田の、まるで人を食ったようないくつかのユーモアを紹介する。
・①お堀端の進駐軍総司令部に行って、マッカーサーに「GHQはどういう意味か」と聞くと、勿体ぶってまともな答えをするマッカーサーに対して、吉田は「あゝそうでしたか。私はてっきり、"Go home quickly"の略かと思っていました」と答えたのだそうだ。
・②終戦の年の冬、日本政府は、当時の国内の諸統計に基づいて、国内の食料生産不足によって相当の餓死者が出るであろうという見通しから、米軍への食料支援の協力を要請したのである。が、米軍は、その時、要望だけの量の支援を行なわなかったにも拘らず、結果的には、ほとんど餓死者が出なかったのである。そのことに対して、マッカーサーは吉田を呼びつけ「数字がまるっきり違いじゃないか」と糾すのである。すると吉田は「日本の統計がそれほど正確ならあんな戦争は始めなかったし、始めたとしても、負けなかった」と言ったという。阿川氏はこんな逸話を紹介し、吉田はユーモアに富んだこんなやり取りを行いながら、天皇陛下の上に立つマッカーサーという権力者と、段々率直な話し合いができる関係を築いていったのであろう、と書いている。
<閑話休題:そもそもユーモアとは>
・こんな吉田の日本人離れした素晴らしいユーモアは、一体どこから生まれたのであろうか、との思いを抱くのであるが、著者阿川氏は「英国人の見識」と題したこの本の第2章で、英国人のユーモアについての講釈をもちゃんと用意しているのである。例えば英国政治家の次のようなユーモアである。英国の国会であるイングランド出身の議員が、スコットランド人を侮辱するように「イギリスでは馬しか食べない燕麦を人間が食っている」と演説で述べると、すかさずスコットランド出身の議員が「おっしゃる通りです。だからスコットランドの人間が優秀でイングランドの馬が優秀なのである」とやり返しているのである。
・またこの本の第二章には、藤原正彦氏が英国留学時の印象をまとめた「遥かなるケンブリッジ」のなかに書かれている「英国のユーモア」に関する藤原氏のなかなか含蓄に富む下記のような面白い記述も紹介されている。
・『英国におけるユーモアには、ダジャレの類から辛辣な皮肉・風刺、ブラック・ユーモアまで多種多様であり、英国紳士の生活やや感覚を知らないとそのおかしさが理解できない面も多い。が、その中で一つ共通していることは、その対象にもめり込まず、一旦自分を状況の外に置くという余裕の姿勢がユーモアの源である。真のユーモアは単なる滑稽感覚とは異なり、人生の不条理や哀感を鋭く嗅ぎ取りながらも、それを「よどみに浮かぶ泡(うたかた)と突き放し、笑とばすことで、陰気な悲観主義に沈むのを斥けようというのだ。それは究極的には無常観に繋がる。英国人にとってユーモアは、危機的状況に立たされた時の最も大きな価値を発揮するものである」。(なかなか含蓄の深い言葉)
・なるほど、吉田のユーモア精神は、彼の在英大使時代に周りの知性豊かな英国人から学んだものであろうと想像するのであるが、この藤原氏の解説を読んで「英国人のユーモア」を見事に活写しているその解説にも脱帽である。
<大人の見識を高めるには>
・本論に戻ろう。以上、阿川氏は、先の太平洋戦争を引き起こした東条、その戦争を陸軍の横暴などに苦慮しながらも和平に導いた鈴木、戦後の処理に携わった吉田三人の総理大臣を挙げて、三人三様の「大人の見識」を我々読者に問いかけているのである。特にここで挙げられている政治家の「大人の見識」は、即、一国の命運に関わる問題であるだけに、われわれ凡俗の「大人の見識」とは、その影響するところには重大な違いがある。がしかし、その「大人の見識」とは、個々人の受けてきた教育、育ってきた環境、経験、更にその結果によって醸成されるのであろう性格・ものの見方・信念などが、それぞれの人生の様々な局面でそれぞれに色濃く映し出されるものである点に於いては、全ての人々に共通しているのであろう。
・その意味では、どんな人間も、大人になれば、周りの人々との関係に於いて、かつ、その個々人の言動すべて於いてそれ相応の「大人の見識」「大人の流儀」が問われるのである。とは言え、何が「大人の見識・流儀」として望ましいか、という点になると、一般的な常識というものが一様はあるものの、それすらも、人それぞれの人生の経験、物の考え方、その人の常識などによっても大いに異なるのである。そしてそこには、また、それを受けとる側の評価にも大いなる差が生じる要因が潜んでいるのである。
・「大人の見識」とは、上記の三人のケースを考えて見ても、それは多くの場合他人からの、しかも事後的評価で決まる要素も大きい。自分で十分考えた言動であっても、その結果が、必ずしも「大人の見識」として周りから然るべく評価されるというほど単純なものではなさそうだ。認識すべきことは、「自分の言動について、自分がどんな判断力で何を決め、その結果がどうであったかなどを、他人が事後的に評価するものである」ということであろう。
・自分の言動が、事後の結果としても、他人からの評価で決まる、という点では、例えば、日常の挨拶やメールのやり取りにも、「大人の見識や流儀」が大いに問われるのではなかろうか。メールの場合、会社でのメールは、事務的な連絡であるから、要件のみのやり取りが効率面からも望ましい。がしかし、親しい仲間内のメールの場合(簡単な会話のやり取りのための「LINE」などは別として)、そのやり取りには、紋切型の対応ではなく、相手との人間関係(年齢、先輩・後輩、親密度、仲間意識)などを含め、その人のほのぼのとした人柄が感じられるような深みのある対応が「大人の見識」という観点からも望まれるのではなかろうか。
<「大人の見識」を高めるために何が必要かについての坂本の見解>
・そんな「大人の見識」を高める上で重要な要素は,一般的に言うと「教育と経験」であろう。しかしこの「教育と経験」も時代と共に大きく変質してきているのである。近代以前の江戸時代などでは、教育は、藩校、私塾、寺小屋、徒弟制度での技能習得などが教育の中心であり、藩校なら、例えば吉田松陰の考え方、徒弟制度などでは、親方の技術伝承に伴う全人格的な教育が「大人の見識」を高める上でも大いに役立っていたのであろうが、明治以降の近代化によって、教育のあり方も、大筋では、教師から全人格的な人間性の影響を受けて育つような側面は大いに減殺される一方で、近代国家の通弊として、“国民に等しく必要な知識”を教える教育中心に変質しているのであろう。
・そのような時代の大きな変化を捉えると、現代は、昔の人のように、その時代の制度・習慣から習得できた受動的な「大人の見識」の習得はさほど期待できないのであろう。従って、各人の「大人の見識」そのものも、極めて属人的なもので、その発揚の仕方そのものも人それぞれの「大人の見識」の受け止め方や意識などによって様々なのであろう。
・しかも「大人の見識」を高めるために必要なのは、単なる知識ではなくその「知識を知恵に高めるための教養」であるもと思われる。最近読んだ出口治明氏(ライフネット生命保険(株)の会長兼CEO)の著書「本物の教養」のなかの次のような一節である。「教養とは、人生のPDCAサイクルを動かすためのツールだ。知識を自らの活力に転換するのが知恵であるが、その知恵を生み出すには「自らが考えること」がそのべースとして不可欠である。教養とは、このように「自ら考える過程に於いてのみ身につくもの」である。
・このような論調を総括すると、結局「大人の見識」を高めるには、ことに応じて“自分でものを考える習慣”を身につけることによって、「知識を知恵に転換することが肝要である」ということになろうか。17世紀に「我思う。故に我あり」(Ⅽogito ergo sum)と言ったデカルトは、やはり「大人の見識」を持った哲人であったということであろう。
<曽野綾子の著書:「人間にとって成熟とは何か」に学ぶ“品”とは>
・また「見識」という概念について、それは、生涯をかけて追及すべき人生の重要な価値であるとの主張もある。
・曽野綾子に「人間にとって成熟とは何か」という著書がある。そのなかで、彼女は“見識”に似たような概念を“成熟”とか“品”という言葉を使って人生に於けるその重要性を説いている。“品”という言葉は一見外面的な印象などが中心であるように思われがちであろうが、それもそれぞれの人の内面にある諸々の要素が外面に現れたものであると考えると、概念的にはこれも全く「見識」と同類のものであろうかと思う。その「品」について彼女は、次のように書いている。
<曽野綾子の主張:「品を磨く」には、人生の様々な局面で端然として立ち向かう強さが必要>
・「ある人に品がある」とは、間違いなくその人が成熟した人格の持ち主であると確認できた時に感じるものである。「そんな品を保つということは、一人で人生を戦うことなのである。誰とでも穏やかに心を開いて会話ができ、相手と同感するところと、拒否すべきところとを明確に見極め、その中にあって決してその感情に流されないことである。そしてこの姿勢を保つには、その人自身が、川の流れの中に立つ杭のように強くなければならない。人生とは、様々な災害・不運・苦痛・経済的変化など様々な困難が次々に打ち寄せ、それらが、まるで川の中に立つ杭に絶えずひっかかり、絡まりつくようなものであるが、それでも“自分という杭”は川の流れに抗して朽ちることなく、倒れることなく端然と川の中に立ち続けるだけの強さが必要である。気品があるということには、そういう強さが必要なのである。そんな強さがなければ生きる上での本当の意味での“自由がある”とは言えないのである。子供にはそういう強さがないから親の保護が必要である。だから子供には自分だけの力で生きる自由は与えられていないのである」。
・このように彼女の求める“品”とは、それを保つためには、上記の如くかなり強靭な強い意志でそれを磨き続ける努力を要するものであるが、その上で彼女はその習得に必要なこととして、次のようにも書いている。“品”を磨くには、多分に勉強がそれに役立つものである。本を読み、謙虚に他人の言動から学び、感謝を忘れず、利己的にならないことだ。しかもそれを受けるだけでなく、それを「他人に与えることも光栄だ」と考えていると、それだけでその人には気品が感じられるのではなかろうか!」。
・以上のような彼女の論調を考えると、彼女の考える“品”とは、それを示された相手には、自然に、心地よい気分、安心感、さわやかな気分などを与えるものではなかろうか、と小生は思う。
<三浦朱門の笑いで対処する「大人の見識」>
・がしかしである。
・曽野綾子のご主人の三浦朱門に「老年の品格」という本がある。その本の第一章「笑いは幸せな老齢夫婦の必需品」に次のような話が出て来る。
・朱門さんの事務所には、40代から60代の三人の秘書がいるのだそうである。そんな秘書の皆さんに「うちの家内の若い時の写真を探してくれ」と頼んだところ、彼女らが「なぜですか」というので、朱門さんは「今の彼女何かと怖いし、何かとうるさいだろう。だから昔の彼女は、よほどセクシーだったとか、窈窕(ようちょう)たる美人だったのかなぁ、と思ってさ、ウン、なるほど、これならボクがだまされても仕方がないというような人だったのかなぁ、と思ったのさ。それに対して、勿論、彼女らは笑って写真を探すようなことはしなかったが」という話である。そしてその話の言外のニュアンスとしては、それぞれに素晴らしい夫にも恵まれている良妻賢母の秘書三女にも「自分も夫からそのように“うるさい存在”と思われているのであろうか、とのささやかな自省の念を彼女らにも与えられたのではなかろうか」、と一人ほくそ笑んでいるのである。
・曽野綾子が追及する「品」は、相手に心地よい気分、安心感、さわやかな気分を与えることも多々あろう。が、それが夫婦間のような親密な関係で頻発されると、逆にそれが相手にうるさがられることに繋がるケースも多いのであろう。しかしそれを朱門さんのように、ユーモアで笑い飛ばすのもまた見事な「大人の見識」であろう。
・このように考えると、「大人の見識」を保ち、それを発揮することも、一筋縄では行かぬなかなか難しい問題であると、考えてしまうのである。
(坂本幸雄 H28.10.5記)
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坂本兄・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・森 正之 2016.10.13
貴兄の現・近代史への飽くなき探求心に敬意を表します。私はわけても天皇論・中国観・日本人の宗教観に強い関心があります。
①ごく最近読んだ書物の中に「吉田茂」と「天皇」が出てきましたので抜き書きします。
【日本人の肖像(対談) 葉室麟*】 講談社 2016.8.30第1刷
p.77
吉田茂は『日本を決定した百年』で「明治の国家体制はあくまでも非常時を乗り切るための例外的な体制であり、そのままのかたちでずっとつづけることのできるものではなかった」と記しています。・・・(中略)・・・天皇を核に近代化を進めたが、急造国家だった面は否定できない・・・。
p.195
歴史小説を書く立場からすると、天皇は中心課題みたいな部分があります。私は天皇に対する日本国民の歴史的な評価はまだ確定していないと思う。・・・(中略)・・・どんな大義名分があろうと、戦争は国家暴力。日本が戦争しないのは、憲法や日米安保同盟があるからではないと思います。日本人は先の大戦で戦争は嫌だと身にしみ、懲りたから戦をしない。主体的な選択です。(後略)
p.197
江戸時代の徳川幕府は武力で政権を取っただけです。明治政府は文治・徳治の天子である天皇を利用したが、フィクションのモデル(欧州)が悪く、帝国路線を突き進んだがために日本は第二次世界大戦で敗北する運命をたどる。
②ガンジーの平和闘争について
【新・人間革命(聖教新聞連載 第5926回) 2016.10.13】
(抜粋)人類の歴史が明白に示しているように、不当な侵略や支配、略奪、虐殺、戦争等々の暴力、武力がまかり通る弱肉強食の世界が、現実の世の中であった。
そのなかで、マハトマ・ガンジーが非暴力、不服従を貫くことができたのは、人間への絶対の信頼があったからだ。さらにそこには「サティヤーグラハ」(真理の把握)という、いわば宗教的確信、信念があったからだ。
ガンジーは、道場(アシュラム)での祈りに「南無妙法蓮華経」の題目を取り入れていたという。 ・・・(中略)・・・
敷地内の一角に「七つの罪」と題したガンジーの戒めが、英語とヒンディー語で刻まれた碑があった。
―「理念なき政治」「労働なき富」「良心なき娯楽」「人格なき知識」「道徳なき商業」「人間性なき科学」「献身なき祈り」
(中略)伸一は、「献身なき祈り」を戒めている点に、ことのほか強い共感を覚えた。行為に結びつかない信仰は、観念の遊戯にすぎない。
<参考 *葉室麟>
森が葉室麟に好感を抱いたのは、この世にあるかと思わせるような美しい愛情物語を、公明新聞の連載小説「はだれ雪」で読み続けたからです。背景は赤穂浪士の忠臣蔵。私は偶々、高輪泉岳寺の正門の隣に小中学生時代住み、四十七士の墓や本堂が遊び場だった思い出もあります。連載後の葉室麟のエッセイを以下にご紹介します。
【連載小説 はだれ雪 を終えて 作家 葉室麟 2015.4.11】
わたしの子供時代には毎年、年の瀬になると忠臣蔵が映画やテレビの定番だった。 ところがいつしか、あまり見かけなくなってきた。十二月と言えば、クリスマスにちなむラブストーリーが主流だ。
赤穂浪士の吉良邸への討ち入りは主君の仇討のためであり、復讐譚だ。しかも最後には主人公たちが切腹して終わるので、ハッピーエンドでないし、忠義という考え方も、現代の若者には受け入れ難いかもしれない。それでも日本人は赤穂浪士の物語を愛してきたし、いまもそのことは変わらないように思う。それは、物語のメインテーマが忠義というよりも「献身」にあるからではないだろうか。
信じるもの、あるいは愛する者のために自らを捧げて悔いない心が忠臣蔵の物語にはある。それだけに忠臣蔵にまつわる、しかし、赤穂浪士とは違うひとびとの「献身」の物語を書いてみたいと思った。
義務としてではなく、見返りを求めず、相手のために尽くす「献身」の心は日本人の中に脈々とながれているからだ。
さらに、松の廊下で吉良上野介の刃傷をした浅野内匠頭が何を思っていたのかは、いまも謎だ。その原因は切腹を前にした内匠頭が家臣に言い残した言葉が中途半端で意味不明だったからだ。
内匠頭の最期の言葉をしっかりと聞いた人物を描けば謎が解けるのではないか、と思った。
同時に政治とは相手の話を聞くことではないか、ということも考えさせられた。
忠臣蔵の物語に永年、庶民が拍手喝采を送り続けたのは、相手の話を聞こうとしない、大きな存在への異議申し立てであったからかもしれない。
そんなことを思いつつ書いた「はだれ雪」は女性を主人公にした。
扇野藩の紗英は、江戸から配流されてきた旗本永井勘解由と運命の出会いをする。 政治の動きに翻弄されながらも、自分が求めているものをはっきり見定め、大切なものを守って紗英は生きていく。
世の中の悪しき流れを正すことはひとの心だけだ。たとえ世の中を劇的に変えられなくとも、片隅で積み重ねられた善意の努力は、いつか「はだれ雪」のようにひとの目にふれる。
そんな思いで書いた物語がもし読者に喜んでいただけるとしたら、これに勝る喜びはない。 お読みをいただき、ありがとうございました。 (はむろ・りん) 公明新聞2015.4.11
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