2016.6.27 時代の風景~郷愁の旅第3集 祝完成!(森)
2016.6.10更新
日光精銅所物語その(1) (2) (3) (4) (5) (6) (最終回)
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2010.5.3投稿
好井君のこと(その一)_____大津寄雄祐
- 本稿は昨年一月のある一日のノンフイクション物語である。やや迂遠であるが背景の説明から話を進めたい。
- 時は昭和30年春、一橋大学小平分校Q組のドイツ語の時間である。教師は人気のグライル(偶来留)先生で、ドイツ人らしく律儀に出席簿にしたがって一人ひとりを呼び上げ出席を確認する。「ヘヤー、有馬」「ヤー」というスタイルである。何人か進み「ヘヤー大津寄」「・・・」再度先生は「ヘヤー大津寄」と呼びかけたところ教室の左右の席から「ヤー」と二人の声、再々度先生は「ヘヤー大津寄」と確認をしたが「・・・」返事がない。先生はびっくりしたという大仰なジェスチュアーで「オー、ユウレイ」と叫んだ。その後一年間「ユウレイ」と呼ばれつづけることになった。しかも試験が不出来であったこともあり成績は「不可」となり再履修とあいなった。
- ここで一言弁解させていただく。私は当初から「さぼる」気は全くなかった。だから授業が始まる直前まで教室にいた。ただ、学校の往復に読んでいた小説が面白く、ちょうどクライマックスにさしかかったし、中庭の芝生に春の柔らかい日差しが暖かく輝き、読書を続ける条件が整っていた。ドイツ語より小説の誘引のほうが強かった。当初から「サボる」予定をしていれば「代返」を頼んだかもしれないが、一回ぐらい欠席しても大勢に影響はないと勝手な行動が好意ある友人に戸惑いを呼び起こさせてしまったようだ。
- 恥かしいがもう一つ「不可」の物語を「付加」しておこう。
- 英語の山田和夫先生のテキストはフオークナーの小説(題名は失念)であった。スラングがやたらに多く、日本語に訳すのは行き当たりばったりでなかなか難しい。この授業はきちっと出席し先生の説明をよく聞いていなければならない。真面目な級友は予習をして分かりにくい所は先生の説明を熱心に聞いていた。
- 試験前、私は友人と読みあわせをしたが、通り一遍であったと思う。試験明けの第一回目、先生の講評から始まった。「試験結果は非常によかった。大抵、四~五人落第点がつくが、今回は一人であった。しかしこの一人は救いようがなかった」といわれた。試験問題は長文の英文に何箇所かアンダーラインが引いてあり「下線部分を説明せよ」というのであった。たとえば「Nigger」の所に下線がひいてある。不勉強である私は白紙より何か書いてあれば少しは加点してもらえると期待し「ニグロ、黒人、皮膚の黒い人種と書いた」先生は「これはひどい説明だ」とだんだん声に怒りが込みあがってくる様子。私は首をすくめ小さくなって聞いていた。Nが大文字の時は蔑視や差別でなく平等な人間としてということで、この文脈で作者は黒人たちに仲間としての一体感を示している。と説明すれば満点であるということであった。
- 体育は出席時間さえ達していれば問題はない。実は妙高山に登山すれば「15時間分」もらえると聞いていた。妙高には大学の山寮があり、そこに泊まり指定する日に登山することが条件であったようだ。私は夏休みの一日、高校時代の友人と学校の寮に泊まり登山した。頂上で撮ったスナップを示し寮に宿泊したことを証明してもらったが、15時間分の認定がされず、時間不足で再履修になってしまった。
- ずいぶん長い説明になってしまった。要するに、二年の教養課程が終わった三十一年三月時点でドイツ語、英語各一科目及び体育の合計三科目が落第、再履修となったのである。留年ではないがスレスレの進級であった。(その二へつづく)
- 昭和三十一年四月からは同期生は国立の本校に通い始め、選択課目と、ゼミナールの所属を決めることをお互い情報交換しながら進めていた。当然私もその作業を進めると同時に小平の再履修課目を申請した。日がたつにつれ新年度が名実ともにスタートしていく。
- 私は週一回午前中小平に通学した。毎週同じ行動パターンであったので徐々に顔見知りができてくる。ある時から小平に通学する好井君と親しくなり毎週国分寺駅から学校の教室まで同道するようになった。好井君はもちろん初対面で、四国の伊予三島の出身、経済学部の新入生であり、明るい人懐っこい学生であった。
- 六月になると夏休みの過ごし方が話題の中心になる。四年生の夏休みは卒業論文の作成や就職活動がはじまるので、三年の時が一番自由であるといわれていた。私は祖母が一人で住んでいる岡山県の片田舎をベースに瀬戸内海から四国を巡りたいと考えていた。そのことを好井君に話した。彼は四国の案内は任せてほしい。そして自分の家に泊まってほしいと話してくれた。彼の好意あふれる誘いに従うことにした。
- 何処で落ち合い、どのように歩いたかスケジュールは好井君に任せ放しにしたので詳細は覚えていないが、栗林公園、金比羅山 高松市内などを歩いたことは記憶にある。
- 余談であるが途中、高松市内にたしか三越デパートがあったと思うが、そこに自転車でやってきた好井君の同級の友人を私に紹介してくれた。彼は高橋進一郎君といって商学部の一年生であったが、後年伊藤進一郎君となり、住友電工に就職し、同社の副社長になった。昭和から平成に変った頃から、業界の色々な会合で顔を合わせる機会が多く、会えば好井君とともにあの当時の彼の若い姿を思い出していた。
- 伊予三島は高松から七十七キロの所で、一時間十分位かかる。好井君のお宅は静かなたたずまいの中に歴史を感じさせる真言宗のお寺さんであった。本堂から最も奥まった十畳か十二畳の広い座敷に蚊帳をつっていただき一人で休んだ。暑い夏の一日であったが蚊帳が風にゆれ、静寂さとあいまって、涼を呼び、ゆっくり休むことができた。翌日は離れ島二~三箇所に立ち寄り、尾道行きに乗船する所まで送ってもらい別れた。おかげで、お客さん気分を満喫でき、学生時代の恵まれた旅の一ページであった。(その三へつづく)
- お互いに就職し、勤務地も離れ、徐々に多忙になってきてほとんど会うこともなくなったが、重要な情報は交換していた。
- 好井君は川崎製鉄に就職し、東京、神戸、千葉などにある本社、工場などに勤務したが、営業企画部門の勤務が長かったと記憶している。
- その後物流会社に出向した。それを機会に、世田谷区の「深沢」に持ち家を新築し引っ越した。拙宅から歩いて三十分弱で、至近距離である。いつでも会えると思ったが、お互いに会社の仕事が多忙で会う機会に恵まれなかった。
- なお、余談であるが「深沢町」は小沢氏が六丁目(推定)、好井君が3丁目である。
- 私が古希を迎える頃、二~三歳若い彼はまだ仕事に従事していた。今後はいつでも会えると思いそのまま日にちがたっていった。
- 昨年、平成21年1月24日、私は所用があり自由が丘までマイカーで往復した。大井町線に平行して「等々力通り」があるが、帰路、等々力交差点が赤信号で停車したとき、前方に「好井家葬儀場」の看板が立っていた。
- 「好井」姓もあるんだなあと妙なことに感心しぼんやり眺めていた。信号が変わり発信して「アレは好井君の誰かのご不幸ではないのか」とやっと回路がつながった。そうなると、俄かに心配になり、そこから車で二~三分の拙宅に車を置き、今度は徒歩で万願寺に向かった。お寺の入り口にいちだんと大きな看板に「好井真澄葬儀場」と書いてあるではないか。私は驚き、早く彼と会わなかった後悔がない交ぜになり、丁度仏壇を組み立てている部屋で、夫人にお悔やみを申し上げた。数年前胃がんを患い快癒したが、昨年末になって再発急速に病状が進んだということであった。
- 私は死者の霊魂の存在を信じないがこの時ばかりは、故好井君の魂が私を呼んだと思わざるをえなかった。
- 自由が丘に車で出かけることはせいぜい一ヶ月に一回ぐらいであり、等々力交差点を通過したのが三時ごろであったが、もう少し早かったら看板は出ていなかったであろうし、赤信号で停車しなければ案内の看板を見過ごしたかもしれない。すべての条件が重なり好井君の死亡通知を好井君の霊から受けとめたと感じた。
- 通夜に参列し、好井君に日頃のご無沙汰をあやまり、五十年も昔の楽しかった出会いの頃を思い起こしていた。
- 読経も、焼香も終わり、お直会に出席した。出席者の誰にも面識がない会に出席するのはあまり経験のないことである。
- 出席者相互の会話を聞いていてこのグループはどうやら大学同期の集まりのようであった。話題は好井君たちが卒業した昭和35年は就職が引く手あまたで学校に残った人が殆んどいなかったと話し合っていた。
- 好井君の友人のひとりが同期の山澤氏が経済学部の先生でしたとの紹介があった。私の隣にご夫婦で着席されていた方が「山澤です」と小声で挨拶された。出席者のだれかが、「竹中平蔵さんは先生のゼミだったのではないですか」と聞いていた。先生は頷かれたがそのことに何のコメントもなかった。
- 好井君の友人数人は、夫妻一緒に旅行することにしていて、山澤先生もそのメンバーで、先生が十年前胃がんの手術をしたことがあり、その経験を山澤夫人が好井夫人と情報の交換をしていたと話していた。(なお、山澤教授は一橋大学を定年退官後、早稲田大学に勤務され、つい先ごろ早稲田も退職されたとのことである)
- 好井君のご長男は歯科医として赤坂にある医院につとめ、長女のご主人は弁護士で用賀にお住まいで、好井君亡き後も後顧の心配はないようである。
- ご長男に昔伊予三島のお寺に泊まった話をした所、つい二三年前あの部屋はすっかり建て替えたと話してくれた。
- 「君子の交わり水の如し」であった。好井真澄君のご冥福を心からお祈りする次第である。 (以上)