「中世の武士とは何者か」西俣総生著「戦国の軍隊」(角川文庫)を読んで
Q坂本幸雄2017.8.18
・山折哲雄氏の「ひとりの哲学」を読んで以来の鎌倉幕府時代への興味から、最近出版された上記の本を読みました。武家中心の統治体制を初めて実現した鎌倉幕府の時代背景を探ってみたいと思ったからであります。
<土地を媒介とした「御恩」と「奉公」の主従関係>
・中世の封建制は平安時代に成立した荘園公領制に基盤をおく封建制度であり、それは「土地を媒介とした主従関係」となる。その主従関係が、武家社会を規定する重要な骨組みである。武士たちは所領とか知行地といったものを守ろうとし、「一生懸命」という言葉は「一所懸命」,つまり一つの地所を命がけで守ろうということに由来している。
・この「土地を媒介とした主従関係」は、実際には「御恩」と「奉公」によって成立している。「奉公」とは主には主君の身辺を警護したり、戦場で主君のために戦ったり、主君のために武力を提供(軍役という)することである。一方、「御恩」として説明されるのが、「「本領安堵」(武士がもともと持っていた土地の権利を主君が保証すること)と「新恩給与」(主君が家臣に対して、手柄などに応じて新しく所領を与えること)である。「「本領安堵」は、同じ土地に対して、武士AとBがいずれも自分の土地であるという主張の争いになった場合などに、主君がそれらの主張を聞いて、A、Bいずれかの主張を保証するという形の安堵もある。
<中世の武士とは何者か>
・ 武士とは何者か。中世にさかのぼるこの時代には、一般庶民も普通に刀だけでなく、弓、鑓なども普通に持っていた。中世では村同士の争いに武器が持ち出されることも多く、室町時代の後半から戦国時代にかけての社会は総じて殺伐としていたから、水争いや山林の境界争いなどでもすぐに鑓や刀が持ち出され、死傷者が出ることも珍しくなかった。
・とはいえ、性能のよい刀剣や弓、特に鎧兜は高額だし、メインテナンスにも金がかかったのである。今の感覚で言えば、個人で戦車を買うような感覚であったのだろう、と書かれている。その点では当然に、安定した収入が必要であった。しかも彼らは子供の頃から職能戦士として育てられたので、個人としても高い戦闘能力を身につけていたのである。だからこの時代では、性格の温和な者は、仏門にでも入らなければ天寿をまっとう出来なかったのであろう。兎も角も他人に隙を見せたり甘く見られたりしたら、やっていけないのが武士という稼業の厳しさであった。
・近代以前の日本では、社会の構成単位は「家」であるが、武士の家は、特に家父長を中心に親子、兄弟などで戦闘集団を構成するほか、家の子・郎党、さらに下人・小者と呼ばれるその下の者たちまで含めて、中世の時代における武士の家は、その武家の地位を保つ上でそれらもろもろの子分をどれくらい抱えられるかが重要な評価基準となっていたのであった。
・武士道といえば、明治時代に新渡戸口稲造の「武士道」に書かれているように、現在のわれわれには“正義と潔ぎよさ”を尊ぶ高い気風・気概をすぐに意識するのであるが、残念ながら中世の武士には、そのような高潔な意識はなく、むしろ自分は殺生を生業とする家の者であり、「いざとなったら容赦はしないぞ」というイメージを周りから持たれ、恐れられることが必要であった、と書かれている。
・中世の説話に「男衾三郎絵詞」という絵巻物がある。それには次のような記述がある。「弓矢取る者(武士)の家を美麗に造ってどうするのだ。庭の草はむしるな、急な事変があった時に馬の飼い葉にするためだ。馬場の入り口には人の生首を絶やすことなく切り懸けておけ。屋敷の門前を通る乞食や修行者などみかけたら、捕まえて弓の的にせよ」。なんともひどい話であるが、武勇に優れた兵(つわもの)として音に聞こえるとは、こうしたことなのである。
感想:
<明治の御代に、そんな武士の末裔が実業家として懸命に生きた事例>
・そんな武士たちの末裔たちが、明治以降どのような動きをし、明治という新時代にどのように活躍しようとしていたか、本日(H29.7.9)の日経「春秋」欄にそんな面白い記事があった。以下それを要約した。
・明治に入って、武士が給与として米や金銭をもらう仕組みは廃止された。代わりに受け取ったのが今でいう国債だ。旧津軽藩士たちはそれを何とか運用をしようと、銀行の設立を考えた。家老らが相談したのが渋沢栄一だった。渋沢は、士族の救済だけの銀行はダメだと手厳しかった。銀行とは民衆からお金を集めて資金を必要とする人に融資し、結果としてそれが国を富ませるものにすべきだと考えていた渋沢は、若手を何人か上京させ、こちらで銀行の業務を修行させたらどうかと提案。それに従って、旧藩士達は銀行が地元の発展を手助けするものだという銀行の役割を教えられたのである。武士たちが、明治という新しい御代にどう生きようとしていたかを知る逸話である。
・なおその時の旧津軽藩士の代表の某氏は、明治12年(1879年)現在の青森銀行の母体となる銀行を創業し、その初代頭取に就任し、銀行業務だけに止まらず農機具製造会社も設立した。彼は自分の地域でどんな産業を伸ばすべきかをも模索し続けていたのである。この話は、明治になっても武士の末裔が、自分たちの地域で自分に何が求められているかを感じながら生きてきた実例であろう。(坂本幸雄 H29.7.10記)