2016.8.24坂本幸雄・ A4・10頁
・オリンピクの喧騒も終わった。
「戦争と平和という対句」の中で、最も「国際場裏での平和を象徴するものがオリンピック」である。
以下、全くの個人的体験ながら、昨年の今頃は、五木寛之の「自分という奇跡」を読んだのをきっかけに“暗愁”という言葉を知り、それに関連して拾数冊の本を読み、漱石や荷風など明治以降の文人たちの心に重く突き刺さっていた、時代的暗い気分たる"暗愁"についてささやかな考察を行った。
"暗愁"という言葉は、我々世代はほとんど目にすることのない言葉ながら、それはオリンピックとは対極にある、「国際孤立のなかの諸戦争」を実体験した、作家たちの心に永い間引っかかっていた苦しい時代的感情であったようだ。
しかもこの時代的感情は、辛勝ながら、日露戦争の勝利の結果、明治以降終戦時までの、国際場裏の戦いの中で、多くの良識ある国民の心にも共通していた心の重圧であったろうと思う。
われわれ世代のちょっと上の世代の皆さんが心のなかで長く苦しみ悶えていたであろう、そんな"暗愁"という時代的感情について愚考してみた。些か長文の駄文である。興味があれば読んでいただきたい。
明治の文人たちの心に沈潜していた“暗愁”という時代的感情について
坂本幸雄(H27.10.26記)
1.プロローグ
・今年の夏の暑さは、私にとっては、高齢も加わって特に耐えがたいものに感じられ、日々読書にかなりの時間を費やす結果となった。
・読書では20数冊読んだ本の中で、五木寛之氏「自分という奇跡」という本が特に印象に残った。私は、その本の中で、明治・大正にかけての文豪たち、例えば、夏目漱石、森鴎外などが、“暗愁”という言葉を、さも彼らが生きて来た時代の“時代的気分を写し出すキーワード”でもあるかのように頻繁に使っていたのに、なんとこの言葉が、終戦のS20年7月に永井荷風が使って以降、この言葉が戦後の文人たちの文章からはピタッと消えた、という五木氏の指摘に驚いた。五木氏は「なぜそういう現象が起きたのか」ということには特に言及してはいなが、私は、長年日露戦争以降の日本の近代史について興味を持ち、この夏もそれに関連する著書、随筆、歴史小説などをいろいろと読んできた体験から、この五木氏の指摘の背景にあるその歴史的意味合いを自分なりに探ってみたいと考えた。
・以下は、五木氏の上記著書の論調の一部紹介と“暗愁”という言葉の持つ歴史的意味合いについて愚考した、明治以降の時代的背景についての些かの考察である。興味あればご一読賜り、できれば感想を戴きたい。
2.五木寛之氏「自分という奇跡」という著書のエスプリ
・まずは、その著書に書かれたそのエスプリともいうべき部分を紹介し、かつ、それに対する私の若干の感想を箇条書きする。
① 人間生きるとは:
・人間というものは、喜ぶだけでなく、本当の意味で深く悲しむことで自分というも
のを活性化させるものである。岡本かの子は「歳々にわが悲しみは深くして いよよ華やぐいのちなりけり」と言っている。人間は喜ぶ、つまりプラス思考だけでなく悲しむこと、絶望すること、悩むことで生き生きと活性化できるものである。日本では、深く悲しむことが特に戦後ずっとマイナス思考であるかのように排除されて来たように思うが、本来「喜びと悲しみはプラス思考とマイナス思考の盾の両面」である。本当に闇の中にいる人こそ闇に浮かび出る光に強く感激し感激してそれを受け入れるものである。
・一粒のライ麦の成長を観察した結果、たった一本の苗の根の張り巡らした毛根の長さは一万キロメートルにもなるそうだ。私たち人間も一粒の麦の命を支えてくれているこの地中に張り巡らされた根の長さ、広がりを知ればこの全宇宙の不思議さに驚き感激するばかりである。われわれは生きていること、それ自体が奇跡なのである。その上に我々人間が生きていく上には、生きていく上に必要な物資だけでなく、希望とか、勇気とか、信念とか、信仰とか、精神的な要素も必要なのである。私たち人間は、一個の人間として生きるために、自分が気づかないところで様々なエネルギーが消費されているのである。そう考えると、人間が生きていること自体、それは、戦いであり、自然との調和であり、奇跡である。目に見えない大きな力にこそわれわれは感謝しなければならない。
② 「われあり、故にわれ思う」と「われ思う。故にわれあり」
・そのわれわれ人間がどう生きるかについてである。中世の神学者トマス・アクイナスは「われあり、故にわれ思う」と言った。人間は、何よりもまず、生きることに意味がある。いろいろな生き方は人それぞれであるが、まずは生きることにこそ大きな意味があのであって、どのように生きるかは第二、第三の問題なのだ。
・これに対して、近世に至り、デカルトは、これをひっくり返して「われ思う。故に
われあり:コギト・エルグスム」といった。思惟するからこそ人間としての存在があ
るのだ,と言う。
・何れにしてもわれわれは生きていれば、いろいろな経験を学ぶ。その上で努力、勉強、読書いろいろな努力の中からあらゆる可能性を見出すことができ、その上で、第二、第三の人間としての可能性を発揮できるのであるのだ。
・シェイクスピアの「リア王」にWe came crying hither というセリフがある。「人はみな泣きながら生まれてきた」という風に訳されている。この「泣きながら」というのは単に産声というのみではなく、弱肉強食のこの修羅場のような巷に、そして、愚かしくも滑稽な劇が演じられる人生という舞台に、自ら決意して望んだわけではなく、偶然に生まれたのである。その人生は仏陀が考えたように、生きる難儀、そして、病、老い、死という4つの思うに任せぬことに満ちている。生まれ出ずる赤子は、そういう不安と恐怖の中に、大きな声を上げる。これは自然のことである。
③ 漱石や鴎外がよく使った“暗愁”という言葉に思い込められた時代的感情
・漱石や鴎外がよく使った“暗愁”という言葉は、幕末から明治、大正にかけて、文
人たちの間で流行った言葉でありながら、なぜか戦後はそれが使われなくなった。
・漱石もこの言葉をよく使っているが、この言葉を通じて「日常のえも言えぬ不条理を感じさせるようなものが心の底にドスンと重石のように存在している心情」を表しているようである。例えば「客中 客送 暗愁微」「閑愁尽処暗愁生」といった表現などで日常的な生活の中でもセンチメンタルな気持ちを感じ取っているように思われる。明治の人々はこういう“暗愁”という感情を心に抱きながらその一方で、司馬サンが描いたように、西欧列強の植民地主義の餌食にならぬために、坂の上の雲を目指して涙を振るいながら、兎にも角にもひたむきに坂道を登って行く。そんななかで道を登って行く一方では急激な時代の変化の中で多くの民草からは踏みにじられた谷間の雑草のような痛みや犠牲が聞こえるのである。それでもアジアの中で西欧列強の植民地の犠牲にならず何とか自立するためには、今はもう振り向くことはできないという覚悟の中で、明治の人々は坂の上を上りつつ心にそこはかとなく涌き出でる暗い気持ちを抑えることができずに、親しい友人たちとの日常の会話の中でも「悲しいではないか」という言葉を挨拶代わりに多用しながら、自ら書く文章のなかでは“暗愁”という言葉を使っている。
・そしてこのような文人たちの表現に対して、多くの国民も深い共感と尊敬の眼差し注いていた。つまり人間は強いだけではダメだ、悲しみというものを心に抱き“暗愁”と共に生きている、そのような人間こそが立派な人間であるという暗黙の認識が明治の人々にはあったのではなかろうか。
・この“暗愁”という言葉を愛用したのは漱石だけではなく、鴎外や有島武郎や鈴木三重吉など当時の多くの作家たちが多用している。
④“暗愁”という言葉を最後に使ったのは終戦間際の永井荷風であった。
・日本は、日露戦争の勝利を勝ち取った後、大正・昭和という時代の中で列強に伍して富国強兵の道を進む。そんな時代背景の中で日本人の気風が変わっていく。悲しむとか、嘆くとか、寂しがるなどと後ろを振り向くような暗い気分に浸るなどの感情はどちらかというと役に立たないという気分が強まって行く。男は元気な兵隊になるために体を鍛えなければいけない。女性は銃後の守りを固めなければならない。そういう時代的気分の中で最後に“暗愁”という言葉を使ったのは敗戦直前の永井荷風である、と五木氏は言う。
・昭和20年7月13日、疎開先の岡山で孤独な生活を強いられていた荷風は、景色の良い岡山市の郊外をハイキングしながら「郊外の山水見るに好しといえども、到底余の胸底にわだかまる暗愁を慰むるものならず」と書いている。この荷風の日記の中で使ったこの“暗愁”という言葉を最後に、劇的にこの言葉は日本の社会から姿を消すのである、と氏は書いている。
・その上で氏は更に書いている。戦後は経済復興への国民的気風の中で暗いことはよくない、明るいことがいいことだ、楽しむことはいいことだ、喜ぶことで人間は自然治癒力も高まる、免疫力も高まるということで私たちはユーモアや笑いの類を高く評価していく社会へと変貌していった。現実には戦後社会にも水俣病など庶民の生活には雑草の苦しみがあちこちに響いていたにも関わらず、であると。
3.以上五木寛之氏の見解に対する坂本の感想
①五木氏は、一粒のライ麦ですら、麦として生きるために限りなく長い毛根を地中に伸ばして生きているのである、と書いている。その上でいわんや動物の霊長たる人間が人間として生きていくためには、希望とか、勇気といった精神的な力も必要であると書いている。生きる力は、生きとし生ける地球上のすべての動植物に共通に備わっているものであるが、人間にはその上に、そういった精神的要素の中で、特に“考えること”即ち“思索”こそが、人間が様々な境遇の中で生きる上での力として重要なものであることを強調している。そしてその上で更に、人間にとって重要な“思索についての認識”自体も、中世のトマス・アクイナスの「人間生きているからこそ思索する」という認識から、近世に至ってデカルトが指摘したように、「人間思索するからこそ生きている。即ち、コギト・エルグ スム」に変わり、人間は思惟するからこそ人間としての存在があるのだ、と“人間の存在”と“思惟する力”の主従関係の認識を逆転させ、「思惟こそが人間を人間足らしめるもの」である、と強調。そういえば、わが母校一橋大学の図書館には、入学当時“cogito、 ergo sum”と書かれた額が掲げられていたことを思い出した。
②また五木氏は“人間泣くことの重要性”も指摘。自分の意思でこの世に生まれ出た訳でない人間は、生まれた瞬間から「生きる難儀」を背負って生きているのであり、赤子が泣き叫ぶというのは自然のことであると指摘される。
・そういえば、最近日経の「春秋欄」に「涙活(るいかつ)なるものが流行っている」という記事があった(H27.10.22)。それを下記に要約する。
・「涙活とは、能動的に涙を流すことで心のデトックスを図る活動」である。(坂本注―デトックス(Detox)とは解毒作用のことで、体の老廃物を体外に排出する作用)。胸を打つ映画などを見て泣きに泣けば普段のストレスも押し流されてスッキリする効果があるわけだ。しかし、悪い泣き方もある。悔し涙を公の場で見せれば周囲は困惑し、「ストレスを人に押し付ける涙」になって仕舞う。そういえば、自分の政務活動費の不正を追及されての記者会見で号泣した兵庫県県会議員がいた。また最近発覚した「マンション杭打ちデータ改ざん事件」では旭化成関連会社の社長は「深く、深く反省し」「誠意をもって、誠実に」と、涙ながらに謝罪したが、一生の買い物をフイにされた住民は「泣きたいのはこっちだよ」と怒りつつ涙をこらえているのである。かくなる上は涙、ではなく膿をとことん出し切って“組織のデトックス”を図ることだ。“なるほど むべなるかな!”と思う「春秋欄」編集子の指摘である。
③さて、本題である明治の文人たちの心に突き刺さっていた“暗愁”という感情について、以下漱石の例を取り上げて考えてみたい。
・漱石は、日露戦争終結の翌年の1906年には「坊ちゃん」「草枕」などの名作を出版し、明治の文豪としての不動の地位を確立しているのである。ご存じのように、森鴎外の作品は、「阿部一族」や「寒山拾得」のように歴史小説的手法で自分の感情や思いを表現している作品が多いのに対して、漱石の作品は、同時代に生きる市井の人々(学生、友人、教師など)の言動を通じて、自身の時代感覚や警句などをその著作に色濃く反映している作品が多い。
・半藤一利氏の著書「漱石なぞ、もし」の中に漱石が日露戦争後の日本の世相を風刺した面白い事例の引用がある。その幾つかを孫引きして下記に紹介したい。
その1.明治41年に書いた漱石の「三四郎」の中での当時の文明評論家としての漱石の面目躍如たる表現:汽車の中で若き三四郎が、これから(坂本注:日露戦争に勝ったこれからという意味)日本はますます発展しますね」と言うと、前の席の紳士は「いや、滅びるね」という。そして、お互い哀れだね。いくら日露戦争に勝って一流国になったからってダメだね。あなたは東京が初めてなら、まだ富士山は見たことがないでしょう。今に(坂本注:車窓に)見えるからじっくりご覧なさい。あれが日本一の名物で日本にはあれ以外に自慢できるものはないのです。ところがその富士山は天然自然に昔からあったものだから自慢しても当然であっても自分達がこしらえたものではないのです。しかしそれ以外の今日本が自慢しているものは全て列強からの借り物で、自分達が独創でつくったものは何もないのです。それが日本の現実なのですよ。それなのに日本人は今・・・。というのが文明評論家としての漱石の警句。ものの見事それから40年後に日本は敗戦。
その2.漱石の大和魂への揶揄(我輩は猫である)。:「東郷大将が日本には大和魂が
有るって言っている、肴屋の銀さんも同じく日本には大和魂が有るって言ってい
る。誰もがそう言っているが、誰もがそれを見たものはいない。誰でも聞いたこと
はあるが誰もそれを見たことはないし、会ったこともない。大和魂とはそれは天狗
の類か」。漱石が冷やかし半分に書いているこの「大和魂」即ち愛国心ナショナリズ
ムがこの頃からしきりに強調され出している。
・なぜ漱石が日露戦争直後の作品にこのような日本の社会に対する風刺や警句を多く書いているのであろうか、その思いこそが漱石の感じた“暗愁”であろうが、私は、その漱石が感じたこの“暗愁”なる思いの意味合いを探るには、やはり日露戦争以降の明治の時代的背景を理解してみる必要があろうかと思った。そういう視点から考えてみると、この夏読んだ半藤一利氏の「あの戦争と日本人」という本も大いに参考になった。その本の第3章「日露戦争後の日本人」の中に「漱石が予言した日本の明日」という節がある。面白い内容なので下記にそれを要約したい。
・ポーツマス条約締結後に例の日比谷焼き討ち事件が起きるが、当時の反対運動では
「十万の英霊と20億円の国費とを犠牲にした戦勝の結果(坂本注:樺太半分の領土と
満州の権益のみというポーツマス条約の結果を意味する)は、千載ぬぐうべからざ
る屈辱、列強四囲の嘲笑のみである。誰の責任か」という主張が言論界や多くの国
民に横行した。
・当時の東大教授の岡義武氏の本がある(日露戦争後における新しい世代の成長)。そ
の中で四つの当時の時代的傾向が指摘されている。要約して下記に記載する。
ⅰ.出世主義で学歴偏重の傾向。特に軍人は勝てば華族になれるのだから戦争して勝つに限るという考え方が横行。また日比谷焼き討ち事件を煽った「東大7教授事件」のように、国家に影響を与えて、国論を動かそう、といった学歴重視の傾向から「末は博士か大臣か」という言葉が流行った。
ⅱ.金権主義の時代。「成功」という言葉が流行、それにめちゃくちゃに憧れる傾向。それはやたら戦争成金が出現し金さえあれば、少々学歴がなくても爵位が買えるという現実が後押しした。戦争成金の代表は「鈴久:鈴木久五郎」(戦時株でがっぽり儲けた。その豪遊ぶりがマスコミを賑わした。芸者を総上げした宴席で芸者に株券を配ったという逸話がある)
ⅲ.享楽主義。人生楽しければいいという考え方。「官能耽溺」という言葉が流行。
これらの世相は、幕末に国のために冷静に我慢強く努力した日本人とは全く別のタ
イプの人間たちの出現したことを示すものである。国家から利益を貪り、目指すは
「己の成功」という風潮が強まった。「官能耽溺」という言葉が流行った。
ⅳ.虚無主義思想、社会主義思想の萌芽。そして上記享楽主義傾向に乗り遅れたもの
は、懐疑、煩悶に陥り、中には反社会的運動に走るものが出てきた時代。そし
てその後にロシア革命が起きた影響で社会主義思想に傾く人々を生み出した。
④ 以上のような当時の東大教授の指摘を受けて、半藤一利氏は「あの戦争と日本人」の中で更に次のように書いている。(以下はその本を参考にした記述)
ⅰ.日清戦争前から続く国家財政の危機を説いて、司馬さんは「坂の上の雲」に次のように書いている。「日本は日露戦争の前に日清戦争(坂本注:明治27年7月~28年3月までの9ヶ月間の戦争)を戦うが、その日清戦時下の年の総支出は、9,169万円。しかしながら、その戦争が終わった後の翌年の明治29年の総支出は、なんとそれが日清戦時下の前年の2倍以上の約2億円と急増している。実に戦時下の倍以上である。司馬さんは 「この内、軍事費が占める割合は戦時下の明治28年が32%であったのに対しいて翌年は48%に膨らんでいる。明治の悲惨さはここにある。ついでながら、われわれが明治時代という世の中の状況を振り返る時に、宿命的な暗さがつきまとう。貧困、つまり驚くべき国民所得の低さである。これだけの重苦しい予算を、さしたる産業もない国家が組み上げる以上、国民生活は苦しくならざるを得ないのである。国民の健康を守る予算や市民生活に必要な水道などのインフラ整備などは全部後回しであった。(坂本注:この夏読んだ吉村明の「戦艦武蔵」にも、これは昭和の話ながら「戦艦武蔵につぎ込むこれほどの国家予算があれば、関東一円の下水道の整備充実ができ国民の生活環境が飛躍的に改善できるのに」といった表現があったことを思い出した)
ⅱ.夏目漱石はその頃ロンドンに国費留学。安い留学費からの10%天引きの建艦費まで取られブ゙―ブー言っている(坂本注:当時軍艦を造るための国家の費用を捻出するために、国民の毎月の給与所得などから10%もの建艦費が控除されていた)。司馬さんは「坂の上の雲」の中で、「この戦争準備のための大予算そのものが奇蹟であるが、それ以上にそれに耐えた国民の方がむしろより大きな奇蹟であった」と書いている。
ⅲ.しかし明治の人々はなぜそんな過酷な国家主義に耐えられたのであろうか。半藤氏はそれについて下記のように書いている。それには2つの要因がある。一つは明治20年までに天皇を中心とする国家づくりが成功したこと。もう一つは19世紀以降、列強の帝国主義のもとでアジア諸国が次々に植民地化される中、日本も特にロシアがいつ北方から襲ってくるかわからないという恐露病に悩まされていたからである。実際に歴史的事実として、日露戦争開戦直前の明治36ごろには、ロシアの南下政策はすごい勢いで進み、満州に兵を進め日本がそれに手を出せなくしていたのである。
・因みに当時の国家予算は日本が2億円、ロシアが20億円。鉄の生産力ではロシアが294万トン、日本は2万トンで100分の1以下。八幡製鉄所を作ったのが明治34年。日本は必死であった。そんな中、日清戦争後の明治政府は対露戦を意識してどんどん軍備を増強。また陸軍は日清戦争時7師団(約15万人)を13師団(約30万人)まで増やしている。海軍も頑張ってイギリスなど外国から軍艦を購入している。日清戦争時6万トンしかなかった軍艦を日露戦争時には25万トンまで増やしている。因みに日本海海戦の司令艦たる戦艦三笠は15000トン余りのイギリス製の世界水準を超える軍艦であった。(当時日本は世界最強の海軍を持つイギリスと同盟関係にあった)
<閑話休題>
・ところで話は横道にそれるが、山本七平氏は「日本はなぜ太平洋戦争に負けたか」(日経Bizアカデミー)」の中で3つの点をその敗因として挙げている。が、今回の論旨展開に必要なその一つだけを下記に紹介したい。
・西郷が官軍と戦って敗れた西南の役で、薩摩の西郷軍は、農民中心に新設された急ごしらえの官軍などに我々精鋭の薩摩武士が負けるはずがない、という独断と偏見で戦った。そのため、相手の兵力や火力に対する考察などを全然行わず、結果として田原坂の激闘で官軍の圧倒的な兵力・火力の前に一挙に敗退するのである。このような相手の兵力などを考慮しない無謀な戦いは不幸にも太平洋戦争にも引き継がれている、と山本氏は書いている。そして氏は、もし日本軍がこの西南戦争時の西郷の敗因の研究を行っておれば、あの戦争は避けられる可能性があったであろうと推察している。
・因みに最近読んだ吉村昭の「零式戦闘機」の196pには次のような記述がある。1941年9月6日の御前会議で対米英蘭戦も辞せずという決定のもと、日本政府は時間稼ぎのために栗栖大使を米国に派遣して日米交渉の打開を図る努力をしながら、陸軍がマレー半島への上陸作戦を、海軍は真珠湾奇襲攻撃作戦を展開していた。
・当時の状況から戦争になれば太平洋上での戦いが主戦場になると予想され、その際の日米海軍力の優劣が焦点となるが、造艦能力では、開戦時日本の7.5に対してアメリカ10の兵力比であったが、その当時の予測では、それがS18年にはアメリカは日本の2倍、S19年には更にアメリカは日本の3倍となると考えられていた。また航空機生産能力に至っては、S17年でも日本4千機に対してアメリカは4万8千機、S18年にはアメリカ8万5千機、S19年には実に日本は1万機に対してアメリカは10万機とその軍用航空機の生産能力は年を追うごとにその差は大きく開くことが予想されていたのである。そのために緒戦で勝機を掴むため、海軍は真珠湾攻撃、陸軍は南方の資源確保のための南方奇襲作戦という奇襲作戦に打って出たのである。
・山本七平氏の上記の指摘は、「太平洋戦争前に、もしも日本の軍指導層が西南戦争での西郷の愚かな敗因を学んでいたならば、あの戦争への突入は避けられたかも知れない」というものである。しかし、西郷の西南戦争時の愚かさを引用するまでもなく、上記の如く太平洋戦争直前の日米の戦力差は歴然たる大差があるにも拘らず、それでも昭和の軍部は愚かにも動じることなくアメリカとの対戦に踏み切ったのである。それはなぜか、日露戦争でも上記の如く彼我の戦力の大きな差があったにも拘らず、日本はロシアに勝ったからである。この日露戦争での日本の辛勝こそが、太平洋戦争開戦時の日本の陸海軍に「米英恐るに足らず、神州不滅、断固戦うべし」という無謀な決断を促したのであろう。ロシアに勝ったのだから、米国にも勝てるのだというこの軍部の脇の甘さに今更ながら驚くのである。
・今回読んだ本のどこかに、太平洋戦争勃発直前に、時の陸軍大臣東条英機の話として、当時の日本の軍部の指導者にこんないい加減な話を信じた人がいたのか、とぞっとするような話に出会った。それは次のような話である。
・開戦の前に、彼は親しい松岡洋右(S8年日本が国際連盟を脱退した時の全権代表として国際連盟総会で威勢のいい脱退演説を行い、その後の日本を国際的孤立へと駆り立てた当時の政治家の一人。彼は若い時9年間アメリカで勉強したアメリカ通でもあった)にアメリカとの開戦についての意見を聞いたところ、松岡は「アメリカは女性の発言力が強い国であるから、緒戦で大きな戦果を挙げればアメリカ全体に一挙に厭戦気分が拡がるから大丈夫だ」と答えたので安心した、という話である。
・話を本論に戻すと、日露戦争の勝利までは、日本は国際秩序への適応に努力し、列強からの日本の独立を維持するために非常に慎重に、用心深く、冷静に行動した国であった。これを“小日本主義”というが、日露戦争に勝ったことで一挙にのぼせ上がり、日露戦争の結果満州で得た帝政ロシアから権益を守るというよりもそれを更に拡張する方向で満州事変が起き、日本自身が“大日本主義”ともいうべき有色人種で初めての帝国主義的国家に変貌して行ったのである。太平洋戦争の悲劇は、すべてここから始まったというべきであろう。
・経済学者の正村公宏氏は「日本の近代と現代」という本の中で「ナショナリズムとは、民族の独立を要求するときには“民族主義”、民族を基盤とする統一国家を追求する運動を意味するときには“国民主義”、国家を至高の存在とする国家目標を実現するための個人の献身を求める時には“国家主義”と訳される、と書いている。
・日露戦争後のナショナリズムは、まさしく国家主義であった。幕末の薩摩、長州時代の民族主義的な動きが、日清戦争あたりから列強との国際的軋轢に中で一挙に国家主義的なナショナリズムに変貌したのではなかろうか。その上にその変貌ぶりを促進したのが、日露戦争の勝利と明治23年公布の教育勅語など新たな官製の国民教育の勧めでもあったのではなかろうか。
<総括>
・本題の目的は、五木寛之氏「自分という奇跡」という本の中に書かれていた、明治の文人たちの“暗愁”について考察することであった。手元の大辞泉には、“暗愁”とは、「心を暗くする悲しい物思い」とあり、文例に「暗愁が彼の心を翳って行った」とある。五木氏は、シェイクスピアの「リア王」の中の「人はみな泣きながら生まれてきた」というセリフを引用し、人間がその「生きる難儀」に耐えながら、泣くこと、あるいは泣きたくなる気分に駆られることは自然のことであると言っている。
・“暗愁”とは、この人間の持つ悲しい感情、泣きたくなる慟哭の気分の一種であろうが、上記に縷々見てきたように、この“暗愁”という悲しみの感情は、表面的には、その悲しさに耐えかねて一人の人間として泣き叫ぶ類のものではなく、個人としては、その悲しさにじっと耐えながらも、しかもその悲しみの源泉が、日常の個人的な人間関係などを超越してもっと拡がりのある社会的・民族的・国家的枠組みの中で繰り拡げられ、それが結果として個人への重圧として重くのしかかる性質を持つものであったのだろうと思惟する。
・しかも、その上にこの社会的・民族的・国家的重圧に対しては、できれば個人として何とかその期待に応えたいという願望をも密かに持ちながらも、それらの重圧の上に、更に日露戦争勝利の後に出現した軍事優先の言論統制などの重圧も加わり、それが特にものごとをよく考え、それを自らの作品に投影させることを仕事とする文人たちにとっては耐えがたいほどの重苦しい感情へと繋がって行ったのではなかろうか。特に若き日にロンドンで勉強した漱石などは、日露戦争後日本の国際的地位が向上するなかで、国民全体が急に一等国民的意識を強めていったことへの警句をも含めてその漠たる国家的不安を作品に貫く一つのテーマにしているようにも考えられるのである。
・そのような世相の変化の中、これら文人たちは、日常的に感じるえも言えぬ重圧感に耐え、必死の思いでそれに“あらがい”ながらもそれら時代的気分を自らの作品に投影したのが“暗愁”という言葉であり、“暗愁的な表現”であったのではなかろうか。
・上記の如く、五木氏は、“暗愁”という言葉を最後に使ったのは終戦間際の永井荷風であった、書いている。それも上記に見た通り、実にごく普通の日常的な風景描写の中で使われている。にもかかわらず、その直後の終戦を境に、文人たちの作品から忽然とこの“暗愁”なる言葉が消えている、と五木氏は指摘している。
・このことは何を意味するか。
・私は縷々述べた上記の推察から、これら文人の皆さんも、日本国国民の一人として
終戦という日本民族初の国家的敗北を経験したことにより、日本という国がついに国の指導者層の無知・愚昧・無謀からついに落ちるところまで落ちたかという絶望感と、それによってこれまで感じていた“えも言えぬ国家的・民族的重圧感”から一挙に解き放たれたという思いに変じ、やっとこさ肩の荷が下りた、“やれやれ”という心からの安堵感すらをも深く感じたからではなかろうか、と愚考するのである。以上