今月の話題 『隆慶一郎の「一夢庵風流記」を読んで』 坂本幸雄
2017.5.1
<はじめに>
・隆慶一郎の小説で今まで読んだのは「影武者徳川家康」と「吉原御免状」の二冊である。いずれも読み終えて、兎に角その構想の奇抜さと、隆慶一郎氏の作家としての表現力の豊かさに魅了された。
特に「影武者徳川家康」では、あまりにも奇想天外なそのフイクションとその表現力の巧みさにすっかり隆慶一郎フアンとなり、三冊目として本書「一夢庵風流記」(664pの新潮文庫)を読んだ。
この本は隆氏の作品のなかでは決してメインな著作であるとは思わないが、これまた、前田慶次郎という、さほど著名でもない戦国時代に実在したらしい武将を主人公に仕立て、作家:隆慶一郎が思い描く戦国武将の理想的な生き様を読者にビビッドに伝えようとしている点が大きな魅力であり、やや複雑で難解な戦国時代の歴史やその登場人物の関係などに些か難渋しながらも、全編に亘る主人公の爽快なる快男児ぶりにワクワクしながら一気に読み終えた。
<当小説の作中二つの文章>
・まずは、この作品のなかで、隆氏の構想力や表現力について、小生がその素晴らしさを実感させられた二つの文章を紹介したい。
・その一:「賽の川原の石積み」(253pからの引用)
・道の右手に海に向かった大きな洞穴があった。高さも幅も奥行きもたっぷりある。その洞穴に大小のお地蔵さんと、塚として積まれた河原石とが無数にあった。
・賽の川原とは幼くして死んだ子供たちの行く場所である。娑婆と冥途の境川にある河原だ。死んだ子供たちは地獄にやられることなく、といって極楽往生も叶わぬ身である。まして娑婆に帰ることも出来ぬ。だからこの境川の賽の川原に留め置かれる。五つ六つの子は桔梗・刈萱・女郎花・萩の花を集め、九つ十の子は石を集めて塚に積む。「一じやうつんでは、ちちのため、二じやうつんでは、ははのため・・・」と『賽の河原和讃』に唄われる有名な情景である。
日暮れになると鬼風が吹き荒れて、飾った花を散らし、積んだ石も突きくずす。そして新たに花を摘み、石を積むことが命じられる。『にしにむいては、ちちこいし、ひがしにむいては、ははこいし、こいしこいしと、なくこえが、みどりのなみだの、たえもなし』。
その泣き声を聞きつけてお地蔵さまが現れ、「汝がちちは、娑婆にある、冥途のちちは、おれなるぞ』と云う。
・子をなくした父母が遥かにこのさいはての土地までやって来て、黙々として石を積むのは、子供たちの冥途での苦役を少しでも軽くしたいためであり、石の地蔵を供えるのは、子供たちが地蔵菩薩にめぐり会えるようにとの願いなのである。
・以上の文章は、中世の戦国武将間の争いのなかで、主人公:前田慶次郎が感じた心の動きである。
上杉景勝は、越後の覇を競って羽茂城主本間高茂と闘い佐渡一国を平定したのである。(注:羽茂城とは戦国時代に佐渡に実在した城)その敗者制裁の磔柱の真ん中には、敵将:本間高茂が、その左右にはその妻と5歳に嫡男が縛られている。主人公慶次郎は、せめて戦った相手への礼儀からでもその最期を見届けようと、佐渡ヶ島の小高い丘の上からこの処刑のシーンを観ているのである。処刑では五歳の男の子が最初の犠牲者となった。その父と母は、死の直前のわが子の苦悶の叫びをいやというほど聞かされるのである。更に妻はわが子の叫びに絶叫し、やがて縛られた体を空しくのたうたせた。
・上記引用の「賽の川原の石積み」の文章は、その処刑シーンを遠く傍観しながらの主人公慶次郎の心の動きである。
この文章を読みながら、小生が思い浮かべたのは、今から10年ほど前に訪れた、下北半島霊場:恐山で想像してみた、誰も実際に見たことのない三途の河原とは、かくも荒涼たる風景であろうか、と思った時の情景である。
・主人公慶次郎は、このシーンを見ながら、本間高茂は「なんとばか男か」と思うのである。自分が捉ええられる前になぜ自決しなかったのか。高茂が死んでいれば、妻子は助かったかも知れないと思い、その不憫な思いが上記引用その一での主人公慶次郎の感情表現となっているのである。なんと実に巧みな作家隆氏の心情描写であろうか。
・その二は「秀吉の小田原城攻めに見る、攻守それぞれの天国と地獄」である。この小説では豊臣秀吉が、天正18年(1590年)小田原城を攻め込んで北条一族を滅ぼした時の様子が大凡下記のように描かれている。(以下同小説290ページからの抜粋・要約・意訳)
・秀吉が集めた兵力は二十二万。華麗壮大な作戦といえよう。北条氏が頼みとする箱根の嶮も、これだけの軍勢の前にはひとたまりもなく、秀吉は兵を湯本から小田原に進め、やがて小田原城を俯瞰できる笠懸山に陣を張った。秀吉はあせらない。長陣を覚悟し、京、堺の商人が陣中に出入りすることを許し、遊女屋も呼び寄せて酒宴や遊興も自由にした。自らも淀君を招き、諸大名も女房を呼び寄せた。
家康の家臣榊原康政が加藤清正に送った手紙の中で、『御陣中において生涯を送るとも、退屈あるべしとも覚えず候』と書いたことは有名である。小田原沖には一万数千の水軍を乗せた安宅船や関船(注:いずれも戦国時代の戦闘用の船)が浮かび、北条陣内に大砲を打ち込んだ(*脚注参照)。北条方としては枝城との連絡は全て絶たれ、身動きも出来ない。食料も水も豊富であるが、ただ生きているだけである。それに対して一歩場外に出れば弦歌さんざめく遊楽の地である。白昼から酒に酔った兵が、遊女屋の店先に消えて行くのが望見できるのである。大名たちは大名たちで、茶席を設けたり、連歌の会などを開いたりして楽しんでいる。これは正に地獄極楽の図だ。苛烈な地獄にいたところでどうということもない。だが何の小競り合いもなく、敵は極楽、味方は地獄。到底耐えられるものではない。当然北条方には裏切り者が現れ、脱落者が続出した。北条氏直は自ら城を出て降伏した。(*脚注:当時水軍として勇名を馳せていた“九鬼軍団をググると、本能寺の変以降、この水軍は秀吉に仕え、秀吉の九州攻めや小田原攻めに活躍したとある)
・秀吉による小田原城攻めについてのこれまでの通俗ドラマでは、城を見下ろす高みから、秀吉が家康とうち揃って小田原城の方に向かった放尿するようなシーンが関の山であったが、ここでは、どこまでが事実で、どこからが創作かは定かでないが、「流石は秀吉!」と、読者をうならせるほどに見事な戦略家:秀吉を登場させ、一方で、北条方が手も足も出せない極めて無念な状況の中で歴史から消え去る様を、勝者・敗者で天と地ほどに違うその心理描写も含めて、作家隆氏は、その命運の落差の大きさを見事に描いているのである。
<歴史と時代小説との違い>
・上記の二つの引用でも理解できるように、隆氏の時代小説では、単なる史実を羅列したような歴史書とは異なり、そのストーリーの展開のなかで、斬れば鮮血がほとばしる人間が感じる情感・情念を実に活き活きと活写しているのである。そこに作家:隆氏の面目躍如たる才気迸る大才の魅力を感じるのである。
<秋山駿氏の書評に同感>
・この小説の巻末に秋山駿氏の書評がある。その中で秋山氏は、この小説に読み取るその魅力を下記の六つのキーワードで浮き彫りにされている。
主人公の創造
構想力の雄大
行動力の魅力
友情の素晴らしさ
剛毅な行動の中にも感銘するほどのその心優しさや恋心
武将としての立会いや決闘でのその見事なまでの勲しさ
・確かに、この小説を読んで様々な局面で感じるその面白さや痛快さを抽象的に表現するとすれば、上記のキーワードの一つ、あるいはそのいくつかのキーワードの組み合わせた表現が当て嵌るであろうかと思った。作家隆氏は、この小説のなかで、歴史上の人物としてはさほどの評価もない、前田慶次郎なる実在の武将を主人公に仕立て、その慶次郎の行動や思いを通じて、作家隆氏自身が思い描く戦国武将の理想像を表現することに努めておられるように思った。しかもその主人公慶次郎が登場する局面は、いずれもわれわれ日本人が周知している歴史上著名な局面である。その局面において、主人公:前田慶次郎は、ある時はその直接の当事者として行動し、またある時はその局面の傍観者として彼の思いを吐露するのである。そのような彼の行動や心の動きを読むことによって、われわれ読者は、評論家:秋山駿氏がその書評でも使っておられる表現を借りると、この小説全編での前田慶次郎の生き様に「一個の真の男,潔い日本男子」を感じ、その颯爽たる行動に「一陣の涼風のような清々しさ」を感じるのである。そしてわれわれ読者は、それを読み進みながら、知らず知らずのうちに、 “やったぁ!”、と何回も心のなかで快哉を叫ぶのである。
<男の友情とは>
・また秋山駿氏は、その書評で、この小説は、全編すべてこれ友情物語であるとして、次のようにも書いておられる。「日本の近代文学は西洋的な恋愛を描くところから出発したために、本来の東洋文学の髄であった“友情”という主題を見失ってしまったのである。が、この時代小説にはこの“友情”が主題として見事に貫かれている」と評して、慶次郎に見る友情を次のようにも書いておられる。「友情とは、心の交流である。敵味方に分かれて戦っても、友は友である。そこにあるのは義を立てるという意味での友ではないのだ。言葉で説明する必要のないものなのである。つまり、潔い男だと相手を認めること、それが友情なのである。だから、ここでは裏切られるかもしれないが、それなら裏切られたっていいという覚悟の中にいることが大切であり、だからこそ、そこから真に潔い男の態度が発するのである」。
・しかも小生は、この小説に見る彼の友情の対象が、人間だけでなく、彼が作中繰り広げる様々な冒険譚に、いつも力強い味方として行動を共にする駿馬“松風”との間でも、相互が相手の心情を敏感に感じ取るその素晴らしい友情にも感動を覚えたのである。
・以上の秋山氏の書評を読んで、小生もこの小説の展開の折々に感じた主人公:慶次郎の清々しい数々の行動は、なるほどこの書評の如き筋の通った一つの信念で貫かれていると言えようと心から同感するのである。(完)(坂本幸雄H28.4.23記)
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坂本幸雄:qskmt33@spice.ocn.ne.jp
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