・「33PQネット」の管理者の森さんから昨日下記のようなメールがありました。
『坂本さんからさっそく返信がありました。内容大変勉強になりました。さすが佐治敬三さんです。君が代の代案を敗戦直後に公募した人はこころざしが違いますね』。
・この森さんのメールについて、“余計なことながら”若干解説させていただきます。
<新国民歌「われら愛す」誕生のいきさつ>
・戦後、日米講和条約が整い、いよいよ日本がGHQの管理を離れて独立国家としての新たな歩みを始めようとしていたS28年。佐治敬三サンが、弱冠30歳の若さで、しかも寿屋という中小企業の専務取締役という立場ながらも、「新しい時代にみんなが胸を張って歌える新国民歌を!」と新聞広告などで広く公募したのです。
・ググルと下記のような記述があります。若干長くなりますが、下記に要約します。
・『“われら愛す”は、第二次世界大戦後の1953年(昭和28年)、壽屋(サントリーの前身)社長(注:実際は専務):佐治敬三が中心となって呼びかけて公募し、君が代に代わる国民歌とすべく作られた曲。
・日本への愛と憲法の心を詠ったものと云われる。1953年、“ラ・マルセイエーズ”のような、新しい国民歌を作ろうという佐治の呼びかけに応じて全国から応募された数万点の中から選ばれた一曲。(注:曲の審査主幹は山田耕作氏)
・学校法人玉川学園では戦後ずっとこの歌が歌い継がれており、同学園での学生、教職員の愛唱歌の一つになっている。玉川大学出版部刊行の最新の『愛吟集 第三版』にも収録されている。また岐阜大学教育学部附属中学校でも折に触れてこの歌を歌っており、同校には校歌があるが、愛唱歌として「われら愛す」が歌い継がれている。
・兵庫県にある雲雀丘学園小・中・高等学校では、歴代の学園理事長が鳥井家(サントリー経営者)である縁で、学園内で1980年頃まで歌い継がれ、学園体育祭ではこの曲に合わせて生徒たちが踊る演目もあった』。
<「われら愛す」に対する小生の思い>
・この国民歌が誕生した直後のS30年代、小生はこの歌の演奏を日比谷公会堂での“黄昏コンサート”などでしばしば聞いたことがあり、歌詞も旋律も素晴らしいこの歌に大きな感動を覚えたのであります。と同時に寿屋という古めかし社名ながらも、その会社が、商品や宣伝にも時代の空気を敏感に読み取る柔軟性を持った会社だなぁ、との印象をもちました。それが数年後の職活で、当時“寄らば大樹”という就活気分が強いなかで、小生が全くの中小企業:S社を選んだ大きな動機にもなったのであります。
・皆さん。「u-Tube」で是非一度合唱版“われら愛す”を聴いてみてください。心込めて聴くと、やはりわれわれ日本人にはジーンと胸迫る思いが伝わってきます。(坂本幸雄;H29.9.29記)
われら愛す
【作詞】芳賀秀太郎
【作曲】西崎嘉太郎
1.われら愛す
胸せまる あつきおもひに
この国を
われら愛す
しらぬ火 筑紫のうみべ
みすずかる信濃のやまべ
われら愛す
涙あふれて
この国の空の青さよ
この国の水の青さよ
2.われら歌ふ
かなしみの ふかければこそ
この国の
とほき青春
詩ありき雲白かりき
愛ありきひと直かりき
われらうとう
をさなごのごと
この国のたかきロマンを
この国のひとのまことを
3.われら進む
かがやける 明日を信じて
たじろがず
われら進む
空に満つ平和の祈り
地にひびく 自由の誓ひ
われら進む
かたくうでくみ
日本の清き未来よ
かぐわしき夜明けの風よ