燦々P大島昌二 2017.4.13
国立国分寺支部歩行会
今回(4月8日)の里歩きの道筋は旧甲州街道の一角「すずらんの里から蔦木宿へ」でした。
小淵沢(山梨県)を過ぎて3つ目の長野県にある「すずらんの里」という駅で降りた。無人駅でわれわれ一行7人のほかに降りる人はいなかった。
スズランの里とはいうがかつては見られたすずらんの群落もこの付近にはほとんどないらしい。駅の裏手の山側に手洗いと駐車場があるだけで人影はない。大都会から来た人間にはこれが日本かと思ってしまう。
この辺りには公共の交通機関がないために、このようなところに無料の駐車場がよくあるという。しばらく歩くうちに右手に入笠山が見えてくる。標高1,955mの山だが容易に登ることができ途中に広い湿原があり、そこはスズランの名所でもある。ただしすずらんの里駅からは大分離れた異郷になる。
添付の地図にあるように駅から少し歩いた山手に御射山神戸一里塚という旧甲州街道の里程標が保存されている。
日本の地名は難しい。この「御射山神戸」を「みさやまごうど」と読むことは道路標識のローマ字が教えてくれた。
この一里塚はすでに標高910mのところにある。中央本線は小淵沢のあたりに向って勾配を上にたどっているのだが平地を走ってきたような感覚で来てしまう。高尾山の標高が600m足らずのことを思えば、日本の地形への日頃の思い込みのいい加減さをあらためて気づかされる。
甲州街道は五街道の一つとして徳川幕府の全国支配の根幹をなすものであった。お江戸日本橋から甲府を経て下諏訪で中山道に合するまでの道中をいう。
幕府はこれらの街道筋の宿駅や橋などの整備に意を用いて中央集権的な支配を完成させた。われわれが学んだ歴史は政治史であって経済や社会の歴史はなおざりにされていた。ところが今日われわれの現実の生活では新幹線や高速道路は日常生活のシステムそのものである。痕跡の消えかかった旧街道を訪ね歩くことは古人の生活に思いを馳せることでもあった。
今日は一日曇天。一行は7名。歩行距離約14キロ。最後は三光寺を見学して道の駅から小淵沢まではタクシーを利用した(地図参照)。
6660 御射山神戸の一里塚。碑文には「江戸日本橋より下諏訪に至る53里余の道を甲州道中と云い慶長15年開通され同時に日本橋を起点として道の両側に方5間の地を占め上に塚を築き榎か欅を植えた云々」とある。写真のケヤキは当時のままの木で樹高25m、山梨県内に残る唯一のものという。これは江戸からの48里塚にあたる。917mという標識は標高。この辺りにはところどころに標高を示す標識があった。
6664 富士見公園を目指して歩くと右手に入笠山が見える。麓にかけてが富士見パノラマ・スキー場でこの日がシーズン最後の日であった。ゴンドラが動きスキーヤーも見えた。(同じ富士見町に富士見高原スキー場という紛らわしい名前のスキー場もある。)
6668 芓(とち)の木風除林の説明版。樹木は高島藩の許可を得て植えられた。(防風林と同意であろう)。強風から耕地を守るために村落が共同で管理した。農業が基幹産業であったことがわかる。
6669 馬が貨物運搬の主役であったせいと思う、道筋には馬頭観音像が多かったと見えて道筋のところどころに集められて残っている。
6671 現在では国道20号線が基幹道路で旧甲州街道とは付かず離れずの関係にある。そこを疾走する自動車の騒音が甲州街道まで響いて来る。一里塚の手前で道を横切って飛ぶキジを見た。ほかには立場川沿いでウグイスの初音を聞いたていどである。
6675 馬頭観音像のほかにもこのような祠があった。
6678 こぎれいな家や庭はあっても甲州街道沿いに店舗を見ることはなかった。食堂を探して20号線に降りて大分歩いてからようやく見つけたのがここ野麦という店。通り過ぎる車のための店かと思ったが家族連れなど何組も来た。野麦ランチというのを注文したが大分待たされた。どんぶりに盛られたあつもの風のものが何か覚えのある味だなと思ったらスイトンだった。昔なら十分に一食分はあるものがスープ代り。旧仮名遣いでは「すゐとん」ではなかったかと古いことを思い出す。
6683 牛馬頭観音という標識も見たが重量を運ぶには牛の方が馬より優れているから牛もあって当然。整理されてこのようにきれいに並べられている。
6685 アスファルトの道を避けてしばらく釜無川の支流、立場川の土手に沿って歩いた。右手に塩沢温泉が見える。
6686 「川除古木」のケヤキの木(富士見町指定天然記念物)。釜無川の氾濫から宿場を守る為、信玄堤と共に植えられたといわれる。里程標ばかりでなく、防風、防水など植樹は産業(農業)と深く結びついていたことが分かる。
6689 蔦木宿に入って歴史と現在が結びついてきた。「甲州街道蔦木宿鍛冶屋」という看板は幾つもある旅館の表札の一つに過ぎない。
6692 このように往還に沿って窓を閉ざしたままの旧旅館が軒を並べている。おそらく住居なのだろうが、ひっそりとして人気は感じられなかった。
6693 甲州街道蔦木宿はかつてこのように繁盛していた。「蔦木宿の会」がどのような活動をしているのか手掛かりは見えない。
6696 蔦木宿本陣跡。蔦木宿は名水の里でもあり明治天皇の御膳水と呼ばれる湧水が出ている。与謝野晶子が残した蔦木宿の歌一首。〈白じらと並木のもとの石の樋が秋の水吐く蔦木宿かな〉
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大島兄
健脚の皆さまの楽しいゐべんとを早速ご披露賜り厚く御礼申し上げます。人影まばらな街道筋を観察しながら写真も撮り紀行文も練りながら歩行するのは最高の健康法ですね。
読むだけで清々しい自然に浸れて読者冥利に尽きます。
今回も本当に有難うございました。 管理人 森 4月13日
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