Q坂本幸雄 2017.3.25
<はじめに>
・H29.3.7-9の3日間、早春の八丈島への旅行を楽しんだ。暑からず寒からずの晴天に恵まれ快適な実りある旅となった。八丈島空港では歓迎を意味する「おじゃれりやれ」のポスターで迎えられた。八丈島についてはいつの頃からか「鳥も通わぬ八丈島」という言葉が語られているが、島に来てみて、この言葉には鳥も渡れぬ程に遠い絶海の孤島という意味と共に、江戸時代以降1900人もの様々な受刑者が島流しにされた歴史からその流刑者たちの厳しい境遇へ同情する含意をも読み取った。
<八丈島とは>
・東京都に属する伊豆7島(大島、利島、新島、神津島、三宅島、御蔵島、八丈島)の最南端に位置し(実際には更に40k南に“青が島”がある)東京からは270k南に位置し、羽田からの飛行時間は只今就航しているジェット機では、「鳥も通わぬ八丈島」と詠われたこの島へも僅か50分のフライト。羽田発のフライトは毎日2便あるが、島から羽田に帰るには、その利用する便が無事八丈島空港に到着しなければ羽田へは帰れず、島での更なる1泊が余儀なくされるのである。その際の宿泊費は、天候など自然現象の場合は、乗客の負担になるとのことであり、八丈島観光には他の観光旅行にはないこの珍しいスリルも伴うのである。因みに船で東京に行くには、14,5時間かかるそうである。
・八丈島は大昔の海中火山の噴火によって誕生した西山(八丈富士)と東山(三原山)の2つの山から形成され、その2つの山が繋がったひょうたん型の島でその周囲は約60km。島の南東部には樫立・中之郷・末吉の通称“坂上(サカウエ)地区”、島の北西部には永郷(エイゴウ)地区、そして2つの山の間にあって島の経済活動の中心地である大賀郷・三根の通称“坂下(サカシタ)地区”には空港や役所やスーパーなどがあり、この坂下地区に島の人口の3分2が住んでいる。
・現在の人口は7,706名で、昭和25年頃の約13,000人からはかなりの人口減。その一方、島の車の台数は人口よりの多い8,000台。このことは、この島で暮らすには、車は不可欠であることを意味する。天候不順で船や飛行機が欠航した場合には、数少ない島のスーパーなどに買い出しに出かけなければならないとのことである。
・この島には、海水温がやや高い黒潮が流れ込む関係で、適度の雨量にも恵まれ、その温暖な気候と相俟って、動物に関しては、八丈島カラスなど八丈島だけに住む鳥や動物も多く、植物については、到るところでみられる“フェニックス”と蘇鉄が自生のような形で多く見られる。また野菜では、“アシタバ”(伊豆諸島では自生するほどの、健康維持にも優れた野菜らしい)が多く栽培され、ホテルでも毎日おいしく頂いた。珍しい植物としては“光るキノコ”などもある。因みにこの島では鑑賞植物としての“フェニックス”の苗木の栽培が盛んで、その本土への出荷額は年間8億円にもなっているそうである。
<八丈島に今も色濃く残る特異な歴史>
・この八丈島が本土の支配を受けるようになったのは、鎌倉時代にこの島が相模の国に属するようになったのを嚆矢とするが、本土との関係が深まったのはこの島が江戸幕府の直轄領となり、数多くの罪人が島流しされるようになって以来のことである。その江戸時代の八丈島への流罪者は1900名にも達していたそうである。
・小生が只今読んでいる「隆慶一郎著:影武者徳川家康(上中下3巻)」の下巻(153p)に、江戸時代のあの凄まじいキリスタン弾圧の引き金となった“キリスタン禁教令”(1612年)が出された後(*脚注参照)、なんと江戸城奥女中3人がキリスタンであることが発覚し、その一人“ジュリアンおたぁ”なる女性が死罪こそは免れたものの、伊豆大島に島流しされ、その後新島に移され、最終的には神津島でその一生を終えた、という記述がある。更に同書にこの女性について、イエズス会宣教師ジョアン・ロドリゲスの1605年の日本年報に下記のように書かれているとの記述もある。「彼女は、秀吉の朝鮮出兵の時、小西行長(キリスタン大名)に拾われ日本に来た朝鮮出身の女性である。日本では行長夫人の待女となり、そこで洗礼を受けてジュリアンと名付けられたが、関ケ原の合戦後小西家が滅びると、徳川家に同じ奥女中として仕えた女性であり、修道女に等しいほどの篤信の女性であった」。
・これらの記述から、江戸時代の伊豆諸島への島流しは、その罪が重くなるほど段々とその島の距離が南へと伸ばされていたようである。
・今回この島を訪問して理解できたことは、この島には、一つにはこのような江戸時代の流刑者たちと、もう一つには、黒潮に乗って九州・四国・本州から漂着した漁師などの二つの流人たちが相まって、この島の只今の生活とその文化を育む上で大きな歴史的影響を与えているという事実である。
・八丈島歴史記念館には、これらの流人コーナーがあり、慶長11年(1606年)の宇喜多秀家以来約1900名が島流しされてきたとの説明と共にこれら流人たちが豆腐や焼酎等のつくり方を伝授したり、更に島の名産品“黄八丈”の生産技術の進歩などにも貢献したとの資料などが展示されている。この点に関し当歴史記念館には、どんな人が、この島にどんな文化を齎したかについて下記の説明がある。
① 仏師民部:多数の仏教彫刻を作った。
② 狩野春潮:絵師で南京船漂着図を作成した。
③ 菅野八郎:奥州の百姓で、養蚕技術を伝授した。
④ 太田道寿:島の医療の改善に尽力した。
⑤ 加藤稲五郎:為替手形を島に広める。
⑥ 丹宗庄右衛門:芋焼酎の造り方を伝授した。(ちなみに芋だけの焼酎は独特の匂いがするため、現在では芋と麦のブレンド焼酎になった)
⑦ 平川親義:明治になって夜学学校を開設し、初等教育に尽力した。
⑧ 近藤富蔵:択捉島を日本領土だとした探検家近藤重蔵の長男で、人殺しにより島に流された。『八丈実記』72巻を作成した。
・このように、この島の文化の源流を辿ると、これら二つのルーツの流人たちが残した様々な影響が今も色濃く残っており、この島の観光客もまた、これら流人たちが残したその歴史的な足跡に触れて大きな驚きと感動を覚えるのである。
・たまたま今回3日間の観光旅行でバスガイドを務めてくれた23歳の大山嬢が、そのガイドの説明のなかで自分自身の出自について語ったところによると「彼女自身も自分の七代前のご先祖は、仙台藩の刀を預かる役目であったが、その刀の管理上の不手際で江戸時代にこの島へ島流しになった」とのことである。このことからも推察されるように、この島には、このような流民の子孫が数多く残って生活しているのである。
・ところで、この島が流刑の島になった初期に於いては、流刑者の大部分は徳川幕府への批判・反抗の意志を示すような政治犯・思想犯が占め、その人数も少なく比較的身分の高いインテリ層の人が多かったが、後にはその人数も増えるとともに、賭博・窃盗など人品卑しき犯罪者も多くなり、その人数の多さ故に食料生産の乏しいこの島には大変な負担になっていたようである。その一方でそんな流刑者たちの本土への懐郷の念も強かったようであり、今回の観光で訪れた服部屋敷跡(江戸時代にお船預かりを務めていた服部家の屋敷跡)の樹齢800年と言われる、見上げるような蘇鉄の巨木の脇には、赦免(しゃめん:許されて本土へ帰ること)を心待ちする流刑者の句「嬉しさを 人に告げんさすらいの みゆるしありと赦免花咲く」を書いた立札が建てられていた。
*脚注:小生は最近遠藤周作の小説「沈黙」を台本とするアメリカ映画「沈黙―サイレンス―」を観た。この映画は江戸幕府が行ったキリスタン弾圧をメイン・テーマにしているのであるが、この映画には、幕府側の必死の探索で見つかった隠れキリスタンを“転ばせる”(棄教させること)ための拷問・処刑のシーンが数多く出てくるのであるが、その画像の、見るに忍び難いあまりにも残酷なシーンには思わず反吐が出るほどの思いがした。
<宇喜多秀家のことなど>
・ところで、上記「八丈島歴史記念館」の説明にも挙げられている“宇喜多秀家”のことである。この島の江戸時代以降の流人の歴史を考えるとき、この宇喜多秀家は特筆すべき人物なのである。小生も今回八丈島に行くに当たり、この島に流刑された人物について予め勉強したが、その事前学習の段階ですでに宇喜多秀家については、その信じがたいほどのその波乱万丈の数奇な運命と、かつ、84歳もの長寿を全うした、その逞しい生命力には深い感動を覚えたのである。そして実際に島を訪ね、今も島に残るその秀家の足跡をたどってみて尚一層の深い感銘に浸ったのである。(興味あれば“宇喜多秀家”でググつて見られたし)
・天下分け目の関ヶ原の戦い。総大将徳川家康率いる東軍と、豊臣方は毛利元輝を総大将に据えた石田三成を中心とした西軍の間の合戦。結果は、西軍側には小早川秀秋らの裏切もあって、東軍の勝利に終わり徳川の天下となった。
・秀家は岡山城主で、かつ、豊臣秀吉の養女で加賀百万石の大名前田利家の娘である豪姫を妻にしていた豊臣家の重臣。その上関ヶ原の戦いには、毛利輝元などと共に西軍最大の兵力を率いて参戦した。しかし西軍が壊滅した後は、秀家は家康の逆鱗を恐れ、様々な姿に身を窶(やつ)しての逃避行の末薩摩に一時身を潜める(注:わが故郷に近い桜島の麓(垂水牛根)に暫し逼塞していた)。が、結局は自ら幕府に出頭。前田家の懇願もあり死罪は免れたが、八丈島への流罪に処せられ、秀家はその地で50年も過ごし、84歳でこの地で没したのである。この秀家の波乱万丈の生涯をTVドラマにしたら、素晴らしい大河ドラマになるのでは、と思っているほどである。
・小生が只今読んでいる上記の「影武者徳川家康」という小説のなかに、関ヶ原の戦い後の指導層の寿命について書かれているところがある。それによると家康60歳、秀吉63歳、前田利家62歳、長宗我部元親61歳、大村純忠55歳、大友宗麟58歳、武田信玄53歳、上杉謙信49歳であり、今から考えるとこれら戦国時代の指導者たちがいずれも短命ながら、それぞれ歴史に名を残す仕事を遂げていると感じたのである。
・しかし今回の旅を機に、宇喜多秀家が同時代のこれら戦国武将に比べて84歳という圧倒的長寿を全うしていることを知り、改めて秀家のそのずば抜けた生命力に驚いたのである。
<島の生活では、全くの凡俗に徹した秀家>
・ところで、八丈島観光協会の説明によると、八丈島での秀家の生活は、妻の実家である前田家の援助があった(このこと自体他の流刑者たちには誠にうらやましいことであったろう)が、生活は決して楽なものではなく、日々の暮らしも、磯部に釣り糸を垂らし、詩歌をたまに詠むのみで、その他は一切等閑に付し、全く凡俗に徹し、かっての俊英の片鱗も見せることなく終わった、とある。
・この説明を読んで、秀家がこれら戦国武将に比べて長寿を全うできたのは、この島の人々の温かい人情のなかで、かつ、島の気候風土によほど馴化して日々のんびり・ゆったりとした気分で過ごしたからではなかろうかと感じるのである。
・今、八丈富士の麓の海岸でその風光明媚な景観でも知られる南原千畳敷に、秀麗な八丈富士をバックに秀家とその妻の豪姫の石像が建てられている。しかもこの二人の石像は、今や島有数の観光資源となっているのである。が考えてみると、この二人は関が原の戦い後の秀家の逃亡生活により、離れ離れの生活を余儀なくされていたのである。その二人が今この島で石像となり、なんと1600年の関ヶ原の戦い以降400年以上もの時を経てやっと再会を果しているのである。なお、この石像は秀家の出身地である岡山の方向を向いているのだそうである。
<秀家の一徹さ>
・最後に、八丈島教育委員会発行のパンフレット「八丈島流人の祖“宇喜多秀家”」から秀家の一徹さを示すエピソードを紹介したい。
・流罪後何年かして、前田家から、「その気があれば、徳川家と談合して、小さいながらも一国を領するよう取り計らってもよいが」と、秀家の内心を密かに伺わせたという。たまたま食事中だった秀家は、ぴたりと食事を止め、静かに箸を置いて居ずまいを正し、「私は、かって豊臣家の五大老の一人。いまさら徳川家の録を食む気持ちはないから、折角のご厚意ではあるが、この儀だけはお断りしたい」と、使者を返したという。
<今もその特異な歴史の息遣いが聞こえる八丈島>
・小生が昨年来巡ってきた日本列島のいくつかの離島で、それぞれにその島特有の風土・文化があることを深く感じたのであるが、中でもこの島には、その極めて奇特な歴史が齎す特異な息遣いが今もいろいろと聴こえてくるように感じたのである。(坂本幸雄H29.3.19記)
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「八丈島旅行感想(Q坂本幸雄君)」を読んで
2017年3月29日 (戸松孝夫)
先ずは、日本列島の離島巡りを今も着実に実行されている筆者の強烈なエネルギーと行動力に敬意を表すると共に、都度その報告を我々旧友たちに流してくれている友情に感謝したい。
今から丁度59年前の1958年卒業直前の3月中・下旬に、僕は八丈島に一週間ばかり滞在した経験があり、更にはたまたま先週TVの旅番組で八丈島特集が放映されているのを観たところでもあり、今回の旅行記を興味深く読ませてもらった。59年前の記憶を呼び戻しつつ、TVで観た最新の映像と比較しながら、気が付いたことを以下に述べさせて頂きたい。
1.筆者は今回八丈島に行くに当たり、予めこの島の歴史を学び、流刑された人物について勉強したことにより、短期間の旅を有効に活用して、この中味の濃い旅行記が執筆出来たようだ。しかし59年前の僕は「就職したら簡単に行けないような遠い所に行ってみたい」との単純な気持ちだけで出かけ、歴史・文化の予習を怠っていた為、下記の通り大変な苦労をして行ったわりには、学ぶことが殆どなかったことに今更気がついた次第である。
2.心に残る成果がなかった中で、「服部家屋敷跡」だけは当時の僕の興味を強く惹いたようで、高さ2米に積み上げた壮観な石垣塀と、樹齢800年の蘇鉄の巨木だけは強く印象に残っている。でも「嬉しさを 人に告げんさすらいの みゆるしありと赦免花咲く」との流刑者の句碑には記憶がない。今回筆者が感じたような「流刑者たちの厳しい境遇へ同情する」気持ちは22歳の青年には湧いてこなかったようである。
3.「島の車の台数は人口より多い8,000台」とのこと、先日のTV映像で、交通信号のある立派な自動車道が写っているのを見て驚いた。僕が訪問した当時八丈島ではバス路線はなく、車も殆ど走っておらず、当然舗装道路などは存在していなかった。何処へ行くのも泥道を長い時間歩いたのを思い出す。これは何も八丈島に限った現象ではなく、日本各地に共通した60年間の時の流れであろう。
当時僕が只一回乗った「車」は警察署長車だった。島滞在中、最初の間は一泊200/300円程度の木賃宿に泊まっていたが、だんだん金がなくなってきたので、警察署に飛び込んで貧乏学生の実情を訴えた。その結果、家具が全くないだだっ広い建物の空間に泊まらせて貰った上、署長車で数時間島内観光に案内される特典にありついた。警察署長との会話の間に、同署長は同期M組宮田耕君の親父さんで、当時八丈島に単身赴任されていたことが偶然判明した。我ら同期で絶大な勢力を誇っていた「立高組」(立川高校出身16人)の一員宮田君とは小平で馴染みだったことから、警察署長が一学生に忖度してくれた為だろうか。卒業後富士紡に勤めていた宮田君とはずっと擦れ違いで、八丈島の御礼をいう機会のないままに今日に至っているが、もし彼がこの拙文を読む偶然に出くわしたら、これを御礼の言葉に替えたい。
4.「現在の人口は7,706名で、昭和25年頃の約13,000人からはかなりの人口減」:これも1960年以降の国家の経済規模の急速な拡大の結果により全日本で発生した都会/地方間格差拡大の結果であろう。過去数十年間における八丈島での人口の急激な減少と車台数の急増が日本の多くの田舎の縮図であることは、僕が今住んでいる村の歴史と現状からも容易に理解できるところである。
5. 僕が訪問した当時、八丈島は所謂観光地ではなく、「八丈島歴史記念館」なる文化的施設は存在していなかったので、系統的な学びをする機会はなかった。八丈島の住民は ①江戸時代の流刑者たちと(宇喜多秀家以来約1900名が島流し)、②黒潮に乗って九州・四国・本州から漂着した漁師などの二つの流人の子孫で構成されているとの記述は興味深い。更に「伊豆諸島への島流しは、その罪が重くなるほど段々とその島の距離が南へと伸ばされていた」との分析は面白い。
地球規模での島流しの話を僕は50年前に駐在していた豪州で聞いた。小国日本は島流しの地として僅か300キロしか離れていない孤島を選んだのに対し、世界にまたをかけて暴れ回っていた大英帝国は地球を半周した何千キロも離れた豪州を流刑地に選んでいたとの話。友人の豪州人たちは自分の祖先は政治犯・思想犯であり、刑事犯ではないということを盛んに強調していたが、子孫である現代の豪州人の「ひとの良さ」から、その主張を僕は充分納得していた(思想犯・政治犯の子孫ならもう少し賢い筈だと愚妻は言っていたが)。が 6.歴史に残る武将たちの寿命が短かったとの具体的な年齢情報は興味深い。これに比し流罪に処せられ、その地で50年も過ごした秀家が84歳まで生きたのは「島の人々の温かい人情のなかで、かつ、島の気候風土によほど馴化して日々のんびり・ゆったりとした気分で過ごしたから」との分析は全く正しいと思う。我らP&Q会も余生をのんびり・ゆったりでゆきましょう。
7.今は毎日2便、僅か50分の定期航空便があるとのことだが、当時は八丈島への定期便は午後浜松町を出て16時間かけて島まで運んでくれる東海汽船しかなかった。黒潮を横切ってゆく小さな船だから当然すごく揺れた。船室の床で寝ていても、船が大波で傾く度に船客が丸太のように右に左にゴロゴロ転がる状況で、嘔吐を繰り返す船客もあり、夜も殆ど眠れなかった。僕は生来何事にも鈍いので、この船旅でもそれ程の苦しみは感じなかったが、旅に付合ってくれたゼミテンの中屋順次郎君(N組)はかなり応えたようで、八丈島に上陸してからも、どうやって東京に帰ろうか、卒業式、入社式までに戻れるかと悩んでいた。
或る日二人で草むらに寝転がって青い空を見上げていたら、小さな飛行機が飛んでいた。それを見て彼は「あれに乗って東京へ帰ろう」といきなり夢みたいなことを言い出した。飛行機の定期便などない時代であるが、その後中屋は4,800円で東京まで行けるという情報をどこからか掴んできた。即座に彼は島の郵便局へ行って、東京の家から1万円送金してもらう手配をして「お前も飛行機に乗れ」という。3等船室なら片道800円の運賃に学割が効いて500円程度で帰れるのだから、その十倍もの交通費を払うのは馬鹿らしい。波が静かな日を選んで船に乗れば、船酔いも軽い筈だから、折角だが彼の親切な申し出は断った。しかしここで僕の生来の好奇心が頭をもたげ、「飛行機に乗ってみたい」という思いが強く湧いてきた。出世払い返済条件で彼から4,800円を借りて、生まれて初めて飛行機に乗った。プロペラ機で2時間、羽田に着いた時は感激した。
2,000円の奨学金から500円の授業料を払い毎月1,500円で暮らしていた苦学生にはこの航空賃は重い金額だった。記憶が正しければ1958年は国家予算が初めて1兆円を突破した年であり、現在の国家予算の百分の一、小さな小さな日本での大冒険に挑戦した思い出である。中屋のお蔭で、無事入社式に間に合い、僕は晴れて13,000円の月給取りになった。社会人になってから何ヵ月間か、かけて中屋に借金を返したと記憶しているが、その後彼にはもうひとつ別のことで世話になったことを今思い出した。
1980年第3次石油ショックの後遺症として、世界中のBusinessmanが石油を求めてSaudi 詣でを始めた。当時一日たりともアルコールを切ることが出来なかった僕が突如、厳しい禁酒国Saudi Arabiaへの転勤を命じられた。学生時代から酒をこよなく愛していた中屋が自身の趣味嗜好を仕事でも貫徹すべく、協和発酵(株)に職を選んだ経緯を思い出し、酒の造り方を教えてもらいに彼の事務所を訪ねた。親切な彼は葡萄ジュースに酵母菌と砂糖を入れて葡萄酒を密造するKnow-howを教えてくれた。Saudi赴任の餞別として、彼が密造酒のレシピと材料(酵母菌)を呉れたお蔭で、僕は禁酒国のきつい2年間を精神疾患に罹らず無事勤務し終えたのである。 (完)
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戸松さん 3/31
・素晴しい感想文に感謝。貴兄の八丈島への50年も前の、学生時代の旅行記を面白く拝見しました。20歳代の貴兄の旅と80歳を超えての小生の旅。当然に両者体験の時代背景、置かれたその境遇の違いを比較しながら大変興味深く読みました。
・もしも今回、小生の替わりに貴兄がこの八丈島に50年ぶりに再度の旅行を試みたと仮想してみると、貴兄は、多分、「不変と変化」その双方から新たな感動と驚きを禁じ得なかったであろうと思惟する。その不変の最たるものは、島で接する人々の、今も変わらぬ人情こまやかな温かさと、その変わらざる素晴らしい気候・風土とその景観であろう。その一方に於て、島の諸々のインフラの整備・充実ぶりには大いなる驚きを覚えたであろうと思いました。以下貴兄の感想文に対する拙文を送信します。
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・この島は、伝統的に半農半漁の寒村であった状況から、多分今や、観光産業がこの島最大の生業へと大きく変化しているのであろう。その施策によって道路や観光客誘致のための“植物公園ビジネスセンター”や“歴史記念館”なども大いに整備され、島を訪れる観光客も島の素晴らしい自然や豊かな動植物だけでなく、この島の稀特な歴史にも触れて、他の島にはないその歴史的特異性にも大いに感動を覚える仕組みになっているのである。
・貴兄の回想では、島中泥だらけの道でそのぬかるみに大いに辟易した経験が語られているが、今回3日間、“町営の観光バス”で島中の主要道路は何回ともなくぐるぐると廻ったが、当然にすべての道路は舗装され、驚くことに、島の高みからの眺望を観光客にご披露すべく、空高く島の峰々を結ぶような空中道路の如き道路も整備され、観光客は、“名古の展望台”や“大坂トンネル展望台”から島全体の壮大な景観とコバルトブルーに輝く太平洋の眺望を満喫できるのである。また空港からのメインストリートは、道路の左右に7,8mもあろう高さのフエニックスの綺麗な並木道となっており、宮崎の青島に見るような南国らしい情緒を醸し出している。
・幸いなことに、この島は、江戸時代の幕府の直轄地であった縁(えにし)を引き継いで明治政府は伊豆諸島を東京都の所轄とした。そのため、只今の島の財政は、財政豊かな都に大いに助けられている状況が一観光客にも伺えるのである。東京直轄だからこそ、観光立地のための上記の素晴らしいインフラ整備も可能なのであろう。最近の3月の報道に、小池知事が八丈島を視察し、伝統工芸の担い手育成に意欲を示したとの報道もあり、東京都はこの島を含む島嶼地域の振興には更に引く続き大きな力を入れようとの姿勢も伺える。(因みに島の車は全て“品川ナンバー)
・ところで、今回の「八丈島旅行記」は、 “P&Qネット”だけでなく、いつもの如く小生の“メル友拾数名”(大学・高校・会社・異業種交流会など先輩・同僚・後輩などで長年のメール交信を通じて相互に打てば響く“やまびこの如きメールの送受信仲間”を続けている仲間)にも送信した。話題の内容のせいもあってか、今回も送信後2.3日で10通程度の返信を戴いた。そのうちの幾つか、皆さんの興味も惹きそうな返信内容を参考までに紹介したい。
1.八丈島旅行記、楽しく読ませていただきました。江戸城奥女中“ジュリアンおたぁ”の流刑処罰は、朝鮮征伐、小西行長、キリシタン信仰など数奇な運命の物語として感動を覚えました。朝鮮貴族かもしれない出自、異郷での転変、小西行長のキリシタン信仰の強さなどを想像すると、ロマンが広がります。
2.関ケ原合戦で西軍最強の軍団を率いた宇喜多秀家は、多くの豊臣恩顧の諸大名が徳川家康に寝返るなかで奮戦し、八丈島での晩年でも徳川に一徹な対抗心を持っていたことには、興味をそそられます。たしか父親の宇喜多直家は裏切り当たり前の権謀術数を駆使してのし上がった人物でしたから。
3.流刑地の孤島には感動を掻き立てられます。平家物語で鬼界島に流され只一人取り残された僧俊寛の故事が私の子供のころの強い思い出です。私より上の世代では後醍醐天皇の隠岐配流が有名でしょうか。ナポレオンの流刑地セントヘレナ島は現在でも観光地化に向きそうもない僻遠地、地球の最果てにあることを最近知りました。(以上1,2,3は会社のかつての部下)
4.小生は昔オーストラリアで会社の駐在員として生活したことがあります。ご既承の通り、オーストラリアも流刑の地としてスタートしました。勿論地理も背景もちがう西洋の流刑地を八丈島と比べるのはあまり意味がありませんが、今のオーストラリアにはあまりかつての流刑地であったと言う面影や雰囲気がなく、人々もそのことはしばしば口にしながらも(自分はその後の移住者の子孫だからという意識もあってか)何のコンプレックスも持っていないようでした。当時流刑者の監獄があったメルボルンは、いまでは世界一住みよい町ということになっていますが、小生が住んでいた頃はまだ英国気風の強い街で、シドニーのアメリカ風のオープンな雰囲気とは違った伝統的な雰囲気の強い街でした。いまから思えばそれはそれでよかったという感じです。(大学時代のオーケストラの同期仲間)
5.八丈島の住民の生い立ちや、大きな人口減の現状、車の台数が人口より多いなどのお話は大変興味をひかれました。特に流刑者の中でも、初期のころは、政治犯や思想犯が多かったとのことで、島の文化の向上に大きな影響をもたらした方々が歴史に残っているなどのことは、なるほどとうなずかされました。こんなに遠い島まで流された人にとっては、島に到着した日から、すでに自分の残りの一生はこの地で過ごさざるを得ないことを覚悟して、前向きに、島の住民のために、自分の知識と経験を存分にふるって、子孫のためや後世のためにも頑張ったのでしょうね。
6.宇喜多秀家の生涯については、特別大きな感動を受けました。波乱万丈の前半生と、それよりも倍以上の長い人生を生き抜いた生命力には感嘆しました。島の生活では、全くの凡俗に徹したとありましたが、この生き方にも驚きました。前半生の、一国を預かる戦国時代の武将としての日常は、もちろん毎日が生きるか死ぬかの危険きわまりない生活の連続であり、自国の人民の命と生活を守るという大きな責任もあり、最後には、天下分け目の大戦に、自分の責任ではない原因で敗北を喫して、徹底的に逃亡して、ついに島流しの運命にさらされて、八丈島に落ち着いた彼は、前田家からの取り計らいがあっても動かなかったのは、私は、なんとなくわかるような気がします。武将としての一徹さもあるとは思いますが、平和な現代に生きる私の平凡な感覚では、徳川により、天下は平定されたとはいえ、長く続いてきた戦国の時代が、いつまた元に戻って戦国の世にならないとも限らないのではないか。それよりも、貧しい生活を余儀なくされているとはいえ、何年かを過ごしている八丈島の、何物にも脅かされることのない、誰をも脅かすことのない、平和な日常がいつまでも続くことが信じられるこの世界こそが、人間の幸福であることを悟った、または、悟らされた秀家だったのでは、と、私は、ふと考えました。
7.伊豆諸島特産の「あしたば」を、おいしく頂いたとありましたが、私も「あしたば」が大好きですが、関東では八百屋さんで売っていますが、関西ではスーパーでもあまり見かけません。東京で住んでいるときは、独特の香りと味が好きで、大好物でした。漢字で「明日葉」と書くそうで、葉を摘んで帰って明日見に行くと、もう摘んだあとから新芽が出てきているので、そういう名がついたと聞いたことがあります。私は好きなので、畑で栽培しましたが、種子を取って次の年に播いてもなかなかうまく育ちません。やはり伊豆諸島の気候風土があっているのでしょうね。(以上5,6,7は日本監査役協会研究会での異業種の仲間)
8.八丈島旅行感想記を楽しく読ませていただきました。何よりも場所も人も事柄も知らないことばかりなので、ずいぶんウィキペディアを頼りにしました。八丈島の地理的条件ではまるで日本の中の外国のような話。自然現象でも乗客負担での足止めを食らうなどその状況に驚き同時に無事戻ってこられたのだと結果はわかっていてもヒヤヒヤするものです。次いで八丈島の人の面では受刑者だけが心に残っていましたのでガツンと頭を殴られた気がしました。
・島流しになった受刑者、彼らはそれぞれの人生を流人として生きたことはいうまでもないでしょうが、黒潮に乗って九州・四国・本州から漂着した漁師などこの島の現在の生活とその文化を育む上で大きな歴史的影響を与えているという事実です。この人たちのことが頭から飛んでいました。
この漁師たちに加え島流しになった受刑者の中にも、政治犯、思想犯、技術者や医師・学者などが背負う歴史について述べられた紀行文だと感じています。
・重いテーマの中でガイドの女性が自分自身の出自について語ったことはホットしました。「彼女自身も自分の七代前のご先祖は、仙台藩の刀を預かる役目であったが、その刀の管理上の不手際で江戸時代にこの島へ島流しになった」との言葉を読み、ご先祖が流罪を背負っていたとはいえ、島では誇りを持って生きてこられたのだろうと推察できました。
・何も知らないということでは、八丈島といえば流刑地、佐渡と並んで受刑者が島流しになった地としか考えていませんでした。歴史の答えが出た後になっていえば、宇喜多秀家は倒れることが分かっているような豊臣政権を支えて奮闘した英傑だったのですね。
・歴史は一人の英傑によって動くものではないというものの、その時の社会が英傑を呼び出し、産み出すことは違いありません。この英傑も八丈島では穏やかだったと勝手に思います。そのことを知って、私たちも気分が穏やかになっていくようです。
・最後に坂本さんが呟くように書かれた「中でもこの島には、その極めて奇特な歴史が齎す特異な息遣いが今もいろいろと聴こえてくるように感じたのである」に私たちもこの紀行文からその気分を感じ取るようにしたいものです。(会社のかつての部下)
9.八丈島旅行記、興味深く読ませていただきました。父島母島と同じくらい遠い所にあるような気がしていましたが(何と無知な!)お天気さえ許せば、飛行機で手軽に行けるのですね。いつぞやTVでみて、海の美しさ、植生の豊かさに魅せられましたが・・・坂本さんの活動性には今更のように感服です。
・流人の島とは聞いていましたが、宇喜多秀家も関ヶ原後の生涯をここでまっとうしたとは存じませんでした。硫黄島の俊寬の生き方とつい比べてしまいました。(高校時代のクラスメートの才媛)
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3月
八丈島戸松感想への返信と人脈コメント…Q坂本幸雄2017.3.31 new
八丈島旅行感想を読んで…P戸松孝夫2017.3.29 new
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