大島昌二 2017.1.2(月)
燦々P&Qの諸兄はHQ (Hitotsubashi Quarterly)をお読みでしょうか?
私も熱心な読者とは言えませんが年末に届いた冬号を読んだので感想を書かせていただきます。
大学を卒業してから58年も経ってしまえば58年後の大学がどれだけ変化していても驚くべきではないでしょう。しかしわれわれはそれだけの年月を経た後も昔ながらの大学をイメージしているのではないだろうか。その意味でもHQは読むに値する刊行物だと思います。
反省を込めて付け加えるならば、卒業以来58年の経験、研鑽を加えたはずの自分の知識が58年前とどれだけ変わっているだろうか、58年前の知識で経済や社会の問題を議論している傾きはないだろうかと反省させられます。
力作ぞろいのこのHQ、17年冬号ではまず森千香子准教授の「ホームグロウン・テロリズムの社会学的背景 フランスにおけるマイノリティ差別とセグリゲーション(1)」に目を開かされました。
ご存知のようにフランスにおけるテロの頻発には驚くべきものがあります。
われわれは一口に「ヨーロッパ」と言いがちですが、文中で著者は「公的領域」においてフランス革命以来の法の下の平等を強調する(フランス国憲法第一条)と同時に、「私的領域」でも個々人に対して「孤立した、普遍的な個人」として振る舞うことを求める「フランス型共和主義」の特異性に着目しています。
この特異性は「私的領域」では、アングロ・サクソン圏の多文化主義とは対照的に、人種や宗教やジェンダーなどで差異が避けられないにも拘らず、マイノリティがコミュニティを形成することを普遍主義の原則に抵触するとみなして、その存在も権利も承認されないといいます。
このことから身近な例をあげると、学校でのヘッド・スカーフの着用にフランスがあれだけ厳しい態度をとる理由がわかる気がします。
移民が受ける差別は程度の差はあってもどこでも広く認められる問題ですが、フランスではコミュニティの不在が移民の疎外感を深めていると指摘しています。論文はこのような分析を、フランスへの移民の国別分布、OECD加盟国における移民の失業率などを図示することによって裏付けています。
もう一つご紹介したいのは松園潤一朗講師の「研究室訪問」です。
そこでは日本の中世の法体系(鎌倉・建武・室町)はそれに続く近世法(江戸期)とどのように違うのか、またその後のヨーロッパ近代法の継受を含めて「なぜ日本では、ヨーロッパが成し遂げたような独自の法体系を生み出せなかったのか」を問題にしています。
私は鎌倉で『十六夜日記』(2)の著者、阿仏尼の旧跡を前にして彼女が遺産相続をめぐって頼りにしたのは貞永式目という鎌倉政権の法制であったことを知って身の引き締まる思いをしたことがありました。
彼女は実子為相(ためすけ)のために遠路京都から鎌倉へ旅し、鎌倉に滞在したのでした。
それまでの私にとって貞永式目という歴史の教科書の一項目に過ぎなかったものがにわかに実体を備えたものとして眼前に現れたのでした。
HQからは思いがけない収穫も得られるようです。私は近年の日本の小説にはまるで疎いのですが好き嫌いを離れて現代の息吹を感じ取るには若い世代の創作活動にも目配りをすべきだと思っています。
ところがこれまで何冊かを読んだ結果は芳しいものではありませんでした。
しかしごく最近、傑作と呼びたい衝動に駆られる小説に行き当たって知る限りの人に推奨しています。
ロシア語の同時通訳から随筆家として知られるようになった米原万里(3)という女性作家です。
戦後の生れながら、残念なことに故人になってしまいましたが、彼女の『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』という作品がそれです。
これは2001年に単行本として発行され大宅壮一ノンフィクション賞を受賞していますが、私はこれは小説に分類すべき本だと思っています。
その出来栄えが見事であることは、アマゾンに170人が読者評を寄せていますが、そのうち143人が5点満点の評を入れていることからも分ります。
実は10月に発行され、今回目を通したHQの秋号では森口千晶という経済研究所の教授が桜庭一樹(4)の『少女七竃と七人の可愛そうな大人』という小説を推奨しています。
森口氏にとって「この本は衝撃だった」、「サクラバ・カズキもいずれ世界文学になると思った」というからただ事ではない。
現代の日本の小説世界は平安時代を彷彿とせんばかりに女性が活躍しているようですが、この桜庭さんもその男性的な名前に関わらず(森口氏によれば)どうやら女性のようです。
私はこれから読もうと思うのですが、これだけの推奨文を読んで失望に終わるようなことがあれば、私の一橋大学に対する信頼は雲散霧消することになるでしょう。
Wikipediaより (参考:2017.1.4 森)
(1)セグリゲーション セグリゲーション(英:segregation)とは、従業員による誤謬や不正を未然に防止することを目的として、業務における執行者と承認者の権限・職責を分離し明確に定めること、またはそうしたルールを定めることで、従業員をモニタリング(監視)し、不正を未然に防止するような組織設計を行うことをいう。
(2)十六夜日記 『十六夜日記』(いざよいにっき)は、藤原為家の側室・阿仏尼によって記された紀行文日記。内容に所領紛争の解決のための訴訟を扱い、また女性の京都から鎌倉への道中の紀行を書くなど他の女流日記とは大きく趣きを異としている。鎌倉時代の所領紛争の実相を当事者の側から伝える資料としても貴重である。一巻。大別すると鎌倉への道中記と鎌倉滞在期の二部構成。弘安6年(1283年)ころ成立か。
阿仏尼自筆の原本は下冷泉家(安土桃山時代まで播磨国細川庄を伝領していた公家)に伝来していた。
(3)米原万里 米原 万里(よねはら まり、女性、1950年4月29日 - 2006年5月25日)は、日本の、ロシア語同時通訳・エッセイスト・ノンフィクション作家・小説家である。著作には、『不実な美女か貞淑な醜女(ブス)か』、『魔女の1ダース』、『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』、『オリガ・モリソヴナの反語法』などがある。
(4)桜庭一樹 桜庭 一樹(さくらば かずき、1971年7月26日 - )は、日本の作家、小説家。女性[1]。本名非公開[2][3]。島根県生まれ、鳥取県米子市出身[4][2]。1999年、「夜空に、満点の星」で第1回ファミ通エンタテインメント大賞小説部門佳作を受賞しデビュー[2]。ゲームのノベライズやライトノベル、ジュブナイルなどの作品や、山田桜丸名義でゲームシナリオを数多く手がける。
2008年に『私の男』で直木賞を受賞した。他の作品に『GOSICK -ゴシック-』『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』『赤朽葉家の伝説』などがある。