大島昌二 2017.6.30(金)
諸兄姉
遅くなりましたが6月10日の支部山歩会の写真レポートをお送りします。
武田一族由縁の甲州を歩くのはこれで3回目だからかなり武田通になっていてよいはずだが即席の知識は即座に筋斗雲に乗って飛び去ってしまう。
少しだけ思い返すと前回15年3月には甲府市の信玄ゆかりの寺社を訪れていた。甲斐善光寺と付属宝物館、東光寺、長禅寺など。三方ヶ原の合戦の帰途病没して秘かに埋葬された信玄公火葬墓所は円光院(正妻三条夫人を祀る)近くの野辺にあった。
信玄の菩提寺である塩山の乾徳山恵林寺(えりんじ)はその前の回に訪れている。
恵林寺は織田信長の軍によって焼き払われた。
三門(山門に非ず)には快川和尚の「心頭を滅却すれば火も自ずから涼し」の額が掲げられている。建築物としてとりわけ見るべきものは甲斐善光寺と恵林寺だった。
今回はその武田家発祥の地、武田庄のある韮崎市である。ここには武田家以前の伝承を伝える塚や神社も残っている。
韮崎市は地形的には5月に歩いた秩父往還から雁坂峠を越えて甲府に出たとして、そこからさらに西に向かったところに位置している。
東京からほぼ西へ向かって走る中央線の電車は甲府を過ぎるあたりで西から迫る南アルプス(赤石山脈)と北から押してくる八ヶ岳のあわいを縫って北西に向って高度を上げていく。武田一族はこの道を逆に韮崎の山地から甲府の盆地に支配を及ぼしてきたようだ。
という訳で今日の主役は武田氏の始祖とされる武田信義であって信玄(晴信)ではない。
信義は甲斐源氏の祖、新羅三郎(源義光)から数えて4代目、信玄はその武田氏の第16代に当る。信義公の墓所のある鳳凰山願成寺には甲斐源氏3代、武田氏18代の位牌を安置した御霊殿がある。
今日の行程は午前中は韮崎駅からの願成寺に始まって、武田信義館跡、諏訪神社(武田廣神社)、わに塚の桜の大樹脇を通って武田八幡宮まで。昼食の後、午後はいったん韮崎駅へ戻ってから窟観音・雲岩寺、韮崎平和観音をへて鰍沢河岸(幕末には船山河岸)跡まで歩いて駅に戻った。総勢9名。終ってからのコンパは割愛して帰途のホリデー快速の2階席に陣取ってこれに代えた。飲みすぎは良くない。
今回特筆すべきことは多彩な才能を花開かせてノーベル生理学・医学賞を授与された大村智博士が故郷韮崎市に寄贈した大村美術館を昼食前に見学したことであった。展示品は洗練された近代女流の作品が目立ち、ほかにラグーザお玉の作品も数点あった。周辺は農村の趣。2階のテラスからは茅が岳の全容を展望できる。昼食はその後、美術館に隣接するレストランで。美術館は現在さらに増築中のようであった。今日の行程の概略は添付写真の冒頭にある。
写真説明。
7024 今日の行程の概略図。韮崎駅から釜無川を渡って武田の里へ。
6991 釜無川(富士川の上流)と周辺の緑地。
6996 武田家の祖。武田信義は富士川の合戦で大功を立てている。
頼朝は一族の行家、義仲、範頼、義経も滅ぼしている。幸田露伴の『頼朝』は一般に不人気な頼朝弁護論である。
6998 鳳凰山願成寺の信義の墓。左は夫人、右は乳母。武田一族では女性が重用されていた印象がある。
7002 願成寺の正面。ここに武田家草創の歴史が込められている。
7006 武田信義館跡に立つ一行。兵どもの夢の跡。
7008/7009 一行が読んでいた看板。館跡と言っても畑地に囲まれた一片の叢。
7013 信義以前の武田の庄について知られることはさらに少ない。伝承は日本武尊の御子武田王に遡る。
7014 武田廣神社は信玄以来諏訪神社と改称された。現在の建物には何の風情もない。
7020 これも武田王の「桜の御所」にちなむものか。鰐塚と樹齢約320年のエドヒガンザクラ。
7017 甲斐國志と口碑によって武田姓の起源の説明がなされている。
7022 韮崎は茅ヶ岳と釜無川の里。正面に茅ヶ岳(1704m)、右手に鰐塚と桜の大樹。茅が岳は百名山の一、深田久弥落命の山でもある。
7023 武田八幡宮への参道。
7029 一石百観音の石像。これに詣でれば百観音に詣でたことになる。われわれは昨年、時間をかけて秩父34観音の巡礼をした。
7036 武田八幡宮本殿。この本殿の背後の山に白山城跡、白山神社があるが割愛した。熊よけの柵があり遠回りをする必要があった。
7058 韮崎の観音様は豊満な女性だった。窟観音はこの小山の下に祀られている。
7061 鰍沢横丁、少し先に釜無川の河岸がある。韮崎はかつては舟運で繁栄した。今では忘れ去られている舟運は陸路の牛馬や籠と合わせて広く利用された。
甲斐の国は武田氏一族を抜きにしては語れないものらしい。目ぼしい寺にはいずれにも一族の墓所がある。
以上のような甲府散策の感想を一言でいうならば、明治維新以来の中央集権化の急進展にともなって置き去りにされた地方史、つまり地方政権が築き上げた歴史についてわれわれの知るところがいかに狭く、些少であるかという一事である。
今回訪れた甲斐武田の一族に即して言えば、信玄の子、勝頼が天目山の合戦
(1582年)に敗れるまで、一族の領国支配はおよそ450年に及んでいる。
しかし、すぐに頭に浮かぶ例は、軍事における棒道、治水における信玄堤、財政における甲州金などがあるが記憶遺産としてはいささか淋しい。
天目山は塩山にあって車窓から見ることができる。
頼朝ゆかりの蛭が島や石橋山古戦場も行ってみたいと思う。
大島昌二