「世にも美しい日本語入門」を読んで 坂本幸雄
(はじめに)
・昨年暮れに、近くの古本屋で表記の本を見つけ、その本の「世にも美しい日本語・・」という不可思議な題名と、その著者が、安野光雅氏と藤原正彦氏であることの2点に魅かれて、正月の暇つぶしに読んでみた。
この本は初版出版が2006年で213pの薄い本ながら、その記述内容が、言語としての日本語の素晴らしさを礼賛する内容に充ち溢れたものであり、その上に日本人共通にして小学校時代に習った明治・大正以降の優れた小学唱歌や童謡が、日本語の極意を学ぶ上で大いに役立っていること、更にその記述には、昨年末読んだ、山折哲雄氏の「ひとりの哲学」に書いてあった大和言葉と漢字の違いにも相通じている論調も含まれているなど、この正月はこの本を心ときめく思いで一気に完読した。
またこの本に掲載されている唱歌などの歌詞を読みながら、まるで自分が70年も前の遠き少年期にタイムスリップしたようなデジャビュ(既視感)のごとき懐かしさにも浸ったのである。
<「ひとりの哲学」にみる「大和言葉と「こころ」の関係>
・昨年11月読み「話題のコラム」でも取り上げた山折哲雄氏の「ひとりの哲学」では、「こころ」という言葉ほど厄介なものはないとして、大凡次のように書かれている。
➀ 「こころ」という言葉は、「ひとり」という言葉同様、まず英語、ドイツ語、フランス語では言葉にならないのである。英語では、ハート、マインド、スピリッツ、ソウルなどがあるが、どれもぴったり来ないのであり、外国から日本の文化などを勉強に来た外国の専門家がいつもこの点に嘆きの声を上げるのである。結局は、それを“ココロイズム”と訳することになっている。
② 「こころ」という言葉の来歴をふり返るとき、この「こころ」には大和ことばの「こころ」と漢字の「心」という二つの太い流れがあることに気づく。大和ことばの「こころ」には、古事記、万葉集以来、源氏物語、平家物語などを含め、能や浄瑠璃などの語りの世界でもその使用範囲は森羅万象に及び日常生活における喜怒哀楽万般をカバーしている。
「こころが騒ぐ」,「こころ苦しい」,「こころ残り」,「こころ踊る」など挙げればきりがない。それに対して、一方の「心」の方は、主として中国への留学生(僧)によってもたらされたもので、最澄の「道心」,空海の「十住心」、道元の「心身脱落」など見ればそのことがよくわかる。やがてそれは世阿弥の「初心」に繋がり、のちに無心、道徳心、愛国心,公共心などの慣用句にも繋がっているのである。
以上の対比でも分かるように、和語の「こころ」は生活感に溢れて感ずる「こころ」であり、漢字の「心」は観念世界のなかで信じる「心」になったと言えるのではなかろうか。そしてまさにこの「こころ」と「心」が葛藤・交錯するなかで「ひとり」の存在が鋭く刺激され、次第に自我意識の拡大に繋がったのではなかろうか、というのが山折氏の「こころ」と「心」に関する考察である。
1.この本の概要
<このかけがえのないもの>
・この本の帯封には「このかけがえのないもの」と書かれ、その裏表紙には「古典と呼ばれる文学作品には、美しく豊かな日本語にあふれている。若い頃から名文に親しむ事の大切さを熱く語り合おう」とある。
<「日本語は豊かな言語」>
・そして、この本の第四章「日本語は豊かな言語」では、下記にその抜粋を要約したように、日本語の言語としての表現能力の優れている点を、また第五章「小学唱歌と童謡のこと」では、特にその日本語の持つ胸迫るような美しい表現能力を、明治以降戦前の小学生教育の中でよく歌われていた小学唱歌と童謡をその良きお手本としていろいろと論評されているのである。
<まずは、日本語の優れた表現能力についての著者お二人の主張>
・シェイクスピアは、四万語を駆使したと言われ、それはそれですごいと思うが、日本語は中学生用の国語辞典を見たって五万語、広辞苑は二十三万語。森鴎外などは、数十万語を使えたのではなかろうか。
鴎外の「即興詩人」を読むと、初めて見る単語が実に多く出てくる。その彼は、五歳で既に論語の素読を始め、七歳で津和野の養老館で四書五経を勉強している点を考えても彼の異才ぶりはすごいと感じるのであるが、彼は恐らくシェイクスピアの十倍もの語彙を使いこなしていたのではなかろうか、とも書かれている。
・以上の観点から、「大和言葉に漢字が加わり、その語彙を豊かにしている日本語の言語としての豊かさは呆れるほどである」というのが本書の核心的主張である。
・日本語では、漢字を組み合わせればいくらでも新語が造れることを考えると、その造語能力は世界一であろう。
ある調査によると、英語とかフランス語、スペイン語は千語覚えればそれぞれの原語の80%の文章は読解できるが、日本語の場合は、同じ80%を理解するためには五千語、更にそれが95%となると、上記三か国語では五千語、日本語では二万五千語と欧米に比べて五倍ほどの語彙が必要になる、と書かれている。
なぜ、日本語の語彙や言語量が多いかというと、例えば、車に関して考えてみると、「空車」「駐車」「停車」「対向車」などいくらでも新語を造れるが、英語で「対向車」を表現するには 「逆方向の路線をこちらに向かって走っている車」という文章でその状況を表現するしか方法がないのである。
これらの点を考えても日本語の使い勝手の 便利さは将に天下一品である。
・しかも、これら抽象概念を表す多くの言葉をつくった西周(あまね)は、明治時代に既に「民主主義」とか「哲学」とか、「国際」「科学」「思想」「概念」などという素晴らしい造語を用意したのである。
そのお蔭で、明治以降日本は中国に対して言葉の輸出国になったのである。
特に「哲学」などという造語は、表現が難しいはずの概念の世界を実に美しい日本語に翻訳しているのである。
<西周の人物像>
・この話題を受けて、お二人の話は、自然に、そんな西周の話になるのである。
西は本書共同著者の安野氏と同郷の鳥取県津和野の出身であるが、この津和野藩の江戸時代の藩校「養老館」をググってみると、下記のような説明がある。
「幕末、全国各地の藩校に学んだ多くの藩士たちが、明治時代の近代化の担い手となっているが、なかでも、津和野藩の藩校養老館は、西周の他にも森鴎外など明治を代表する人物を輩出している。
西周は養老館で学んだのち、江戸に出て幕府の洋学機関である蕃書調所に出仕した。
その後、榎本武揚らとオランダに留学している。
帰国後、津和野藩士から幕臣に登用されたが、国際事情に詳しかった西は、大政奉還された頃は、15代将軍慶喜の相談役のような立場となっていた。
幕府瓦解後は、大半の幕臣とともに静岡藩士となり、沼津兵学校の頭取に任命される。沼津兵学校は、時代の最先端を行く教育機関として全国から注目された。のちに、西洋の思想や学問の啓蒙活動を展開した明六社の同人のひとりとなる。
・彼が造った日本語は、「主観」「客観」「本能」「概念」「観念」「帰納」「演繹」「命題」「肯定」「否定」「理性」「悟性」「現象」「知覚」「感覚」など今日実に様々な分野で使われる言葉を造っていると説明されている。
その上で、彼が今生きていたら、アイデンティティー、トラウマ、アクセス、インフオームドコンセントなどの現代的言葉も見事に漢字にしてくれたのではなかろうか、との冗談の如き話も書かれている。
<千年もの歴史を持つ日本文学のすごさ>
・また、日本語には、擬声語とか擬態語があり、「パクパク食べて、ガンガン飲む」といった表現も自由自在であるが、中国語にはこんな擬声語などはないので、中国人が日本語を学ぶ場合には、こんな日本語の翻訳に苦労するとの説明も附記されている(*下記次節参照)。
更に日本語には、カタカナで表現される外来語も山ほどあり、平仮名、カタカナ、漢字という三つの文字を国民すべてが自由に使いこなしているが、このような国は、世界中探してもどこにもないのである。
欧米はアルフアベットだけなのである。日本はこういう国だから、日本の文学もこれまたすごいのである。
例えば、五世紀から十五世紀の千年間の欧米の文学を考えると、アメリカには勿論何もないし、欧州でも英文学の「カンタベリー物語」、イタリアの「デカメロン」とダンテの「神曲」,ドイツの「ニーベルンゲンの歌」ぐらいの文学作品しか思い浮かばないが、日本ではその千年の間に「万葉集」「古今和歌集」「「枕草子」「平家物語」「源氏物語」など全ヨーロッパを圧倒しているほどの文学を生み出す文学王国になっているのである。
そんな日本にノーベル文学賞受賞者は、川端康成、大江健三郎の二人しかいないのは、「翻訳」という垣根があるからであろう、とも記されている。
<日本語を豊かにする便利な日本語の擬声語:坂本感想>
・小学唱歌のなかにも、「春の小川はさらさら・・・」とか「雪はこんこん」など、詩の中に擬声語が巧みに詠み込まれて歌も多くあり、それがまたその歌の軽妙な響に繋がっている面も多いことにも驚くのである。この1月沖縄に数日遊びに行った折に、森山良子歌う「さとうきび畑」を“U―Tube”でしみじみと聴いたが、この歌には、さとうきびが風に揺れる擬声語の「ざわわ」という言葉が、何十回ともなく繰り返し出てくるのである。そしてその「ざわわ」という擬声語そのものが、その歌を聴く人にこの歌の持つ情感をしっかりと伝える重要な役割を果しているのである。しかも、森山良子のその歌い方を注意深く聴いていると、彼女は、その何十回も繰り返される「ざわわ」一つ一つを高低や強弱など実に絶妙なメリハリをつけて歌っているのに気付くのである。おそらく彼女は、あの沖縄の激戦で命を失った多くの人々の無念な思いをそれぞれに心に思い描きながら、この歌を歌っているのであろう、とその時感じたのである。中国語ではこんな便利な擬声語がないという事実を、本書上記の記述で知ったが、英語には、“擬声語”に当たる単語としては“onomatopoeia”という言葉がある。が、日本語と同様なその“onomatopoeia”を巧みに使った英語の歌などがあるのであろうか。
<いくつかの唱歌と童謡の引用>
・更に本書には、その日本語の美しさを理解する上で、明治・大正の頃から小学校で習った唱歌と童謡の大切さはどんなに強調してもよい、と書かれている。
・その本書に収録されているいくつかの唱歌・童謡を下記に記載する。まずは五年生の教科書に載っていた「冬景色」(引用唱歌NO1)
・1番.さ霧消ゆる湊江(みなとへ)の 舟に白し、朝の霧。
ただ水鳥の声はして いま覚めず、岸の家。
2番. 烏泣いて木に高く、人は畑に麦を踏む。
げに小春日ののどけしや。返り咲きの花も見ゆ。
・次に童謡の「雨」と「シャボン玉」を挙げられている。(引用唱歌NO2NO3)
「雨」(成田為三)
・ 雨が降ります 雨が降る
遊びに行きたし 傘はなし
紅緒の木履(かっこ)も 緒が切れた
「シャボン玉」(野口雨情)
シャボン玉飛んだ
屋根まで飛んだ
屋根まで飛んで 壊れて消えた
シャボン玉消えた 飛ばずに消えた
生まれてすぐに こわれて消えた
風風吹くなシャボン玉飛ばそ
・続いて「美しき天然」を挙げられている。(引用唱歌NO3)
空にさえずる鳥の声 峰より落つる滝の音
大波小波滔々と 尽きせぬ海の音、
聞けや人々面白き この天然の音楽を。
調べ自在に弾き給う 神の御手の尊しや
春や桜のあや衣 秋は紅葉の唐錦、
夏は涼しき月のさや、冬は真白き雪の布。
見よや人々美しき この天然の織物を。
手際見事に織たもう 神のたくみの尊さや。
・この曲はあまりにも人々に愛され、昔はサーカスのジンタとかチンドン屋の音楽としてもて囃されたぐらいであるが、藤原氏の経験では、以前台湾のあ
る街で、楽団がこの曲を演奏しているのに出会って、びっくりした経験も語られている。
・しかも、唱歌や童謡には文語体の歌詞が多く、それらの歌は、文語体の日本語に慣れ親しむという点でも大きな教育効果があった、とある。しかも、例
えば「われは海の子」を歌うと、舞台に上がったような非日常的な高揚感を感じるという効果もあったようにも思う。今は、そんな唱歌や童謡がなくな
ったせいか、子供たちが学校の行き帰りに歌を歌うようなこともなくなった。
・美しい日本語に触れないと、美しい繊細な情緒が育たない。「好き」と 「大好きい」くらいの語彙しかない人間は ケダモノの恋しかでそうもない。
恋する、愛する、恋い焦がれる、密かに思う、想いを寄せる、ときめき合う、惚れる、身を焦がす、ほのかに想う、一目惚れ、片思い、べた惚れ、片思い、横恋慕、初恋、うたかたの恋・・・など、様々な語彙を手に入れて初めて恋愛のひだも深くなるのである、と本書には書かれている。
2.感想(坂本)
<明治以降の日本にみる音楽教育の成果>
・以上この本を読むと、日本語には、他国の言語には見られないほどに柔軟性に富んだ優れた点や語彙の豊かさがあり、しかも、上記引用の唱歌・童謡を読んでも、それぞれの詩に描かれた情景・状況の表現には、この言葉遣いやこの表現しかないほどに実に美しく適切な言葉が使われていることに気付き、かつ、驚くのである。
・明治政府は、近代国家としての教育振興の一環として、国民に西洋的な音楽を教えるために、1910年(明治43年)の『尋常小学読本唱歌』を編纂し、外国の歌をそのまま教えるのではなく、日本人による日本語の唱歌・童謡を積極的奨励しているのである。上記掲載の唱歌・童謡などはそのような明治以降の政府の教育方針のなかから生み出された音楽である。当時の状況をググると、文部省は作詞者・作曲者に高額な報酬を払った、とある。明治政府が、国民に五線紙で音楽を表現する西洋式の音楽を教育するに当たって、小学生たちには、日本独自の唱歌を奨励しなければ、といった政府の方針に“いじらしいほどの心意気”さえも感じるのである。
・この本の中に引用されている上記の小学唱歌・童謡などもそんな文部省の努力のつみ重ねのなかで生み出されたものであり、それら名曲の数々が、明治以降の日本人に共通した音楽的素養を涵養することにも大きな影響を与えているのではなかろうか、と感じるのである。例えば、早春三月の卒業式に歌われる「蛍の光」は、曲そのものは、ヨーロッパの「オールド・ラング・サイン」をお手本にしたものであるらしいが、明治10年代初頭、日本で小学唱歌集を編纂するとき、稲垣千頴が作詞した歌詞が採用されて「蛍の光」となり早くも1881年(明治14年)には尋常小学校の唱歌として小学唱歌集初編(小學唱歌集初編)に載せられた、とある。以来、この「蛍の光」は「蛍雪の功」という言葉を生み出すほど、学業に勤しみ新たな人生に旅立つ日本人の心情を感動的に歌った名曲として、日本人共通の心の歌となっているのである。
<終戦後の日本の大衆の歌>
・そして終戦。それを境にアメリカ文化が洪水の如く押し寄せたなか、音楽に関しては、一部好事家の間にジャズなどアメリカの音楽も持て囃されたが、大衆の多くは、むしろ美空ひばりなどの、日本独特の節回しで歌われる演歌などと分類される日本独自の歌に“はまって行った”のである。この現象も上記のごとき日本独自の音楽教育の素地がそうさせたのではなかろうか、と思う。
・先般、沖縄観光に行った際に、沖縄の「さとうきび畑」を見て、森山良子の「さとうきび畑」の唄や「涙そうそう」を“U-Tube”でジックリ聞いたのであるが、その際驚いたことに、彼女の歌う名曲「涙(なだ)そうそう」などは、韓国、中国、台湾、アメリカなどの歌手が競ってそれぞれの国の原語で歌っていることを知り、日本のポピュラー・ミュージックが今や国際的にも高く評価されていることに驚いたのであるが、これらの成果の源流も明治以降の文部省唱歌にまで遡のぼれるのではなかろうかと思ったのである。
<戦争中に受けた、小生の音楽教育ゼロの教育環境>
・ところで、そのような歴史的背景を持つ小学唱歌に即して、自分自身が小学生の頃受けた音楽教育を振り返ってみて、不思議なことに、その頃教室で、先生の指導のもとクラス全員でこれらの唱歌を一緒に歌った記憶がないのである。あるいは歌ったことはあるのかも知れないが、それが小生時代の懐かしい思い出として記憶に焼き付くほどの経験とはなっていないというのが正しいのかも知れない。
・それはなぜか。その理由は、戦争中とこともあって、小学校時代のままならぬ劣悪な教育環境のせいであろうとも考えるのである。
・小生は、終戦を小学校5年生(正確には、S16年入学の一年生からS21の卒業までは戦時に敷かれた教育制度では“国民学校”と呼ばれていた)で迎え、かつ、生まれ育ったところが、九州最南端の鹿児島県の大隅半島という、戦時中特攻隊の基地が二つも建設されていた地域である。そのために、もう小学校3年生のS18年頃から、少国民への軍事教育の一環として、小学生でも基地の建設や防空壕の掘削のための“もっこ持ち”などの手伝いを時々させられていたのである。そんななか、S19年の5年生の頃には、日本近海に近づいてきた米空母から発進するグラマン戦闘機による攻撃なども始まり、S20年4月ごろからの米軍との沖縄攻防戦に際しては、この2つの基地からも連日特攻隊が出撃して行ったのである。そんな厳しい戦況下での小学教育であったため、とても落ち着いて勉強を受けられるような環境ではなく、小学校での音楽も、歌っていたのは、専ら戦意高揚の軍歌が中心であり、小学唱歌などをクラス全員で歌ったような記憶は全くないのである。
・それでも、上に引用されている童謡や唱歌は勿論のこと、「月の砂漠」や島崎藤村の「椰子の実」なども小・中学時代を通してなんとなく覚えた唱歌として記憶に残っているのである。
・更に言えば、これらの唱歌・童謡を通じて学んだ日本語は、本書にも書かれているように、美しい日本語を習得する意味でもそのよきお手本として少しは役立っていたのではなかろうか、とも考える。今でも藤村の「椰子の実」、「小諸なる古城のほとり」、「千曲川旅情の歌」など詩を読むと、日本人として胸が熱くなるようなほのぼのとした情感を感じるのである。
・以下に、その藤村のそれらの詩を2,3篇記載して、その懐かしさを噛みしめてみたい。
・その1:「椰子の実」 島崎藤村
名も知らぬ遠き島より 流れ寄る椰子の實一つ
故郷(ふるさと)の岸を離れて 汝(なれ)はそも波に幾月
舊(もと)の樹は生ひや茂れる 枝はなほ影をやなせる
われもまた渚を枕 孤身(ひとりみ)の浮寢の旅ぞ
實をとりて胸にあつれば 新(あらた)なり流離の憂(うれひ)
海の日の沈むを見れば 激(たぎ)り落つ異郷の涙
思ひやる八重の汐々(しほじほ)いづれの日にか國に歸らむ
・その2 「「小諸なる古城のほとり」 -落梅集より-島崎藤村
小諸なる古城のほとり 雲白く遊子(いうし)悲しむ
緑なすはこべは萌えず 若草も藉(し)くによしなし
しろがねの衾(ふすま)の岡辺(おかべ)日に溶けて淡雪流る
あたゝかき光はあれど 野に満つる香(かをり)も知らず
浅くのみ春は霞みて 麦の色わづかに青し
旅人の群はいくつか 畠中の道を急ぎぬ
暮行けば浅間も見えず 歌哀し佐久の草笛
千曲川いざよふ波の 岸近き宿にのぼりつ
濁(にご)り酒濁れる飲みて 草枕しばし慰む
・その3 「千曲川旅情の歌」 -落梅集より- 島崎藤村
昨日またかくてありけり 今日もまたかくてありなむ
この命なにを齷齪 明日をのみ思ひわづらふ
いくたびか栄枯の夢の 消え残る谷に下りて
河波のいざよふ見れば 砂まじり水巻き帰る
嗚呼古城なにをか語り 岸の波なにをか答ふ
過し世を静かに思へ 百年もきのふのごとし
千曲川柳霞みて 春浅く水流れたり
たゞひとり岩をめぐりて この岸に愁を繋ぐ
・これら多くの詩は、七七や五七の韻を含んだ詩であり、その詩を口ずさむだけで自然にそれが歌になるような素晴らしい韻律を感じるのである。
・あれは平成7年の夏であった。軽井沢での数日の旅を楽しんだ折に、小諸にある「島崎藤村記念館」も訪ねたのであるが、その折に、その記念館から見下ろす千曲川を眺め、上記2つの詩そのままの旅情を感じたのである。
<戦後の中学生時代にガラリと変わった音楽教育環境>
・ところで、そんな音楽教育の環境は、戦後教育制度の変わった昭和22年の新制中学校一年生になるとガラリと変わるのである。何よりも教えられる曲自体が、欧米の歌中心の音楽に変わったのである。西欧音楽の中心であるドイツの歌曲、例えば「シューベルトの野ばら」や「ローレライ」などと共に、そこで習う音楽が、アメリカ民謡の、例えばフォスターの「オールド・ブラック・ジョー」やアイルランド民謡の「庭に千草」などに変わったのである。しかも、こんな中学1年生での音楽教育のドラスチックな変化は、その後小生の生涯の趣味となった、いわゆる、クラシック音楽を愛好する大きなきっかけともなったのである。その上中学校で習う音楽のスタイルには、混成二部合唱や輪唱など和音の楽しさも加わり、音楽愛好の度合いも一段と高まったのである。
・中学時代のそんな音楽教育のなかで、小生の印象として際立って記憶に残っているのは、アメリカ民謡に感じる、アメリカ人の底向けの明るさや楽しさと、アイルランドの民謡に感じる、なぜか物悲しい哀愁の響きであった。
<「歌は世につれ、世は歌につれ」>
・アイルランド民謡がなぜ物悲しいのか。この点については、後年、年老いて読んだ司馬遼太郎の名作「アイルランド紀行」などから、世界の名曲として長年歌い継がれているこれらアイルランド民謡の誕生の背景には、16世紀以降つい最近の20世紀末までの長きに亙り、アイルランドの人々が、隣国の大国:イギリスから受けた実に凄惨な侵略・侵攻の歴史があることを知ったのである。それだからこそ、そんな背景のなかで生まれたアイルランド民謡は、時を経て、絶えず多くの人々の共感を呼び起こし、異国の人々の心にさえも大きな感動を与えているのであろうと理解した。将に「歌は世につれ、世は歌につれ」である。
<アイルランド民謡「庭の千草」のこと>
・日本語では、「夏の名残のバラ」とも訳されている「庭の千草」の原曲は、1805年にアイルランドの国民的詩人:トーマス・ムーアがつくった歌詞に当時アイルランド北部地方で歌われていたある歌の旋律が付けられた民謡として誕生しているのである。その日本語と英語原曲の詩は下記の通りであるが、原曲の意味は、イギリスの侵攻で焼きつくされた街の一角に咲き誇っている夏の名残にバラにことよせて、今は亡き友を思いおこす慟哭の詩である。しかし、日本語の歌詞は、なぜかバラは千草に変えられ、その意味するところも、「女性の操の尊さ」を詠う詩に換骨奪胎されている。
1 庭の千草も 虫の音も
枯れて淋しく なりにけり
ああ 白菊 ああ 白菊
ひとりおくれて 咲きにけり
2 露にたわむや 菊の花
霜におごるや 菊の花
ああ あわれあわれ ああ 白菊
人の操(みさお)も かくてこそ
原曲:'Tis the Last Rose of Summer“の歌詞
‘Tis the last rose of summer,
Left blooming all alone,
All her lovely companions
Are faded and gone.
No flower of her kindred,
No rose bud is nigh,
To reflect back her blushes,
Or give sigh for sigh.
I'll not leave thee, thou lone one,
To pine on the stem;
Since the lovely are sleeping,
Go sleep thou with them;
'Thus kindly I scatter
Thy leaves o'er the bed
Where thy mates of the garden
Lie scentless and dead.
So soon may I follow
When friendships decay,
And from love's shining circle
The gems drop away!
When true hearts lie withered
And fond ones are flown
Oh! who would inhabit
<日々新たなる挑戦の歓び・楽しみ>
・小生は、長年のサラリーマン生活を終えた老齢73歳でA・サックスの練習を始めた。その大きな動機は、「老後は音楽をアンサンブルで楽しみたい」という長年の夢であった。今その夢は、レッスン・スクールの20歳も歳若いバンド仲間の皆さんとの合奏で、年4,5回もジャズの名曲を合奏することで実現している。
・振り返ってみて、この長年の夢を持続し、それを年老いてからでも何とか実現し得たことは、あの終戦後間もない中学生時代に、数少ない機会ながらも、アメリカやアイルランドの民謡をクラスで合唱した時のあの“感動体験”が、年経ても心の奥底に深く刻み込まれていたからであろうと思うのである。そして今、少しは上手く吹けるようになったサックスで、時々には、そんな中学時代への回想をも思い込めて、しみじみとあの頃習った各国の民謡などを吹奏し、それがまた、些かの老いの気慰みともなっているのである。そして今、その練習に挑戦する喜び・楽しみは、老齢の日々心に刻む通奏低音のごとき、快適な生活のリズムともなっているのである。
(坂本幸雄 H29.1.26)
----上記への感想--------燦々P 戸松孝夫兄---2017.2.5投稿-----------------------------
坂本兄の労作を読ませて頂き
(1)日本語の美しさを改めて認識し、
(2)日本人には素晴らしい造語能力があり、文学作品等で使用されている単語数はダントツの世界一である事実を誇らしく思い、
(3)日本人の誰もが馴染みある多くの大事な漢字塾語は西周が創ったものであることを初めて知った。
西周が今生きていたら、アイデンティティー、トラウマ、アクセス、インフオームドコンセント等に相当する判り易い美しい日本語を造ってくれたであろうと思うにつけ、西周に続く日本語造語の達人が輩出しないのは残念だ。
それにしても、輸入の外国語をそのまま得意げにカタカナで使い、それが世の中に氾濫している嘆かわしい我国の現状は、現代メディアの責任ではないか。その多くがアメリカからの輸入だが、英語では2シラブル以上の単語にはアクセントを付けない限り、外国人には伝わらない。教養がある日本人が、(入学試験勉強で覚えた筈のアクセントの位置を忘れ)マスコミ世界に溢れる輸入語を間違ったアクセントで使う為、海外では全く通じないという悲劇が起きている。
それどころか、最近の日本人は立派な日本語までもをカタカナに置き換えて使用している。例えば劇場や野球場に入る「入場券」という便利で簡単な日本語が今やチケットというカタカナ語に替わってしまったようだ。Ticketという単語がアメリカで日常に使われているのは、「交通違反の切符」のことであり、ここでもカタカナ日本語が誤解を生む原因になっている。
--------------------------------------------------------------------------------------------------------------