Q坂本幸雄 2017.9.22
話題1:「覆水盆に返らず」とは:
・阿辻哲次氏の日経記事(H29.8.13)「遊遊漢字学」より
・学生時代を過ごした京都で、そこが盆地だという時の「盆」を私はお茶を乗せて運ぶあの「ぼん」のことだと思っていた。しかしあの平らな「ぼん」ではどう考えても「盆地」の形にならない。また「覆水盆に返らず」ということわざがあるが、そもそも「覆水」(こぼれた水)が、あんな平らな「ぼん」に返るはずがないと考えていた。
・ところで中国に行った時、中国の大学や職場の食堂では、小さな洗面器のような鉢にご飯を入れたものを「飯盆(フアンベン)と呼んでいることを知った。
・周の建国の功臣とされる太公望呂尚(りょしょう)は、若い頃本ばかり読んで仕事をせず、あまりの貧しさにその妻が離縁を申し出た。だが、やがて彼が周の文王に見出され、出世して斉の国王となると、逃げた妻が復縁を願い出た。その時に呂尚は鉢(=盆)に入れた水を地面にぱっと撒き「お前は私のもとを去ったのに、いまこうして復縁をせまる。でも鉢からこぼれた水は二度と元の容器には戻らない」と言った。
・真夏の夜の夢でいいから、私も一度ぐらい足下に伏したオンナに向かって水を撒き、かっこいいセリフを決めてみたいものだ。
感想:この話は周の功臣:太公望呂尚の話である。若い時に自分の貧しさに愛想を尽かして自分のもとを去った妻が、やがて自分が出世すると、その妻が復縁を迫ってきたので、呂尚も、そのあまりもの身勝手さに立腹して、盆に入れた水を彼女に向けて撒いた時の啖呵である。
・中国では、随王朝時代から、優秀な官吏を選抜する制度に「科挙制度」という難しい選抜制度が実施されていた。どうやらこの話は、その随朝以前の遥か昔の周の話であるので「科挙制度」とは無縁なのであろうが、この話で思ったことは、歴代中国では、優秀な若者は本(古典)を一所懸命に読んで、機会があれば、皇帝のお眼鏡にかなう機会を窺っていたのであろう、ということである。
・さて、この話の締めくくりで、阿辻哲次氏は「真夏の夜の夢でいいから、私も一度ぐらい足下に伏したオンナに向かって水を撒き、こんなかっこいいこのセリフを決めてみたいものだ」と言っておられる。こんな場合、男ならみんなそう思うであろう。阿辻先生のその心意気に乾杯!。
話題2:「破天荒」とは:
・もう一つ阿辻哲次氏の日経記事(H29.9.10)「遊遊漢字学」より
・「破天荒」とは粗悪な状態を覆すという意味である。中国の国土は広大であり、その中には農業にも牧畜にも適さない不毛の大地も多い。そんな草木一本すら生えない土地のことを、かっては「天荒」と呼んだ。そしてそのことの意味の転用から「優れた人材がまったく出現しない土地の例え」にもその言葉が使われた。
・ところで、あの“敦煌”のある今の甘粛省一帯は、唐の時代まで優秀な人物が現れない「天荒」の地とされていた。なにせそこからは、中央政府の要職に当たる高級官僚を採用する「科挙試験」で、最終合格者である「進士」はおろか、その第一段階での合格者すらいなかったのである。
・ところがある年、その土地出身の劉蛻(リュウゼイ)という男がその地方での試験に通り、さらに中央で行われる本試験にも優秀な成績で合格した。人々は彼の快挙を、この「天荒」の地からも、ついにそれを破る男が現れたのかとの驚きを込めて「破天荒」という言葉で呼んだ。
・「破天荒」とは、慢性的に低劣あるいは粗悪だった状態を打ち破り、画期的なまでにも高尚な、あるいは優秀な状態を出現させることをいう成語にもなった。それが現代日本語では、単に「前代未聞」とか「驚くべき」という意味に使われている。「破天荒な偉業」というのは日本語として正しい使い方ではあるが、例えば、「頑張っていた社員を離島に左遷するのは破天荒な人事だ」というような文例は正しい使い方にはならなのである。
感想:
・最近、Pクラスの大島昌二さんが、「西安から敦煌」までという詳細で面白い紀行文を当ネットに寄稿され、その中に莫高窟や兵馬俑坑などの写真も多数あり大いに感銘。大島さんに感謝します。小生もその“敦煌”のあたりを今から17年前に訪ねたことがあるが、確かにあの地域は文字通りの「天荒」の地で草木一本生えない乾燥地帯である。その上に、この話では、この地はかって有能な人材も出ない、二重の意味で「天荒」の地であったようだ。そこに「劉蛻」という優秀な男が現れたのである。周りのみんながアッと驚いて「破天荒な偉業」と叫んだのは“宣(むべ)なるかな”と思った。
・上記日本語の最後の引用文例などは、「破天荒」という言葉を使うにはあまりにもその物事が矮小なのであろうか。本来の意味合いからは、この言葉は、みんながあっと驚くような画期的なことが発生したときに使うべき言葉のようである。
・言葉遣い一つでも、われわれはその前後の関係から、それが適切な使い方になっているかどうかを判断できるセンスをも磨かなければならないのであろう。自分自身、確かな言葉の使い方にももっと精通しなければ、と思う次第である。(坂本幸雄 H29.9.14記)