***** トルコ軍クーデターのニュースに接し、改めて映画「海難1890」を回想 *****
先日トルコで軍のクーデターが起きたニュースに驚いた。
トルコと日本の間には、明治以降、政府・民間ベースの協力が綿々と築かれている関係にあるだけに、そんなニュースにも心を痛めるのである。
考えてみると、そのような個人的な親トルコ感情は、数年前のトルコへの観光旅行などのほか、昨年観た映画「海難1890」などで更に深まったように思うのである。
改めてその映画鑑賞時の感想を読み直してみたのである。
映画「海難1890」感想
<人間の真心の尊さに感動>
映画「海難1890」を観た。観終わって、かってこんな人間の“真心”の尊さの素晴らしさをテーマにした映画があったであろうか、と思うほどの感動を覚えた。
この映画の前半部分でトルコ海軍に災難をもたらすのは、映画によくあるが如き邪悪な人間などではなく、猛威を振るう暴風雨。
それだけに余計、この映画では、救助に立ち向かう村人たちの、人間の愛憎などというしがらみとは無縁の、“真心”の発露が光を放つのである。
映画の前半は「1890年(明治23年)に日本の串本沖で起きたトルコ海軍の海難事故」。
後半は1985年(昭和60年)、イラン・イラク戦争時のテヘラン空港で「故国日本への避難を待つ日本人たちにトルコ政府が救援機を差し向け、日本人優先の救助を行う話」。
この二つには何らかの脈絡があろう筈はない。がしかし、この海難事故でトルコ軍人の心に刻み込まれた日本人の“真心”に対する感謝の念はよほど大きかったのであろうか、トルコではこの話が長年教科書にも掲載されていたのである。
そしてまた、この度の映画を通じて、われわれ日本人も、そのことが思わぬ局面でトルコの人々からの日本人への“真心”の恩返しに繋がった事実を知るのである。心が打震えるほどに感動する所以である。
<トルコ海軍の海難と村民挙げての必死の救助>
映画前半のストーリーは、1890年9月トルコの軍艦「エルトゥールル号」が、トルコ皇帝の命令による明治天皇への表敬訪問を終え、横浜からの長い帰国の航路へ付いて間もなく起きた海難事故の話である。
エルトゥールル号は串本沖で折からの台風に遭遇し、全員懸命の努力の甲斐もなく艦が爆発、串本大島の断崖絶壁の下の海岸の岩礁に叩きつけられ、619名の軍人が遭難する。
それを知った漁民を中心とした村人たちは、総出で懸命の救助活動を行い、大変な困難の中でなんとか69名の命を救う。
前半を通じての胸迫る感動は、その降って湧いた突然の災害に際して、村人たちが示す無私の“真心”である。
事故の翌朝多くの村人たちは、島の高台から眼下の海岸や岸壁に打ち寄せられた夥しい人数のトルコ軍人たちの死屍累々たる惨状を知り、改めて事故の大きさに驚くのである。
村人たちの夜を徹しての懸命な救助活動が一段落した時、村長が皆に問うのである。
「こんな災害だ。村の蓄えの米なども出さねばならんし、仏様にはなんとか棺桶も用意しなければならんと思うが、どうだろうかね」。
すると若衆の一人が即座に答える。「われわれ漁師はなぁ、こんな時化の時には何をさておいても、溺れかけた人を助けねば、と教えられてきた。できるだけのことはしねぇとご先祖に顔向けできねぇぞ」。皆の衆も「そうだ、そうだ」とこれに応じる。
皆の衆のこの無私の心意気こそはこの映画を貫く感動の源泉である。
男たちは荒れ狂う海に投げ出された遭難者を命がけで救い出し断崖を担ぎ上げて、内野聖陽好演の田村医師の待つ急こしらえの救難所へと運ぶ。女たちは懸命に治療に集中する田村医者の指示に従い、負傷者の傷口の手当や人工呼吸など蘇生のために懸命に励む。そんな村人たちの努力が69名の人命救助に繋がるのである。
無私の行為は、本来無償の行為であり、見返りを求めるものではない。従って救助した日本側では、この事件での救助は当たり前の行為と考えられたのであろう。だからそれが国際的美談として世間にあまねく流布されることもなく、いわんや国民的美談として教科書で取り上げられるようなこともなかったのである。
<磯田道史著の「無私の日本人」>
最近読んだ磯田道史の「無私の日本人」の中で、江戸時代から維新にかけて無私の行為を行った3人の日本人の話を知った。それを通じて日本人には、昔から「“公に尽す”、“人に尽す”という精神」が深く根づいていることを知った。
この日本人の無私の心は、ひとつには、日本が村の一致団結を要する稲作農耕中心の社会として発展する中で、村の長(おさ)を中心とした「和を尊ぶ社会」が綿々と継続されてきた民族的DNAであろうかとも思う。その一方で、トルコ側ではその時に受けた日本人の“真心”への感謝の念を“The End”にはしていなかったのである。
<イラン・イラク戦争時に多くの日本人を救ったトルコ政府の救援>
時は流れ1985年。イラン・イラク戦争の最中、サダム・フセインはイラン上空を飛ぶ飛行機に48時間後に無差別攻撃を行うと宣言。各国が救援機をテヘラン空港に飛ばして自国民を救助する中で、現地日本大使などは懸命に日本の民間航空機での救援が安全上無理なら、自衛隊機での救助を、と本国政府に依頼。しかし日本政府は「自衛隊機派遣には国会での承認が必要で今回の48時間の猶予時間では無理」との返事。攻撃までのタイムリミットが迫る中、テヘランに残された日本人は300人以上。緊迫した状況打開に現地の邦人は、官民一体となって、やむを得ずトルコ政府へ日本人救出を依頼。その申し出を受けたトルコ首相の英断により救援機がテヘラン空港に到着する。
<ストーリー後半のクライマックス>
空港のトルコ航空の受付カウンター前には、自国への早期帰還を望む多くのトルコ人群衆が、チケットの発券を求めて喚き騒いでいる。そこへトルコ外務省の役人が「皆さん、われわれの後ろに並んでいるのは、遠い日本へ帰ることができず困っている日本の方々です。彼らを今救えるのはわれわれだけです。今度はわれわれが彼らを救う番です」と語り掛ける。
すると今まで喚き騒いでいた大勢のトルコ人たちが急に静まり返り、いつの間にか、後方の日本人たちのいる場所と飛行機搭乗口の間には通路ができ、やおらして、その中を、ホットした表情の日本人たちが、周りのトルコ人たちに感謝の微笑みを浮かべながら、静かに進んで行く。ストーリー後半クライマックスのシーンである。
<日本人が示した“真心”とトルコ人が示した“真心”>
今から125年前の串本、今から30年前のテヘラン。日本人が示した“真心”とトルコ人が示した“真心”。この二つの“真心”は時空を超えてしっかりと繋がっていたのである。
近くトルコ航空は、機体に「KUSHIMOTO」と書かれたこの時と同じデザインの航空機をイスタンブールと関空の間に就航させるそうである。 (H27.12.12記 坂本 幸雄)
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坂本幸雄:qskmt33@spice.ocn.ne.jp
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