1.氏の主張の概要(237p全編をぐっと凝縮した要約)
<はじめに>
・H28年10月初旬のある日の日経紙に山折哲雄氏の著書「ひとりの哲学」の書評が掲載された。その書評の最後に『「個」の自立を唱え、「個性」の尊重をうたいながらもわれわれは、「ひとりの生」を大切にしてきたのかと山折氏は問う。人との比較に惑わされない。自己愛に溺れる「個」とも違う。「ひとり」のポジテイブなあり方を探る。85歳の実践の哲学である』と書かれていた。
・山折氏については、かって、いじめなどに関連して、「安易に自らの命を絶つ現代の若者の自死」の論評を新聞記事で読んで、その鋭い眼差しに感銘したことを思い出し、この新しい著書での氏の「ひとりの哲学」の理解にも挑んでみたいと考えたのである。この二週間ほど、この237pの新潮選書を読みながら、この本に書かれた、日本人の“いにしえ”からの「こころの哲学」の系譜への理解を深めようと努め、その理解の深まり(その多くは自分勝手な理解でもあろうが)のなかで、氏が当書で指摘されている現代社会の様々のおぞましき状況への暗然たる思いもを抱きながら、かつまた、それらの理解の上に立って高齢者たる自分自身の残された人生をいかに生きるべきかについても若干の思いを馳せながら、何回も行きつ戻りつ当書を読んだ。
<山折氏の問題提起としての「ひとり」の哲学の実践者:二つのモデル>
・著者山折哲雄氏は、ますます高齢化する少子化社会、人口減少の到来の中で、ひとりで生きることに挑戦する時が来ているにもかかわらず、それだからこそ今、日本の“いにしえからの精神文化”とも言える「ひとり」の哲学が必要であると主張するような論評も現れず、ましてや老いてこそ「ひとりの暮らし」本来の生き方を考えみようではないか、といった社会現像などもどこにも現れてこないことが問題ではなかろうかと指摘された上で、その重要性について、自ら日本の千年の歴史を振り返っての論評を提示されているのである。
・「ひとり」という大和言葉はすでに「万葉集」や「 源氏物語」以来、千年の歴史を持っている。その中で時代を転換させるほどの画期的な「ひとり」の意味を発見したのは、まずは13世紀の親鸞において他にないだろうと山折氏は考え、そのことを念頭に、氏はそれ以降日本に実在した「軸の思想」の二つの歴史的モデル(氏は、それぞれの時代の人々の考え方に大きな影響を与えた思想や考察を「軸の思想」と呼ばれている)を我々読者に問いかけているのである。
・その第一の「軸の思想」のモデルとして氏が挙げておられるのが親鸞である。13世紀の聖聖人(以下小生は聖聖人(ひじりせいじん)と記す):親鸞は、阿弥陀如来への信仰を通じて、様々な意味で生きるに困難な13世紀において、仏への信仰を通じて、人々に「ひとり」で生きることの勇気や希望を与えたのである。しかしその親鸞も、阿弥陀如来に向き合うとき、その阿弥陀如来の眼差しが自分ひとりに向けられているのではないかと考え、ふと、万人救済を願っている如来の前に自分ひとりが屹立しているという思いに気づき慄然としてたたずむのである、と山折氏は書いておられる。しかし氏はなぜ親鸞がそこで独りたたずむのかについてはなんら言及されていないのである。
<「ひとりの哲学」についての小生の理解>
・そこで小生はこの点に関しては、次のように考えたのである。生きるに厳しい13世紀において、現世で生きる「こころのよりどころ」として多くの人々は仏への信仰を求めていたのであるが、その生きる厳しさへの救済策として、あるいはその中での自分自身の生きる術として、現世の中で人々がどのようことにその具体的救済を求めて生きて行ったかは、まったく人それぞれなのである。親鸞は、ふとそのことに気づき、そのことから、親鸞は「万人とひとり」,「ひとりと万人」の関係に深く思うに至り、更にそのことから13世紀の厳しさを生き抜く人々の知恵として、人々は「万人のひとり」として仏への信仰をそれぞれが生きるに当っての「こころのよりどころ」としながらも、その具体的な救済への生き方として、人々は、「ひとりの万人」として生きる上での自立自尊の逞しさを人々が持っている、あるいは持つべきではないか、と親鸞は考えたのではなかろうか。そして、親鸞は、そのことから、人々に“み仏への信仰”を説くことの本当の意味合いの感じ取ったことにより、より一層人々への“み仏への布教”に励んだのではなかろうか、と小生は理解したのである。
・と同時に、山折氏がこの本の全編を通じて日本のいにしえからの「ひとりの哲学」として論じておられる理由は、13世紀の厳しさに耐えて生きてきた人々が確立した生き方の基本は、あくまでも「自助努力の素晴らしい姿勢」であり、かつそれは、冒頭日経紙の書評にあるように、自分が生きる上での困難や悩みについて、他人との比較に惑わされたり、あらぬ自己愛に溺れてその救済を他に求めるような"なさけない状況"とは無縁なものであり、その時代の人々が生きる上で守ってきた姿勢とは、人生の様々な局面で人々が端然としてそれに立ち向かう強さがそのベースになっていた、というのが山折氏の基本的認識であろうか、と小生は感じたのである。
<軸の思想>
・そして氏は、更にその13世紀の「ひとりの哲学」が13世紀以降の日本人のひとつの伝統的な生き方のモデルともいえる「軸の思想」になったのではなかろうか、という。氏がここでいう「軸の思想」とは、氏によると、それは「ヤスパース選集」からの引用であるとそのネタを明かし、その意味は、歴史に時として現れ、それ以降の人々の考え方・思想に大きな影響を与える歴史の亀裂、断層ともいえるものであると説明。13世紀の日本は、平安時代からの平安が乱れ、いまだその落ち着きの時代には到達していない乱世・混沌・混迷の時代であり、だからこそそこに多くの“み仏への布教を説く人たち出現して確立した「ひとりの哲学」が長年それ以降の日本の「軸の思想」として、日本人の生きる上での自立自尊のモデルとなったのである、と氏は敷衍しておられる。
<福澤諭吉における「一身」と「国家」>
・その「軸の思想」の第二のモデルとして氏が挙げておられるのは福沢諭吉である。氏は福澤諭吉が「學問のすすめ」で、「一身」と「国家」を対比していることに着目される。『學問を志すものは、何よりも気力をたしかにもって「一身」の独立をはかり、その足場を固めれば、おのずから「一国」の富強を実現することができる。どうして西洋人の力を恐れたり、借りたりすることがあろうか』という福沢の言葉を引用し、ここにも、自らの学問への励みを、一国の富強に結びつけて「個」の自立を図ろうという、自立自尊を尊ぶ日本の第二の「軸の思想」が見いだせる、と氏は主張される。
・先にみてきたように、山折氏は、13世の聖聖人たちへの考察のなかで、日連について『日蓮が眼下に凝視したのは「超越と無尽蔵と国家」であった』と説明されている。小生は、このことから、氏は、福沢諭吉が「一身」を「国家」の富強の実現に思い重ねて考えていたことから、福沢をして、明治の日蓮と考えられたのかも知れない、と思ったのである。
・氏は更に福沢の考え方を次のように展開される。『「一身」とは「ひとり」のことだ。そのひとりが独り立ちするとき「一国」の富強を実現することができる。「独立」といえば、われわれはすぐにインデペンデンスを思い起こす。福沢もこのインデペンデンスの翻訳のつもりでこの言葉を用いたのであろう。しかしそれはそうであるけれども、この「独立」という言葉は大和ことばの慣用では「独り立ち」と訓(よ)み、ひとりで立つ、ということだ。もちろん福沢と同時代の人にとっては、以上のことは自明のことであったのであろうが、この明治の時代にも人々のこころにこのような独立不羈の精神が横溢していたことを忘れていたのはむしろわれわれの方なのだ、という。
・親鸞のいう「親鸞一人」の「ひとり」は、「万人」と対比されているのに対して、この福澤諭吉の「學問のすすめ」の文脈では、彼のいう「一身」すなわち「ひとり」は「国家」と対比されているのである。この対称性の違いについては、親鸞のいう「ひとり」は“個々の人間の魂”に向けられていたのに対して、福沢の「ひとり」(一身)は“国家の自立と独立”をめざすものだった、と言えるのではなかろうか、というのが氏の親鸞と福沢も対比しての結論である。
・以上、当書に思い込められた山折氏の論旨の骨子を概括した上で、以下その記述の要約・理解・感想を綯い交ぜにした拙文を記載した。
<当書の構成>
・この本の構成は、まず序章の『「孤独」と「ひとり」のちがい』で、山折氏が「ひとりの哲学」をなぜ考えるに至ったかについて問題提起され、続いて第一章『親鸞の「ひとり」,第二章『道元の「ひとり」』、第三章『日蓮の「ひとり」,第四章『法然と一遍の「ひとり」』の四つの章では、それぞれに、鎌倉幕府時代以降に、日本の仏教の布教に大きな足跡を残した五人の聖聖人たちを取り上げ、彼らが、それぞれの時代背景や土地風土の中でどのような思索を重ねて来たかについて、山折氏は、単なる文献検索での執筆ではなく、その地理的足跡をまことに丹念に辿り、現地・現物・原風景のなかでの取材を試み(*脚注参照)、何回かの旅で得たそれらご自身の実感・感想を当書執筆のベースとし、最終的には、戦後のアメリカ文明の影響のなかで大いに変容を遂げた「ひとりの哲学」の諸問題を現代社会に対する警鐘として捉え、それを当書の核心的問題として論じておられるのである。以下その最終章を中心に、山折氏が提起される「ひとりの哲学」の現代的問題点を、把握してみたい。(*脚注:この現場主義に基づく旅では、例えば、親鸞の足跡をたどる旅を例に挙げると、氏は20歳年下の編集者I氏が運転するトヨタ・ハイブリッド車に乗り、車中に心地よく響く「“アイーダ”や“フイガロの結婚”などのアリア」を聴きながら、京都-今津-金沢-富山-親不知など長躯一日何百㌔もの旅を実施されたとある。しかも、85歳という高齢に於いてである)
<「ひとりの哲学」を考える上で必要な13世紀という時代背景とは>
・山折氏は、その第一のモデルが、13世紀の親鸞のいう「ひとりの哲学」であるが、それは親鸞の「歎異抄」に出てくる親鸞の実践体験をベースにした現場主義に基づく考察であり、第二のモデルが、19世紀の福沢諭吉のいう「ひとりの哲学」であるが、それは福沢の「学問のすすめ」などの中に、その時代的装いを変えて出現しているという。
・まず十三世紀に現れた法然、親鸞、日蓮、道元などの聖聖人たちの思索を、山折氏がどのように捉えたかを要約してみたい。
・日本の仏教の総本山ともいうべき比叡山の延暦寺が建立されたのは九世紀であるが、そこで十三世紀に修行していた法然、親鸞、日蓮、道元などが、それぞれの判断で、短期間(と言っての親鸞は20年)で延暦寺での修行を終えて下山したことを、山折氏は十三世紀の不思議な光景として捉えているのである。
・そこで小生は、13世紀がどんな時代であったかについてググってみた。その結果解ったことは次のような事実である。そしてそこで理解し得たことは、その時代に生きる人々にとっては、ことの外、13世紀が日々に生きる上での厳しさをひしひしと感じざるを得ない時代であったろう、ということである。
・12世紀の末から13世紀にかけては、源頼朝が鎌倉幕府を開いて、征夷大将軍となるのであるが、その源氏もわずか3代で滅亡し、変わって北条氏が執権政治を行うのである。がその後、後鳥羽上皇が権力を幕府から朝廷に奪取しようとして承久の乱が起こり、終局的にはその権力闘争も足利尊氏がその鎌倉幕府を滅ぼすのである。その上、その間、2回もの元寇の乱も起こって政治的にも外交的にも大きな混乱を極めた時代である。更に、1293年には、鎌倉大地震まで発生し、建長寺を代表とする多数の神社仏閣が倒壊するといい天変地異までも追い打ちをかけており、人々は生きる上での厳しさや不条理をいやが上にも感じて生きていた時代である。
・そんな厳しい時代背景の中で、上記の聖聖人たちは、自ら比叡山での修行をなぜか短期間で終えて下山するのである。そして彼らは山を降りて、それぞれに新しい修行・布教の場を見つけて行くのであるが、そこで彼らは何を見つけたのであろうか。その点について、山折氏は、本書では次のように要約しておられる。
<聖聖人たちが見つけたもの>
① 法然と親鸞は、おそらく「阿弥陀如来という名の超然的な存在という価値」を見つけたのである。
② 道元 (曹洞宗の開祖)はもう「無」というほかないだろうと要約されておられる。この説明では何のことか解らないので、小生は本書第二章『道元の「ひとり」』を再読して理解を深めてみた。この第二章で、山折氏は、道元を「無の哲学の創始者」と位置づけておられる。道元は若くして中国で修行した後に、帰国後比叡山で修行するも比叡山での日本の仏法に失望して下山し、ややあって、意を決して永平寺を開き、そこで中国の師の教えを大切にして「日本での座禅の道」を開くのである。その道元の教えの基本はただ,ひたすらに座れという「只菅打座(しかんたざ)」というものである。座れば仏陀=ブッダになれる、座れば達磨=ダルマになる、と信じて疑わなかった道元は「無に近づこうとした」のであろうというのが氏の道元の捉え方である。しかしながら山折氏は、はたしてそんな海のものとも山のものともつかないものに、生身の人間が近づくことができるのであろうか、という疑問を呈しながらも、氏は、この道元の「無の精神」からの影響からか、最近われわれ日本人の日常生活に於いて、「無私」、「無心」という言葉がよく見られる風潮となっていることに着目されるのである。その例として掛軸などでも「無一物中無尽蔵」という言葉が人気を博すなどの現象が見られるが、興味ある現象として、この無という表現の中のどこにもニヒリズムの匂いが立たないばかりか、逆に、無、無、無・・・・と口ずさむうちにどこからともなく力が沸き起こり、そしてそれが、何事にも「こころ」「こころ」と言わずにはおれない、われわれの「こころ」好きの態度と相通じているように思う、と記述しておられる。これも道元の「無の哲学」が現代社会へも影響している現象であろうか、と氏はいう。
③ 山折氏の思索はさらに日蓮はどうだったのであろうかということに続く。 氏は、日蓮が眼下に凝視したのは「超越と無尽蔵と国家」であったと説明される。そして、それが13世紀という緊張の時代の日本列島を揺るがす人々の思・信仰の軸となって、おそらくそれが「ひとり」で生きる無常観を核とする人間観の誕生を準備し、かつそれが中世の暗夜に光を放射する契機となったのだ、と述べておられる。氏は、13世紀という時代は、死に差しむけられた人間の意識が急激な深まりを見せていった「末法思想」が浸透した時代であった、と記述しておられる。そこで「末法思想」とは何かをググってみると、それは平安時代から鎌倉時代にかけて人々の間に広く浸透した“厭世観”や“危機意識”であり、それが「南無阿弥陀仏」を唱えるだけで浄土に行けるという浄土宗の興隆にも繋がった、とある。しかも氏は、この国の伝承では、死に向けられた「ひとり」という単独者の孤独の水脈は「こころ」の探求へと向かわせていった、という。そのようにして13世紀の「軸の時代」を迎え、「ひとり」の存在は「こころ」の探求と不可分の関係の中で捉えられていたのである、というのが氏の13世紀への解釈である。
・山折氏が提示された、以上の論説から読み取れることは、13世紀の人々が、生きるに厳しい時代のなかで心のよりどころを求めて悩み・苦しむ状況をみて、その時代の聖聖人たちが選んだ道は、日本の仏教の聖地たる延暦寺で“のうのう”と自分自身の修行に専念することではなく、一刻も早く下山して、人々に“み仏への布教に励む”ことを教える“布教への悟り”であり、その彼らの悟りこそが13世紀をして、日本の思索精神のエポックメイキングな「軸の時代」をもたらしたのであろうと、小生は理解したのである。
<山折氏の「こころ」と「心」への考察>
・次に、以上の考察を経て、氏は、大和ことばの「こころ」と漢字の「心」や英語などの外国語に翻訳しきれない複雑な語感の問題をも考察されておられる。なかなか心に響く考え方であるので以下箇条書きにその要旨をまとめてみたい。
・まず、山折氏は、日本語のなかで「こころ」という言葉ほど厄介なものはないと教示され、大凡次のように記述されている。
①「こころ」という言葉は、「ひとり」という言葉同様、まず英語、ドイツ語、フランス語にならないのである。英語では、ハート、マインド、スピリッツ、ソウルなどがあるが、どれもピッタリこないのであり、外国から日本の文化などを勉強に来た外国の専門家がいつもこの点に嘆きの声を上げるのである。結局は、それを“ココロイズム”と訳することになっている。
②「こころ」という言葉の来歴をふり返るとき、この「こころ」には大和ことばの「こころ」と漢字の「心」という二つの太い流れがあることに気づく。大和ことばの「こころ」には、古事記、万葉集以来、源氏物語、平家物語などを含め、能や浄瑠璃などの語りの世界でもその使用範囲は森羅万象に及び日常生活における喜怒哀楽万般をカバーしている。「こころが騒ぐ」,「こころ苦しい」,「こころ残り」,「こころ踊る」など挙げればきりがない。それに対して、「心」の方は主として中国への留学生(僧)によってもたらされたもので、最澄の「道心」,空海の「十住心」、道元の「心身脱落」など見ればそのことがよくわかる。やがてそれは世阿弥の「初心」に繋がり、のちに無心、道徳心、愛国心,公共心などの慣用句に繋がっているのである。以上の対比で分かるように和語の「こころ」は生活感に溢れて感ずる「こころ」であり、漢字の「心」は観念世界のなかで信じる「心」になったと言えるのではなかろうか。そしてまさにこの「こころ」と「心」が葛藤、交錯するなかで「ひとり」の存在が鋭く刺激され、次第に自我意識の拡大に繋がったのではなかろうか、というのが山折氏の「こころ」と「心」に関する考察である。
③そして最後に、このような13世紀の「軸の思想家」たちをラスト・ランナーとして,山折氏が取り上げておられるのが一遍上人(1239~1282年)である。『「南無阿弥陀仏」を一遍唱えるだけで悟りが証されるという教義』から一遍上人と呼ばれ、「捨聖(すてひじり)」とも尊称された人であるが、山折氏は、その一遍上人の幾つかの言葉を紹介して、13世紀の「思索の聖」たちの「ひとりの哲学」を総括しておられる。
ⅰ.「となふれば仏もわれもなかりけり 南無阿弥陀仏なむあみ仏」
ⅱ.「生ぜしもひとり、死するもひとりなり。されば人と共に住するもひとりなり、そひはつべき人なき故なり」
ⅲ.「おのずから相あふ時もわかれても ひとはいつもひとりなりけり」
<漱石と啄木>
・山折氏は以上の考察を踏まえた上で、次なる考察の対象は近代へと飛び、漱石と啄木における「ひとり」と「こころ」の問題を論じておられる。 明治は、欧米から「個人という考え方」が日本に入ってきた時代である。しかも、漱石は若くして国費で英国に留学し、自分が目指す文学を通じて、新しい時代の息吹を人々に伝えなければならないと苦悩するのである。山折氏はそんな漱石について、「漱石はもしかすると、わが千年の歴史のなかに浮き沈みしてきた「こころ」と「心」の間を行きつ戻りつ悩み続けていたのかも知れないが、そんな漱石の苦悩の間から透けてみえてくるのも「ひとり」で生きていくことに難しさであり、「ひとり」という存在から浮き上がる寂しい孤独の姿であったろうと、指摘しておられる。 漱石は「則天去私」という言葉を残している。この「則天去私」という言葉の意味をググってみると『小さな私にとらわれず、身を天地自然にゆだねて生きていくこと。「則天」は天地自然の法則や普遍的な妥当性に従うこと。「去私」は私を捨て去ることとある。つまり「即天去私」は、夏目漱石が晩年に理想とした境地を表した言葉で、宗教的な悟りを意味するとも、漱石の文学感』とグーグルでは解説している。
・また同じ頃、啄木は朝日新聞社で19歳年上の漱石のかたわらで校正の仕事をしながら、「朝日歌壇」の選者に抜擢され、自らも歌作に没頭するのであるが、山折氏は啄木の代表的な歌を具体的に取り挙げて、それぞれの啄木の歌に思い込められた心の叫びを、「傷つきやすいガラスのような魂」,「ニヒリステイクな叙情歌」,「感傷的な心、みずみずしい自我の叫び」,「心の絶望」,「時代の閉塞を鋭く見抜いた願力」,「貧困と差別の眼差しを跳ね返そうという反時代の精神」と解説されている。
・その幾つかの具体的解説をあげれば下記の通りである。
① 「感傷的な心、みずみずしい自我の叫び」の例:「わがこころ けふもひそかに泣かんとす 友みな己がみちをあゆめり」,「不来方(こずかた)のお城の草に
② 寝ころびて 空に吸はれし 十五の心」。
③ 「行方定めぬ心」の例:「あたらしき心もとめて 名も知らぬ 街など今日もさまよい来ぬ」。
④ そして、「絶望的な心の例」;「いと暗き 穴に心を吸われゆくごとく 思ひてつかれて眠る」,「死ね死ねと己を怒り もだしたる 心の底の暗きむなしさ」
・以上のように、山折氏は自分の心と向き合い、その暗闇の底を覗き込んでいる啄木の歌を取り上げて、その啄木の歌が人の心を詠い続けれている点では、かっての西行法師に近いのかもしれないが、例えば「どんよりと くもれる空を見てゐしに 人を殺したく なりにけるかな」という歌などを考えてみると、西行法師の歌、例えば、「よし野山 こずえの花を見し日より 心は身にも そはずなりけり」などと比べて、西行の世界というよりも、むしろ現代の青年たちの心の奥に巣くっている恐れの感覚と響き合っているというべきである、と評しておられる。このような時代閉塞の心を歌に託した啄木はそのころ弱冠二十五歳。そのわずか二年後にこの世を去るのである。山折氏は、このような漱石や啄木の時代を『明治開国期の「個人」や「個人主義」が文明開花の波に乗ってきて、日本人の精神文化が新しい装に変わりつつあるなか、明治の彼らは、「個人」の傷つきやすい心の葛藤に苛まれながら、「ひとりの哲学」でも「ひとり歩きの孤独な旅を始めた時代」であった』と総括されている。
<戦後の平等主義>
・そして、山折氏の思考は、著書「ひとりの哲学」の最終章に進み、そのなかで、氏がこの本の核心的テーマとして捉えたいと考えられたであろう「戦後の平等主義」へと進む。以下暫し氏が考察された戦後の「ひとりの哲学」をほぼ原文に近いままに記載したい。
・『その「個」や「個人」が再び勢いを取り戻すのが、第二の開国期ともいうべき、戦後の飢餓時代であり、焼け跡時代の活気だった。敗戦で傷ついた日本人の心に共感と慰藉の種をまいたのが、アメリカから一挙に流入した文化と価値観だった。その米国流のデモクラシーのなかでひときわ輝いたのが、「個」の自立と「個性」の尊重という掛け声とともに広まっていくイデオロギーだった。思い返せば戦後のわれわれは「個」や「個の自立」というコトバをよく口にした。だが、その結果、どうなったのか。右をみても左を見ても「自己愛の個」が蔓延し、「孤独な個の暴走する姿」が街に溢れるようになっていった』というのが、氏が指摘される「戦後の平等主義」の悪しき弊害である。
<なぜそのような個の暴走が起きたのか>
・更に山折氏は、このような悪しき戦後の弊害について、なぜそうなったかの理由について下記の三つの観点から言及されているが、主として戦後教育の中で育ってきた小生には、そのいずれの悪しき問題点も、なるほどそうかと、得心のいく主張に受け止められたのである。
① 戦後、「横並び平等主義」という意識がわがもの顔に振る舞いだすようになったからであろう。しかもそんな意識が戦後70年も続いた結果、家庭では「親と子」が「オレーオマエの対等な関係」に還元され、学校で「教師と生徒」が「トモダチ関係」に引きずられるようになった。会社では、各部局の上司たちは部下たちに対してほとんど調停役の役割に甘んじるようになった。
② 上記の悪しき横並び平等主義の結果、ヨコの人間関係だけが意識がされ続け、タテの教育軸、垂直な師弟軸が忘失したまま長い時間が過ぎてしまったのである。
③ さらに困ったことには、この横並び平等主義と共に浮かび上がってきたのが、誰も彼もが、「自分を身近な第三者と比較する癖」が出来上がってしまったことである。比較すれば、当然のことにたちどころに相互の違いが目につく。容貌、性格、社会的背景、財産の多寡など平等でも公平でもない現実が突きつけられる。そこに「比較地獄」が始まり、それがさらに「嫉妬地獄」を招き寄せ、その自縄自縛のなかでいつしか敵意が芽生え、殺意へと育っていく。気が付いてみれば、われわれの周辺に、子殺し、親殺し、そして慢性的な自殺志望者の増大という事態を招いてしまったのではないか。蓄積された敵意や殺意が外に向けられたときには殺人を引き起こし、それが内向するときには自殺願望を刺激し、外にも内にも向けることができなければ、抑圧されたまま、鬱の状態へと引きずりこまれていく。ふと、気がつくと、横並び平等主義は、いつの間にか個の自立、個性の尊重を空洞化し、人間関係をズタズタに引き裂いているのである。
<日本の伝統的な「ひとり」の価値観との比較>
・考えてみれば、この個性というコトバは西欧の近代社会が作り出したもので、西欧からの輸入語であり翻訳語である。明治になってそれをいち早く取り入れたことによって、先に挙げた夏目漱石などのような日本の時代の変化のなかで必要であった英知の一端を垣間見ることができたのであるが、その後がいけなかったのではないか。なぜならその西欧直輸入の理念を、日本の伝統的な「ひとり」の価値観と照らし合わせて、この両者を真剣に比較してみる作業をほとんど完全に怠ってしまったからである。わが国では「ひとり」という個にあたる大和ことばが、上記に縷々述べたように、それこそ「万葉集」の時代から、まさに「個」にあたる固有の場所に鎮座していたのである。以上が、氏の当書に思い込まれた核心的問題意識である。
2.若干の感想
<氏の分析・評価に欠落しているのではないかと考えた小生の視点>
・山折氏の「ひとりの哲学」は、それぞれの時代の人々の考え方を突き動かした「軸の思想」を13世紀と明治期と戦後期の3つの時間軸で辿るものであった。それだけに氏の問題の捉え方をトレースするだけでも上記のような長文となってしまった。しかし今回一冊の本をそれこそ“眼光紙背に徹する”思いで読み込むという最近にない経験のお蔭で、氏の素晴らしい考え方・分析の核心部分だけでも少しは理解できたようにも思う。だが、そのなかで氏の分析・評価で欠落しているのではなかろうかと思う視点も一つだけ思い浮かんだのである。それは、20世紀に入って欧米諸国の政府が力を入れ出した「福祉政策」との関わりをも考慮しての問題の捉え方である。
・欧米諸国が国民の「教育」や「福祉政策」に力を入れ出したのは、第一次世界大戦後からであるという説を読んだことがある。その論旨は、第一次世界大戦が、それこそ国の総力を挙げての戦争であったことから、次なる戦争に備えるためには、政府としては、「国民の教育・福祉政策」にも国家として力を注ぎ、それによって国家としての総戦力体制を強化することが不可欠であるという認識から「福祉政策への政府の注力」も始まった、というのがその内容であったと理解している。
・西欧先進諸国のそんな流れのなかで、日本でも戦後以降国家の重要な政策としてそれが推し進められてきたのである。そのことを念頭に置いて、上記山折氏の指摘にある、戦後の日本の社会で顕著になった「おぞましき状況」の要因を考えてみると、そんな「福祉政策」への人々の依存心が、人々に「他力本願」の気分、即ち、自分が困っても、周りが、あるいは国が、何とか救済の手を差し伸べてくれるであろう、という安易な気持ちをこと更に助長し、それが、氏が当書で核心的問題として指摘されている、現代社会の様々な「おぞましき病根」に繋がる一つの大きな要因ともなっているのではなかろうか、と感じるのである。もしも「福祉政策」が安易に人々の他力本願を助長している側面があるとすれば、それは「福祉政策」功罪の罪であろう。
<「お天道さまが見てござる」という自意識>
・13世紀の人々は、そのような「福祉政策」のかけらもないなか、自分が困っても、日々「南無阿弥陀仏」を唱えることで来世の救済を心で祈りつつ、現世での困難な問題は全て自己責任で処することを当然の心構えとして生きて来たのである。そしてそんな心構えを自分に言い聞かせる覚悟としては、時には「お天道さまが見てござる」という言葉を心に留めながら、他人様に後ろ指を指されるようなことは絶対にしてはいけない、という自意識、もしも人に恥じるようなことをすれば、それは、即「村八分」にされるという社会制裁(特に江戸時代以降強化されたらしい)をも意識しながら、自立自尊の自意識を保ち、すべての困難も難儀をも自己責任で処する強さを堅持してきたのであろう。その上、そんな人々の強い自意識は13世紀以降の日本社会にあって、あの終戦時まで脈々と受け継がれてきたのである、というのが山折氏の問題認識であろう。
<鴨長明と西行法師>
・「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまるためしなし」。これは13世紀に生きた鴨長明の方丈記冒頭の有名な言葉である。この文章には「あしたに死し、ゆふべに生るゝならひ、たゞ水の泡にぞ似たりける」、「知らず、生れ死ぬる人、いづかたより來りて、いづかたへか去る」、「或は露おちて花のこれり。のこるといへども朝日に枯れぬ。或は花はしぼみて、露なほ消えず。消えずといへども、ゆふべを待つことなし」などの言葉が続き、13世紀の人々の無常観を表現した言葉として胸打つ思いを感じるのである。
・一方、同時代の西行法師の「願わくば 桜の下にて春死なん そのきさらぎの望月の頃」という句を対比してみて驚くのは、この生きるに厳しい13世において、自分の死についてすらも「花鳥風月」の“みやび心”の対象として超然としているこの西行法師の明るさと生きる強さに大きな感銘を覚えるのである。(坂本幸雄 H28.11.24記)
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森正之