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先日来の「南東北の旅」に感じたこと。坂本幸雄
<“フレイル”先延ばしのための旅への執心>
・文芸春秋6月号の「長寿者の秘訣」には、85歳を過ぎた頃からは、どこにも目立った病気はないのに全身の機能が徐々に低下して由々しき結果に至る場合も多いとの記事があった。
日本老年医学会はこのように身体機能や認知機能が低下した状態を“フレイル”と呼び、外見的には、腰が曲がって杖をつきながらヨロヨロと歩き、耳が遠い上に認知症もあるような会話も噛み合わない、言わば、動作も全体的にのろいという状態である、との記事があった。
そういえば、最近、昭和の世に輝かしい異彩を放った我らが時代の寵児の何人かの方々の訃報に接し、それも“フレイル”のせいだろうか、と身に照らしても案じたりするのである。
・小生目下81歳。今は幸いにも何らの病もない状況ながらも、平均的なフレイル年齢までには後4年。
それを考えると夫婦ともに元気な今のうちに、せめて近場の旅行ぐらいには精一杯励もうかと考えている昨今である。
そんなことで、昨日までの3日間、「感動の南東北の旅」というパック旅行に出かけた。
初めは“南東北”と聴いても、地理的にはピンと来なかったのであるが、五色沼、蔵王のお釜池、山寺、温海温泉などをメインとする旅行で、関西に住む身としては、まったく今まで空白の観光名所であっただけにそれぞれに感動を覚える旅ともなった。
<“黄金の絨毯”:その稲穂の輝きに感動>
・しかし、何よりも驚き、かつ、感動したのは、バスの車窓から見た、秋の収穫を前にしたその稲穂の、まるで“黄金の絨毯”を思わせるような豊かで美しいばかりのその輝きであった。
しかもその輝きは新潟平野でも内陸部の庄内平野でも変わることのない色彩であり、その驚きの色合いは、関西や九州の稲穂の輝きとは格段と違う、まるで一面に咲き誇った“菜の花畑”のような見事なまでの黄金色であった。
聞けば、その只今の稲穂のほとんどは、「つや姫」なる、「一目惚れ」と比べて収穫期のやや遅い品種で、ご当地自慢の銘柄米であるとのことであり、ホテルで食したご飯のその味わいも一段と素晴らしいものであった。
そこで一句 : 「秋実る 味も自慢の 田の神様」
・そんな旅の風景を見ながらつくづくと思い起こしたのは、江戸時代の米中心の経済発展の歴史とそれに関連した大阪浪速の発展の歴史のことであった。
この豊かな米を、江戸時代も天下の台所として発展していた大阪浪速の地に運ぶために、その大量輸送手段としての北前船と呼ばれる千石船が考案されたのである。
併せて日本海側の海路の整備も江戸の初期に河村瑞賢などの努力によって急速に行われ、その海路を活用して、青森、秋田、新潟あたりの米どころの米が、千石船で日本海側を航行し、最終的には瀬戸内海経由で大阪に運ばれたのである。
それに併せ、日本海側の港々で風待ちしながら航行する流通の発展は、日本海各地の港町の発展をも促し、更には、何よりもそれが大阪難波の経済の発展にも著しく大きな影響を与えた江戸時代以降の浪速の歴史のことをも考えたのである。
それは、将に司馬遼太郎の名作「菜の花の沖」の世界である。
・この7月から始まった日経新聞の小説:伊集院静の「琥珀の夢―小説、鳥井信治郎と末裔」は次のような書き出しで始まっている。
「大阪は"水の都"である。いにしえから、このなだらかな広野に、夕風が、川風が流れ続けている。人々はその水音を聞きながら、千年を超える歳月をこの大いなる都で生きて来た。・・・"天下の台所と呼ばれた大坂は長く日本で最大の要の都であった。浪華、浪速、浪花の字のごとく、人々はこの地に夢の華を見たのである。その夢が夢で終わらないところに、この大阪の強さと底力があった。今日、日本が世界に確として並ぶ経済大国となる礎を築いた多くの人物を、この波の花咲く大阪は輩出して来たのである。」
・この小説に記述されているような事実を考え併せると、大阪浪速が、米中心の江戸時代からの日本経済発展そのものを、大阪自身の発展の礎にもしてきたのみならず、それを大きなきっかけとしてその発展を支える多能で多様な人材までをも輩出し、それがまた、明治以降の新たな日本の経済発展を生み出す一つの大きな原動力ともなっているのである。
これらの事実を考えると、江戸時代以降今日までの大阪の経済発展には、この東北地方の実り豊かな、かつ、良質な大量な米の存在が実に大きく関わっていたのであろうか、とつくづく思ったのである。
・そういえば、小生が現役時代勤務していたサントリー社の本社のある大阪堂島には、江戸時代には主要な藩の米蔵が立ち並び、そこでは、なんと世界初の「米の先物取引」までも行われていた、という当時の経済最先端の地であったのである。
<「菜の花の沖」に学んだ二つの物語>
・現役時代にその面白さにワクワクしながら読んだ「菜の花の沖」では2つの面白い物語を学んだ。
その一つは、その海路を活用した浪速の廻船問屋の商人たちが、ニシンや昆布など大量の蝦夷地の海産物を浪速へと輸送し、当時既に四通八達していた浪速の街の掘割を利用し、必要に応じて街のあちこちに運ばれていたのである。
確か小説には、ニシンの一部は立売堀(“いたちぼりと読み、今の靭公園、または立売堀公園)に運ばれ、そこに肥料として取引されるニシンの市場が生まれた、と書かれていたように記憶している。
その結果、肥料としても活用されたそれら蝦夷地のニシンが、当時の泉南地方で盛んに行われていた綿の栽培に欠かせない重要な肥料として活用され、それが泉州地方の綿の生産の更なる発展をも促し、やがてそれが明治以降の産業立国の方針にもマッチして、泉南地方が繊維産業を重要な地場産業として発展する足掛かりになったという話である。
戦後の東京オリンピックで優勝した、あの日本女子バレーボールチーム:日紡貝塚の活躍にも繋がっている話でもある。
・もうひとつは、「菜の花の沖」の主人公:高田屋嘉兵衛の胸のすくような「男、高田屋嘉兵衛に学ぶ話」である。「菜の花の沖」の主人公、高田屋嘉兵衛は、その当時、蝦夷地からの海物産を運ぶ廻船問屋の主として名をなしていたが、蝦夷地沖合を航行中、ロシアの軍艦に拿捕され、カムチャカァ半島に拘留される。
がしかし,すべてにフレンドリーな彼は、すぐに、敵の大将とお互いを「タイショウ」と呼び合う仲になり、やがて幕府側が拘留監禁しているロシア側の捕虜と自らかの拘留の身との交換を実現させ、江戸時代に日露両国の間の民間外交を見事に成功させるのである。
<嘉兵衛とリコルドの関係>
・余談ながら、以下の話は、かつて、小生が司馬遼太郎氏の名作「菜の花の沖」の読後感として記していた、「高田屋嘉兵衛への感動の記」からの抜粋である。
・1813年10月19日,幕府は、北海道松前に2年間拘禁していたロシア軍艦のゴローニン艦長他数名と、当時ロシア側に捕らえられていた日本の商人高田屋嘉兵衛他数名との身柄の交換・引渡しを函館で行っているのである。
・ゴローニンはこれより2年前に北方海域探索の途中、国後島に食料などを求めて上陸したところを松前藩に捕らえられている。
彼らが日本側に捕らえられたのは、数年来相次いでロシアの軍艦が樺太や択捉島で武力攻撃を行ったことに対する日本側の報復である。
一方、淡路島出身で、当時北前船によって“蝦夷地”の物産を諸国に売り歩く商人として成功していた高田屋嘉兵衛の方は、前年の8月に択捉沖を航行中、ゴローニンの安否確認のため周辺海域に来航していたリコルド艦長率いるロシア軍艦に人質として捕らえられてカムチャカァ半島に部下数人と連れ去られていたのである。
<嘉兵衛はからずも日露外交の矢面へ>
・かくして、一介の商人に過ぎない嘉兵衛は、はからずも正規の外交関係の無かった日露の厳しい外交問題に身を挺することになる。
そのような状況の中で嘉兵衛の誠実で度胸の据わった態度は次第に相手側のリコルド艦長に大きな信頼を与えるのである。
やがて2人の間には、信頼と友情が生まれ、敵対関係の壁を乗り越えて深い友情が芽生えるのである。幾多の困難な状況の中にありながらも、お互いを「タイショウ」と呼び合うほどの信頼と友情が生まれ困難な事態をも好転させて、日本側が拘禁しているゴローニン一行と、ロシア側が捕らえていた嘉兵衛一行を交換・引渡しすることが実現したのである。
<歴史の見えざる糸>
・リコルドはロシアに帰ってから、このときの体験や高田屋嘉兵衛のことを手記にまとめているのである。そして当時、この手記を読んで感動したロシア正教の若き牧師、ニコライ青年が、“高田屋嘉兵衛”のような素晴らしい人物のいる日本という国で是非ロシア正教の布教活動を行いたいとの希望を抱いて来日するのである。
今日東京は神田にあるロシア正教の教会、即ち、あの有名な“ニコライ堂”はこの教会の建設に尽力した彼の名前に因んだものだそうである。“歴史の見えざる糸”はいろいろな形で現在に繋がっているのだなあ、と感じ入った次第である。
現在函館市には高田屋嘉兵衛記念館がある。小生もかつてそこを訪ね、彼の波乱に富んだ生涯を偲ぶ“よすが”としたのである。また嘉兵衛の故郷:淡路島にも彼を偲ぶ記念館がある。
嘉兵衛の終の棲家となった誕生地:淡路島の家で晩年の彼は、春風駘蕩、菜の花の沖ゆく舟の往来を眺めるのを楽しんでいたようである。
いずれの日にか菜の花の季節にそこも訪ねてみたいと思いつつもいまだ実現していないのである。
<Be a Friend>
・“Be a Friend(友達になろう!友達をつくろう!)” という言葉は、小生が現役時代15年間所属していた大阪城南ロータリークラブの1994年(H6年)度国際活動のスローガンである。
小生はこのスローガンにはじめて接した時に咄嗟に想起したことは、“嘉兵衛とリコルドとの間の国境を超えた2人の友情”であった。
それほどにこの小説に見る2人の“Be a Friend“の友情は小生にとっては感動の一編であった。
・嘉兵衛はゆえなく突然ロシアに拿捕される。しかしながら、彼は相手を罵ったり非難したりすることは一切せず、相手が何故このような“ただならぬ挙動”に出たかを、言葉の障害を乗り越えて冷静にかつ必死に探るのである。
そして彼は、ついにそれが日本に拿捕され拘禁されている仲間のロシア人達を救出するための行動であったことを突き止める。
彼は、それが解ると、己を無にして相手の立場で行動を始めるのである。
やがてその姿勢と行動がリコルドとの間に深い信頼と友情を築き、その結果が日露友好裏の身柄交換という、より高い次元での問題解決に至るのである。
・歴史的に見て日露の間には、その後何かと波風の立つ関係が打ち続いている状況であるが、そのなかでこのような一陣の涼風のようなさわやかな人間関係があったことを知って、小生は大きな感動を覚えたのである。
・これは今から203年も前の、まだ正規の日露外交関係のない時代の全く個人ベースの国際交流である。
われわれ日本人の素晴らしい先達としての彼のこのような崇高な態度や行動は、人間としても、また、今後の国際交流のお手本としても、大いに学ぶべきことではなかろうかと思う。
更に言えば、彼の己を無にして相手のために尽くす、このような姿勢こそが、さまざまな違いを超えて相手にこちらの善意が理解される前提ともなるのではなかろうかと、感じる次第である。
<実り多かった今回の旅の収穫>
・今回の旅は、新大阪駅から北陸新幹線の上越妙高駅までは往復JRによる旅ながらも、そこからは東北4県(新潟、福島、宮城、山形)をバスで約900キロも走行するきつい旅であった。
旅は、新たな体験や出会いという感動を与えてくれるものであるが、今回の旅は、その上に、過去の体験や記憶を新たな視点で回想し直すという意味でも貴重な旅ともなった。
その意味で「感動の・・・・・」と銘打った旅の感動には大いに預かり得た実り多い旅となったようにも思った次第である。
(坂本幸雄 H28.9.16記す)
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坂本幸雄:qskmt33@spice.ocn.ne.jp
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