「ペストとデカメロン」(中丸明著「海の世界史」からの話題)
<はじめに>
・上記「海の世界史」は、第1章「海の遊牧民」、第3章「東方見聞録の世界」など、世界の歴史に現れる「海にまつわる面白い話」を集めた本であります。以前読んだことのある著者中丸氏の他の本の面白さに絆されてこの本も読んでみました。第2章「地中海の興亡」にあった上記話題の関連記事に特に興味を覚え、以下それをギュと要約しました。残暑厳しい折、興味あれば暑気払いにでもご一読下さい。
<ペストの発生>
・ペストは紀元前にもあったという文献があるが、ヨーロッパ全域を暗黒の淵に叩き込んだメガトン級の死神は、1347年、クリミヤ半島やジェノバの植民都市カッフア港に姿を見せた。その死神の正体は線ペスト:ネズミに寄生するノミによって媒介されたものであるが、当時の記録によると被災者の3人に1人が死亡、パリでは5万人、フイレンツェでは6万人が死んだという。「おびただしい数の死体が、どの寺院にも、日々、刻々、運び込まれたのであるから墓地だけでは埋葬しきれず、あちこちに大きな穴を掘って、その中に一度に何百という死体が、幾重にも積み重なって放り込まれた。多くの人がころころ死んで、真っ暗な死体がすさまじい悪臭を放った、とある。
<ペストとメジチ家>
・フイレンチェ生まれのジョバンニ・ボッカチオが書いた好色文学の名作「デガメロン」(十日物語という意味)は、こういう状況下で書かれた、7人の淑女と3人の若者の話である。物語の展開は、7人の淑女がこういうおぞましい状況に耐えかねて、3人の若者を引きずり込んで、少しは空気のよいフイレンチェ郊外の丘の別荘にこもって、一日一人一話ずつ十日間、好色話を披露するという肉欲文学である。この文学は、同じフイレンチェ出身のダンテが書いた「神曲」が神聖喜劇と呼ばれたのに対して「人曲」:すなわち人間喜劇として位置付けられているが、これを読むと、人間助かるためならなんでもするものだ、という人間の本質的な側面がうまく書かれているとも評されている。
・更に同書の記述で興味を惹くのが、あのフイレンチェの名門メジチ家のルーツについてである。それに関する雑多な資料で漁って見ると、同家はこのペスト騒ぎの最中に大きな財を築いたのではないか、という話である。同家が銀行屋になる前は薬屋で、その前が樵夫だったとか炭焼だったとか。とすれば、伐採作業に山野を巡り歩く間、外傷、腹下しなどに効く薬草を摘むことぐらい容易いことであったはず。同家の紋章は金地に6つの赤い玉を配したもので、富山の万金丹のような代物だ。ペストの恐怖におののく人々は西アジア方面からもたれらされる香料や薬種を競って求めた。かくして万金丹を売りまくったメジチ家は15世紀の初頭にはフイレンチェでは、押しも押されもしない銀行家となったと書かれている。
<メメント・モリ>
・また、ペストの脅威は、「メメント・モリ」(死を思え)という思想をも産んだ。貴族の婦人たちも、女中がばたばた、ころころ死んでしまうので、身の回りの世話など一切をむくつけき男たちに任せざるを得ない。こういう現実は、目の前の死とチャランポランに結びついて、身分の違いの性的関係までもあけすけに助長させた。かくしてペストは性のモラルを変え、男女をして本質的に人間らしくさせたのであろう。「明るく励もうよというルネサンスの母胎ともなった」ということではなかろうか、と書かれている。
・更にペストの脅威による生活の変化は、ヨーロッパとアジアとの交易条件を大きく変えた。端的にいうと、香料とくに胡椒の需要が増大した結果、ヨーロッパはその支払いに金銀銅などを充当せざるを得ず、そのために、ペスト災が収束してもヨーロッパは経済不況に見舞われることになった。この金詰まりはヨーロッパの人々をユーウツにさせ、果ては厭世観、世紀末観を生み出したのである。つまりは「メメント・モリ」である。
感想:
<日本がペスト災を免れた理由>
・ヨーロッパでは何度も大流行し人口減少の一因にまでなったペストが日本で流行らなかったのはなぜなのか? ググッテ見たら、日本人の生活環境が、水に恵まれていることなどから衛生的にほどよい状況に保たれていることなどの理由からペスト菌を媒介するネズミ種が日本にはいなかったのに対して、ヨーロッパではゴミや汚物を平気で路上に棄てる悪しき習慣などでネズミを駆除することを怠っていたのがその大きな原因のようである。因みに1894年ペスト菌を発見したのは日本人の北里柴三郎博士。それまで人類は、これだけヨーロッパに人々を長年苦しめたペストの予防手段すら知らなかったのであろうか。信じ難いことである。
<ヨーロッパ各地のペスト撲滅記念碑>
・ヨーロッパを旅行していると、多くの都市で、ペスト撲滅の記念碑あるいはそれを寓意とした“からくり時計台”などをよく見かける。これらは、ペスト災の終息が如何にヨーロッパの人々にとって大きな喜びであったのかの証左であろう。ミュンヘン大聖堂の近くのマリエン広場の新市庁舎の下段のからくり時計は、11時と12時になると動き出して、等身大の何体かの人形たちが、「もうペストは終わったから安心して街に出て来なさい」と当時の人々に告げる話になっていると聞いた。今では、その時間になると、大聖堂前の広場には沢山の観光客が集まりミュンヘン観光の名物になっている。
<しかし日本にもコレラ災があった>
・ところで、こんなにヨーロッパを苦しめたペストが日本にはなんらの災害をもたらさなかったのか、と疑問に思った。それについてググってみて分かったことが上記の記述である。しかし、最近読んだ「近代日本の大誤解」という本(著者:夏池優一)の第2章には、「目に見えぬ死神が日本を襲う:コレラパニックが吹き荒れた」という話が書かれている。小生はペストとコレラは学術的にどう違うかはよく分からないながらも、コレラも被災するとペスト同じようにばたばたと死んでしまう点では、ペストと同じくすさまじい伝染病であると考え、そのコレラが江戸時代後期から明治にかけて大流行した事実について、以下にその本の大凡の状況を纏めてみた。
・その第1次の流行は1822年(文政5年)に九州・中国地方・近畿地方で起き、更に第2次の流行は日米修好条約が調印された年、長崎に入港したアメリカのミシミッピー号の船員が感染源となって長崎から全国へ波及した、とある。その結果、江戸では、3-4万人に上る死者が出たといわれ、感染すればころりと死んでしまうので「虎狼痢(ころり)と恐れられた、とある。だがこの江戸での流行は序章に過ぎず、本当の地獄は明治時代に訪れた。そのために明治政府は1878年各国官史を含めた会議で日本のコレラ対策の検疫規制を提示した。が、イギリス公使のハリー・パークスなどは、そんな日本の規制などには鼻も引っ掛けない姿勢を示した。そのように諸外国が日本の検疫を無視する姿勢が続くなか1895年(明治28年)にはコレラ感染の死亡者が4万人にもなった、とある。このような状況下、明治期を通じてのコレラの死亡者は37万にも達し、これは日清、日露戦争の戦死者数を上回るものであった、と書かれている。
<長年のペスト災で人生観、死生観まで変えたヨーロッパの人々>
・以上のヨーロッパでのペストと日本でのコレラ災を比較しても、その病気の違い、被災の期間、病気の原因、その対処法などの違いなどを考えてみると、両者を同列に比較すべきものでないほどに、ヨーロッパでのペストの流行は、その後のローロッパの人々へ計り知れないほどの大きな影響を与えているようである。
・ヨーロッパでは、そのあまりにも絶望的状況のなか、人々は、それまでの神の摂理に従って生きる宗教観から、次第に刹那的な欲望の赴くままに「人間とは何ぞや」という意識を強く持つまでにその意識を変化させ、それが「デカメロン」のような文学史上の名作も生みだしたのであろうか。やがてそんな人間の意識の変化が、人間のあり方を様々の観点から見直すルネッサンス期の歴史を経て、それが更にフランス革命での基本的人権の覚醒にまで繋がっていった一つのルーツにもなったのでは? と考えたりもするのである。
追記:
・上記拙文を先月末に送信したメル友で、かつ、かつてS社で数年間職場を共にした仲間のTさん(奈良市在住)から下記の素晴らしいコメントを戴いた。
・その内容は、スペインの聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼を経験した際の感想と、もうひとつは日本の古都奈良もかつて感染症に苦しんだことのある歴史についてである。Tさんからの後者の情報とは、古都奈良もかつての感染症が原因となって、当時栄えていた奈良平城京を捨てて、開設僅か100年足らずで、周辺が水に恵まれた京都の平安京へ遷都せざるを得なかったのではなかろうか、との氏の推察である。Tさんはその推察を確かめるべく、そのことをググッテみて、Googleでもそのような記述に出会って「成程と納得した」と書いている。小生にとっては、この情報はまさに“目から鱗の情報”であった。
・また小生がTさんに更に感心するのは、一つのメール情報に触発され、それを更に追求しているTさんのそんな探究心である。探究心を持続・維持することも、われわれ高齢者に忍び寄る活力・知力の衰えを防ぎ、知的好奇心を持続させる上からも重要な生活態度ではなかろうかと思う。併せて是非その情報もご一読されたし。
<Tさんからの返信>
・7月の「いい言葉、ためになる言葉」を読ませてもらいました。どれも興味深い言葉でした。
・「旅には持って出たものしか持ち帰らない」というゲーテの言葉を思い出しました。「いい言葉、ためになる言葉」も、もっと豊かな関連知識を持っていると更に理解が深まるのになあ、と自戒しています。
・ヨーロッパの都市を良く知っているわけではありませんが、スペインの古い街角に立っていますと出会う景色です。犬を連れた婦人が路上に犬の糞尿を放置したまま、清掃人に任せるといった風情で去っていきます。中世の趣のある路地の奥から風が異臭を伴って吹いてきます。
・「ピレネーを越えるとアフリカだ」とヨーロッパの国々から、少し下に見られているスペインだからか、感染症の温床の習慣が今も残っているように思います。
<平城京から平安京への遷都に関するTさんの推察>
・ペストではありませんが感染症で社会体制や文化まで大きな影響を受けたことは、古代日本にもみられます。
・かつて「匂うがごとくいま盛りなり」と詠われた私の住む奈良もそんな影響を受けました。
・奈良平城京への遷都は710年。その平城京は100年も経ることなく794年に京都の平安京に遷都されました。
・当時奈良では、感染症・天然痘の流行が政権の中枢の藤原一族から庶民に至るまで罹病して社会全体が疲弊していたと言われます。
・平城京のエリアでは最大10万人の生活が可能で、当時すでに9万人に達していました。この情報を知ったとき、私は「平安遷都の原因はわかった。水だ」と勝手に納得しました。
・平城京には水利施設がありません。川は小川の佐保川、秋篠川がある程度です。また、一番近い大きな川の木津川から水を引いてくる技術はありません。「そうだ、平城京は水量のある川がないため天然痘が流行ったのだ。そうか、これが遷都の原因だ。奈良には京都の加茂川のような川が無かったからだ」、と一瞬自ら遷都の原因を解き明かしたかのように得意がりました。でも、調べてみて、そのことはウィキペディアではもちろんのこと観光案内にも書かれていることが分り「何だ、誰でも知っていることなんだ」と苦笑い、テレ笑いをしてしまいました。
・しかし、そのことを通じて、地勢的環境は政治・社会・文化等々に影響を及ぼし、それが歴史をつくっていく重要な要素の一つなのかなぁ、と感じました。
・以上、Tさんからの情報は、拙文に関するとても面白い知識を教えてもらった点でも、更にメールの交信であっても、互いに密度の高い切磋琢磨の果実が得られることを確認できた点でもとても嬉しく思ったのであります。(H29.7.7記 坂本幸雄)