・この本の裏カバーには、氏の教養に関する見解を要約して下記のように書かれている。
「教養とは人生における面白いことを増やすためのツールであるとともに、グローバル化したビジネス社会を生き抜くための最強の武器である。
しかもその核となるのは、「広くある程度深い知識」と「腑に落ちるまで考え抜く力」である。
しからば、「そのような本物の教養とはどうしたら身につけれるのか」と書かれて、全編これ、そのための氏のノウハウ伝授の書である。
・メットライフ生命の会長という要職にありながら、今でも週に2,3冊の本を読むという無類の読書家で、かつ、仕事や働き方に関する提言などに留まらず、世界史に関する著書も多数。
そんな氏の「教養に関する提言」に関心を持って読んだ。
<氏のいう{教養の本質}とは何か>
・自分で考えることが教養:その場合「腑に落ちる」と言う感覚が一つのバロメーターになる。
誰かの話を聞いて分かったと思うのは安易な解決策である。心の底から分かったと思うまでは、「そんなこともあるのだなぁ」と保留扱いにしておくべきだ。
「腑に落ちるまで自分で考え抜いたかが重要」。
小生、ここで言う「腑に落ちる」とは、上滑り理解でなく、なるほどと自分で得心の行くまで考え抜いた上での理解であろうと思った。
・意見を決められないのは「考え不足」が原因。
意見を問われて「どちらとも言えない」と言うのはほとんどの場合「考え不足」。
またそんな場合、「反対のための反対に陥っていないか」という反省も必要。
世論調査には「どちらとも言えない」という人の比率が表示されるが、多くの場合、はっきりと成否を表明した人よりも「どちらとも言えない」人の比率が多いように思う。
結局そう答えた人はそれを自分の問題として充分考え抜いていないからであろうと言えるのではなかろうか。
・教養とは、この人生のPDCAサイクルを動かすためのツールである。
様々なことを知り、それによって新しい世界に眼が拓かれ、人生が充実したものになる。
「人生を動かすPDCAサイクル」とは、人生の様々な局面で必要な判断能力を養成する上で「自らの知識を、よりよい的確な判断能力に高めることに活用する能力であり、それが教養である」というのが氏の教養の捉え方である。
その意味で「教養はそのような自らの判断能力を高める上に不可欠である」と氏は言う。
「謙虚でなければ教養は身に付かない」、 「出羽守(でばのかみ)はもう沢山。
これは何かにつけ「ヨーロッパでは」とか「アメリカでは」と外国の話を持ち出すのはもう沢山と言う意味。
・古代ギリシャでは、ソクラテスが「無知の知」を唱えた。
私たちにはまだ知らないことが多いのだという自己認識からスタートすべきだ、と氏は言う。
その事例に、明治政府は懸命にも、まだ政権がかたまらない時点で、大久保利道などの英才を数年物もの間欧米に派遣したが、そこで得た彼らの見聞が、その後の日本の近代化を大いに推進した、と氏は説く。
・自分を他人に理解してもらう上では、「この人は面白そうだ」と思ってもらえるかが重要。
ゴルフと天気の話ばかりする人は、国際的人材交流の中では、尊敬されない。
グローバルスタンダードでの「面白い人とは、興味深い人」という概念に近い。
さまざまなことを知っていて、自分の考えを刺激してくれて、新しい話題に引き込む力のあると思われるような人が相手にとっては面白い人なのである。
・そのためには、「広く浅く」ではなく、「広く、ある程度深い」素養が必要である。
人間は、お互いに双方の関心領域がある程度重なっていなければ、なかなか相手に共感を持ってもらえないものである。
相手がゴルフと天気の話しかできないと共感しようもなく、何回食事を一緒してもそこからは信頼関係は醸成されないものである、というのが氏の核心的主張である。
・西欧にはギリシャ・ローマ時代から「リベラルアーツ」という概念がある。
一人前の人間が知っておくべき教養のことで、算術、幾何、天文学、音楽、文法学、修辞学、論理学の七つの学問分野である。
人間を奴隷でなく、自由人にする学問というのがもともとの意味合いである。(注:リベラルアーツにはもともと「解放」という意味があり、教養を持つことで奴隷に陥ることから解放されるという意味合いもあるようだ。
古代ギリシャの人々は、奴隷にされることを避けるために必死に「リベラル(自由)になる技術」を身に付けたのであろう)。
・日経新聞には、毎週のように、池上氏の解説で東工大でのリベラルアーツの取り組みが紹介されている。
それらの記事で読み取れることは、「グループ討議によって、自らの意見を開陳できる能力を涵養することで、これからの国際化社会で、堂々と自らの意見が言える若者を養成することがその狙いであるようだ。
決定的に重要なことは「自分の意見を持つこと」である。
日本には、もともと異論を論じにくい風土がある。
「みんなと一緒に」とか、「一つの輪になって」がスローガンになるような社会である。
が、世界的に考えると異論が存在しない社会は極めて不健全なのである、と氏は言う。
・人間の意見や思考は、その人が育った直近の20~30年の社会のあり方をそのまま反映しているという学説がある。
そういう考え方からすると、現在の日本人は、戦後の冷戦構造という、結果的に考えると、願っても無いことであったのだが、アメリカをお手本とする道を歩んできた。
英明な吉田茂は、アメリカの工業立国を目標に戦後の日本の復興に努めた。
それは、いわば「ルートの見えている登山」のような道のりでもあった。
その道のりでは、自分で進むべき道を自ら考える必要もなかったのである。こんな戦後の日本では、「キャチアップモデル」,「人口増加」,「高度成長」という三つのキーワードで十分説明できる社会構造であった。
しかしそのような単純な三つのキーワードですべてが解き明かせた社会はもう終わったのである、と言う。
成程と思った。
・しからば、これからどうすべきか。以下は出口流・知的生産性のノウハウの要約・紹介である。
<「自分で考えるにはどうすれば良いか」――出口流・知的生産性のノウハウ>
・①「タテ」と「ヨコ」で考える。
・タテは時間軸、歴史軸。ヨコは空間軸、世界軸である。
例えば、中国4千年の歴史を考える場合、縦の時間軸で中国が平和で栄えた時代はどれくらいあったかを考えてみる。そうするとわずかに4回しかないことが分る。
ⅰ)文景(紀元前180-141年)。
ⅱ)貞観の治(627-649年)。
ⅲ)開元の治(713-742年)。
ⅳ)清の康煕帝の時代で計200年たらずである。
中国の4千年の中の200年を、戦後日本がずっと享受している平和の60年を比べてみると、その両国の平和・繁栄の評価への見方も変わってくるのではなかろうか、というのが、この「タテ」「ヨコ」の例示に引用されている氏にコメントである。
・②「国語」でなく「算数」で考える。
・例えば、「外国人が増えるとは犯罪が増える」という説に出会った場合、それを実際の犯罪統計で確かめてみる。
そうすると、統計ではこの10年間では外国人の犯罪は減少している事実がつかめる。
このように定性的な事柄を定量的な事実で確認すると別の事実が把握できるのである。
事柄の本質を「数字・フアクト・ロジック」で考えることが大切。成程。
・③事の本質をシンプルなロジックで捉える。
・「森を見て、個々の木や枝にとらわれない姿勢が大切」。
物事の本質は大抵シンプルなロジックで捉えることができるのに、多くの場合、全体の森を見ずして、個々の木や枝葉の細かいことばかりにとらわれた議論に終始していることが多いのである。
多くの場合、森全体は形その他もはっきりしているのであるが、問題はその枝や葉にばかり気をとられて全体を見失うことである。
・④「何かにたとえて」考えてみる。
・例えば、水泳がうまくできない時、海辺やプールで泳ぐのに水泳選手の様な泳ぎが必要かと考えてみる。
そう考えると、自分にはオリンピック選手のような泳ぎは不要であることがわかる。
(注:あまり的確なたとえとは思えないが)
・⑤「修飾語」を取り除いて考えて見る。
・例えば、地球について「母なる地球が私を育んでいる」などと情緒的に表現されている文章などに出会うと、ついその地球が人間にとってのやさしい面のみが心に残る。
が、一旦地球そのものを冷静に考えれば、そのプレートがちょっと動いただけで東日本大震災の様な災害をもたらす面もあることに気付く。
・⑥物事を考えるときには、そのことに対する先入観を取っ払って、その事柄自体の問題を考える姿勢が必要である。
・言葉の問題だけではない。「修飾」は別の形で思考に影響を与える。
例えば、あることについて、あなたの好きな人が発言したときと、嫌いな人が発言した場合とでは、内容が同じであっても、その受け止め方が違ってくるのである。
私たちにはそういう性癖があることもよく自覚し、何かの事柄について考えているときに、自分は今「修飾語」に影響されていないかどうかを考えて、常に、内容本位、本質本位できちんと自己確認が必要である。
・⑦「近代国家においては、"リテラシー"と呼ばれる、市民の健全な批判精神が世の中の不正,暴走、無法を防ぐ上でも極めて重要であることと自覚すべきである。
・リテラシー(Literacy)とは教養そのものであるとも言えるが、もともとは「読み書きする能力」のことであり「コンピュータ・リテラシー」などと使われている言葉である。
「新明解国語辞典」によると「リテラシーとは、
ⅰ)読み書き能力(その程度)。
ⅱ)その時代を生きために最低限必要とされる素養。
昔は、読み・書き・そろばんだったが、現代では情報機器を使いこなす能力である。「コンピュータ・リテラシー」とは、この辞典でも、“社会生活上必要な最低限の素養”という面が強調されている。
・氏は主張する。「多数の人々が望むよりよい社会を維持・発展させるためには、市民一人ひとりがそれぞれに社会の不正・無法・暴走を疑う健全な市民意識を持つことが重要であるが、このような社会の不正などへの批判精神こそが社会の安全・安心を維持するため上でも、重要なのである。
即ち市民一人ひとりが自分で物事を的確に判断できる教養を高める努力が重要なのである。
教養を高めることとは、そのような社会的側面からも重要なのである。
感想
<リテラシーとは>
・以上は、出口氏の著書「本物の教養」を読んでのざっとした要約であるが、その明快な論旨にはもはや付け加え補足すべきところはないのである。が、氏がこの著書の最後に強調されている「リテラシー」について若干思考したい。
・「リテラシー」という言葉については、小生は「IT・リテラシー」などITやインターネットとの親和性という意味だけで理解していたが、氏のいう「リテラシー」とは、それよりもはるかに広い概念の言葉であることに気付いたのである。
・「リテラシー」の意味についてググってみると「リテラシー(英: literacy)とは、原義的では「読解記述力」を指し、転じて現代では「(何らかのカタチで表現されたものを)適切に理解・解釈・分析し、改めて記述・表現する」という意味に使われるようになった、とある。
即ち「リテラシー」とは単なる知識ではなく、その知識を実際の生活の様々な局面で、自分の判断力にそれをうまく応用できるような広い素養を示すものであるように理解した。
・そのように「リテラシー」を理解すると、これは、かって読み、かつそれをエッセイにも書いたことのある阿川弘之氏の「大人の見識」の中の「見識」に類似した概念のようにも思われる。しかし、この阿川氏の著書の中で読み取れる「見識」とは、「自分の言動について、自分がどんな判断力で何を決め、その結果がどうであったかについては、基本的には、それを他人が事後的に評価するものである」という点に際だった特徴があるように理解した。
・それに対して「リテラシー」とは、上記の如く、市民一人ひとりが他人の評価とか社会の慣習などを離れて、自分自身で考え抜くことが重要であるという、その主体的な側面が重要な考え方のようである。
その上、そういう「リテラシー」を市民一人ひとりが持つことが、社会の無法や暴走、不正などに歯止めをかける上で必修な批判精神にも繋がる近代社会の重要な機能でもあるという。
・要するに、出口氏の主張によれば、「リテラシー」は、単なる個人的知能を超えて、そのような社会性もが要請されているという点が際だって重要であるとのことである。
<曽野綾子の言う成熟とは>
・曽野綾子に「人間にとって成熟とは何か」という著書がある。そのなかで、彼女は“見識”に似たような概念を“成熟”とか“品”という言葉を使ってそれを説明し、それは、生涯をかけて追及すべき人生の重要な価値であるとして、大凡次のように主張している。
・「ある人に品がある」とは、間違いなくその人が成熟した人格の持ち主であると確認できた時に感じるものである。
「そんな品を保つということは、一人で人生を戦うことなのである。誰とでも穏やかに心を開いて会話ができ、相手と同感するところと、拒否すべきところとを明確に見極め、その中にあって決して自分の感情にのみに流されないことである。
そしてこのような姿勢を保つには、その人自身が、川の流れの中に立つ杭のように強くなければならない。人生とは、様々な災害・不運・苦痛・経済的変化など実に様々な困難が次々に打ち寄せ、それらが、まるで川の中に立つ杭に絶えずひっかかり、絡まりつくようなものであるが、それでも“自分という杭”は川の流れに抗して朽ちることなく、倒れることなく端然と川の中に立ち続けるだけの強さが必要である。
・「見識」に近い、このような曽野綾子の「品」を考えると、これまたこれを身につけるには、それなりに強い意志が必要であるようだ。
(坂本幸雄H29.9.2記)