Q坂本幸雄 2017.6.21
本郷和人著:初版H29.6.10)を読んでの雑感三題
・今年初めに山折哲雄氏の「一人の哲学」を読んで以来、鎌倉幕府時代への興味(注)から、表記の本を読んだ。この本の帯封には「武家社会vs朝廷 :この国を統治するのは誰だ?」とあり、その帯封の裏には「官僚組織も軍隊も、王権の必要不可欠な要件ではない。自らの国家に生活する人々が自らの統治に多大な影響を受けることを十全に感得し、彼らを率いて立つ強固な決意を持つことこそが、中世の王である証である」とある。(注:山折氏は、「軸の思想」たる「自律自走」の考え方が鎌倉時代に初めて確立したという)
① 雑感その一:「門権体制論」と「東国国家論」
・12世紀末、武士の持つ暴力を武器として国内を統合しようとする政治的機構が鎌倉に誕生した。鎌倉幕府である。それは軍事力を一手に掌握した源頼朝が草創したものであるが、その武家を中心とした政治体制が明治維新に至るまでほぼ700年の長きにわたる間日本における「武士中心の統治」を担ってきたのである。小生がこの本を読んだ理由の一つは、そのような鎌倉時代の統治機構はいかなるものであり、かつ、それが歴史学的にどのように捉えられているのかを知りたいとの思いからであった。その点について、この本を読んで教えられたまず第一点は、歴史学者の論説に「門権体制論」と「東国国家論」という二つの考え方があるということである。以下にその二つの論説をごく簡単に要約したい。
・「門権体制論」(黒田俊雄氏主張):国の中心に天皇と朝廷を置き、その周辺に公家、武家、寺家の権門がある。公家は主に政治を行い、武家は軍事を担い、寺家は宗教を管掌する。これらそれぞれの権門は「相互に補完」する関係にあり、各々の利害が対立すると、天皇が調整に当たる。武家権門の代表たる幕府は、ここで中世国家の軍事・警察機構を担うものと想定され、朝廷に比べて相対的に低い地位にとどまっている。将軍も天皇の下位に位置付けられ、簡単に言えば、「天皇あってこその将軍」という相互関係で捉えられている。
・「東国国家論」(佐藤進一氏主張):朝廷と幕府を並列の関係に置き、天皇をいただく西の朝廷、親王将軍を奉じる東の幕府という図式である。佐藤氏は「幕府と朝廷の関係は、相互不干渉・自立へと変化している」と捉えている。
・天皇や朝廷と軍事中心の武門体制の関係について、一方は「相互補完的関係」とし、もう一方は「相互不干渉・自立の関係」というかなり異なる捉え方がされている点にも面白さを感じた。
感想
・たまたま本日(H29.6.14)の日経春秋欄には,明治維新早々に行われた東京への遷都について凡そ下記のような内容の記事が出ていた。
・明治2年の春、まだ16歳だった明治天皇は京都御所をあとに東京へと向かわれた。その際政府はわざわざ「天皇の東京滞在中は太政官を東京に移す」との布告まで出した。が、これに対して当時の史家の一部は、「これは遷都ではないとの意味合いを言外に含めての布告であった」と指摘していたのだそうである。しかしそんな表面的な取りつくろいを行ったものの、以降天皇が故郷京都にお戻りになることはなく、結局は、なし崩し的に東京は帝都となったのである。
・最近の天皇退位論を機に、天皇が上皇になられたら京都に住んで戴きたいとの「双京構想」なる考えが京都市中心に持ち上がっており、門川大作市長も大変乗り気になっているのだそうである(注:当日のTVニュース)。京都御苑にはかって御水尾天皇が住んでおられた仙洞御所(御水尾天皇が上皇になられた際に造営された御所)跡も残っている。さりとて陛下は祖父の代からの生粋の東京人。さて陛下の心安らぐ場所はどこか?
・以上の日経の論説を読み、その上で上記二つの論説との関係を考えてみると、明治維新とは、「門権体制論」を「東国国家論」に覆い被せて日本全土を一気に統合したものであろう。そのような観点から考えてみても、この維新変革は、将に革命的なものであった、と言えるのではなかろうか。欧米諸国と渡り合える体制を早急に作りあげる緊急性の観点からも、明治政府は、賢明にも、「地方分権的色彩の残る藩体制の継続では、欧米列強への適切な対応は不可能であろう」と考え、東京遷都を一気に押し進めたのであろうと考える。
・注:H29.6.16のTVのニュース:天皇陛下の退位を実現する特例法が6月16日に公布されることを受けて、地域政党・京都党が退位後の陛下に京都移住を求める約1万人分の署名を提出しました。午後1時、東京の内閣府に届けられた紫の風呂敷包み。その中身は… 「皆さんからお預かりした署名です」。
・最近読んだある本によると「紫衣は、鎌倉幕府の時代に制定された“禁中 並 公家御法度”によって、天皇が高僧に対して与えるものと制定されたものであり、これをもらった僧は、かわりに管米上納を行うものとなっており、朝廷にとってもこれは貴重な収入源になっていたのだそうである。ところが御水尾天皇は、ある年、この紫衣を、幕府に相談することなく一度に十数人の高僧に与えたのだそうである。鎌倉幕府は、この事実を朝廷コントロールの絶好のチャンスとして捉えて抗議した。その結果、これも一つの遠因となってか御水尾天皇は、わずか34歳で突然退位し、上皇となられたのだそうである。
・上記「京都御苑にはかって御水尾天皇が住んでおられた仙洞御所がある」という情報と「紫の風呂敷包み」の情報の裏には、このよう歴史が潜んでいたことを知り驚いたのである。
② 雑感その二:「鎌倉幕府倒壊の遠因」
・本書には次のような記述もある。
・人は自分が一人なら自分の特徴を認識できない。人は鏡を見て自分の姿かたちを確認する。鎌倉時代の武士たちにとって、モンゴルによる「元寇の乱」はまさしくそのような鏡であったのではないか。鎌倉中期までの武士に「あなたはどこの国に属しているか」と尋ねたら、多くの武士たちは怪訝な顔をしたであろう。総じて彼らの念頭にあるのは「日本国の神や仏に誓いをかける」という意識ではなく、せいぜい自分が暮らす地域の神仏が念頭にある程度であって、その延長線上に「日本国」が姿を著わすことは珍しかったのであろう。しかも当時の武士は、それほど高い教養を身につけていたとは考えられないことは、彼らが書き残している多くの文献にみるその稚拙な文章や漢字の使い方からも伺える。
・一方、京都の貴族たちは中国の古典などの書物に親しんでおり、その対比から日本国のイメージを強固に持っていたと考えられる。モンゴルが軍船を連ねて来襲したのは、まさにそういう状況下であった。
・もしも国家意識が当時の武士層に浸透したとすれば、鎌倉幕府の北条政権は、初めから、全国の武士を挙げてモンゴルと戦ったであろう。しかし文永の役での戦闘に従事したのは、九州の武士たちだけであった。
・しかもその戦で実際にモンゴルと干戈を交えた武士たちは、自分たちが日本人であるというだけの理由で殺戮の対象になるという、この厳然たる事実を突き付けられたのである。歴史学者はこのモンゴル来襲後に国家意識が一定の高まりをもたらしたと指摘しているが、この元寇の乱が齎したものはそこで戦った武士たちにとっても、また民衆にとっても、このような状況下で国家を担うべき王的な幕府:すなわち日本全体の統治を責務とする幕府への期待であった。しかし、その後の鎌倉幕府を担う北条得宗家にはそのような期待に応えるような意識も行動もなく、やがて御家人のなかに鎌倉幕府への憤懣や不平が高まっていったのである。
感想
・「日本人が日本人という意識を何時頃から抱き始めたのか」という問題を考える上で大変参考になる記述である。奈良・平安時代も韓国や中国との交流はあったにしても、それはあくまでも外国から何かを学ぶ対象としての“外つ国”であって、ひろく国民が外交・軍事の対象として外国を意識することなどは少なかったのであろうか。防人の例などはあるにしても、それは地域レベルの防衛意識であり、それが国家レベルの全国統治を望む国家意識までの高まりまでには至っていなかった、ということであろうか。
・上記の論説は、この「元寇の乱」こそが、そのような国家としての防衛・軍事を司る政治体制を望む意識が、日本の歴史上初めて国民レベルの高さで醸成された、ということであろうか、と思う。
・そういえば、外国との戦いそのものは、為政者にとって自国民の強い対外意識を醸成する上で極めて有効な手段であるということは、日露戦争以来、近代日本が幾度となく体験したことでもある。
③ 雑感その三:「関ヶ原の戦いへの道」
・「新・中世王権論」の最終章は「武門の覇者と国家感」と題し、その中で、第一節:「王権の東と西」。第二節:「在地から天下へ」。第三節:「近代国家への幻想」という三つの節を設け、足利尊氏による京都中心の室町幕府の創建から天下分け目の関ケ原の戦いまでの歴史の流れをザッと解説している。その中で、日本の中世の歴史の流れの究極の結果として起きた関ケ原の戦いこそは「東国国家」と「西国国家」の生き残りを賭けた戦いであったとし、それを制した徳川家のその後の動きを次のように簡潔に解説している。
・勝利した徳川家は、源氏を起源とする征夷大将軍も兼ねた日本の首頂となった。全国の武士は徳川の家臣として組織さて、それと同時に「統治を行う者」として位置付けられた「士」は社会秩序の第一位に君臨し、徳川の統治に服する存在としてその下に「農・工・商」が配置された。
・徳川幕府は江戸を武家の都とし、「ただ一つの王権」として日本全国を統治した。そしてそこでは「江戸―京都」ではなく「江戸―大阪」がその政権の経済を支える主要な交流ルートとなった。鎖国が国是とされ、海外との貿易はほとんど禁じられていた。その中で、各藩の田畑造成・開墾などが重視され、米が経済の基本となった。そんな経緯の中で徳川幕府はまさしく「西国型」とは正反対の「東国型」の国家モデルを全国に向けて拡大したのである。この意味で、北条氏の鎌倉幕府こそは、室町幕府を超えて、江戸幕府と連なっていったのである。
感想
<江戸時代300年間の大阪繁栄の背景>
・かくして、鎌倉幕府に始まった武門中心の統治体制が、関ヶ原の戦いを機に「東国国家」の徳川体制に替わり、以来300年もの間平和のうち続く「ただ一つの王権」として徳川の世に繋がったのである。ここで重要なことは、徳川幕府が鎖国体制の中で、全国各地に残る武門体制を藩体制として活用しながら、その体制の中で、各藩による干拓・開墾などが大いに進められ、その結果、米中心の経済体制が築かれたことである。(注:米は日本列島で安定的に大量に生産し続けられる唯一の物資である)
・そのような江戸時代の農業発展の結果、全国各地の米が千石船とも呼ばれていた北前船で浪静かな日本海と瀬戸内海を経て大阪に集められ、そこで米が銭に替えられ、それが各地の藩体制を支える経済体制を支え、「江戸ー京都」でなく「江戸―大阪」が、徳川幕府の経済を支える新たな中心的交流ルートとなった、というのが当論説の主張である。
・思うに、その間にあって、江戸時代初期に河村瑞賢らが、日本海ルートなどの整備を行い、北前船で蝦夷地の海産物や東北の米などを大量に大阪に運ぶ経済大動脈が整備されたのである。昨年鎌倉を久々に訪問した時に、建長寺にあるその河村瑞賢のお墓を詣でたが、徳川家の菩提寺の如き建長寺にその瑞賢のお墓があること自体、江戸幕府が如何に瑞賢の功績を重んじていたかの証であろうかと思った。
・大阪が江戸幕府300年の間大いに栄えたのは、風を動力とした北前船が蝦夷地・東北の大量の物資を日本の中心部に運ぶ関係上、たまたま大阪:難波の地が波静かな日本海航路の終点であったという、この自然の立地条件が大いに関係しているのであろう。
<第二の北前船効果>
・当時、北前船で青森から大阪まで航行するには30日も要していたという。
・毎年訪れる石川県の山代・山中・片山津などの温泉郷。その際利用する北陸本線加賀温泉駅。
そこからバスで40分近く海側に行った“橋立港”近傍に、「北前船記念館」がある。そこは北前船の所有者であったある豪商が明治9年にその航海で得た莫大な資産をつぎ込んで建てた豪邸跡で、今は北前船に関する様々な資料が数多く展示されている。そこを訪ねると、往時、北前船の船主が、「板子一枚下は地獄」という危険を冒しながらも、各地の物産を自らの船で売り歩くと、一航海で一獲千金の富を掴むことが可能であった実態がよく理解できるのである。
・ある地域がある時代に周辺地域に比べて隔絶するほどの経済発展を遂げるということの背景には、それを可能にする何らかの経済的立地条件が存在するものである。
・昨年7月から始まった日経新聞小説:伊集院静の「琥珀の夢―小説、鳥井信治郎と末裔」は次のような書き出しで始まっている。
・「大阪は"水の都"である。いにしえから、このなだらかな広野に、夕風が、川風が流れ続けている。人々はその水音を聞きながら、千年を超える歳月をこの大いなる都で生きて来た。・・・"天下の台所と呼ばれた大坂“は長く日本で最大の要の都であった。浪華、浪速、浪花の字のごとく、人々はこの地に夢の華を見たのである。その夢が夢で終わらないところに、この大阪の強さと底力があった。今日、日本が世界に確として並ぶ経済大国となる礎を築いた多くの人物を、この波の花咲く大阪は輩出して来たのである」。
・そういえば、小生が現役時代勤務していたサントリー本社のある大阪堂島には、江戸時代には主要な藩の米蔵が立ち並び、そこでは、なんと世界初の「米の先物取引」までも行われていた、という当時の経済最先端の地であったのである。
・今そんな大阪を中心とした関西地区に、アジア各地からのLCC利用などによる観光客が急増し、それが長年、東京一極集中のなかで取り残されていた関西経済に、久々の活性化を齎す「インバウンド効果」を生み出している。これも考えてみると、今から30年も前に、関西財界が中心となってその建設が決断され、それに基づいて、24時間利用可能な関西空港が20年も前に建設されたことが、只今関西が享受しているこのインバウンド効果を生み出す大きな遠因となっているのである。小生は只今の関西にとって好ましいこの現象を「第二の北前船効果」であろうと考えている。但し、江戸時代の「第一の北前船効果」は、大阪の自然の立地条件が齎したものであるのに対して、現代の「関西空港によるインバウンド効果」は人智がつくり出した立地条件に預かり得たものである点が大いに異なるのである。その観点から考えると、30年も前にこの関西空港建設の中心的役割を果たした当時の関西財界のお歴々の“見事な先見の明”に大いに敬意を表するのである。(坂本幸雄:H29.6.20記)
****************
****************