「八丈島旅行感想(Q坂本幸雄君)」を読んで
2017年3月29日 (戸松孝夫)
先ずは、日本列島の離島巡りを今も着実に実行されている筆者の強烈なエネルギーと行動力に敬意を表すると共に、都度その報告を我々旧友たちに流してくれている友情に感謝したい。
今から丁度59年前の1958年卒業直前の3月中・下旬に、僕は八丈島に一週間ばかり滞在した経験があり、更にはたまたま先週TVの旅番組で八丈島特集が放映されているのを観たところでもあり、今回の旅行記を興味深く読ませてもらった。59年前の記憶を呼び戻しつつ、TVで観た最新の映像と比較しながら、気が付いたことを以下に述べさせて頂きたい。
1.筆者は今回八丈島に行くに当たり、予めこの島の歴史を学び、流刑された人物について勉強したことにより、短期間の旅を有効に活用して、この中味の濃い旅行記が執筆出来たようだ。しかし59年前の僕は「就職したら簡単に行けないような遠い所に行ってみたい」との単純な気持ちだけで出かけ、歴史・文化の予習を怠っていた為、下記の通り大変な苦労をして行ったわりには、学ぶことが殆どなかったことに今更気がついた次第である。
2.心に残る成果がなかった中で、「服部家屋敷跡」だけは当時の僕の興味を強く惹いたようで、高さ2米に積み上げた壮観な石垣塀と、樹齢800年の蘇鉄の巨木だけは強く印象に残っている。でも「嬉しさを 人に告げんさすらいの みゆるしありと赦免花咲く」との流刑者の句碑には記憶がない。今回筆者が感じたような「流刑者たちの厳しい境遇へ同情する」気持ちは22歳の青年には湧いてこなかったようである。
3.「島の車の台数は人口より多い8,000台」とのこと、先日のTV映像で、交通信号のある立派な自動車道が写っているのを見て驚いた。僕が訪問した当時八丈島ではバス路線はなく、車も殆ど走っておらず、当然舗装道路などは存在していなかった。何処へ行くのも泥道を長い時間歩いたのを思い出す。これは何も八丈島に限った現象ではなく、日本各地に共通した60年間の時の流れであろう。
当時僕が只一回乗った「車」は警察署長車だった。島滞在中、最初の間は一泊200/300円程度の木賃宿に泊まっていたが、だんだん金がなくなってきたので、警察署に飛び込んで貧乏学生の実情を訴えた。その結果、家具が全くないだだっ広い建物の空間に泊まらせて貰った上、署長車で数時間島内観光に案内される特典にありついた。警察署長との会話の間に、同署長は同期M組宮田耕君の親父さんで、当時八丈島に単身赴任されていたことが偶然判明した。我ら同期で絶大な勢力を誇っていた「立高組」(立川高校出身16人)の一員宮田君とは小平で馴染みだったことから、警察署長が一学生に忖度してくれた為だろうか。卒業後富士紡に勤めていた宮田君とはずっと擦れ違いで、八丈島の御礼をいう機会のないままに今日に至っているが、もし彼がこの拙文を読む偶然に出くわしたら、これを御礼の言葉に替えたい。
4.「現在の人口は7,706名で、昭和25年頃の約13,000人からはかなりの人口減」:これも1960年以降の国家の経済規模の急速な拡大の結果により全日本で発生した都会/地方間格差拡大の結果であろう。過去数十年間における八丈島での人口の急激な減少と車台数の急増が日本の多くの田舎の縮図であることは、僕が今住んでいる村の歴史と現状からも容易に理解できるところである。
5. 僕が訪問した当時、八丈島は所謂観光地ではなく、「八丈島歴史記念館」なる文化的施設は存在していなかったので、系統的な学びをする機会はなかった。八丈島の住民は ①江戸時代の流刑者たちと(宇喜多秀家以来約1900名が島流し)、②黒潮に乗って九州・四国・本州から漂着した漁師などの二つの流人の子孫で構成されているとの記述は興味深い。更に「伊豆諸島への島流しは、その罪が重くなるほど段々とその島の距離が南へと伸ばされていた」との分析は面白い。
地球規模での島流しの話を僕は50年前に駐在していた豪州で聞いた。小国日本は島流しの地として僅か300キロしか離れていない孤島を選んだのに対し、世界にまたをかけて暴れ回っていた大英帝国は地球を半周した何千キロも離れた豪州を流刑地に選んでいたとの話。友人の豪州人たちは自分の祖先は政治犯・思想犯であり、刑事犯ではないということを盛んに強調していたが、子孫である現代の豪州人の「ひとの良さ」から、その主張を僕は充分納得していた(思想犯・政治犯の子孫ならもう少し賢い筈だと愚妻は言っていたが)。
6.歴史に残る武将たちの寿命が短かったとの具体的な年齢情報は興味深い。これに比し流罪に処せられ、その地で50年も過ごした秀家が84歳まで生きたのは「島の人々の温かい人情のなかで、かつ、島の気候風土によほど馴化して日々のんびり・ゆったりとした気分で過ごしたから」との分析は全く正しいと思う。我らP&Q会も余生をのんびり・ゆったりでゆきましょう。
7.今は毎日2便、僅か50分の定期航空便があるとのことだが、当時は八丈島への定期便は午後浜松町を出て16時間かけて島まで運んでくれる東海汽船しかなかった。黒潮を横切ってゆく小さな船だから当然すごく揺れた。船室の床で寝ていても、船が大波で傾く度に船客が丸太のように右に左にゴロゴロ転がる状況で、嘔吐を繰り返す船客もあり、夜も殆ど眠れなかった。僕は生来何事にも鈍いので、この船旅でもそれ程の苦しみは感じなかったが、旅に付合ってくれたゼミテンの中屋順次郎君(N組)はかなり応えたようで、八丈島に上陸してからも、どうやって東京に帰ろうか、卒業式、入社式までに戻れるかと悩んでいた。
或る日二人で草むらに寝転がって青い空を見上げていたら、小さな飛行機が飛んでいた。それを見て彼は「あれに乗って東京へ帰ろう」といきなり夢みたいなことを言い出した。飛行機の定期便などない時代であるが、その後中屋は4,800円で東京まで行けるという情報をどこからか掴んできた。即座に彼は島の郵便局へ行って、東京の家から1万円送金してもらう手配をして「お前も飛行機に乗れ」という。3等船室なら片道800円の運賃に学割が効いて500円程度で帰れるのだから、その十倍もの交通費を払うのは馬鹿らしい。波が静かな日を選んで船に乗れば、船酔いも軽い筈だから、折角だが彼の親切な申し出は断った。しかしここで僕の生来の好奇心が頭をもたげ、「飛行機に乗ってみたい」という思いが強く湧いてきた。出世払い返済条件で彼から4,800円を借りて、生まれて初めて飛行機に乗った。プロペラ機で2時間、羽田に着いた時は感激した。
2,000円の奨学金から500円の授業料を払い毎月1,500円で暮らしていた苦学生にはこの航空賃は重い金額だった。記憶が正しければ1958年は国家予算が初めて1兆円を突破した年であり、現在の国家予算の百分の一、小さな小さな日本での大冒険に挑戦した思い出である。中屋のお蔭で、無事入社式に間に合い、僕は晴れて13,000円の月給取りになった。社会人になってから何ヵ月間か、かけて中屋に借金を返したと記憶しているが、その後彼にはもうひとつ別のことで世話になったことを今思い出した。
1980年第3次石油ショックの後遺症として、世界中のBusinessmanが石油を求めてSaudi 詣でを始めた。当時一日たりともアルコールを切ることが出来なかった僕が突如、厳しい禁酒国Saudi Arabiaへの転勤を命じられた。学生時代から酒をこよなく愛していた中屋が自身の趣味嗜好を仕事でも貫徹すべく、協和発酵(株)に職を選んだ経緯を思い出し、酒の造り方を教えてもらいに彼の事務所を訪ねた。親切な彼は葡萄ジュースに酵母菌と砂糖を入れて葡萄酒を密造するKnow-howを教えてくれた。Saudi赴任の餞別として、彼が密造酒のレシピと材料(酵母菌)を呉れたお蔭で、僕は禁酒国のきつい2年間を精神疾患に罹らず無事勤務し終えたのである。 (完)
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22017.3.31追記
森兄
「貴稿を燦々P&Qに載せました。宮田君はメールメンバーに入っていないので、残念ながらこの燦々P&Qサイトを見れません」とのことで諦めていたら、今突然東京の宮田君から電話あり、卒業以来初めて会話をしました。
お互いの古い記憶を辿りながら懐かしさに、長時間の電話ですっかり気持ちが若返りました。60年間言いそびれていたお礼を言うことが出来ました。僕たちが無料で泊めてもらったのは、どうやら八丈島警察の道場だったようです。
番場ゼミのルートで藤田氏から僕の拙文が宮田君の手元にわたったということで、P&Qネットワークが威力を発揮した驚きの物語。
戸松
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戸松兄
宮田君と連絡がついたとのこと、パソコンやっててよかった!
坂本君からも追記があります。
今日は上京中ですが、帰宅次第HPメンテします。 森 スマホより 3/31
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拝復
いつも興味深い情報を有難う。
坂本氏に反応した戸松氏の文に出ている、当時の警察署長の令息、宮田耕君は小生のM組の級友ですが、P/Cを持っていないので、出力して郵送しておきました。、然るところ、宮田君から、名簿を見て岡山の戸松氏に電話して、当時の話などをしたとの報告をもらいました。
M 藤田 光郎 4/2㈰
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Qの藤田 徳二兄(番場ゼミ)と
Mの藤田 光郎兄
から宮田 耕兄へ連絡が行ったのですね。 Q 森 正之 4/2㈰
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