「松本理論を信じて実践、クローン病の完治」
匿名希望(お父様・ご本人記述)19歳2018年3月29日
匿名希望(お父様・ご本人記述)19歳2018年3月29日
お父様記述
「松本理論を信じて実践、クローン病の完治」
【はじめに】
2018年1月31日、松本漢方クリニックを訪れ、松本先生にお会いして、クローン病が完治したことを確認させていただきました。この「完治」という言葉は、厳密には議論の余地があります。そもそも、標準治療では難病といわれるクローン病は原因不明であるため、クローン病完治の定義も明確でないのです。ここでいう完治とは、「クローン病の主な症状である腹痛、下痢等がなく、クローン病に関わる血液検査の数値が問題なく、普通食を食べて、普通に生活している」という状態をいっています。ここまで来るのに、3年5か月ほどかかりました。
ここで敢えて、「クローン病完治」という言葉にこだわるのは、今も、松本理論を信じてクローン病と闘っている方々に、「この治療を続ければ、再び普通の生活を送れるようになります」とお伝えしたいからです。
1回目の手記 http://www.matsumotoclinic.com/patient/clone/letter/SS2.pdf
2回目の手記 http://www.matsumotoclinic.com/patient/clone/letter/SS3.pdf
【標準治療から松本漢方クリニックへ】
詳細は上記の2つの手記を読んでください。今回はポイントだけ記します。
松本漢方クリニックの治療の理論の核心は次の内容であると、私は理解して、次女の治療に取り組んできました。(松本漢方クリニックサイトより)
ストレスがなければ、元来簡単にIgEを作ってアレルギーで排泄すべき異物を、あらゆる組織の結合組織で膠原病を起こしてしまうのです。従って、クローン病は難病中の難病と言われますが、潰瘍性大腸炎と比べてことさら難病という必要もないのです。というよりも、潰瘍性大腸炎が消化管全てに及んだときにクローン病になると言った方が正しいのです。従って、クローン病の根本治療は、潰瘍性大腸炎の治療と同じく、膠原病の武器であるIgGを自然にクラススイッチして、アレルギーの武器であるIgEに変えてしまうと、クローン病の症状である腹痛や下痢や出血がアレルギーの痒みに変わり、最後は自然後天的免疫寛容を起こせばよいのです。このために様々な免疫を上げる東洋医学的手法を駆使すれば、自然にクラススイッチと免疫寛容が生じて、環境汚染物質である抗原と共存できるようになるのです。
2014年3月、無事に志望校の高校に入学できた娘が、4月頃から「おなかが痛い」と言っていました。最初は、すぐ治るよと私も言っていましたが、だんだんひどくなってきて、6月末、近隣の大病院に緊急入院。検査結果は、クローン病と宣告されました。ショックでした。それも、「難病で、一生、治らない」と…。目の前が真っ暗になりました。入院後、絶食を続けながらの治療が続き、結果的に40日ほどの入院期間中の半分以上は絶食でした。それでも、CRPの数値が改善しなかったので、7月末、医師から「レミケードによる治療を」と勧められました。そのころ、妻が、病院から食事指導を受け、顔色を変えて帰ってきました。あまりの食事制限に、「一生、この食事制限で娘は生きていくのか…」と愕然としていました。
この時から、妻はインターネットで「クローン病治療」を調べ始め、松本漢方クリニックを知ることとなりました。私も、インターネットでクローン病治療のことは徹底的に調べていて、「レミケードによる治療」に一度入ってしまうと大変だと思っていました。
私は最初、半信半疑でしたが、妻から見せられた松本漢方クリニックのウェブサイトの「クローン病の完治の理論と根拠」を何度も読み、妻と娘と話し合い、決断しました。「病院を変えるなら、レミケードに入る前の今だ!」。数日後、医師から「レミケードの説明をしたい」と呼ばれたので、その場で率直に「レミケードに入る前に、大阪の松本漢方クリニックで漢方治療をしてみたい。娘に漢方治療が合わなければ、またこちらにお世話になります」と告げました。
退院した翌日、2014年7月29日、わらにもすがる思いで、妻と娘を連れ、松本漢方クリニックに行きました。その翌日から、毎日、食前食後に漢方薬を飲む治療を始めました。漢方の味に慣れるまで娘は、泣きながら飲んでいました。また、自宅でお灸をしていましたが、妻が近所に鍼灸院を見つけ、今も継続して鍼灸院に通っています。
この治療を続けてきて思うことは、「根気と忍耐のいる治療だ」ということです。松本漢方クリニックで治療しても、リバウンド等に耐えきれず、一般の病院に戻る方もいると聞きますが、その気持ちも分かります。特に、電話での治療指導が主となる場合、病状をうまく伝えられず、限られた電話での会話では、どうしていいか分からなくなることがあります。もちろん、毎週のように大阪に行ければいいのですが、それは経済的に難しいです。
【リバウンドを超える闘い】
2014年8月から、免疫を上げる治療を開始して、大変だったことは何と言っても、リバウンドです。40度の熱が2週間以上、上がったり下がったりしながら、続いたこともありました。それに、下痢、腹痛…。通常であれば、熱を下げる注射等をして、楽にしてあげたいと思いますが、「免疫アップの取り組みをしていて、免疫の働きが強いから、熱が出る」と理解して、家族で確認して、越えていきました。このようなリバウンドが、数ヶ月おきにありました。このリバウンドの厳しい期間を超えるたびに、症状が良くなっていったと思います。
松本漢方クリニックでの治療開始から1年9か月後の2016年4月ごろには、クローン病の主な症状である腹痛、下痢等はなくなり、クラススイッチと思われる症状が出てきました。ひじや足首、わきに、ぶつぶつができ、かゆみの症状が出てきました。
次女は高校1年2年の時は、ほとんど学校に行けない状態でしたが、学校側の配慮の中、本人も精一杯の努力をして、高校3年に(2016年4月)なることができました。高校3年の4月からは、学校に行けるようになり、AO入試で、大学にも合格することができました。
このリバウンドをどうにか超えることができたのは、松本先生のアドバイスとともに、手記の内容がとても参考になりました。また、家族全員の協力がなければ、超えるのは困難であったと思います。この期間、長女の受験、下の長男、次男の学校ことなど、限界状況の時もありましたが、助け合って越えることができました。
【普通の生活・完治】
2017年4月、大学に入学した次女は、学校を休まず、アルバイトもして、全く普通に生活をしています。このころから「クローン病は治った」と思っていましたが、一つのけじめとして、今回、5回目の松本漢方クリニック訪問となった2018年1月31日、血液検査の結果をもって行き、「完治」という言葉をいただきました。
忘れもしません。3回目までの松本漢方クリニック訪問は、私が車椅子を押して、東京からの日帰りでした。ほとんど歩けない状態でした。それが今は、普通に生活ができるのです。松本漢方クリニックと出合い、松本理論を実践し、完治できたことを心から感謝しています。ありがとうございました。
この手記が、多くの方の一助になれば幸いです。松本理論によるクローン病治療法が標準治療になることを願います。
この治療を続ければ、再び普通の生活を送れるようになります。
ご本人記述
「松本漢方クリニックの治療で元気になれる」という“一筋の光”
【はじめに】
私がこの手記を書く目的は、リバウンドを乗り越え、“完治”することができ、元気になった私の生の声を届けたいからです。なぜなら、この手記が、今、リバウンドで苦しみ、前が見えない方たちの“光”になるのではないかと考えるからです。
私自身が一番苦しかった時に得たかった情報は、「松本漢方クリニックの治療で元気になれる」という“自信”、“一筋の光”でした。そのために手記を読みました。しかし、手記は両親が書くケースが多く、当事者の声は少ないように感じます。両親が書く手記は客観的視点に基づいているため、とても為になりますが、余裕のない状況で読むことの難しさは感じていました。よって「完治」という言葉を頂いた私が、自分の声で、手記を書くことは意味のあることだと考えています。しかし、私の足らない部分はとても多いので、過去二回の手記と、今回三回目に父が書いた手記と合わせて読んでいただけると嬉しいです。
【私がクローン病になった理由】
松本漢方クリニックで言われる多くの病気の原因は、病院で処方されるステロイド剤を使う、または、交感神経優位の状態が続きストレスからステロイドホルモンを自ら作り出してしまう、という2つのパターンに分かれると思います。私は、後者の「自らがステロイドを作り続けた結果、クローン病になった」パターンだと思っています。
私が病気になったきっかけは、中学校三年生の時に、学級委員でクラスのみんなと上手くいかず、悩み、ストレスが極度にかかったことにあったと思います。しかし、それはきっかけに過ぎず、根本問題としては“私の心の在り方”にあると思います。私は完璧主義で、“0”か“100”の考え方しかもってない性格です。完璧にできない自分を許すことも、人を許すこともできませんでした。その性格が自分を苦しめ、クローン病になったと思っています。
私の闘病生活は、身体との闘いでもありましたが、同時に、自分の心と向き合い闘った期間でもありました。心と向き合うことで、今後またクローン病の症状が出ないようにと備えることになります。今でも、これからもずっと、元気な私とクローン病の私は、紙一重だと思っています。
【私の高校生活】
私は高校一年生の六月に発病し、入院しました。推薦で公立高校へ入学し、学級委員になり、初めての中間試験では一位をとるなど、これからの高校生活に希望をもっていました。今となっては、高校入学と同時に病気が発症したことは納得がいきます。
中学校三年生の時のストレスがかかった、交感神経優位の状態から解放されて、交感神経からの振り幅が大きかったことで、副交感神経への戻りも大きかったのだと考えています。
私の高校生活は、自尊心がズタボロにされた三年間でした。私は高一の遠足にも、高三の修学旅行にも行っていません。体育祭、文化祭、合唱祭には、三年間参加しましたが、体育祭の競技には参加せず、先生がいるテントで見学し、文化祭では準備には参加せず、当日みんなと同じTシャツを着て集合写真だけ写り、合唱祭は最低限の合わせだけ参加し、家で練習して本番に臨みました。私の高校生活は、普通の人のような思い出がありません。その中で私が一番辛かったことは、当たり前なことが当たり前にできないことでした。例えば、他の子と同じように、決まった時間に学校に行き、45分座って授業を受けられないことです。みんなが学校に行っている時間に、私は家にいて、ベッドで寝ていて、その時40度の熱が出ていようと、下痢と腹痛がひどく動けなくても、学校に行くことができない自分を責めていました。「当たり前なことさえできない自分はダメだ」と。どうしても周りの友達と比べてしまいました。それが苦しくて、「高校を辞めたい」と何度も思いました。しかし、担任の先生、友達、家族、両親など、沢山の人の支えで、高校を卒業することができました。
高校卒業後の進路は、とても迷いました。病気で将来なんて考えられないということと、この体で何ができるのかと、ほとんど諦めていました。しかし、高校が卒業できると決まって、進路を考えなければいけなくなって、私が考えたことは、自分が病気になって経験してきたことでした。「人間の心(自分の心)のメカニズムを知りたい」という思いで、心理学が学びたいと考え、また高校で沢山の先生、教育者との出会いから「教育者になりたい」と思いました。
私の目指す教育者は、子どもが楽しい時よりも辛い時に気づき、力になれる教育者です。人生は楽しいことばかりではありません。どうしようもなく人生が嫌になることもあります。その時に、長く生きている大人が自分の経験を話すことで、「自分だけじゃないんだ」とわかって、前に進んでいけると思うのです。現に私はそうでした。一番辛い時、先が見えない時に、先生からかけてもらった嬉しい言葉、悲しい言葉から多くのことを学び、自分の将来を考え決めることができました。
【私の大学生活(現在)】
大学に入って一年が経とうとしています。大学一年生の間に休んだのはたったの二日です。びっくりするほど元気で、初めの頃は周りからも“病気の子”と見られないことに、違和感をもつこともありました。正直、自分でも病気だったということを忘れてしまいます。
そして、大学では勉強を頑張っています。高校生の時にしたくてもできなかった気持ちから、学べることが楽しくて、前向きに取り組んでいる最中です。一年生の春学期は、専攻で一番の成績をとることができました。満足に勉強ができることの喜びを感じています。高校で病気をきっかけに経験し考えたこと、なりたい自分のために、教育者の夢に向かって歩んでいます。
【おわりに】
病気で辛かった時のことは、まだ最近のことのはずなのに、もう昔のことのようで半分忘れかけています。あれは夢であったのかと思うこともあります。しかし写真を見返すと、驚くらい痩せている自分がいるので、夢ではないのだと感じます。
しかし、元気になっても、風邪やインフルエンザのように、「治った!もう心配いらない!」と考えることができないのがこの病気です。それは原因が自分にあるからです。私の気持ちの在りよう、自分の限界を理解し、できること以上のことをしようとしないこと。それらを守って、これから生きていきます。できるだけ自分を責めず、自分を認めていきたいです。そうすることで、人に優しくできます。自分の足りないところを認められずにいたときは、人の足らないところを許すことができませんでした。しかし、自分にも足らないところがあると理解できてからは、人に優しくできるようになりました。クローン病を通して、心を成長させることができたと感じています。
【追伸(今の体調)】
今の私の体調の主症状としては、便秘、生理不順、たまのアトピーです。そのため、松本漢方クリニックから便通を促す漢方の粉薬、生理不順に対応した煎じ薬、赤黄の軟膏を処方していただいています。それらを服用、塗布しています。
私は今、クローン病の症状はありません。今年二月に行った血液検査で、CRPが0.4で、リンパ球が37%でした。CRPは薬に頼ることなく、一年ほどこの数字を維持できています。リンパ球は最低19%だったものが37%まであげることができました。