「松本先生に出会って―クローン病、尋常性乾癬、ヘルペス」
18歳 男性 2017年9月13日
18歳 男性 2017年9月13日
僕の初発の症状は、中学三年の四月頃、いわゆるクローン病に特有の症状である痔瘻(松本先生いわくウェルシュ菌による皮膚瘻です)でした。激烈に痛むほど膿んでいたりしていたわけではなのですが、自転車にまたがるときや排便時に少し違和感がありました。その頃は、僕が所属していたバレーボール部は顧問が厳しく、総体に向けて、ほぼ毎日朝3km~4.5kmの走り込みの後、朝練、放課後も2時間程度練習があり、とても大変な時期でした。もちろん、土日祝日もいろいろな学校で一日練習試合がありました。そんな状況で、とてもストレスがかかっていたのだろうと思います。
この結果、僕の場合は、痔瘻という形で症状として現れました。その後、県総体で3位という好成績を収めて引退した8月初旬、食事中に下腹部に刺すような圧痛を感じました。食べては倒れこんでもだえ、食べては倒れこんでもだえを繰り返していたような記憶があります。
そこからもずっと腹痛は変わらず苦しんでいましたが、受験の年ということもあり、何とかコツコツと勉強していました。しかし原因をはっきりさせたいということで、近くのクリニックでCTや上部消化管の内視鏡をしましたが、特にこれといった原因は見つかりませんでした。
そして私立の受験が終わった二月下旬頃、病院を変えて受診した際、炎症性腸疾患の疑いが強いということで、H医大へ紹介されました。それまでは、ペンタサと、一日エレンタールを二包飲むように言われていましたが、食事はとれるのに、栄養剤を飲む意味が分からず、エレンタールは一切飲みませんでした。
H医大に行く前に、公立高校の受験が控えていました。お腹をあっためるためにカイロを貼って、ぬくぬくの状態で受験に挑みました。僕の場合は自覚症状として下痢がなかったのが幸いして、何とかみんなと同じように受験することができ、合格しました。受験日一日目、帰りに父と寄ったコンビニにおいてあった雑誌に、潰瘍性大腸炎(以下IBDします)に対する便移植が記事になっていたのを覚えています。その時は、まだ便移植は治験段階でそこまで進んでいないようだったので、あまり気にも留めることもありませんでした。
そして、三月下旬、H医大のIBD内科を受診しました。診察が終わり、一週間ほど検査入院をしましょうとのことだったので、診察の二日後から検査入院をしました。食事にも特に制限はなかったものの、小腸ゾンデバリウムの検査がとてもきつく、後に膀胱鏡を受けるまでは文句なしに二度と受けたくない検査ナンバーワンでした。大腸内視鏡も受け、担当医による説明では、クローン病小腸型とのことでした。その時に、レミケードを勧められたのです。僕は覚えていませんが、父が、「なんかおそるおそる顔色を窺うように勧めてきていた」と言っていました。レミケードについてははっきり言ってメリットのみ説明されているようなもので、副作用に関する説明はわずかでした。当時僕も家族も、炎症性腸疾患を特に扱っている病院が勧める治療なのだからと、レミケードの使用を承諾してしまったのです。今になって怖さを実感しています。そして、初めてのレミケードを打って、退院しました。
新年度になって、高校に入学し、またしばらくして、二回目のレミケードをうちにH医大へ向かいました。一泊二日の入院でしたが、レミケードをうって退院した翌日、目が開けられないほどまぶしく、痛かったので当番医の眼科に行きました。診断は角膜潰瘍のことで、その時は眼軟膏をぬってすぐに収まったように思います。きっとあれもステロイドだったのでしょう。本来なら、この副作用でレミケードに対して少しでも疑問を抱くべきなのでしたが、角膜潰瘍もすぐに治ってしまい、以前あった腹痛や痔瘻も消失してしまったので、普通にこの後、近くの大病院で、レミケードを4回、H医大で打ったのを合わせて計6回打つことになります。その間は、全く日常生活に支障は出ず、人並みに勉強し部活をし、充実した高校生活を過ごしていました。
しかし、レミケード6回目を終えた高校一年の年の10月下旬から、手の平の奥のほうに、水膨れのようなものができ、お腹には湿疹ができ始めました。これがレミケードの二つ目の副作用として出現した尋常性乾癬だったのです。担当医のいる病院の皮膚科にかかると、「これはパラドキシカルリアクション(矛盾反応)だ」と説明されました。尋常性乾癬の治療において、レミケードやヒュミラ等の抗TNF-α製剤が使われる一方で、この薬剤を使うことによって尋常性乾癬を発症してしまう、という全く意味不明なものでした。本当に免疫を抑えるとろくなことがありません。もちろん僕も父も到底理解できず、疑問を抱えたまま次の治療薬としてヒュミラを使うか使わないか、という選択を迫られていました。
レミケードを投与されなくなり、尋常性乾癬の発症に伴って、当時はステロイド軟膏、ローション、イムラン(免疫抑制剤)、マーズレン、ビオスリー、ペンタサ…と大量の薬を処方されていました。本当に薬漬け状態でした。そして、ヒュミラを使うかどうかを「もう少し考えさせてください」と何度も何度もひっぱり、一月末のバレーの新人戦当日のことでした。父から「これ読んでみ」と渡されたのが、松本先生のクローン病の完治の理論と根拠だったのです。
読み進めていくにつれ、他の代替医療(もちろん松本医学は代替医療ではありませんし、松本医学こそ、医療の定義とすべきです)とは異なる何か、そして治るかもしれないという希望を感じました。パラドキシカルリアクションに対して大きな疑問が生まれ、今まで自分が受けてきた西洋医学の治療に不信感が募っていた時だったのでなおさらでした。その時、「これで行こう。」何に導かれたか、松本漢方クリニックで治療をすることを固く決意していたのです。
kuro幹線を乗り継ぎ松本漢方クリニックを訪ねました。広がる漢方薬の独特な香りと異様な雰囲気、一度もやったことのない鍼灸治療…。募る不安の中、父に「どうしよう」とLINEで何度も送っていたのが思い出されます。初めての鍼灸治療を終え、もぐさの灸の作り方を教えていただき、いよいよ初診。パワフルでユーモアのある松本先生から、「お前はアグレッシブすぎる」と指摘されたのを覚えています。「角膜潰瘍もヘルペスや!」「そうなんですか?」「当たり前や!勉強せえ!」というやりとりがあった後、「誰が治すんや?」とお決まりの質問(予習済でした)。しっかりと「自分の免疫で治します!」と伝え、先生と固く 握手。あぁ、治るな、と心の底から思いました。医院に入ってすぐに感じた不安は、どこかに飛んで行ってしまいました。
そして自宅に帰って、翌日からすぐに漢方薬三種とアシクロビルを飲み、お灸をして、僕の松本医学での治療がスタートしたのです。松本漢方クリニックで鍼灸の施術後から、排便時の痛みが消失してくるのを感じました。なんと、僕の痔瘻は松本漢方クリニックに行ってから一週間前後で完全に無くなったのです。レミケード副作用後に処方されていたポリステザン軟膏を一本も使わなくて本当によかったと安堵しました。
しかし、初診から四月にかけて、尋常性乾癬に伴う皮膚の症状はピークに達し、全身の痒み、四肢末端の皮膚の剥落、ヘルペスが殺されたことによる大量の膿、火傷のような熱さ、そしてそれは両耳にも及び、膿により耳が塞がり、聞こえづらくなったりもしました。その他においては、腹部の拍動痛(担当医は全く理解できていませんでした)、38度程度微熱が続いていました。睡眠のリズムも完全に崩れて、新聞配達のバイクの音を聞くと同時に眠るような生活でした。腹部に関する症状はまだまだでしたが、皮膚のリバウンドは、四月頃が最も強く出現していたと思います。
その後、栄養管理の面から一度入院をしました。一週間程度、病院で維持療法としての補液と三分粥の継続によってCRPが沈静化し、退院しました。この時から、一日二包から三包程度のエレンタールを飲み始めました。そして、皮膚の症状がかなり良くなってきているのを実感しました。
しかし、食べたいものに変化があらわれたり、発芽玄米粥を受け付けなくなったりと、再び栄養管理の面で不安があったので、五月中旬ごろから、二週間、入院することになりました。一回目の入院と同様、補液をしながら、全粥→潰瘍食三分粥→三分粥と食事の質を上げていく中、40度の高熱が起き、担当医とこの後の治療方針についての話し合いがありました。担当医は、「三分粥で 40度の熱、しかもCRPは7.92という今までにない高値。私はヒュミラを勧めます。」とのこと。松本先生との電話で、熱の正体は免疫が病原体と戦っていることによるものだと言われていたし、熱が出てCRPが上がることはつまり、免疫が復活してきた証拠であると、僕自身も感じていたので、もちろんヒュミラは断りました。しかし、苦痛だったのは担当医の回診。漢方薬や鍼灸、アシクロビル等の治療に対してあれやこれやと批判し、しまいには「僕は○大の研究室でIBDの研究をやってきたんだよ!?」と訳の分からない説得。免疫学の知識も浅かった当時、僕は担当医に何も言い返せず、回診が終わった後、自分のベッドで泣きながら、何度も何度も何度も何度も松本先生の論文を読み込んでいたのを覚えています。結果的には、下手に言い返して栄養管理できない…ということにならなくて良かったのですが。最終的には、エレンタール(一包300kcal)×3とエンシュアリキッド(一本250kcal)×3のみ一日に服用するということで退院しました。
二回目の退院後、もちろんエレンタールとエンシュアリキッドのみで生活するのは苦で仕方なく、発芽玄米やおかずなど、様々なものを食べて何とか食欲を満たしていました。しかし、数日後に修学旅行を控えたある日から、便秘気味になり、強い腹部膨満感と拍動痛に苦しむようになりました。修学旅行は行きたい、と思っていただけに何とか体調を戻そうと必死でしたが、状態は変わらず、修学旅行をキャンセルするという苦渋の決断をしました。
そんな辛い中、排尿時痛があらわれるようになりました。これが後の回腸膀胱瘻だったのです。左下腹部に生じる強い拍動痛と排尿時痛、そして逆流性食道炎のような症状も現れ、一睡もできなくなったある日のこと。おそらく腹部症状においては、この時期がリバウンドの最たるものでした。熱湯がお腹の中で爆発したような激烈な痛みが生じ、「痛い、痛い」とわめいたのを覚えています。そのまま担当医のいる病院に救急で向かいました。CTや採血採尿、腹部エコーを終えて、腹膜炎、それに伴う腹腔内膿瘍、尿管狭窄、水腎症、膀胱、直腸への癒着が見つかり、頭が真っ白になりました。正直ここまでひどいことになっていたのかと絶望しました。膿瘍の状態を落ち着けてからオペをしようとの話があり、そこから入院。そして絶食と抗生剤の点滴、しばらくしてTPN(中心静脈栄養)が始まりました。入院してから数日は痛みも強く、精神的にももうおかしくなりそうで、病室の無機質な天井を見ながらただ涙を流す日々でした。
しかし、そんな時、転機が訪れました。この境遇を嘆いていても仕方がない。このままでは何も前に進まない。ベクトルを、エネルギーを、もう一度自分の力で治すほうに向けていこう。なぜかそんな気持ちがふっとわいてきたのです。その時から、見える世界は変わりました。自分の置かれた状況を、ゆっくりと寛容していくことができました。そんな気持ちに応えるように、膿瘍は小さくなり、炎症も沈静化し、なんとオペは見送ろうということになったのです。今思うと、この時オペをすることにならなくて本当によかったと思います。体重も40kg台前半まで落ち、憔悴しきっていた状況でオペを乗り越えるのはおそらく簡単ではなかったでしょう。
この状況を伝えるため、松本先生に電話しました。その時、「これは君の免疫の責任や」と言われたのが、すごく印象に残っています。医者依存だった昔の僕なら激昂していたでしょうが、松本医学と自分自身の治療からいろいろなことを学んだその時は、本当に僕の免疫の責任、自分で作った病気なんだと実感しました。気持ちが切り替わり、入院の中、何ができるだろうと模索した結果、マインドフルネスと出会いました。
マインドフルネスとは、過去や未来に関する余計な憂慮をせず、「今」に集中し、瞑想をすることです。特に吐く息の長い呼吸法を特徴としています。これをすることにより、副交感神経を優位に傾かせ、しっかりと酸素を全身の細胞に届け、免疫力を上昇させることができるのです。僕はマインドフルネスと出会ってから、毎日積極的に行うようになりました。また僕はその頃、院内の図書館で、様々な本を読むようになりました。闘病記や、哲学書、健康法など様々な本を読みましたが、それらは全て僕に多様な価値観を与えてくれました。そして、自分の体の状況なんて大したことはない、大丈夫だと思えるようになりました。
そんな中、オペが見送られた状況で、選択されたのは、夜間経鼻経管栄養(以下鼻注とします)でした。この段になって、一度担当医に回診で「よく考えてください!どうなっても知りませんよ!」と激しく怒鳴られましたが、僕と父はもちろんヒュミラを断りました。僕がかかっていた病院は、この鼻注の指導は、栄養課が行うことになっており、ここでまた新たな出会いがありました。それは栄養課の係長さんでした。松本先生のようにバイタリティーがあって面白くて、栄養学的な方面からクローン病のことを教えていただいたり、もちろん鼻注のご指導もいただいたりといろいろとお世話になりました。
この頃、僕の特殊な治療に興味を持ってくれた看護師さんが、夜の検温後に治療の話を聞いてくれたり、学校のことや趣味のことなどを尋ねてくれたりして、たくさん話をしました。少し変わった研修医の先生とも話す機会があって、生物製剤イケイケゴーゴーの担当医の下でいながら、「僕は内服をさせたくないんですよ。だって野生動物って薬飲まないでしょう?」と言うような方で、面白い人やなぁと思いました。そんな中、退院予定前々日に、尿の中に空気が混じりました(気尿)。担当医の見解では、腹膜の炎症がおさまってきたのに伴って、回腸から膀胱にかけて瘻が開いたのだろうとのこと(これを回腸膀胱瘻といいます)でした。
その後、泌尿器科に回され、僕の人生で最も苦痛な検査「膀胱鏡」を受けることになります。その時のことは思い出したくもありません。検査中も検査後も、地獄のようなものでした。しかも、この検査は「あぁ、腸から膀胱瘻っぽいものがあるね。」と担当医が確認するためだけのもので、何の意味もありませんでした。(だから余計に苦痛だったのかもしれません)。気尿は出る時と出ない時があり、便は一切混じっていないことから、何とか退院の許可がおりました。ハプニングもありながら、様々な出会いや変化があり、自分の中で大きな軸が良い方向にシフトされ、体調も体重も戻ってきた七月下旬。やっと、一カ月の長く、密度の濃い入院を終えることになりました。学校は、ほとんど行くことのないまま夏休みに突入していました。
三回目の入院を終え、肉体的にも、精神的にもかなり安定し、入院中できなかった鍼やお灸などでの治療をしっかりとするようになりました。気になっていた映画を見たり、少し部活に顔を出したり、旅行をしたり、体調が万全ではないなりにも、夏休みを楽しむことができました。鼻注のおかげでしょうか。栄養がしっかりと入ると元気に過ごせるものです。鼻注もそこまで苦ではなく、むしろ鼻注だけしかできない、というところにストレスを感じていました。何か固形物を食べたい、という欲求は、体調が良かっただけに、より一層強く感じました。八月の下旬頃、部活に顔を出した翌日の昼、軽度ではありましたが再び腹膜炎に似た痛みを感じ、一週間程度の再入院になってしまいました。これが四回目の入院でした。
いつも通り?絶食+抗生剤→日中のみのエレンタール→鼻注と徐々にレベルを上げていく中で、僕の主訴としてはなかったきつい下痢や、恥骨にかけて電気が走るような痛みが生じたときがあったのを覚えています。この奇妙な症状は、アシクロビルをかなり飲んでいた中で起こったものだったので、原因はサイトメガロウイルスかもしれないなぁと思いました。
四回目の入院から復帰したのは、八月末のことでした。この頃、友達から、文化祭でアカペラやろう!との誘いがありました。高校二年になって、学校に行けたのは十日に満たないぐらい。春の遠足も、修学旅行も行けなかった僕にとって、文化祭で思い出を作れる!と思えて、とてもうれしかったのを覚えています。もちろんすぐに了承し、メンバーと練習を重ねていきました。そして文化祭当日、クラスの展示のシフトにも入りながら、夜の生徒だけのイベントでアカペラを披露しました。少ない練習の割には上々の出来で、しんどい治療を乗り越えてきたのと重なってものすごい達成感を感じました。本当に貴重 な経験だったし、よく出れたなぁと思います。
文化祭を終え、やっと学校にもぼちぼち行けるようになりました。しかし、休んでいた時の単元はもうとっくに終わってしまっていて、何とかついていくのに必死でした。もちろん体調も万全では無かったので、保健室で休み休み頑張っていたのが思い出されます。食事は鼻注だけでなく、発芽玄米粥をメインにいろいろなものを食べていました。そして十月の中頃、久々のバリウム検査がありました。ずっと前にやったバリウム検査はすごく苦痛を伴うものでしたが、その時は経口でした。しかも、入院中に幾度となく採血をし、訳の分からないままやった膀胱鏡を経験していたので、バリウム検査は楽勝でした。数十 分の検査を終えた後、担当医に呼ばれて診察室へ。最初に返された採血結果を見て、担当医は「炎症はなさそうやけど、なんで好酸球がハイ(高値)なんかなぁ」との一言。実はこの頃から、アトピーや喘息など、様々なクラススイッチと思われる症状が出現していて、自分の中では腑に落ちました。何よりもびっくりしたのは、リンパ球が32%だったのです!松本先生から三割目指そうと言われていて、自分も目指していただけに心の底から喜びました。バリウムの結果も、一番悪かったころの結果からはぐっと良くなり、瘻孔は消失していました。ただ、潰瘍が治ったことによって、狭窄が生じていました。ですが総じて、検査結果はとても良いものでした。この時、ヘルペスウイルスが絡んだもの以外の症状はすべて治ってしまったのだと確信しました。診察中、自然と笑みがこぼれたのを覚えています。
しかし、良かったのも束の間、今度は激しい尿意と会陰部の拍動、微熱によって夜中に救急で病院に向かうことになります。ある意味、リンパ球が上がったからでしょう。前立腺にいるヘルペスに対して攻撃を仕掛け始めた結果でした。各種検査と直腸診の後、急性前立腺炎だと診断されました。その日は朝まで病院でゆっくりと休み、抗菌薬をもらって帰宅しました。
帰宅して二時間後、睡眠の途中、僕は呼吸困難で目を覚ましました。息を吸っても全く空気が入ってこないような感覚。焦って過呼吸になり、吐き気を催し、うめきました。しばらくして、その症状はおさまりました。良くなった矢先、このような症状が出て、涙が止まりませんでした。今思えば、おそらくですが、これは突発性間質性肺炎でしょう。これも熱が出て、ヘルペスをたたいたことによる症状だと思います。改めてヘルペスの怖さを痛感しました。良くなったと思っていても、やっぱりいる。症状を見せかけだけとる一方で、こんな厄介なウイルスを増やす現代医療はもはや堕落していると言わざるを得ません。
腹部の症状で残ったのは腸管狭窄のみになり、食事がたくさんは食べられないので、狭窄解除のためのオペをお願いすることにしました。しかし、バリウムから一カ月たってCTをとってみると、三回目の入院ほどではないが、腸管の壁肥厚と尿管狭窄、水腎症が見られました。消化器外科からは、尿管ステント留置を含めた難しいオペになるだろうと言われ、不安だったのを覚えています。手術前の入院の時も、人工肛門、尿管切除になるリスクもあるということを言われました。ただ、この頃から、ここまでいろいろなことを経験してきた自分を神は死なせるわけがない、とよく分からない自信が僕のなかで生まれていました。そして、狭窄部切除のオペを行うことになるのです。これは十二月の中旬のことでした。
下剤を飲むのはきつく、手術当日も浣腸があり大変でしたが、いきいきとした顔で、仲のいい看護婦さんと一緒に、手術室へ入っていったのを覚えています。(看護婦さん談です)そこからは、ベッドに寝かされ、末梢静脈からの点滴と硬膜外麻酔、胃管の挿入が あったのを記憶していますが、そこまでです。最後に見た時計は九時二十分を指していたような気がします。
気が付いたらオペは終わっていました。時計を見ると三時過ぎ。およそ六時間に及ぶオペだったようです。その時間の経過が、オペの壮絶さを物語っていましたが、何とか無事に手術が成功したことを知り、安堵しました。狭窄があった回腸と上行結腸は、瘻の通り道になっていた虫垂と合わせて部分切除(合わせて27cm)、膀胱と直腸の癒着部位はくくるような形で処置をしていただきました。その後は、ICUに一日入った後、病室に戻り、ゆっくりとリハビリをしました。腸の切除後は、とにかく歩くのが大事だということを、手記から学んでいたので、ひたすら歩きました。術後二日目で四キロ近く歩いたやつはなかなかいないでしょう(笑)そのリハビリの甲斐あって、かなり良いペースでドレーンが抜け、食事がとれ、と回復していきました。
この経過を見て、内科の担当医は「本当に外科はよくやってくれました。」と。それに対して松本先生は、「お前よく頑張ったなぁ」。同じ医師でここまで違うのでしょうか。担当医の冷たい一言によって松本先生の温かさをよりしみじみと感じました。麻酔の副作用だった眠気からも克服し、とてもいい状態でした。食事も、退院間近になると、クローン病を発症する前のような量のものになり、質もとても満足できました。術後からは二週間かからず退院し、残すところは留置された尿管ステントの抜去、となったのです。
退院してからは、オペ以前に比べてかなり良質で量もたくさん食べられるようになり、オペのありがたみを実感しました。症状はというと、腹部の症状はほとんど無く、年が変わった一月にクラススイッチと思われる喘息(術中ステロイドに伴うEBウイルス感染によるものかもしれません)がありました。オペから復活した免疫が頑張っていることを確認できました。食事がとれるようになり、体調もかなり安定したので、学校に行くことができるようになりました。当たり前のように授業を受けたり、友達と話したり、部活をしたりと、そんな一瞬一瞬が本当に喜びでした。
そこから二カ月はあっという間に過ぎ、とうとう大好きだったクラスのメンバーとも別れる時がきてしまいました。もっと一緒に居たかったと思う反面、温かいメンバーだったからこそ、なかなか学校に行けなかった僕を優しく受け入れてくれたのかなと思うと、これはこれで良かったと自分を納得させました。しかし、出席日数は非情にも全く足りていなかったため、進級できず、もう一度二年生をすることになりました。ちょうどその頃、尿管ステント抜去のための二度目の膀胱鏡を終えました。
それからは、尿管ステントもとれ、本当に健康体になりました。ステントがとれたので自由に運動することができるようになり、バレーの最後の総体を見据えて、ゆっくりと練習していきました。そして尿管ステント抜去から三か月後、僕は広い体育館でコートの上に立ってプレーしていたのです。今思うと本当に信じられません。リバウンドが激しく、何度もくじけそうになっていたあの時期に、果たして総体でセッターとしてプレーしている自分を想像できたでしょうか。体力はぎりぎりの中、もちろん練習もままならない状態。やはり一年間のブランクは長かったと感じました。でも自分が出せる精一杯を出して、部員全員で一勝をもぎ取ることができました。バレー部も大好きなメンバーで、最後の最後に一緒にコートに立つことができて、本当に誇らしかったしうれしかったです。何より一勝。これは一生忘れることのない最高の思い出になりました。
そんなこんなで今は、もう一度高校二年生として、高校生活を過ごしています。学校にも行けるようになりました。今自覚している症状はアトピーとアレルギー性鼻炎ですが、これもゆっくりと自分の免疫で治していきます。
本当に、松本先生との出会いがあったからこその今です。「命の恩人」と呼べる人は松本先生だけだ、と父とよく話します。先生からは、免疫学やそれと臨床との関連はもちろんのこと、本質を突く哲学的なこともいろいろと教わりました。「完治しないという権利はない!」どれだけこの言葉に勇気づけられたでしょう。「腸管で勉強するんと違うからね」どれだけこの言葉に笑わされたでしょう。「お前よく頑張ったなぁ」どれだけこの言葉に救われたでしょう。厳しい中でも愛があって、患者に接してくれる。そして何より患者のための医療を真摯に実践されている。こんな先生は松本先生だけです。本当にありがとうございました。これからもいろいろなことを勉強させてください。よろしくお願いします。
ここからは、僕が感じた松本漢方クリニックでの治療のポイントを書こうと思います。 僕は、自己免疫疾患、特に炎症性腸疾患の方は、栄養管理がとても重要だと感じました。リバウンド期は、大量の抗体やサイトカインが使われたり、傷ついた細胞を修復したりと、そのために普段よりはたくさんのエネルギーを消費します。確かに、松本先生は「炎症性腸疾患の患者さんは何食べてもいい」とおっしゃっています。しかしそれは、普段食べていた食事に含まれる抗原(化学物質)に対してのクラススイッチ→寛容をしなければならないからで、症状の悪化は避けられません(もちろん通らなければならない道です)。ですから、炎症性腸疾患の方はエレンタールを積極的に利用し、特に症状がひどい方は出来るならばエレンタール夜間経鼻経管栄養、中心静脈栄養をするべきだと思います。そこである程度安定させてから、徐々に食事を摂っていくべきでしょう。
僕は、目安として基礎代謝より500Kcalぐらい多く、そしてタンパク質を中心に摂るように意識しました。栄養管理が甘いな、と思う方は、もう一度見直してみてはいかがでしょうか。毎日きちんと栄養が入ると、確実に変化が訪れます。
次は、免疫を上げる方法についてです。僕の地元の鍼灸院の先生は、アトピー性皮膚炎を呼吸法によって治したとおっしゃっていました。手記の中でも書きましたが、僕はこのマインドフルネスを推したいと思います。かっこ良く言っていますが、瞑想しながら深呼吸、と考えてもらえると良いです。僕の場合は、あぐらをかいて目を閉じ、五秒間で限界まで息を吸い、少し止め、十秒かけて息を吐き切る、という風にしていました。現代人はとても呼吸が浅く、これが様々な病気の一因になっていることは確かだと僕は考えています。あとは、自身を精神的に安定させること。そのために、よく笑い、アファメーションを取り入れてみてください。笑うと、自然免疫のエースであるNK細胞の働きが活性化します。アファメーションとは、簡単に言うと、自分で自分にポジティブな言葉をかけてあげることです。ここで大切なのは、現在進行形で言葉を発すること。「治ってきてる~」とか「良くなってきてるぞ~」とかとか。言葉は免疫の働きに強く影響していると、僕は確信しています。ぜひ取り入れてみてください。
僕は、これからの時代、原点に回帰する考え方が必要不可欠だと考えています。免疫学も同じです。細かな部分の理解はすごく難しいと思いますが、根本はいたってシンプル。複雑なものではありません。全てに共通するものだと思うし、それらはどこかでつながっているものです。ですから、僕は、あらゆることに対してもっと広い視野を持って、常に考え続ける姿勢を続けていきたいと思います。