日本初の無線の謎

1897年(明治30年)12月、逓信省電気試験所の松代松之助氏が「月島海岸と第五台場のおよそ1海里(=1.8km)の通信に成功した」と、『日本無線史』をはじめとする多くの文献に記されています。マルコーニ氏の通信試験が1895年(明治28年)ですから、我国の無線通信は相当早い時期から始まったといえるでしょう。

しかし今から20年ほど前、元郵政省電波研究所所長の若井登氏が、この「月島ー第五台場の試験」を1897年(明治30年)12月ではなく、1年遅い1898年(明治31年)12月だとする見解を示されました

現在インターネット上で松代氏の試験を検索すると、その日付も、場所も、距離も、様々な記述がヒットし、実は「日本初の無線」が迷走していることに気付かれるでしょう。大げさかもしれませんが、まるで邪馬台国比定の諸説を彷彿させるような、我国無線界の歴史ミステリーです

日本の無線黎明期については多くの優れた研究者がいらっしゃいます。私はこのカテゴリーでは全くの素人ですが、マルコーニ氏の無線実験が我国に伝わり、松代氏が浅野電気試験所長より無線の調査を命じられたのが1896年(明治29年)で、2016年が無線研究の開始より120周年にあたることから、この話題を取り上げてみました。

より多くの方々が、この謎に興味をもたれて、新資料の発掘や歴史考証が進めば幸いです。

【再構成作業のお知らせ】 2016年2月15日

いろいろ異なる情報が多くなり、本ページのまとまりが付かなくなっておりますので、異なった切り口から再構成を試みることにしました。今しばらくお待ちください。

なお"周波数の発展"に関する話題と、"実験場所探し"の話題は、それぞれ長波ではない訳」、「実験地はどこか?のサブページへ退避させました。

【参考】 墨田川河口にある月島は明治20年代から始まった埋め立てにより、順次拡大していった人口島で、月島二号地(地下鉄勝どき駅のある島)の海岸(主局:西端, 支局:南端)から電波が発射されました。また第五台場は1854年(嘉永7年)12月に異国船の攻撃から江戸を守るために作られた人工島(砲台)で、1962年(昭和37年)9月に品川埠頭の埋め立て地内に埋没しました。今日では東京港湾福利厚生協会が運営している港湾労働者休憩所(品川台場食堂)あたりではないかと推測されます。

1) 日本無線史 第三巻 の記述

まず我国の電波正史といってもよい『日本無線史』(電波監理委員会編, 1951)における無線黎明期の記述をその第三巻から確認しておきます。

日本における無線通信の研究は1897年(明治30年)に逓信省で始まりました。1900年(明治33年)になって有線通信の研究は逓信省が、無線通信の研究は海軍省が、という一応の棲み分けが形成され、逓信省から海軍省へ松代松之助氏らの技術者が出向し日本海軍の「三四式無線電信機」を完成させました。ただし逓信省は完全に無線研究を手放した訳ではなく、留守番役の佐伯美津留氏が無線研究を引き継ぎ、着実に成果を挙げていきました。

【参考】 佐伯氏はのちに電気試験所から本省通信局工務課へ移籍して、電気試験所の鳥潟右一氏らTYK式無線電話のグループと激しい無線開発競争を繰り広げられた方です。本サイトでも取上げている大正末期のJ1AA, J1PPは佐伯氏がいた逓信本省により、またJHBBは鳥潟氏がいた外局電気試験所により運用された短波実験施設です。

  • 逓信省(電気試験所)の無線 (1896年~1899年)

1896年(明治29年)10月にマルコーニの無線が日本に伝わり、松代松之助氏は無線の調査を命じられ研究に着手し、1897年(明治30年)7月より「ヘルツ波」という本で無線研究が本格スタートしました。

明治二十九年(1896年)十月、当時の逓信省管船局長石橋絢彦が時の電気試験所長浅野応輔を訪ねて近著の外国雑誌にマルコニが無線電信というものを発明したという記事があることを知らせたので、浅野所長は早速その調査研究を所員松代松之助に命じた。松代所員はその記事の掲載されてあるロンドン・エレクトリシアンによって一応取調べ、なおその原理としてはヘルツ波という書物で、マックスウェルの理論を実験によってよく説明してあったものを唯一の参考書として試験研究を始めたのが翌三十年(1897年)七月であった。 (電波監理委員会編, 『日本無線史』第三巻, 1951, p16)

そして「明治30年12月25日に月島・第五台場間1.8kmで試験に成功した」とあります。これが広くいわれてきた「日本最初の無線」です。

最初に取上げた問題はコヒーラーの問題であったが数ヵ月でこの問題は略解決したので、同年(明治30年[1897年])冬期京橋区月島の海岸に送信装置(第二・一図)を置き、小船に受信装置をのせ、芝区金杉沖を遊弋(ゆうよく)せしめて通信試験を行い、同年(明治30年[1897年])十二月には月島から約一浬(カイリ=1.8km)を隔てた品川沖の第五台場に装置した受信機によく感受し得るまでに成功したので、同月二十五日各方面の有力者、新聞記者等を招待してその実験を公開した。これが我国に於ける無線電信試験の嚆矢(こうし)であって、品川沖の第五台場は今公園になっているが、ここが我国における無線電信の発祥地である。逓信省としては当時これを実用する適当な個所もなかったが、これは将来重要であろうとの見地から、続けて研究を進めていた。 (『日本無線史』第三巻, p16)

逓信省の無線を分かりやすいように表にしておきます。

【注】 当時の電気試験所は逓信省(木挽町)の中にありました。

  • 海軍省(無線電信調査委員会)の無線 (1900年~1901年)

では海軍無線はどうだったのでしょうか。

1900年(明治33年)2月9日、築地の海軍大学構内に無線電信調査委員会が正式発足し、電気試験所の松代松之助技師(逓信省に籍を置いたまま海軍嘱託)や、第二高等学校(現:東北大)の木村駿吉教授が海軍教授として海軍に迎えられ、海軍無線電信機の開発がスタートしました。

この頃、我海軍においても軍艦に無線電信を採用せんとすることが議に上がり、海軍省内では、マルコニの機械を購入してこれを用いんとする意見もあったようであるが、見積を取ってみたら、機械購入費のほかに特許料として百万円を支払わなければならぬということが判明した。当時政府の財政はあまり豊かでなかったので軍艦建造のため、官吏は月給の一割を献納するというようなことがあった際であったから、この議は沙汰やみとなった。

しかるに逓信省では既にその研究が進んでいることを知って、明治三十二年(1899年)十月当時軍令部の参謀であった海軍少佐外波内蔵吉が浅野試験所長へ援助を求めた結果、松代松之助ほか数名がその後海軍の無線電信研究の基礎を築いた。 (『日本無線史』第三巻, p16)

  • (松代氏不在中の)逓信省の無線 (1900年~)

松代氏が不在の間は、佐伯美津留氏が逓信省の無線研究を引き継ぎ、通信距離を順調に延ばしました。

さて松代所員等が(海軍の)無線研究に従事することとなったが、逓信省としても無線電信の研究は中絶すべきでないとの浅野試験所長の意見により、所長は所員佐伯美津留にその研究の続行を命じた。佐伯所員は松代松之助の研究の後を受け、明治三十三年(1900年)千葉県(下総)津田沼の海岸と同県(上総)八幡の海岸との間約一〇浬(=19km)で、八幡に送信所、津田沼に受信所を置いて試験を行い良好な成績をおさめた。

更に通信距離を延長して津田沼の受信所はそのままとし、八幡の送信装置を相模大津(横須賀)に移し、その間約三〇浬(=56km)で、ついで下総船橋 相模大津間三四浬(=63km)で、逐次試験を行いこれまた良好な成績を収めたので、これなら実用可能なりとの結論を得て試験を打切った。 (『日本無線史』第3巻, pp16-17)

2) 日本無線史に異議あり 「月島-台場試験は明治31年12月」

ところが元郵政省電波研究所所長で無線黎明期研究の第一人者でもある若井登氏が、『月島から1浬(1.8km)を隔てた品川沖の第五台場』という日本無線史の記述を当時の地図(明治32年5月発行)で確認したところ、第五台場までの距離は約3kmなので、これはおかしいと指摘されました。

そして(後述する)電気学会講演会で松代氏が「通信距離は断言できない」と答えた築地海岸から金杉沖の試験を、若井氏はこの古地図から約1浬と読み取り、明治30年の「築地海岸・金杉沖」試験と、明治31年の「月島海岸・第五台場」試験混同されるようになったのではないかとの見解を発表されました。

日本無線史を初めとする多くの文献に、初めての実験は明治30年12月に月島と第五台場との間1海里(1.8キロメートル)の距離で行われたとあるのに、明治32年の古地図からその位置関係を調べてみると、それは約3キロメートルある(図7)。この食い違いの原因は何か。 これも私の推理であるが、学会誌に掲載(電気学会雑誌の明治31年7月号と8月号)された明治30年11月の築地・金杉沖間1海里(これは古地図で確認)の実験と、新聞記者に公開された12月の省内実験と、31年12月の月島・第五台場間の公開実験の日時、場所、距離が互に混同されて記録に残ってしまったものと思われる。多くの文献は、恐らく日本無線史からの孫引きではあるまいか。松代が後日いくつかの場で追憶談を発表しているが、それらの日時関係は上述の推理を裏付けている。(若井登, "日本の無線電信機開発(その2)―松代松之助の業績―", 『ARIB機関誌』, 1998.8, 電波産業界, p55)

整理すると、明治30年11月の試験から「1浬(海里)」という距離が、明治30年12月に行われたプレス向けデモンストレーションから「明治30年12月」という日付が、そして明治31年12月に行われた公開試験から「月島-第五台場」という試験地が採択され、それらがミックスされた結果「明治31年12月に、月島-第五台場間の、距離1浬(1.8km)で通信に成功」ということになったのではないかというものです。

若井氏が検証に使用された明治32年発行の古地図の海岸線を、現代の国土地理院の地図上に青線でかぶせてみたものが左図です。たしかに月島と第五台場は1浬(1.8km)の2倍近くあり、誤差の範囲を超えています。

少し当時の位置関係を説明しておきますと、赤で塗った逓信省の敷地に青い切れ込みで示した堀が、次に述べる1897年(明治30年)12月13日に行われた逓信省構内のデモンストレーションで「小川に沿って実験」した川(堀)です。

また逓信省の南東には海軍兵学校跡地にできた海軍大学校(現在の国立がん研究センター中央病院付近)がありました。「築地海岸」とは海軍大学校の海岸を指すと思われます。すなわち築地海岸は逓信省から徒歩圏であり、無線実験にはもってこいの場所でした。

金杉海岸とは今日の東芝本社やシーバンス・ビルがあるあたりです。金杉より南は波打ち際に鉄道の線路を敷設しましたので、東海道線が海岸線とほぼ一致します。短波受信機を搭載した小舟は新交通"ゆりかもめ"の「竹芝駅」から「日の出駅」付近において、高波に揺られてパラボラ屏風が倒れるなどの悪戦苦闘をしながら短波試験を行ったのかもしれません。

毎年8月に東京ビッグサイトでアマチュア無線フェスティバルが開催されているそうですが、そこへのアクセス路のひとつが"ゆりかもめ"の「国際展示場前―新橋」ルートです。短波開拓史に興味を持たれるアマチュア無線家の方々には車窓から明治時代の短波実験に想いを馳せられるのも、またよろしいかと思います。

それでは先人の功績を振り返りながら、日本無線界の歴史ミステリーを紹介してまいります。

3) 松代松之助 1897年(明治30年)春 ヘルツの本で研究着手

元郵政省電波研究所所長の若井登氏の記事を中心に引用し、黎明期について概観します。

若井氏によると雑誌エレクトリシャンが電気試験所に到着したのは1897年(明治30年)春とのことです(ヘルツの本を入手できたのもこの頃と考えられます)。すなわち松代氏は前年10月に浅野所長より無線研究を命じられましたが、最初の半年ほどは具体的な参考資料が手に入らず立ち往生していたというのが本当のところかもしれません。

1897年(明治30年)春、ヘルツの本を唯一の教科書に、電気試験所の松代松之助技師が無線研究を始めました。そして同年7月下旬より実験部品の製作に着手したそうです。電気試験所は1891年(明治24年)8月に逓信省電務局の一分課として誕生しました。一時通信局に所属しましたが、1897年(明治30年)8月に通信局が郵務局と電務局に分かれたため、再び電務局の一分課となりました。無線開発はこの電務局時代の電気試験所で行なわれたのです。

1896年(明治29年)12月12日にロンドンのトインビーホールで、英国郵政省のプリース技師長が、マルコーニの発明した無線電信法について実演を交えて講演した。それをデイリークロニクル新聞が取り上げ、大評判になった事を、エレクトリシャン誌が12月18日号で紹介した。それが船便で明治30年(1897年)の3月か4月に届いた。しかし無線電信が発明されたという事だけではどこから手をつけていいか分からなかったので、松代はヘルツの「電気波」という本を頼りに、電波の勉強を始めた。そして7月下旬から実際に、誘導コイルと火花間隙とパラボラ反射板などの送信部品の製作に取り掛かった。 (若井登, "日本の無線電信機開発(その1)", 1998.5, 『ARIB機関誌』, pp31 )

同年9月になると、無線機の回路図が載っている雑誌『エレクトリシャン』6月11日号が逓信省に到着しました。そこで逓信大臣の了解を得て無線実験装置の組立てを開始したと『読売新聞』が伝えていますので一部引用します。

『・・・(略)・・・本年(1897年)九月その(英国郵政庁プリース氏のマルコーニの実験)演説筆記を掲載せる雑誌我国に到着したるに付、浅野、松代の両氏は専ら意を注ぎて熟思考案只管(ひたすら)その原理のある所を究め実地に依りてこれを試験せんと欲し一応逓信大臣に上申の上その実験をなす事に決せり。・・・(略)・・・』 (『読売新聞』, 1897.12.15, p2)

4) 松代氏が電信協会で「無線電信」を講演 [明治30年秋頃?]

1897年(明治30年)秋、松代氏は無線電信について電信協会で講演しました(講演日時不明)。その講演録が『電信協会会誌』第59号(1897.11.30)第60号(1897.12.28)に掲載されました。

今日は道の悪いのに態々(わざわざ)お出で下されましたけれども諸君を満足させるような面白い話はないのでございます。今日までこの電信協会で無線電信に関する話は一度も無いようであります。

所が近頃マルコニーの無線電信が発明以来、大分世間でも話をすることでございますから、その事およびそれまでの歴史を少し御話しておいて、続いてまたその中に実験などの成績が挙った上で、私なり、またその他の人がこの電信協会なりもしくは電気学会の方で面白い演説のあるように、そのイントロダクションという訳で今日御話しを致すのであります。その御積りで御聴きを願います。 (松代松之助, "演説 無線電信", 『電信協会雑誌』第59号, 1897.11.30, p1)

松代氏の講演では電気試験所でも無線機を試作中であるとかの話は一切なく、冒頭で我国でもその昔に志田林三郎博士が隅田川の水面を利用した導体式無線電信の実験を行ったことがあると紹介した他は、ヘルツ氏やマルコーニ氏らの外国での無線実験の解説に終始しました。

私等も雑誌くらいで見ただけのこと』とありますので、1897年(明治30年)9月に無線機の回路図が載った外国雑誌が電気試験所に到着した直後の講演だったと推測します。講演は次のように締めくくられ、この後半部は同誌第60号に掲載されました。

『・・・(略)・・・要するに無線電信はマルコニー式が一番進歩したものと思われます。我々はこれをば、どうか改良して実用に供することが出来るようにしたいものだと思って居ります。まだこれは私等も雑誌くらいで見ただけのことで深い研究はした訳ではないのでありますから詳しいことに付いては御話が出来ない。ほんのイントロダクションのような訳でありますから、何れこれはもっと研究しまして、うまく行けば実用になることを産出したい。うまくいかぬでもこういう結果ということは諸君に御話するだけのことは他日、出来るだろうと思います。今日はただ珍しいもので、当時皆がやかましく言って居りますから一寸(ちょっと)御吹聴するだけの話でほんの詰らぬことでございます。甚だ無味なことで諸君の清聴を煩しました。(松代松之助, "演説 無線電信", 『電信協会雑誌』第60号, 1897.12.28, pp5-6)

5) 松代松之助 1897年(明治30年)10月1日 電気試験所で初実験

1897年(明治30年)10月1日、松代氏はついに電波実験に成功しました。『戸外に出たら・・・』とあることから、送信機は屋内、受信機は屋外の実験だったのではないでしょうか。

9月なって(12月の省内実験の際の記者発表に9月からという言葉がある。)マルコーニの電信機の具体的回路の載った、前述のエレクトリシャン誌の6月11日号が船で届いた。それを参考にしてコヒーラを初めとする受信機の製作に取り掛かった。こうして10月には送受信の実験ができるようになり、後述のように11月の築地沖実験から12月の報道用省内実験へと進んだ。

明治の初めに渡来した電信技術はすでに定着していたから、感度のいいリレーと印字機はそのまま無線にも利用できた。

松代が新たに開発したのは、アンテナと火花送信機とコヒーラ受信機である。松代の初期の送受信アンテナの後ろには、ヘルツと同じパラボラ反射板が屏風のように立っている(図3と図5)。

・・・(略)・・・こうして松代はその年(1897年, 明治30年)の10月1日に初めて室内実験を行なった。ところがコヒーラがくっついたまま離れない(もとの絶縁状態に戻らない)。調べてみると原因は近くの電信機である事が分かり、戸外へ出たら正常に感動(コヒーラが電波に感じて動作することを当時はこう表現していた)した。(若井登, "日本の無線電信機開発(その1)", 1998.5, 『ARIB機関誌』, pp31-33 )

6) 純国産無線機なのに外国品だと誤報

松代氏が完成させた無線機を輸入品だと伝える記事が電信協会会誌第58号(1897.11.1)にあります。

◎無線電信の試験

逓信省は先きに英国に於て発明せられたる無線電線(原文まま)に要する新機械を取寄せ過般来、電気試験所に於て試験中なりしが、その成績尤(もっと)も良好なりしという。尤も該試験は僅かに数間(1間=1.82m)の距離を置きたるに過ぎざるも、英国に於ては既に九哩(14.5km)間の試験に好結果を得たるものなりという。 ("無線電信の試験", 『電信協会雑誌』第58号, 1897.11.1, p24)

しかしこれは誤報だったようで、次の同誌第59号(1897.11.30)に訂正記事が出ました。

◎無線電信の試験

無線電信の試験に就(つい)ては前号の誌上に於て新機械を外国より取寄せたる旨、記載する所ありしが、右は悉(ことごと)逓信省に於て種々の機械を製作し試験せられたるものにして短距離に於てはその成績尤(もっと)良好なりしにより目下長距離通信法に就て試験中なりという正誤旁々(かたがた)更にこれに記す。("無線電信の試験", 『電信協会雑誌』第59号, 1897.11.30, p15)

誤報とはいえ、この記事には重要なメッセージが埋もれています。通信距離は『(わず)かに数間』だという部分です。1間=1.82mですので、数間とは10m程の距離ではないでしょうか。訂正記事でも同様に『短距離においては』良好とありますので、明治30年10月頃の無線機の完成度は、やはり10m程度しか届かないものだったと推察します。

7) 松代松之助 1897年(明治30年)11月 初の海上試験

1897年(明治30年)11月に築地海岸から東京湾での海上試験が行われたといわれています。

松代は明治30年(1897年)の11月に、受信機を築地の海岸に置き、送信機を団平舟(だんぺいぶね:荷物運搬用の堅牢な和舟)に乗せて、いろいろと距離を変えながら東京湾内で通信実験を行なった。陸上で使ったパラボラ反射板つきアンテナは、指向性があるので船の向きに注意しなければならなかったが、そのアンテナよりも、竹竿から吊り下げた被覆銅線アンテナの方が感度が良く便利なので、パラボラはすぐ使われなくなった。(若井登, "日本の無線電信機開発(その2)-松代松之助の業績-", 1998.8, 『ARIB機関紙』, p55)

そして若井氏は、「東京湾」の試験を「築地-金杉沖」と特定し、その通信距離は1海里(1.8km)だとする見解を示されました。

明治30年11月の築地・金杉沖間1海里(これは古地図で確認)の実験(若井登, "日本の無線電信機開発(その2)―松代松之助の業績―", 『ARIB機関誌』, 1998.8, 電波産業界, p55)

『日本無線史』第三巻(p16)の記述では、11月とは断定せず、場所も「築地」が「月島」に変わっていますが、金杉沖まで出た点では同様です。

同年(明治30年[1897年])冬期京橋区月島の海岸に送信装置(第二・一図)を置き、小船に受信装置をのせ、芝区金杉沖を遊弋(ゆうよく)せしめて通信試験を行い

しかし私はこれには少々疑問を抱いています。というのは前掲の誤報記事にある通り、まだ無線機の性能が低く、10m程しか飛ばなかったものが、急に1.8kmも届くまでに性能アップしたとは思えないのです。この海上試験は築地海岸にいる実験者が大声を出せば舟の実験者と会話が出来るような、ほんの僅かの距離での試験ではないでしょうか。

8) 松代松之助 1897年(明治30年)12月13日 逓信省構内でプレスへデモ

1897年(明治30年)12月には報道機関へ逓信省電気試験所の無線を公開しました。通信距離は150mほどです。

その年(1897年)の12月13日に逓信省内の小川に沿って150メートルほどの距離で報道用の通信実験を行なった。そのときに「マコトニケッコウヨクウツルムセンデンセンバンザイ」という符号が立派に現れたという。この省内実験の結果は12月15日付けの読売新聞に掲載された。紙上には無線電信の原理から、電気試験所の松代技師が開発に苦労した話、無線電信の速度は、有線電信が1分間に約75文字であるのに比べて、ほぼ3分の1程度であること、所要経費として誘導コイルの値段は2百円ほどであり、鉄板のパラボラを含めて一切合切約400円足らずであったことなどが書かれている。(若井登, "日本の無線電信機開発(その2)-松代松之助の業績-", 1998.8, 『ARIB機関誌』, p55)

ではその『読売新聞』1897年12月15日から引用します。記事には『一昨日』とありますので、デモが12月13日に行なわれたと特定できます

『・・・(略)・・・一昨日逓信省に至りてこれを実験したるに、送信器と受信器との距離は1町半(=160m)ばかりなりしが、送信器の方に当(あたり)てコトコトと機械を動かすの音するや、受信器を伝って継電器の表面には「マコトニケツコウ ヨクウツル ムセンンデンセン バンザイ」の符号立派に現れたり。社員の試みに送信器と受信器との中間に立ち居りしも、何等(なんら)の感動(=感じるの意)もなかりし。なお目下、逓信省に於て試験せるものの同省構内に通じる小川に沿いその距離前記の如く1町半ばかりなれど、追ってのいま少し遠距離にて試験する筈(はず)なりと、・・・(略)・・・』 (『読売新聞』, 1897.12.15, p2)

デモに立ち会った読売新聞の記者は無線装置について以下のように書いています。

鉄板を以て竪(たて)一間(1.8m)幅一間程の半円形の屏風様のものを作り、その外面に普通電気用に使用する誘導捲線(コイル)(三寸の火花を出す)を据え、それより三條の電線を出し鉄板を貫きて内面の電気震動器に通ぜしむ。・・・(略)・・・空中のエーテルに波動を起こし、その長き震動は高き波となり、短き震動は低き波となりて、空中を透して前方の受信器に伝達するなり。受信器も送信器と同様に鉄板を以て半円形の屏風を作りその内面の頂上に真鍮板を置きそれより銅線を下方に引きその中央に在るコヘラといえる要部に達す。・・・(略)・・・』 (『読売新聞』, 1897.12.15, p2)

この『読売新聞』(1897年12月15日)には11月の「築地-金杉沖」または「月島-金杉沖」試験の話題は一切登場しません。もし11月の海上試験で1.8kmも届いていたなら、松代氏らは新聞記者にその事を自慢するはずです。ですので11月の試験は(12月13日の逓信省構内150mのデモより短く)築地海岸から100mほどの位置に舟がプカプカ浮かんでいただけと考えても不自然ではないでしょう。

ここまでの若井氏の記事を表にまとめておきます。

9) 松代氏は電気学会講演で「月島・台場」通信を語らず [明治31年6月頃?]

1898年(明治31年)春、松代氏はマルコーニ式無線電信について電気学会で講演されました。この講演の事は松代氏の著書『現時ノ無線電信』に出てきます。

第二十図ハ、明治三十一年夏、余が電気学会ニ於テ、演説ノ際説明用トシテ、仮ニ作リタル受信装置ニシテ・・・(略)・・・』 (松代松之助, 『現時ノ無線電信』, 1905, 電友社, P55)

と、ありますが講演議事録が『電気学会雑誌』7月号に掲載されていることから6月以前ではないかと推測します。

松代氏はこの講演で "明治30年12月に月島-台場間で通信試験に成功した" という話をされていません。それどころか、まだ無線の性能が思うように出せていないような発言をされています。これは一体どうしたことでしょうか。

この講演録は『電気学会雑誌』1898年7月号と8月号に分けて掲載されており、「日本初の無線」を探るうえで最も重要な歴史資料です。

所が電気波は其(その)性質光波と全く同じものであります。唯(ただ)異なるのは波の長さが光波より長いと云(い)ふだけで彼(か)の投影、反射、屈折等総(すべ)て光波の行はれ得べきことは皆電気波にも行なふことが出来るです。そこでこの送信機の火の出る所をばぱらぼら形の金属鏡の焼点(原文まま)にし、受信機をこれに対するところの同じぱらぼら形の鏡の焼点に置きましてその勢力を一ヶ所に集めることが出来ます。

所で今述べた器械、斯(こ)う云う器械に依って送る所の波はポラライズしたものでありまして、それでぱらぼら形は平らに拵(こしら)へて、屏風のような体裁のぱらぼら形を拵へればそれで宜(よろし)いのです。鏡の大さは波の大さに依って変はる。波が大きければ鏡も大きくせねばならぬ。

・・・(略)・・・ マルコニー氏は遠方の通信をするに当たりまして感働を強くさせやうとして送信機の両大球より導線を導きまして一方を大地に接続し、一方を高く竿の先に上げ、其端に適当の金属板を懸(か)けたのであります。此場合の電気波は自己誘導及び電気容量の増した為めに波の長さも大きくなって数「メートル」若くは数十「メートル」となるでありませう。又受信機に於きましてはこれとその調子を合はす(注:波長を一致させる。合調。)為めにコヘラーの両端から導線を導いて一方を大地に接続し、一方を高く半頭に掲けまして金属板を懸けますことは矢張り送信機と同じであります。そして其高さは実験に拠って定むるものであります。それで私は品川の沖で実験したのも矢張り此方法(注:接地式垂直アンテナ。すなわちパラボラは使わなかった。)に拠ってやったのであります。此高さと云ふものは大に感働距離に関係を持ちまして高いものは低いものより遠くに届くことは明かで私等の実験でも確かにそれは証拠立てられるのであります。 (松代松之助, 講演”マルコニー式無線電信”, 『電気学会雑誌』 Vol.18,No.120, 1898.7, pp298-299)

昨年12月13日の逓信省構内実験で使っていたパラボラアンテナを使うのを中止して、品川沖試験(時期不詳)ではマルコーニの接地式垂直アンテナを用いたことが明かされました。

講演が終わると質疑応答の時間がありました。その発言録は『電気学会雑誌』の翌8月号に掲載されました。通信距離や使用波長の質問に対して、松代氏は以下のように答えています。

◎ 問(吉田君)

松代君の演説は大層面白い演説で至極有益の研究と考えますが、この事については素人からの質問のあるのは距離はおよそどの位いくものであるというのが・・・(略)・・・

◎ 答(松代君)

距離の問題は判然分かりませぬが、あちら(注:英国のマルコーニ)でやった結果は二十哩程やった事がある模様であります。インダクションコイルは長い火花を発するのを使って居ります。例の直立線(注:接地式垂直アンテナ)を高くしまして強勢のインダクションコイルを使ひましたならば二十哩位はやったかのように雑誌に書いてあります。こちら(注:日本の電気試験所)でやりましたのは、まだ漸(ようや)く築地の濱と金杉の沖と両方でやりましたが其(その)時は波が来て機械が転覆するようになり其内に夜に段々入って試験を中止しました。其時は遠くに確かにいったように考えますが、どうも断言してどの位と云ふことは言はれませぬ。

・・・(略)・・・

◎ 問(田中君)

妨害は波の長さに関係があると思います。今の(講演会場でデモした受信装置)はだいたい何「メートル」の波長ですか。

◎ 答(松代君)

勘定はして居りませぬが。(松代松之助, 質疑応答”マルコニー式無線電信”, 『電気学会雑誌』 Vol.18,No.121, 1898.8, pp340-342)

この質疑応答の中で "築地海岸と金杉沖" の通信試験が出て来ます。これも時期不詳ではありますが、築地海岸から金杉までの距離は、品川までの約半分です。無線機の性能向上に合わせて徐々に遠くへ舟を進めたとすれば、試験時期としては金杉沖が先で、最終的に品川沖まで試してみたのではないでしょうか。

この講演会は1898年(明治31年)春ですから、それまでに金杉沖と品川沖の2つの試験が実施されていたことは間違いありません。

さてその成績です。距離の質問に対して、金杉沖の試験では波が高く途中で中止になり、到達距離は測定できていないと松代氏自身がはっきりと発言されています。これは無視できないでしょう。また品川沖の試験で、ある程度の到達距離が測れているなら、それを答えるでしょうが、やはり言及していません。どうも金杉沖も、品川沖も、やってはみたものの不確かな結果だったように思わせる質疑応答でした。曖昧で誤解釈が起き兼ねないような報告を是としない、気骨ある技術者としての姿が思い浮かびます。

また波長についての質問もありましたが、同調回路が発明される前の時代なので、波長の違いが及ぼす作用など誰にも分らないし、そもそも波長を選別する方法がまだないのですから、松代氏の「勘定していません」という答えは当然です。現代では日本初の無線は短波から超短波が使われたといわれています。

10) 日本無線史のネタ本(逓信省編)

日本無線史』(電波監理委員会編, 昭和26年)は戦前からの逓信省関係者が中心となり編纂されました。その際の信頼すべきネタ本として直近(昭和15年12月発行)の『逓信事業史』(逓信省編)が用いられたと想像します。

その逓信事業史(昭和15年)第五編 第四節「本邦に於ける無線電信無線電話発達の概要」をみると、既に「明治30年末に月島-台場」と記録されていました。

明治三十年マルコニ式無線電信の成績発表せらるるや、我国においても之が研究を始め、殊に陸海軍省及逓信省に於ては盛に之が調査研究を開始した。其の当時に於いてはマルコニ氏の発明は秘密に附せられ、其の内容一切不明であったから、機器の製作等には多大の研究を要したが、漸次その研究を進め、逓信省は明治三十年末に品川湾内台場と月島間との通信試験に成功し、同三十三年には下総津田沼 上総八幡間 海上一〇浬 及 上総八幡 相模大津(横須賀)間 海上二十九浬、次で下総国船橋 相模大津間三十浬の通信を行い、其の後研究を続けた結果種々の発明考案をなし、是等(これら)を以て所謂(いわゆる)逓信省式なる一方式を樹立するに至った。(逓信省編, 『逓信事業史』第四巻, 1940, p715)

そしてまた『逓信事業史』は、1921年(大正10年)に発行された『通信事業五十年史』(逓信省編)の解説をなぞったようです。

我国も亦、明治三十年マルコニー氏無線電信成績の報、伝はると共に、直ちに逓信省に於て之か独立研究に着手したるも、マ氏方式等の詳細に関しては素より秘密を厳守するを以て、理論の調査・機械器具の製造等に少なからざる苦心を払ひ、明治三十年末には品川台場・月島間の通信に成功し、三十三年には津田沼・八幡間 海上十浬、船橋・大津(横須賀)間 三十四浬等の通信を遂行せり。其研究逐年著しく進捗し、従事員の考案発明を一括して所謂、逓信省式なる一方式を樹立するに至れり。明治三十六年に至りては長崎台湾間 六百三十浬を隔てて長距離通信を遂行し、逓信省式の甚だ優秀にして世界の諸方式と拮抗するに足る事を確認せり。(逓信省編, 『通信事業五十年史』, 1921, p214)

調査を進めると、もっと古い1914年(大正3年)の『無線電信・無線電話』(逓信省編)に「明治30年末に台場・月島間で実験に成功」との記述がありました。

明治三十年「マルコニー」氏の無線電信成績の我国に伝わるや、逓信省に於ても亦其の独立研究の必要を感じ、直ちに之か調査研究に従事せり。然れと当時尚「マルコニー」式の詳細に関しては、秘密に附されたるを以って、理論の調査、機械器具の製造等に少(すくなか)らざる苦心を為し、明治三十年末には、遂に品川湾内台場と月島間の通信試験に成功し、同三十三年には、下総国津田沼 上総国八幡間 海上十浬、上総国八幡 相模国大津(横須賀)間 海上二十九浬、又 下総国船橋 相模国大津間三十浬の通信を遂行せり。其の研究は逐年著しく進捗し、従事員の考案発明を一括し、所謂(いわゆる)逓信省式なる一方式を樹立するに至れり。 (逓信省編, 『無線電信・無線電話』, 1914, p6)

以上のことから1914年(大正3年)『無線電信・無線電話』→1921年(大正10年)『通信事業五十年史』→1940年(昭和15年)『逓信事業史』と、ほぼ同じ文章が書き写されてきたようです。「明治30年末、 月島-台場」説はなんと100年以上前から伝えられてきたことになります。

11) 発見 『日本無線史』の記述は松代氏の回顧談の引用だった!

『日本無線史』(1951年 [S26]発行)の逓信関係の記事は『逓信事業史』(1940 年[S15]発行)を参考にする部分が多いようですが、よく調べてみたところ『日本無線史』第三巻の日本初の無線に関する文章が、1944年(昭和19年)7月20日に電気試験所が編纂・発行した『電気試験所五十年史』に収録された松代松之助氏の「回顧談」とほぼ同じ内容であることに気が付きました。

【注】 電気試験所の50周年は1941年ですが、五十年史が出版されたのは1944年になります。

しかし奇妙なことに松代氏御自身が実験直後に語られた内容(明治31年の電気学会講演)と異なる部分もあります。逓信省を退官されてから既に39年もの歳月が経過していますので、松代氏は執筆にあたり上記逓信省の資料などを参考にしたため、記憶違いが生じたのではないでしょうか?

明治30年、マルコニー氏が無線電信を発明した事を書いた外国雑誌が我が国に到着すると管船局長の石橋絢彦氏から問合せがあって、その結果、浅野電気試験所長はその調査並に研究を私に命ぜられ、私はその事の掲載されてある倫敦エレクトリシアンに依って一応取調べ、尚その根本原理としてはヘルツ波という書物でマックスウエル氏の理論を実験に依って能く説明してあった書物を唯一の参考書として研究を進め、7月暑中休暇の午後の半日を利用してその実験を行い。

その基礎的研究も略成功したので、引続き勤務の間と退局時間後に居残りをして研究を続け、同年冬期に至り月島の海岸に送信機を置き、小船に受信機を搭せ、金杉沖を遊弋せしめて実験を行い、同年12月には月島より約1浬を隔てた品川沖の第五台場に装置した受信機に能く感受し得る迄に成功しましたので、同月25日、大学教授、商業学校、陸海軍首脳部、新聞記者等を招待しましてその実験を公表しました。これが我が国に於ける無線電信の第一歩であったのでありまして、品川沖の第五台場は今は公園になっていますが、ここが我が国に於ける無線電信の発祥地なのであります。その時の目印にしていた松の木は今もあります。(松代松之助, 回顧談, 『電気試験所五十年史』, 1944, 電気試験所, p715)

冒頭で紹介した『日本無線史』第三巻とほぼと同じです。どうぞ比較してみてください。

12) 少々毛色が違う『逓信省五十年略史』(逓信省編, 昭和11年)

同じ逓信省関連の史書でも、これらとは少々文章が異なるのが1936年(昭和11年)に出版された『逓信省五十年略史』です。「明治30年末東京湾で試験」という表現を使い、なぜか具体的な実験場所を特定していません。

無線電信の研究に我国に於て手を染めたのは明治二十九年(西暦一八九六年)即ちマルコニー氏が無線電信を発明した翌年である。当時逓信省に無線電信研究部が設けられ、鋭意研究の結果独自の方式を考案するに至り、明治三十年末より東京湾に於て試験通信を行い、相当好成績を収めた。その後種々改良工夫を加え、遂に所謂「逓信省式」なる優秀の方式を完成し、明治三十六年には長崎・基隆間海上六百浬の長距離通信に成功するに至った。 (逓信省編, 『逓信省五十年略史』, 1936, p110)

13) 異色の本邦電信史資料(逓信省通信局工務課編, 大正7年)

また更に古い1918年(大正7年)の『本邦電信史資料』(逓信省通信局工務課編)の記述もちょっと異なっており、かなり詳しく書かれています。

この書には1897年(明治30年)12月に東京湾で試験。翌1898年(明治31年)12月に月島-台場間3海里(=5.5km)で試験し良好とあります。(5.5kmは長過ぎますが)月島-台場通信が1898年(明治31年)12月に行われたと記録されている点では異色です。「月島-台場」通信の明治31年説が1918年(大正7年)までさかのぼれました。

我逓信省ニ於テモ、プリース氏ニ依リテ、マルコニー氏ノ発明発表セラルルヤ直チニ研究ニ着手シ明治三十年(千八百九十七年)九月電気試験所長浅野應輔氏ハ同所電信係通信技師松代松之助氏ヲ主任トシ逓信技手池田武智氏其ノ他ノ所員ヲシテ電波指揮無線電信法ノ研究ヲ開始シ、同年(明治30年/1897年)十二月之ヲ東京湾ニ試ミ、超ヘテ翌明治三十一年(千八百九十八年)十二月 月島及品川台場間海上三浬ノ距離ニ於テ試験シ良好ナル成績ヲ得タリ。翌三十二年松代松之助技師及池田技手等ハ海軍ノ嘱託ヲ受ケ一時専ラ海軍ノタメ研究スルコトトナリ電機試験所電信係逓信技手佐伯美津留氏等代ツテ之カ研究ニ従事シ三十二年四月ヨリ七月ノ間ニ於テ、東京湾ニ於テ上総国八幡ト下総国津田沼トノ間 海上九浬ニ於テ通信試験ヲ行ヒ、次テ下総国津田沼ト相模国大津(横須賀)トノ 海上三十浬ヲ隔テテ試験シ何レモ良好ナル結果ヲ得タリ。明治三十五年ヨリ三十六年ニ亘リ佐伯技手等長崎港外西彼杵郡三重崎ト台湾基隆八尺間 海上六百三十浬ノ長距離試験ヲ行ヒ電力約八「キロワット」内外ニテ夜間完全ニ通信スルヲ得タリ。 (逓信省通信局工務課編, 『本邦電信史資料』, 1918, p84)

結論を先に述べますと、私はこの『本邦電信史資料』が(5.5kmはともかくとし)真実ではないかと考えています。

14 逓信省以外から出版された書籍

では逓信省以外の文献はどうでしょうか。1926年(大正15年)に出版された『子供の喜ぶお話の泉』は上記の『本邦電信史資料』とほぼ同じ内容で月島-台場試験は1898年(明治31年)12月です。ただし三浬(5.5km)ではなく三哩(4.8km)になっています。

この(プリース氏の)演説筆記を掲げた雑誌が明治三十年九月中に我が逓信省に到着したので、同省電気試験所長浅野應輔氏は早速これが試験を企て、浅野氏の監督の下に逓信技手松代松之助氏、主としてこれを担当し、機械装置の工合等苦心に苦心を重ねて、明治三十一年十二月 には月島・品川台場間三哩(マイル)の距離に於いて好成績を得、同三十三年四月より七月に至る間に於いて、下総船橋・相模大津(横須賀)間三十四哩の通信に成功し、爾来引続き研究の結果遂に逓信省式なるものを完成したのである。(秋鹿見二, 『子供の喜ぶお話の泉:四季折々』, 1926, 盛林堂, p494)

しかし1912年(明治45年)春に出版された『簡易無線電信機解説』には、1897年(明治30年)11月品川湾で実験とあります。

『・・・(略)・・・逓信省の電気試験所長にして東京帝国大学の教授を兼ねて居らるる工学博士浅野應輔氏は明治三十年十一月 品川湾に於て数浬を隔てて無線電信の実験を行って好成績を得られ、続いて明治三十三年四月船橋と豆州大津(横須賀)間三十四浬の距離に於て実験を試み首尾よく成功せられました。浅野博士は是等の実験に依って幾多有益なる経験を得られ、同氏工夫の無線電信装置に大改良を加へ、遂に明治三十六年には台湾九州間六百三十浬の距離に於て実験せらるる迄に至りました。(和田亀次郎, 『簡易無線電信機解説』, 1912, 吉岡宝文館, p39)

1916年(大正5年)に、『電気之友』を出版していた電友社の加藤木社長が『電気事業発達史』を編まれ、そこでは1897年(明治30年)11月の試験が月島-台場に変化しています。これは後述する松代氏の1906年(明治39年)の電信協会大阪支会での講演での発言を採用したためと考えられます。

逓信省も明治三十年七月より無線電信の研究を開始し電気試験所長浅野應輔氏は同所電信係松代松之助氏(現日本電気株式会社大阪支店長)其他の所員をして之が研究に従事せしめぬ、依て松代氏は小笠原宇之吉及中村仙之助等を助手として、先づコヒーラーの研究に着手し、約三ヶ月にして略々(ほぼ)之を解決し、同年(M30)十一月品川の台場と月島との間に於て無線電信の実験を行ひ、其の成績稀見るべきものありき、これを本邦に於ける無線通信の嚆矢とす。次で三十一年五月電気試験所に空中線を建設し、同年十一月に至りて漸(ようやく)く通信を為し得る程度に進歩したり。之と殆んど同時に帝国大学、熊本高等学校及海軍省に於ても亦頻(しき)りに無線電信の研究に腐心して・・・(略)・・・』 (加藤木重教, 『電気事業発達史』, 1916, 電友社, pp194-195)

15) 12月25日という日付はどこから来たのか?

ここで明治30年か、明治31年かという話は一旦おいて、『日本無線史』第三巻がいう「12月25日に月島デモ」という日付について考えてみます。

同月(12月)二十五日各方面の有力者、新聞記者等を招待してその実験を公開した。』 (電波監理委員会編, 『日本無線史』第三巻, 1951, p16)

これは松代氏が電気試験所五十年史に以下のように記された文書をなぞったものです。

同月(12月)25日、大学教授、商業学校、陸海軍首脳部、新聞記者等を招待しましてその実験を公表しました。(松代松之助, "回顧談", 『電気試験所五十年史』, 1944, 電気試験所, p715)

そもそもこの12月25日という日付の出典はどこにあったのでしょうか?

逓信省以外の文献を調査していたところ、大変興味深い記述を発見しました。1917年(大正6年)に発行された『日本無線電信年鑑』(加島斌, 1917, 無線電報通信社, 巻末付録"日本及世界之無線電信記録"p8)から引用します。

明治三十年 (西暦一千八百九十七年)

十二月廿四、五両日初めて京橋区月島海岸と芝区金杉沖船舶間に海上一哩を距てて実験を試み成功す

『日本無線電信年鑑』の筆者である加島氏は日本無線JRCの創始者のひとりです。

そこでよく調査してみたところ、他にもこの日付が記された書籍があるようです。1943年(昭和18年)の『日本電気通信史話』から引用します。

当時マルコニーの無線電信の詳細に就ては素より秘密に附せられていたから、理論の研究、機械器具の試作等、研究従事者の苦心は非常なものであったが、翌三十年十二月二十四、五両日 京橋区月島海岸と芝金杉沖の船舶間海上一浬(1海里=1.8km)の間に行った最初の無線電信通信実験に成功を収めた。(奥谷留吉, 『日本電気通信史話』, 1943, 葛城書店, p232)

逓信省の直接の発行ではありませんが、『逓信六十年史』にも次のようにありました(下記明治32年というのは誤植と考えます)。

時の電気試験所長浅野應輔氏は航路標識管理所技師石橋絢彦氏、電信主任松代松之助氏等と協力して無線電信の研究に当たり、明治三十二年十二月二十四、五の両日に亘って、京橋月島海岸と金杉沖にある船舶間の実験を行い、優良なる成績を収め、無線の実用化に曙光を見出した。(逓信六十年史刊行会編, 『逓信六十年史』, 1930, pp137-138)

さらに調べを進めると、なんと同様の記述がある1908年(明治41年)の文献が見つかりました。

而してこの(プリース氏の)演説筆記を掲げし雑誌の、三十年九月中に、我逓信省に到達せしより、同省電気試験所浅野應輔氏は、我国にても早速これが試験を行わんと、その準備に取掛りしは、翌十月の中旬にして、浅野監督の下に、逓信技手松代松之助氏、主としてこれを担当し、器械の製造装置の具合等、苦心に苦心を重ねたる末、ついにその功を奏し、三十年十二月廿四五日の両日、京橋区月島と金杉沖の海上との間、一哩(マイル)近くの距離に於いて試験せるに、すこぶる好結果を得たりき。マルコーニの発明をさる、実に一年五カ月の後なりとす。(石井研堂, 『明治事物起原』, 1908, 橋南堂, p265)

1897年(明治30年)12月24-25日に、月島海岸と金杉沖で1マイル(=1.6km)の無線実験に成功したと、とても具体的に書かれていました。

月島デモは後述する新聞記事が発掘できてますので、12月17日だと特定できます。

ではここでいう、12月24, 25日という日付は何なのでしょうか?哩(マイル)か浬(カイリ)かという違いの他は、一貫して月島-金杉沖の「陸-海」通信でブレていません。きっと何か無線に関する出来事があったのでしょうが、出典が追い込めないため、未だ私には解明できていません。

『日本無線』 第13巻の中の「本邦無線電信年表」では、1897年(明治30年)12月の項に、24, 25日とあります。

『 (明治30年12月) 二十四日及び二十五日 逓信省、京橋区月島と芝区金杉沖船舶間 海上一浬(1海里=1.8km)に本邦最初の無線電信実験を行い成功す (『日本無線史』第13巻)

しかし第13巻年表は「金杉沖」、第3巻本文は「第五台場」だとし、同じ『日本無線史』内で不整合が起きています。

同年(明治37年)冬期京橋区月島の海岸に送信装置(第二・一図)を置き、小船に受信装置をのせ、芝区金杉沖を遊弋(ゆうよく)せしめて通信試験を行い、同年(明治30年)十二月には月島から約一浬(カイリ=1.8km)を隔てた品川沖の第五台場に装置した受信機によく感受し得るまでに成功したので、同月二十五日各方面の有力者、新聞記者等を招待してその実験を公開した。これが我国に於ける無線電信試験の嚆矢(こうし)であって、品川沖の第五台場は今公園になっているが、ここが我国における無線電信の発祥地である。(『日本無線史』第3巻)

全13巻からなる『日本無線史』の最終13巻は無線関係の条約・法令と無線年表が収録されました。各巻ごと(あるいは記事単位で)に筆者・編集者が別なので、このようなケースがあるようです。

ちなみに『日本無線史』第13巻の年表の1898年(明治31年)5月の欄には以下のような記述もありますので紹介しておきます。

『 (明治31年5月) 逓信省電気試験所に空中線を建設し、十一月に至り無線通信の実験に成功す(『日本無線史』第13巻)

この1898年(明治31年)5月にアンテナを建設し、11月に通信実験成功の記事の出典を、次に紹介します。

16) 松代氏が1906年6月16日に大阪の電信協会で「月島-台場通信」を語る

少し年月が経過した1906年(明治39年)の松代氏の講演によれば、本当の意味で、満足な通信ができるようになったのは1898年(明治31年)11月とのことです。

松代氏は1900年(明治33年)2月より嘱託として海軍へ派遣され「三四式無線電信機」を完成させたあと、電気試験所に戻ってからは他の分野を担当し、1905年(明治38年)10月に退官して日本電気へ移られました。『日本電気株式会社七十年史』年表によると、1906年(明治39年)2月19日に開設された日本電気大阪支店の初代支店長に就任されています。

大阪支店長就任直後で多忙を極めていた松代氏に、日露戦争(1904-1905)を勝利に導いた無線電信を記念して、電信協会大阪支会より講演依頼が舞い込みました。

そして1906年(明治39年)6月16日、電信協会大阪支会第二回総会で話されました。『電信協会会誌』第164号(1906.8.28)より引用します。

実は私はこの頃少し方角違いの仕事に従事して居りまして、その方の用向で忙殺されて居りまする為に、少しも前に用意をしなかったのであります。ほとんどその時を得ませんでしたというと、たいそう繁昌に暮して居るというお考えもございましょうが、それは違っていて私の鈍腕なるが為に非常に多忙に暮らして居るのでございます。

少しも用意をしなかったのはそういう訳で止むを得ません。で実は今日ここへ来る前に参考になる写真と自分の著した書物と、これだけ携えて参りまして、自分の記憶を呼び起こして、少しすこしご参考になるだけのことをお話したいと考えて居ります。(松代松之助, "本邦無線電信の来歴並に実用として無線電信の価値", 『電信協会会誌』第164号, 1906.8.28, pp31-32)

冒頭で松代氏は講演の準備不足について述べられたあと、9年前の無線開発スタートの頃の話をされました。参考資料として持参されたのは自著現時ノ無線電信(松代松之助, 電友社, 1905)だと思われます。これを見ながら(見せながら)の講演だったのでしょう。

まず1897年(明治30年)のお話です。ここに11月に月島-台場通信が登場します。

『それは明治三十年の夏の暑中休暇の時であります。よってその暑中休暇の午後の時間を利用して研究を始めた。その研究は最初にコヒーラーの研究に掛ったので、これは西洋でも当時の研究問題であって、コヒーラーの動作なるものは疑問に属してあった。・・・(略)・・・そんな訳で私は先ずこのコヒーラーの研究に掛ったが、こういうことはそう沢山に人は要らぬから、その頃試験所に在った小笠原宇之助氏が午後残っていても差支えないということであったから、この人に手助けをして貰って研究することになった。それから中村仙之助という人、これはこの間まで高松で機械係長として居られた人で、その時分には試験所に職工を奉職して夜分は工手学校へ通って居た特志者でございましたが、この人が機械製作を引き受けてくれて、御蔭でしきりに研究を遣(や)りました。それで漸(ようよ)うコヒーラーの解決は付きました。そこで先づ一つ実験を遣ろうと言って始めましたのが、丁度(ちょうど)その年(明治30年)の十一月、品川の台場と月島との間に於て試験を行いました。その時の図書がございますが、後で御覧に入れることとしましょう。その時になりましてはもうソロソロ成功に赴いて来ましたが、大体こういうことというものは、一人や二人で研究した所が駄目である。殊(こと)にこの機械というものは、総て最初の進歩しない間というものは、機械は多くの人の力に助けられて働きをする。・・・(略)・・・なおまたこれから通信を遣るということになれば、なるべく熟練者の数を拵(こし)らえて置かねばならぬというので、その頃私の配下に居りました二十人ばかりの人を加えて都合よく交代させて研究を進行することにしました。彼處(あそこ)に居られる浅沼君もその一人あったのでございます。何れも非常に熱中して研究しましたが、三十年中はこれという宜(よろし)い成績も出来なかったのでございます。』 (松代松之助, 前掲書, pp38-40)

1897年(明治30年)11月に「月島-台場」の試験を行ったというお話ですが、私には11月の段階でいきなり月島-台場のような遠距離試験を実施されたとは考えにくいです。

話の流れからは『丁度その年』の、"その年"とは明治30年ということになります。しかし松代氏の「現時ノ無線電信」(1905年, 電友社, p9)には実験機材が並んだ月島の"有名な"写真が掲載されていて(この写真は日本無線史にも使用されました)、写真の真上に『明治三十年中東京月嶋ニ於ケル逓信省無線電信実験』という説明が付けられています(下図)。これも明治31年説を裏付ける重要な証拠のひとつです。

ということは松代氏はこの本を出した1905年(明治38年)には「月島デモは明治31年」だと認識していたことになり、翌1906年の講演で、たまたま話の順序がもつれたと想像します。

以上は "明治30年11月" の話題です。

16) 1898年(明治31年)11月に最初の「月島-台場」通信成功か?

次に1898年(明治31年)の話です。ここで "明治31年の11月" の話題が出てきます。講演記事からの引用を続けます。

『それから三十一年に亘(わた)りまして色々研究を致しました。今度はその五月頃に柱を建って、いよいよ本式に研究を始めました。これまではどうも思わしく行かなかったが、三十一年の十一月に到って先づ通信が出来るようになった。先づ不十分ながらとにかく通信が出来るようになりました。そのときの写真もここにございます。さてこれで通信は出来るようになったが、とにかくこういうことというものは広く世間に発表するに限る。先づその第一の研究の結果を見て、第二の研究者が出来、また第三の研究者が出来るというような具合で、それらの多くの人の力に依って遂にこれが完成するのであるから、なるだけ広く発表するが宜しいという趣旨に依って、大変にそこいらへ御吹聴した次第でございます。』 (松代松之助, 前掲書, pp40)

● 日本初の無線の混乱はここから始まったのではないか?

松代氏のお話では1897年(明治30年)の実験は、けして「通信に成功!」と自慢できるレベルではなかったようです。そして『三十一年の十一月に至って先づ通信が出来るようになった。』とありますが、どこと、どこで通信が出来るようになったかが省かれています。この文脈からだと、5月にアンテナを建てた電気試験所から、どこかと通信できるようになったと受け取れます。しかし一旦、5月のアンテナの件を忘れて、先ほどの(明治30年の)『丁度その年の十一月、品川の台場と月島との間に通信を行いました。』をはめ込むと、どうでしょうか。そして『その時の図書がございますが、後で御覧に入れることとしましょう。』といわれた写真が、いまここ(明治31年の話の中)で『そのときの写真もここにございます』と披露されたとは考えられないでしょうか。

つまり明治31年の「月島-台場」デモが1年手前の明治30年だと言われるようになったというよりも、明治31年11月の「月島-台場」予備実験が1年手前の明治30年に誤認識されたことがそもそもの混乱の始まりで、予備試験がうまくいったので翌12月にデモを実施したが、デモは自動的に明治30年12月に行ったという事になってしまったと私は想像してみました。

日本無線史に利用された、松代氏の回顧談には(11月ではありませんが)デモの前に予備実験に成功したとあります。

『同年(明治30年)12月には月島より約1浬を隔てた品川沖の第五台場に装置した受信機に能く感受し得る迄に成功しましたので、同月25日、大学教授、商業学校、陸海軍首脳部、新聞記者等を招待しましてその実験を公表しました。』 (松代松之助, 回顧談, 電気試験所五十年史, 1944, 電気試験所, p715)

17) 1897年(明治30年)12月27日に海上試験が行われた!

ここまでを時系列に整理します。1905年(明治38年)に松代松之助氏が逓信省を退官され、その直後より「日本初の無線」の日付や場所が様々に語られるようになりました。

まず1908年(明治41年)の「明治事物起原」(石井研堂著)で"1897年(明治30年)12月24-25日に月島と金杉沖の1哩(マイル)"の海上通信とありますが、その出典は不明です。

次に1912年(明治45年)の「簡易無線電信機解説」(和田亀次郎著)には"1897年(明治30年)11月に、品川湾で数浬"の実験を行ったとしています。これは1906年(明治39年)6月16日の松代氏の発言(電信協会大阪支会での講演)によるものでしょう。そして1914年(大正3年)の「無線電信・無線電話」(逓信省編)に、"1897年(明治30年)に、品川湾の台場と月島で通信に成功"という記述が登場します。

1944年(昭和19年)の「電気試験所五十年史」(電気試験所編)巻末の余録「回顧談」で松代氏が"1897年(明治30年)12月25日に、月島と第五台場の1浬(カイリ)"と記され、この文章が日本無線史にコピーされ、現代に伝えられています。

私が抱いた疑問の一つが、1897年末に海上通信試験が行われたのだろうか?ということでした。というのも若井氏は12月13日に逓信省構内でデモンストレーションがあっただけで、1898年12月の月島・台場試験が1年間違えて1897年12月と伝承されたのではないかとされていたからです。12月もあと半月を残すだけですから、年内中に海上テストを敢行したかは怪しいものだと考え、私は特に調査しませんでした。ところが後で気づいたのですが、翌1月の読売新聞によると、なんと年末12月27日に試験が行なわれていました。

『無線電信愈よ効を奏す

逓信技師浅野、松代両氏の苦心して計画せし無線電信の件に関しては舊臘(きゅうろう=昨年12月)詳記する所ありし(12月15日掲載の逓信省構内デモの記事)が、当時試験せしものは僅(わずか)に1町半の距離なりしをもって、両氏はなお長距離に於てこれを試験せんとし、舊臘27日(昨年12月27日)には品川沖に伝馬船を浮かべこれに機械を据えて一マイル十四町(=1.5km)間に実験せしに、その成績甚だ良好にして明瞭に音信を検出したりという。依って同省にてはなお長距離に実行せんとて今回一尺の火花を放つべき誘導捲線の新調にかかり、来(きたる)四月頃には出社する筈(はず)なればその上にて海底電線の通ぜざる某灯台に据付くる筈なりといえり。』 (読売新聞, 1898.1.14, p2)

時期

1897(M30).12.27

場所

???-品川沖

通信距離・その他

???から14町(1.5km)の品川沖まで実験

陸地側の試験地点が不詳ですが、品川沖から距離1.5kmに相当する海岸が思い浮かびません。現在のJR品川駅とお隣のJR田町駅は営業キロで2.2km、直線距離だと約2kmですからこの3/4しかない近距離にある海岸とはどこなのでしょうか。この距離が概略表記かも知れませんが、築地海岸や月島海岸までだと3km以上も離れていてあまりにも違い過ぎではないでしょうか。しかしもし品川沖ではなく「金杉沖」だったとすれば、陸地側が築地海岸にしろ、月島海岸にしろ、距離1.5kmは非常に良くフィットします。

松代氏らはこの年末の試験で自信を付けたようで、もっと強力な火花送信機に改造して追試を行うことを決めました。

18) 1898年(明治31年)3月15-16日あたりに海上試験の追試も!

1898年3月6日の東京朝日新聞と読売新聞の記事を引用します。両紙ほぼ同文ですので逓信省からプレス発表があったのでしょう。

『無線電信

逓信省にて試験せし無線電線(原文まま)はその結果頗(すこぶ)る良好なりしも何分短距離の事なりしが、今回は長距離に於て試験する事になり、既にその機械等も注文しあれども、目下担任山内技師が沖縄丸に乗組み海底電線敷設中なれば、何(いづ)れ山内技師等が帰京の上、これが試験に着手する趣なり。』 (東京朝日新聞, 1898.3.6, p2)

『無線電信の長距離試験

先頃逓信省にて試験したる無線電線(原文まま)はその結果頗る良好なりしも何分短距離なりしをもって、今回は長距離に於て試験することになり、既にその機械等も注文しあれども、目下担任山内技師が沖縄丸に乗組み海底電線敷設中なれば何れ山内技師等帰京の上にて、試験に着手する都合なりという。』 (読売新聞, 1898.3.6, p3)

注文していた強力火花を作り出す誘導コイルも入荷し、また担当技師も出張から帰ってきたので、さっそく腕試しが行われました。山内技師については詳細不明です。その結果を3月17日の東京朝日新聞より引用します。それにしても「試むるを得たり」とはなんとも中途半端な感じがしますね。

『無線電信成績

過日来主任技師不在の為に見合わせとなり居るし無線電信試験は二 三日前、技師帰京せしにより試験を始めたるが、その成績頗る宜しく大約(おおよそ)二哩間(2mile=3.2km)の音信を試むるを得たりといえり。』 (東京朝日新聞, 1898.3.17, p2)

時期

1898(M31).3.15 ?

場所

---

通信距離・その他

2哩(3.2km)まで実験

それでは以上の情報から日本初の無線の謎を推理してみます。

19) 推理[1/4] ・・・1897年(明治30年)10月まで

1896年(明治29年)10月にマルコーニの無線の知らせを受けた浅野氏は松代氏に無線の調査を命じましたが、参考となる資料がなく、1897年(明治30年)春になって雑誌エレクトリシャンが到着しました。また同じ頃にヘルツの本も入手できて、ようやく本格的な研究を開始できました。1897年10月までの出来事は、若井氏のおっしゃるとおりだと思います。

ちなみに10月1日の初の室内通信実験はコヒーラーの誤動作があり、屋外へ出て解決したとの若井氏の記事から、屋外実験(TX:屋内, RX:屋外)も含むと解釈してみました。

『こうして松代はその年(1897年, 明治30年)の10月1日に初めて室内実験を行なった。ところがコヒーラがくっついたまま離れない(もとの絶縁状態に戻らない)。調べてみると原因は近くの電信機である事が分かり、戸外へ出たら正常に感動(コヒーラが電波に感じて動作することを当時はこう表現していた)した。』 (若井登, 日本の無線電信機開発(その1), 1998.5, ARIB機関誌, p33 )

【注】 当時の電気試験所は逓信省の中にありました

さて、そのあとの半年間をどう解釈するかが難問です。

20) 推理[2/4] ・・・1897年(明治30年)11月-12月の試験

1898年(明治31年)6月頃と思われる電気学会講演会での松代氏は『それで私は品川の沖で実験したのも矢張り此方法に拠ってやったのであります。』、『まだ漸(ようや)築地の濱金杉の沖と両方でやりましたが其(その)時は波が来て機械が転覆するようになり其内に夜に段々入って試験を中止しました。其時は遠くに確かにいったように考えますが、(正確な到達距離を)どうも断言してどの位と云ふことは言はれませぬ。』と話されました。登場した地名は「築地の浜」、「金杉沖」、「品川沖」の三ヶ所だけです。私は「月島」という地名が登場しない事実に強く着目しました

海上試験は1897年11月,12月,1898年3月の計3回行われていますが、強引にこの3つの地名だけを当てはめて推理を進めることにしました。それが下表です。

まず6)の初の海上試験(11月)から考えてみますが、その前に逓信省の位置関係を確認しておきましょう。

下の地図の赤で塗った所が逓信省でその構内には200mほどの小さな川(堀)がありました。また地図の黄エリアが明治維新以来の海軍省ゆかりの地です。9年前に広島県江田島へ移転した海軍兵学校の跡地と校舎を "海軍大学校" が、また3年前に霞が関に新築され移転した海軍省の旧庁舎を海軍省の外部団体 "水交社" が使っていました。黄色エリアの中央付近にはひょうたんの様に並んだ2つの池があります。春風池(北側)と秋風池(南側)で、このあたりは江戸時代に松平定信侯が造園した "欲恩園" という日本庭園でした。また水交社の南側にあるのは"大池"です。地図の緑エリアは宮内庁が管理する浜離宮です。

では松代氏が無線実験をしたとおっしゃる "築地海岸" はどこなのでしょうか?皇室の浜離宮を使うのは無理でしょう。また海軍省管理地よりも東側(上流)は、月島の出現で(海岸とは呼べない)川岸に変化していますし、水運の要所で川岸には多くの船が係留され、見通しが悪く実験には適しません。

以上のことから消去法により、松代氏は海軍省管理地の海岸で実験を行ったと想像しました。前述の若井氏もここから金杉沖までの距離を求められましたし、ここの海岸なら海軍以外の船が係留されることもなく、東京湾へ向けて実験がしやすいはずです。

"お隣さん"の逓信省電気試験所の学術的な実験だといえども、軍の管理地に立ち入るのは本来簡単ではないと思います。幸いこの時期(明治30年)に、ここを使っていたのが非戦闘組織である海軍大学と水交社だったため、使用許可が下りたのではないでしょうか。

下図[左]が木挽町にあった逓信省でここに電気試験所がありました。現在でいう銀座8丁目の築地側です。構内の地点Bが12月13日にプレスへ公開実験した川(堀)です。10年後の1907年(明治40年)1月に焼失し、宮殿のように立派な庁舎へ生まれ変わります(1909年6月)。そして下図[右]が地図の地点Aから見た海軍大学の校舎です。

1897年(明治30年)10月1日、無線機が完成し逓信省構内で実験がはじまりましたが、改良によって到達距離が伸びはじめると、研究者ならもっと広い場所で試したくなると思います。ですがいきなり舟に無線機を積んで海上試験にコマを進めるのはいささか唐突ではないでしょうか。

逓信省の南端にあった大日本製薬から水交社へ掛かる橋を渡って"大池"をぐるっと迂回すればすぐに築地の浜に出られます。そして(例えば水面を挟んだ地点C-D間で)陸-陸実験をまず行った可能性が考えられます。地点C-D間の海域は大正末期から埋め立てが始まり、現在では築地中央市場の一部です。

大正時代になると海軍管理地の海岸側には海軍技術研究所の母体となった海軍造兵廠、海軍艦型試験所や海軍航空機試験所が置かれましたが、この1897年頃の海岸側は空き地に何棟かの倉庫があっただけだのようです。

● 1897年(明治30年)11月の初の海上試験

そしてこの(C-D間の)距離も克服できるようになると、一体どこまで届くのだろうと思ったのでしょう。そこで小舟に無線機を積んで築地海岸から少々離れてみたのが、1897年11月に行ったとされる実験だと私は考えました。しかしまだ無線機の性能も低く、移動する小舟へパラボラの向きを合わせるのが大変で、小舟がはっきりと目視確認できる、せいぜい数百m範囲での実験だったのでしょう。

● 1897年(明治30年)12月27日の海上移動試験

12月13日に逓信省構内でプレスデモを行い、逓信省が自力で完成させた無線を世に発表(読売新聞12.15)しました。そして年が明けた1月12日の読売新聞では12月27日に品川沖まで試験したと報じていますが、距離の辻褄が合わないので、この試験では無線機を積んだ小舟を金杉沖まで進めてみたのではないでしょうか。

しかし松代氏が電気学会の講演会で『築地の濱金杉の沖と両方でやりましたが其時は波が来て機械が転覆するようになり其内に夜に段々入って試験を中止しました。其時は遠くに確かにいったように考えますが、どうも断言してどの位と云ふことは言はれませぬ。』と語られたとおり、実際にはパラボラが倒れたりして通信試験に集中できなかったようです。

小舟が金杉沖まで行ったのは確かだとしても、トラブルが続く中で、GPSの様な即位システムがあるわけでなし、また対岸の景色を見ても12月で日が暮れるのが早く、自信をもってどの辺まで通信できたと報告できるような状況ではなかったのでしょう。

21) 推理[3/4] ・・・1898年(明治31年)3月の海上試験

築地海岸付近は隅田川の河口で、多くの船で賑わっていました。川向こうの島が埋立地の月島新開地で渡し舟しか交通手段がありません(まだ橋が無い時代)。小舟で実験したのなら、その小舟でまず対岸E地点(月島)に機材を運んだ可能性もありますが、もし何か機器にトラブルがあった時に、すぐに逓信省(電気試験所)に道具を取りに戻れる(たとえば)D地点で実験する方が安心です。1897年12月27日の実験では、わざわざ月島へは行っていないと思っています。

次に1898年3月15日頃に行った試験は、前回よりも火花送信機のパワーを上げましたので、より遠くまで届くことを想定するのは当然でしょう。12月27日の試験が金杉沖まで行ったのなら、今度はそれを超えて、品川沖まで船を進めてみたと想像しました。

松代氏は『私は品川の沖で実験したのも矢張り此方法(注:マルコーニの接地式垂直アンテナ)に拠ってやったのであります。』と講演会で語られていますので、この品川沖の試験からパラボラは使わなくなり、接地式垂直アンテナにしたのではないでしょうか。そして前回同様、この実験も到達距離を明言できるような状況ではなかったようです。

ということで、1898年3月までの海上試験はすべて逓信省から徒歩圏にある築地海岸で行われ、その最大到達距離は明言できないというのが私の推測です。唯一距離がハッキリしているのが12月13日の陸上試験150mだけです。

22) 推理[4/4] ・・・1898年(明治31年)12月17日 海軍等へのデモンストレーション

日本無線史に『同年(明治30年[1897年])十二月には月島から約一浬(カイリ=1.8km)を隔てた品川沖の第五台場に装置した受信機によく感受し得るまでに成功したので、同月二十五日各方面の有力者、新聞記者等を招待してその実験を公開した。』とありますが、海軍軍令部が日露戦争を総括しまとめた海軍の公式報告書『明治三十七八年海戦史』(防衛省防衛研究所所蔵)には1898年12月にデモンストレーションが行われたことが記されています。

『明治三十年(1897年)夏「マルコニー」式無線電信法の始めて本邦人に知らるるや、逓信省電気試験所長工学博士浅野應輔は、逓信大臣子爵芳川顕正の旨を受け、同省通信技師松代松之助をしてこれが研究に従事せしめ、同年冬東京月島に於いてこれが実験を試み、予期の成功を得て、翌年(1898年)十二月その実験の結果を公示せり。これを本邦に於ける電波式無線電信応用の嚆矢とす。』 (海軍軍令部編, 明治三十七八年海戦史 第四部 巻四, 第三章 無線電信/第一節 開戦前に於る無線電信/第一目 無線電信の研究, 1911, p105)

【参考】 「明治三十七八年海戦史」は日露戦争に関する一切合切を記録し、もし次の戦争があったときの参考に資する目的で海軍軍令部により編纂されました。作業は1905年(明治38年)12月に始まり、各方面から資料が収集され、1911年(明治44年)3月にようやく完成した膨大な(12部138巻)な史料でもあります。当時のお金で13万1,518円をかけた海軍省内でも「極秘」指定の資料でした。

それだけではありません。以下の新聞記事から公開デモは1898年(明治31年)12月17日だったと特定できます。翌12月18日の読売新聞に速報が載りました。明治30年ではなく明治31年の新聞です。

無線電信実地試験

逓信省電気試験所の松代松之助氏が担当に係る無線電信は種々なる研究を遂げたる後、昨日月島台場間の遠距離試験を行いたり頗る好成績なりし。委細は明日の紙上に記すべし。』 (読売新聞, 1898.12.18, p1)

そして予告通り、翌19日になって詳しく報じられました。公開デモは明治31年というのが正解でしょう。

無線電信実地試験の模様 逓信省電気試験所の松代松之助氏が一昨日月島に於て無線電信の実地試験を為したることは昨紙に報じたるが、今その模様を記さんに電機(無線機)据付の場所は月島の西端を本拠とし、その東南岸五丁(5町[丁]=545m)を距てて支部を置き、互に発信受信の二機を備えて通信し、台場には機械不足の為めに単に受信機のみを置き、その感否を試みたるにいづれも好成績にて電気試験所の当初の目的は首尾よく成功したりというべし。・・・(略)・・・もちろん逓信省は既にこの実験に好成績を挙げたれば、なお進んで遠距離試験を行うや否やは未定のよしなれども、陸海軍に於ては大に望みを嘱してこれを使用すべきの勢いありと。当日参観したるは主に陸海軍武官その他電気学者等にて、松代氏は試験の傍ら自己の実験せる所を懇々説明したり。』 (読売新聞, 1898.12.19, p2)

月島二号地の西端(地図のE地点)が実験本拠無線局、南端(地図のF地点)が実験支部無線局でそれぞれ送受一組を据付けて、両地点間で相互交信をデモしたほかに、台場には無線機の数の都合で受信機を設置しこれらの交信の傍受に成功しました。すなわち受信機は3台あったが、送信機は2台しかなかったようです。

上図[右]は日本無線史第三巻にも使われた月島デモの有名な写真です。実験機材がテーブルに並べられています。これが来賓を招いた西端本拠なのか、あるいは南端支部なのかは分かりませんが、両地点同じような構成だったと想像します。テーブル中央後部に木柱が立っていてここに架線していますので、これを使って垂直アンテナを引っ張ったのでしょうか。テーブルの後ろには背の高い草(?)が生い茂り、さらにその後方は海のようです。

この写真は松代氏が逓信省を退官した1905年(明治)に出された「現時ノ無線電信」に使われたもので、『明治三十年中東京月島ニ於ケル逓信省無線電信実験』という説明が付けられています。月島デモは1898年(明治31年)で間違いないでしょう。

なお月島デモンストレーションの日付けを12月24日や25日とする文献(日本無線史など)がありますが、12月18,19日の読売新聞だけでなく、12月20日の東京朝日新聞の"黄塵録"にも以下のように載っています。デモが24日や25日というのは矛盾します。

『無線電信の試験 月島に挙行 好成績を呈す 小役人連中また無線電信の恵に頼らんとを欲するや否や』 (東京朝日新聞, 1898.12.20, p7)

ちなみに当時の月島二区がどんな土地だったかの記事を引用します。私には日本語が難しすぎて、難解単語が続出ですが、とにかく凄く寂しい所だったようです。

『埋立工事作成の後、日まだ浅ければ、新開地の人家希少、・・・(略)・・・第二区は日本鋳鉄会社建築物および水道鉄管置場のほかは、雑草離々、何通何丁目としたる木標、原野に乱立せり。・・・(略)・・・その西端、波打際(ぎわ)に立てば、浜離宮より増上寺の森、芝浜、高輪、品川の風致、台場は近く海面に浮び、欹帆仄帆(きはんそくはん)神奈川に亘り、水天髣髴間(すいてんほうふつのあいだ)、帝国軍艦の陰影を認むることありとなむ。波に寄りて竿を投ずれば、鮮鱗、輪端に踊り、洋々として波間に漂う青海苔また啜(すす)らるべし。時に縉紳(しんしん)、海岸の嘱望撰びて別所を構えるも、寥々(りょうりょう)として空地を存せり。地価を問えば、市参事会にて、一坪七厘ないし一銭五厘位にて、貸与するなりといえり。東京市中、しかも銀座市街を有する京橋区内に於て、広漠たる原頭、雨淋風打の痕繁(あとしげ)く、粛々また寂々然たり。俄然、寂莫を破るものあり、淩雲の煙突ならびに鍛鉄造船の響なり。』 (新撰東京名所図会 第31編, 1901, 東陽堂, p31)

この公開デモの1カ月前(明治31年[1898年]11月)に月島-台場で事前試験が行われたようです。しかし1906年(明治39年)6月16日の電信協会大阪支会での松代氏講演で、その事前試験が(1年手前の)明治30年[1897年]11月だと誤解釈されてしまい、その結果、公開デモも(1年手前の)明治30年12月になったと私は想像しました。

23) 日本初の無線の謎に関する私見のまとめ

「月島-台場」通信に関しては100年前から逓信省内において、1897年(明治30年)末だとする文献(左図[左]:逓信省編, 1914年[T3.120]発行)と、1898年(明治31年)12月だとする文献(左図[右]:逓信省編通信局工務課編, 1918年[T7.10.20]発行)の両方が存在していました。そして前者の記事の方が、脈々と第二次世界大戦後まで伝承されてきたようです。 一方、逓信省内で無線局の設計・施工・保守・管理をしていたのが通信局工務課で、ここに無線に関する一切の情報が集まってくるのですから、後者の文献の信憑性も相当高いはずです。

1914年(大正3年)にはもう記録の混乱が始まっていたのはなぜでしょうか?私は松代松之助氏が1905年(明治38年)という早い時期に、逓信省を退官し、日本電気へ移られたことが要因の一つだと考えています。

退職により、実際に無線実験を担当した松代氏による校閲がなされることなく逓信省で無線史が次々出版され、また松代氏も歴史的資料を逓信省に残して退官されたため、時の経過とともに記憶が曖昧になっていったのではないだろうか。私はそう想像してみました。

そして月島-台場間の試験は、新聞記事によると1898年(明治31年)12月17日に行われていました。月島-台場の試験が1897年(明治30年)ではなく、1898年(明治31年)なら、この通信は日本初ではないことになります。本ページに「日本初の無線の謎」というタイトルをつけた以上、日本初の無線についても私なりに整理してみました。

隅田川の水面を使って導電式無線の実験をされた志田林三郎氏や、ヘルツの火花実験を追試験したことを学会発表された長岡半太郎氏は別として、空間波によりメッセージを伝達する無線通信を最初に為したのは、疑う余地なく松代松之助氏です。では松代氏の行ったいくつかの試験の内、どれをもって日本初だったと考えればよいでしょうか。

まず陸上通信としては逓信省構内で行われた1897年(明治30年)10月1日と12月13日の実験が挙げられます。前者10月1日は無線機を完成させる過程における調整行為だと考えられ、(実験本番より、機械の組立て調整のほうが先なのは当たり前のことで、)これは除外します。12月13日のプレスデモは読売新聞社の記者が立会い、実際に送受信機の間に記者が立って、それでも電波が(体を透過して)通信できたことなどを述べていますし、送達された電文もはっきりしています。つまり通信した距離と電文が明らかで、逓信省関係者以外の証人がいて、かつ新聞記事として世間に公表されていますので、「1897年12月13日、逓信省構内で距離150mのプレスデモを実施」は無線史に記録されてしかるべきものでしょう。

次に「陸-海」通信としては少なくとも同年11月、同年12月27日、翌1898年(明治31年)3月中旬の計3回の試験が行われたようです。陸上局はすべて築地海岸に設営され、小舟の位置は技術改良の都度、築地周辺(11月)→金杉沖(12月27日)→品川沖(3月中旬)と、遠進させていったと考えるのが自然です。松代氏ご本人が電気学会で「通信距離は明言できない」と証言されているのに、第三者が地図上で計って「1.8km」だとかと具体的な通信距離を断定するには抵抗を感じます。

とはいえ金杉沖や品川沖まで小舟を進めたのが事実なら、たとえ途中までしか通信できなかったにせよ、12月13日の逓信省構内デモの150mよりも遥かに遠くまで届いたはずです。この点が歴史を記録する者には残念であり、悔しくもある部分なのでしょう。

それが「本邦電信史資料」(逓信省通信局工務課編, 1918年[大正7年])の、『(明治30年)十二月之(これ)ヲ東京湾ニ試ミ、超ヘテ翌明治三十一年(千八百九十八年)十二月 月島及品川台場間 海上三浬ノ距離ニ於テ試験シ良好ナル成績ヲ得タリ。』という表現だったのではないかと思います。12月27日の実験を『東京湾に試み』としましたので、これを読む人は(後の)月島-台場の距離の半分くらいは届いたのかな?と勝手にイメージするでしょう。 【注】 なお明治31年12月の月島-台場間の三浬(海里)というのは地図で計っても長すぎなので、これは誤りでしょう。

それでは私の推理をまとめて文章にしてみます。大正7年の「本邦電信史資料」(逓信省編)をベースにし、肉付けしたものです。

「松代松之助技師は1897年(明治30年)11月より築地海岸と小舟間で通信試験を始め、同年12月13日に逓信省構内の150mの距離でプレス向けに無線通信のデモンストレーションを実施した。そして12月27日には金杉沖まで実験し、翌年3月には火花送信機の改良や接地式垂直アンテナの採用により、品川沖まで小舟を進めたが、これら陸-海通信の正確な到達距離は計測されていない。

1898年(明治31年)11月、ようやく通信用としての性能を満たすようになり月島-台場での通信に成功したため、松代技師は大々的なデモンストレーションを企画し、同年12月17日月島二区に西端実験局(現:勝どき3丁目15番付近)を設け、陸海軍武官、学者、報道記者を招待して、530mほど離れた南端実験局(現:勝どき4丁目14番付近)との双方向通信を披露し、来賓たちを驚かせた。その交信の様子は南方へ3.5km離れた第五台場に設置された受信所でも傍受された。

冒頭で述べましたが、私は日本の無線の初期を研究テリトリーとしておらず、ただちょっと調べてみただけの"素人発表"です。あまり参考にはならなかったと思いますが、謎に満ちた明治30-31年の無線について、より多くの方々に興味を持っていただければ幸いです。 【注】 月島-台場試験が行われたとする12月24, 25日に、きっと何かがあったとは想像しますが、結局わかりませんでした。

24) 1898年(明治31年)12月17日の月島デモの目的

本ページを書いて、私はある事に気付きました。

100年以上にわたって、「逓信省の無線が月島-台場間の通信に成功した」と、その "遠距離到達性能" ばかりが伝えられてきました。しかし松代氏にとって、このデモンストレーションの目的は月島-台場通信ではなく、月島二区の西端実験局(E:本拠)と南端実験局(F:支部)間の530mで行う双方向通信の方だったという事です。

1898年(明治31年)12月17日の様子を想像してみました。西端実験局に集めた来賓を前にして、松代氏が「あそこに小さく見えます南端にも、ここと同じ無線機を設置して、係員を待機させております。それでは只今より南端実験局にいる係員を呼び出してみせませう。」と無線機を操作します。こちらからの呼び掛けに対し、即座に応答が来て、来賓一同は無線の偉力に驚きました。まやかしではないかと信用できない一部の人達は南端無線局まで電波が届いている様子を見に行ったかも知れません。530mですから歩いても数分間です。

送信機2台と受信機3台しかなく、もし"遠距離到達性能"を示したいのなら、台場に送・受信機をセットするはずです。しかし台場には受信機しか置きませんでした。これだと月島からの一方送信なので台場に電波が届いたかは、(月島にいる)来賓には分からず、デモンストレーションになりませんね。だから台場の受信試験は「おまけ」だったと思います。

もし台場との双方向通信のデモを選択した場合、いくら応答が来ても、「本当に台場からの応答なのか?川向こうの築地から隠れて応答しているのじゃ?」と疑われるかもしれません。そんな時に「どうぞ届いている事をその目で確かめて来て下さい」とはいえない(海の向こうの)台場よりも、歩いて行ける月島二区南端に送・受信機をセットしたのではないでしょうか。

無線の初期は到達距離の長さが無線機の優秀さを示すバロメーターですから、逓信省の歴史記録としては「月島-台場」間という距離のことばかりに注目するのは当然です。しかし松代技師は距離のことより、電線がないのに離れた地点と通信できる「神秘の無線」を関係者達に信用してもらえることを第一義に、530mの通信の方を選んだと私は思いました。

デモ翌日(12月18日)の読売新聞は単なる速報だけで、19日になって詳しく報じられました。月島会場にいた読売新聞の記者には、デモ当日中に第五台場でも傍受に成功したかを確認できなかったため、とりあえず18日は速報だけ伝えておき、第五台場で傍受できたのかを逓信省から返答を受けた上で19日の記事にしたのかもしれません。つまり月島-台場試験はデモとしての即時性に欠けるため、やはりこの日の主目的は西端実験局と南端実験局で相互通信を披露することだったのでしょう。

追1) 実験は第5台場ではなく第3台場か? <新説> ・・・2015年12月26日更新

まず古い時代から調べるのが私の習慣になっていて、近年の文献調査をおろそかにしていました。先週、ふとしたことから福島雄一氏が、「にっぽん無線通信史」(朱鳥社, 2002)で、第三台場説を発表されているのを知りました。大変説得力のある説ですので、ここに引用してご紹介します。ちなみにプロフィールによれば福島氏はアマチュア局JA1BZM(ex JA8BO)で活躍をされているそうです。

『 (4)お台場とはどこを指すのか

従来の定説は、月島-第五台場間、約1浬であるが、場所および距離の点で、やはり問題が認められる。結論から言えば、実験場所となったのは第五台場ではなく、第三台場が正しい。従来説の根拠は、(3)で触れた松代の50周年記念講演の表現によるところが大きいと判断されるが、この点を解く鍵は二つある。その一つは相互間の距離、他は台場のその後の状況である。

まず、月島は、海中に見え隠れしていた洲を明治以降になって埋め立てた人口島(1号地~4号地)であるが、明治30年代の当時では2号地(現在の勝どき1~4丁目)までしか完成しておらず、第五台場までの距離は最短でも約2.9kmであった(当時の市販地図で、実際は3km超)。これを約1浬とするのは、いくらなんでも無理があろう(次頁地図参照)。

次に、同じ講演で松代は、「品川沖の第五台場は今は公園になっていますが、ここが我が国における無線電信の発祥地なのであります・・・」(電気試験所五十周年史)と述べている。お台場は、幕末に四番を除き一番から六番が完成したが、このうち第三と第六が大正15年に国から史跡の指定を受け、さらに第三台場は公園となった。月島(明治30年当時)からの距離約1浬で公園になった台場といえば、第三台場をおいてほかにはない。』 (福島雄一, にっぽん無線通信史, 2002, 朱鳥社, pp19-20)

福島雄一氏はまず「月島-第五台場の1浬(=1.8km)」という距離の表記が短すぎる点を指摘され、第五台場に疑問を投げかけています。これについては若井氏と同じ指摘です(ただし若井氏はこの距離を築地-金杉沖とした)。

そして電気試験所五十年史にある松代松之助氏の「余禄-回顧談」の『第五台場は今は公園になっていますが』という言葉から、通信試験は第五台場ではなく第三台場だと推定されました。

そこで再び、現代の国土地理院の地図に当てはめてみたところ、大体ですが月島の実験本拠(赤丸)からは2.8kmで、実験支部(黄丸)からだと2.4km程の距離に第三台場があります(左図)。これで1浬(=1.8km)という数字との乖離は(第五台場の時よりも)小さくなりましたが、依然として差異が残っているともいえます。これについて私は次のように考えました。

一般的に2点間を語る場合には、私たちは「●●と○○」という地名をまず挙げると思います。そして時にその大体の距離を添えたりします。つまり地名を示す事が一番で、その間の距離はあくまで概略ではないかと思うのです。この例では「月島」と「台場」という地名が主役であって、その距離「1浬」は厳密なものではなく、ざっくり表現した数字でしょう。実際、松代氏の回顧談には『同年12月には月島より1浬を隔てた品川沖の第五台場に装置した受信機に能く感受し得る』と、"約" が付いています。

大正末期に東京市は(東側の)第六と第三台場を海軍省から譲り受け、第六は歴史保存を目的に現状維持を、第三は東京市民の公園として整備されました。従って『今は公園になっています』という松代氏の言葉から、通信試験は第三台場で行なわれたはずという福島氏の説には説得力があります。

日本初の無線の謎に関する私見のまとめ」を書いてから、まだひと月程しか経っておらず、お恥ずかしい話ですが、どうやら私の考えを修正しないといけないようです

追2) なぜ第3台場を第5台場としたのか? ・・・2015年12月26日更新

2点間の距離は正確なものではなくても、その地点名は、ある程度は信頼できるものだとすれば、実験場所は「第五台場」で間違いないことになります。しかし松代氏はそこが公園だとおっしゃいました。完全に矛盾していますね。

そこで私は松代氏が「第三台場」という地名を、「第五台場」だと思い違いされていたと想像してみました。その話の前に、そもそも明治以来「月島-台場」試験といわれてきたのに、「台場」が具体的に「第五台場」と特定されたのはいつからでしょうか?ここからはじめます。

これまで紹介しました文献は、どれも「台場」という記述で、そこが「第五」だと特定していません。ただし1923年(大正12年)4月11-18日の大阪時事新報に連載された「世界を包む無線時代」の第四回で簡単に松代氏の実験に触れる部分があり「第五台場」という地名が登場します。

『明治三十年に伊太利の一青年マルコニー氏が無線電信の発明を発表するや直ちに逓信省電気試験所の所長浅野応輔氏、所員松代松之助氏が研究に着手し、同年十二月東京湾内品川第五台場と月島の間に実験を行って兎も角成功した。』

なぜこの新聞だけに「第五」が付けられているのかは全く分かりません。もちろんこれは別途検証する必要がありそうですが、「第五」と特定されるようになったのは、1940-41年(昭和15-16年)の頃からではないかと思っています。

1940年(昭和15年)9月23日、松代氏が電気試験所時代の所長浅野応輔氏が逝去されました。そして松代氏は元上司の浅野氏への追悼文で、「第五台場で実験」と記されました。実験から四十数年も経っての証言です。

『無線電信に就ては先生は、当時電信主任であった私にその研究を開始せしめ、其の頃未だ甚だ貧弱であった設備と資料とを、自由に使用することを許されて、督励せられたのである。それは明治三十年の初夏であったが、同年十二月には月島と第五台場との間に於て之を公開して、海陸軍は勿論、大学高等学校等に新聞社等を招待して、視て貰うと同時に意見を求めたのである。其の当時欧米各国に於ける程度も略同程度のものであったと思わるるが、日本逓信省では未だ陸線も拡張の余地多き際、当分之を実用に供する見込み無しと云う訳であって、其の後も研究は続けて居たが、実施の機運は得られなかった。元来此の種の研究は一小区域に於て小数者が秘密に研究するよりも、寧ろ周智を動員して、研究すべきであると云うのが我々の意見であって、それには一日も早く実用に供すべきと主張したが、時機至らず、僅に諸方の希望に応じて講演を為し、又は実験を見せる位のことであった。先生も甚だ之を遺憾として居られたが・・・(略)・・・』 (松代松之助, 浅野先生追憶, 工学博士浅野応輔先生伝, 1944, 浅野応輔先生伝記編纂会, pp383-384)

そして浅野元所長が亡くなられた翌年(1941年)は電気試験所五十周年の節目でした。

松代氏は電試五十年史「余禄-回顧談」に『同年12月には月島より約1浬を隔てた品川沖の第五台場に装置した受信機に能く感受し得る迄に成功』と、記されました。

すなわち1940-41年(昭和15-16年)頃になって「台場」が「第五台場」となり、それが終戦直後に編まれた日本無線史に転記されて、現代に定着したのでしょう。

品川の台場は、江戸時代末期に異国船の攻撃に備えて作られた人工島の砲台です。松代氏が上記の追悼文や回顧談を書かれた当時の台場の様子を調べてみました。

左図は大日本帝国測量部が1939年(昭和14年)12月28日に発行した台場付近の地図です。第1, 2, 3, 5, 6の5つの台場がカシオペア座のように "逆さW"字状に並んでいました。

赤数字が台場に付けられた本当の番号ですが、(第一台場の左側にあった第四台場が未完成のまま埋立地の中に埋没したこともあり、)左から第1, 5, 2, 6, 3 という覚え難い順番です。

私はこの地図を見ていてふと思ったのです。もしかして松代氏は追悼文や回顧談を書くときに、第一台場から右へ「1, 2, 3, 4, 5」と順に数えられたのではないでしょうか(青色の漢数字)?すると第三台場(赤数字)が「第五台場」(青数字)だと誤認されることになります。

松代氏には「現在公園になっている台場で試験した」という認識があり、月島までの距離を「約1浬(=1.8km)」としましたが、その「公園のある台場」の名称を「第五台場」だと思っていたのではないでしょうか。

追3) 第5台場は日本の警察無線(JHR/JHS)発祥の地 ・・・2015年12月26日更新

それにしても松代氏の試験地の記述は具体的ですね。

『これが我が国に於ける無線電信の第一歩であったのでありまして、品川沖の第五台場は今は公園になっていますが、ここが我が国に於ける無線電信の発祥地なのであります。その時の目印にしていた松の木は今もあります。(松代松之助, 回顧談その1, 電気試験所五十年史, 1944, 電気試験所, p715)

月島の実験本拠から、目印となる台場の松の木を双眼鏡で見ていたのでしょうか?これほどまで具体的に書かれているので、第三台場で試験したのは間違いないとして、逆に「第五台場では試験していない」と考えられるようなものを探してみました。

すると、第五台場が我国の警察無線の発祥の地だったことを思い出しました。先ほどの昭和14年の古地図の第五台場を拡大したのが左図です。

第五台場の中央にあった休息所は取り壊され、ここは半世紀にわたって海軍が管理する未利用地でした。

警視庁東京水上警察署は海軍省から第五台場の一部を譲り受けて、1933年(昭和8年)9月25日に鉄筋コンクリート高さ20mの台場見張所を完成させました。そして東京港に入港する船舶へ、錨(いかり)を降ろす場所をモールス電信で指定するために、1934年(昭和9年)4月6日より無線局JHR(454kHz/500kHz, 電信5W)の運用が始まりました。これが(実用局としての)日本初の警察無線局JHRであり、第五台場こそが警察無線発祥の地です。ひと月後の5月7日には、台場見張所に超短波無線局JHS(31.6MHz, 電話5W)も設けられ、築地の隣の明石町にあった東京水上警察本署と連絡を開始しました。JHSは我国VHF帯における実用無線の草分け的存在のひとつにもなりました。もしこれらJHRJHSに興味がおありでしたら、どうぞJZコールサインのページを御覧下さい。

左図は大正末期に撮影された(見張所が建設される前の)第五台場です。

もし明治時代にここで無線試験が行われたのなら、松代氏は追悼文や回顧談に「現在は東京水上警察署の見張所があって、中波電信局JHRとVHF電話局JHSが運用している。」と触れても良さそうなものです。ここ第五台場が明治時代に行われた日本初の遠距離フィールド試験の場であり、また警察無線の発祥地でもあるからです。

でも松代氏はそう書かれてはいません。したがって私は明治時代の無線試験は、ここ(第五台場)ではないと考えました。「日本初の無線の謎に関する私見のまとめ」で月島本拠-月島支所間の交信の様子は「南方へ3.5km離れた第五台場の受信所でも傍受された」と書きましたが、「南方へおよそ2.8km離れた第三台場の受信所でも傍受された」と修正させていただきます。

なお「にっぽん無線通信史」(朱鳥社, 2002)で、第三台場説を発表された福島雄一氏もまた、月島-台場通信を1897年(明治30年)12月ではなく、1898年(明治31年)12月17日だとされています。月島-台場通信を「日本初の(成功した)無線実験」とするのは適切ではなく、「日本初の(成功した)遠距離試験」と称えるべきものでしょう。

松代氏は実験開始からまだ日の浅い1898年(明治31年)春の電気学会の講演で『まだ漸(ようや)築地の濱金杉の沖と両方でやりましたが其(その)時は波が来て機械が転覆するようになり其内に夜に段々入って試験を中止しました。其時は遠くに確かにいったように考えますが、どうも断言してどの位と云ふことは言はれませぬ。』と語られました。

また1906年(明治39年)6月16日の電信協会大阪支会第二回総会で『それから三十一年に亘(わた)りまして色々研究を致しました。今度はその五月頃に柱を建って、いよいよ本式に研究を始めました。これまではどうも思わしく行かなかったが、三十一年の十一月に到って先づ通信が出来るようになった。先づ不十分ながらとにかく通信が出来るようになりました。』と講演されました。

松代氏ご本人は明治30年の無線実験はどれも、あまり自慢できるようなものではないとお考えの様に私は感じました。日本初の無線試験の成功として、その日付、場所、通信距離、送達電文、第三者の立会人、記録文書のすべてが揃っている折り紙付きのものは、1897年(明治30年)12月13日にプレス公開された逓信省構内におけるパラボラ式短波試験だけです。

追4) 遂に「12月24, 25日」の出典が明らかに! ・・・2016年1月10日更新

日本無線史の「12月25日に月島-台場デモを行った」にある「12月25日」という日付の出所が私にはずっと不明のままでした。この疑問を晴らせたきっかけは松代松之助氏が逓信省を退官した1905年(明治38年)に書かれた「現時ノ無線電信」に見つけた次の言葉でした。

『当時研究シツツアリシ大要ハ、時事新報ガ、明治三十一年一月一日ノ初刊ニ於テ、世ニ紹介セリ。』 (松代松之助, 現時ノ無線電信, 1905, 電友社, p8)

時事新報(1898.1.1)に松代氏が研究していた無線の詳細が載っているのでしょうか?すぐにでも調べたかったのですが、ちょうど国会図書館は御用納めで年末・年始の休館に入ったところでした。

年明けて1月9日、同館で時事新報(明治31年1月)のマイクロフィルムを閲覧できました。ドキドキ・ワクワクしながら巻き取りハンドルを廻していると、「無線電信の話」というタイトルが目に飛び込んできました。記事は3段もあり、逓信省の試験の様子については以下のように書かれていました。明治30年12月には実験が複数回行われた点も新たな発見でした。

(プリース氏の)演説の筆記を掲げたる雑誌は昨三十年九月中に我逓信省に到着せしより同省電気試験所長なる浅野應輔氏は我国にても早速に之が試験を行わんと其準備に取掛りしは翌十月の中旬にして、浅野氏監督の下に逓信技手(現逓信技師)松代松之助氏主として之を担任し、器械の製造装置の具合等苦心に苦心を重ねたる末、遂にその功を奏し去る十二月中数回の試験を経て愈々(いよいよ)全く所謂無線電信なるものの効力を確かめ得たり。』

そして送信機と受信機のスケッチ画(左図)と共に、『送信部全体の装置は先づ鉄板を以て竪(タテ)七尺幅五尺許なる半円形の屏風を造りその内部焦点の所に右の振動器を置き・・・』といった、詳しい構造説明がかなり長く続きます。松代氏の無線機の写真は当初は公開されておりませんので、一般国民にとっては時事新報のスケッチ図が唯一の「国産 無線電信機」のイメージになったはずです。

続いて、直近(1週間前)に実施したばかりの試験について紹介されています。

『逓信省電気試験所にては当初同省構内に於て試験をなしたるため、試験の距離も一町内外に過ぎざりしも、去る十二月二十四、二十五の両日 京橋区月嶋と金杉沖の海上との間、一浬近くの距離に於てなしたるに頗(すこぶ)る好結果を得たりという。』

1897年(明治30年)12月24, 25日に月島-金杉沖の1海里(1.8km)で試験したとあります。ついに「12月24, 25日」の出典にたどり着けました。やはり12月25日の試験は台場との通信ではありませんでした。

掲載紙は1898年1月1日付けで、まだ1週間前の出来事ですから記載内容に間違いはないでしょう。これで日本無線史にある明治30年12月25日に「月島-台場」通信を行ったという記事が益々怪しくなってきました。

しかし同時に私の推測の一部を見直す必要もでてきました。私は松代氏が1898年(明治31年)春の講演で「月島」という実験地を一度も口にされていない事を根拠に、それまでの対海上試験は全て築地海岸から行われたと考えましたが、それが怪しくなってしまいました。海軍大学校の築地海岸で実験したのは間違いないと思っていますが、上記に『十二月中数回の試験を経て』とありますので、時には舟で沖に出る際にまず月島に立寄り実験機材を下し、そこを拠点にした事もあったのでしょうか。

とにかく時事新報(1898.1.1)と読売新聞(1898.1.14)のどちらも正しいとして整理すると、12月24日(金)、25日(土)に月島-金杉沖の1海里(=1.8km)の試験をし、日曜の休暇を挟んで、翌27日(月)に陸地不詳地から14町(=1.5km)離れた品川沖まで試験をしたことになります。日本初の無線の謎は尽きません。

追5) 電波が国有化される 1900年10月10日 [おまけ] ・・・2016年1月19日更新

1900年(明治33年)6月7日、筑地-羽田試験の成功などで、無線の実用化(兵器化)の可能性が見えてきたことから、海軍省は逓信省に今後無線電信を建設する際には事前協議して欲しいと申し入れを行いました。

海総第三七八号

通信ハ其ノ他ノ目的ヲ以テ無線電信ノ建設ヲ出願スルモノアルトキハ当省主管上必要有之候ニ付先以テ一応御協議相求候致度此段申進候也

明治三十三年六月七日

海軍総務長官 斎 藤 實

逓信省総務長官 古市公威殿

これを契機とし、今後の無線電信の利用について陸軍省も加わった三省で検討が進みました。まだ非同調式無線機の時代でしたので混信防止上から、ひとつの地域にはひとつの無線局しか置けないことと、軍事機密の保持(海軍・陸軍両省)および公衆通信(電報)の秘密の保護(逓信省)の立場から、逓信省は一般には無線を許可しない方針を固め、同年9月25日に海軍省と陸軍省へ賛同を照会しました。

通第五五〇五号

無線電信ニ就テハ貴省ニ於テモ軍用通信機関トシテ目下御調査中之趣ニ有之候得共、若同一地方ニ於テ他ニ無線電信ノ機械ヲ設備スル者有之候場合ニハ現在二於テハ通信ノ秘密ハ器械的ニ之ヲ防止スルニ難ク、且(かつ)相互ノ通信混乱錯綜シテ寛ニ其用ヲ為ササルニ至ルヘク、若又(もしまた)之ヲ公衆通信ノ用ニ供セントスルモ同一ノ障害ヲ受クヘキ議ニ有之、電波ノ及ブ範囲ハ恰(あたか)モ其ノ施設者ノ独占ニ帰スルカ如キ性質ヲ有スルヲ以テ、当分ノ間ハ無線電信ノ施設ヲ全然許可セサル方可然思料候ニ付、電信法第四十四条ノ規定ニ依リ別紙成按ノ通リ省令発布ノ見込ニ有之候条貴省御意見承知致度此段及御照会候也

明治三十三年九月二十五日

逓信総務長官 古 市 公 威

海軍総務長官斎藤實殿

以下は同文(通第5505号)の陸軍省中村総務長官宛てのものです。

これに対して海軍・陸軍の両省は「異存無き候」と回答しました。ちょうど有線通信の日本帝国電信条例(1874年[明治7年])を廃して、この年の10月10日より(有線通信の)新しい「電信法」が施行されることが官報で告示済みでしたので、これを無線にも利用することになりました。

1900年(明治33年)10月10日、逓信省令第七十七号で、できたばかりの電信法を急遽「無線電信にも準用する」としました。しかし電信法にある「私設を例外的に認める条項」は無線電信への準用から除かれたのです。すなわち電信法第一条『電信及電話ハ政府之ヲ管掌ス』等だけを無線電信に拡張して「電波の国有化」を宣言しましたが、これは世界初でした(世界で二番目の英国は1904年です)

これより15年が経過し、ついに政府は無線の私設を認める方針に転じました。1915年(大正4年)、無線電信法(6月21日官報公布、11月1日施行)を独立させて新たに定め、その第一条ではこれまで通り『無線電信及無線電話ハ政府之ヲ管掌ス』とするものの、例外として第二条に私設無線を盛り込みました。その第二条第五号『五 無線電信又ハ無線電話ニ関スル実験ニ専用スル目的ヲ以テ施設スルモノ』で、企業・団体または個人を問わず無線実験を目的とする私設局が認められました。

しかし逓信省にコネが無い者には適用されず、東京の浜地常康氏が個人として初の実験局の免許を得たのは1922年(大正11年)2月27日です。なんと私設実験局の法制化より6年半の歳月を要しました。戦前にいわゆるアマチュア無線の免許をとられたOTの方々は全てこの無線電信法第二条第五号による免許です。

「世紀末(1900年)とうとう(10月10日)電波は国のもの」です。 詳細は法2条第5号施設のページの最後をご覧ください。