1951
<印刷にはページ最下段の「Print Page / 印刷用ページ」をご利用下さい>
1951年1月、電波監理委員会RRCはSimple Radio Station(日本語名:簡易無線業務)の"Symbols"(局種記号)として "CR" の文字を採用し、GHQ/SCAPより対日指令SCAPIN第1744/29号で発令されました(本来Simple Radio なら "SR" が妥当ですが、既に他の無線局種へ定義済みだったため)。
2月23日には戦後初の「業務別周波数帯分配表」と「周波数割当要領」が承認され、460-470MHz および154.53MHzが簡易無線業務へ分配されました。(同時期に作られた「周波数公開表」の詳細は不明)
そして実用化試験局JJ2AK, JJ2ALを経て早稲田大学に、467MHzの簡易無線局(JKX22, JKX23)として本免許(3月19日)され、これが日本第一号の簡易無線局となりました。しかしこの制度の最大の特徴である「検定合格機による誰でも使える無線制度」としてのスタートではありませんでした。日本における本当の意味での簡易無線制度は、検定合格機が市場に出回りはじめた1953年(昭和28年)頃だといえるでしょう。
6月に第1回アマチュア無線技士国家試験(2級アマはモールス符号の試験のないノーコード・ライセンス)が実施されたあとは、アマチュア無線の再開が現実味を帯びたこともあり、無線雑誌で簡易無線が取り上げられるケースが激減しました。【注】国際電気通信条約付属無線規則で定めるアマチュアのモールス技能要件が、1000MHz以上なら不問(ノーコード・ライセンス)へと緩和改正されましたが、日本の2級アマの操作範囲は議論の末「8Mc以下、50Mc以上」になりました。
SUMMARY この年の出来事
Jan. 25, 1951 - Simple Radio Station の局種記号をCRと定め、対日指令SCAPIN第1744/29号で発令された。
Feb. 5, 1951 - Class B CRS の周波数許容偏差が0.5%とする改正規則が施行された。
Feb. 19, 1951 - 早稲田大学に簡易無線局にJKX22, JKX23 (467MHz, A3, 0.1W)が免許。
May 31, 1951 - 明星電気に実験局JJ2L, JJ2M(467MHz, A3, 0.2W)が免許。
June 26, 1951 - 川崎重工に初の154.53MHzの簡易無線局JXK301, 302, 303, 304, 305, 306が免許。
June 26/27, 1951 - 初のアマチュア無線技士国家試験実施。モールス技能不問資格(ノーコード・ライセンス)も。
Nov. 14, 1951 - FCC が27MHz帯にClass B CRS をプロポーザル(FCC Docket No.10086)。
Jan. 04, 1951 ・・・(連邦官報告示 16FR91)Docket No.9818 可決告示
1951年1月4日の連邦官報(16FR91)で、Class B Citizens Radio Service の周波数許容偏差を0.5%にする改正を2月5日より施行すると告示された。
January 1951 ・・・ CQ編集部によるCB実験特集
CQ ham radio編集部は460MHzシティズンラジオを自ら製作・実験し、その特集を組んだ。以下引用する。 (CQ編集部, 465Mc 市民ラジオ用 送信機・受信機・アンテナの実験, 1951年1月号, p10) 『この465Mcバンドは元来アメリカで市民用バンド これをシティズンズ・バンドといいますが このバンドを市民一般が自由に使用できるようにして野外の簡単な送受信機としてウォーキー・トーキーに用いたりあるいは、アマチュアの実験用に供しているのです。マイクロウェーブのように難しくなく 又目視地点間より外にまで伝わらぬというような理由によるものでしょう。そこで今回は多くの方々のご希望によって465Mcの送受信機を試作し併せてUHF用のアンテナの作り方及び指向性特性について実験しましたのでその結果を述べてみることにします。』
1951年(昭和26年)1月号の表紙の写真だが、上段に屏風の様に置いてあるのがスクエアコーナー反射器付きダイポールで、その性能はダイポール比で10db以上が得られたという。上段右側にある小さな装置が6J6-6C4の二球式プッシュプル超再生受信機である。
中段の中央が6J6(発振)-6K6GT(変調)の二球式送信機。中段の両側に同じ装置が置かれているがこれは電源装置のようである。
下段の左は調整用の発振器。そして写真では見にくいと思うが右側にスタンドがあって垂直4エレメント八木アンテナが立っている。
なおCQ編集部は、読者に誤解を与えないように『電波の発射は禁止されていますので鉄筋コンクリート製の建物の中庭の広い所を利用し、周囲よりの反射を無視できるよう出力を弱くして実験しました。』と説明している。
January 1951 ・・・Simple Radio Service(簡易無線業務)改正案の解説
社団法人電気通信協会の機関誌「電気通信」(1951年1月号)に「簡易無線業務の紹介と米国の市民ラジオ業務の規則」という記事が掲載された。筆者は電波監理委員会RRCの実務部隊である電波監理総局周波数課の屋井武雄氏である。
1950年(昭和25年)10月27日付け官報にて公告された簡易無線業務の改正案について解説した記事で、この改正案は1950年12月1日より施行されたことから、記事が執筆されたのは1950年の11月だと考えられる。
◆欧州と米国の電波開放への考え方の違い
記事の冒頭でイタリアで開かれた国際高周波放送会議に出席された西崎国内課長が語られた、欧州と米国の電波行政当局の根本的な考え方の違いが紹介されている。『欧州各国の状況はあたかも電波法施行以前の我が国のように無線電信法施行の際の電波は殆ど凡て官営か又は大きな企業体が許可の対照となっているようであるが、一つ海を渡った米国においては全く電波は広く国民に開放されていると言う感じを強く受けた。』(西崎氏談)
とはいうものの、当サイト1912-1923 のRadio Chaos 電波は誰のものでも触れたが、戦後の日本はアメリカ式の考え方を取り込みながらも、戦前同様に行政当局が電波を完全掌握するという、欧米折衷方式を選択するのである。
◆市民ラジオはアメリカの制度、簡易無線は日本の制度
次にアメリカにおけるCitizens Radio Service についての解説が始まるが、特筆すべきはFCC Rule and Regulations Part 19 の全条項の日本語訳を5ページを割いて紹介した点では日本初のものだ。なお訳文の最後に以下の注書きがある。
『本項は、FCCの規則第19号を仮に翻訳したもので意訳の部分が多いので。これを正釈と考えたり又はその字句について検討されることは差し控え、主としてこれによって合衆国の規則の実施状況を判断する資料とせられたい。電波監理委員会規則では次節にのべるように簡易無線業務又は局であるが合衆国では市民ラジオ業務又は局と呼ばれているのでそのまま本節では市民ラジオと称したもので、定義から見られてもわかるように我が国の簡易無線業務又は局とは同一とは言えない点があるから了知され、簡易無線業務の進展に寄与されたい。』
電波監理委員会RRCではアメリカの制度を(日本語で)「市民ラジオ」、日本の制度を「簡易無線」と呼び分けることにしていた。現在では日本の制度のことを指して「市民ラジオ」と呼んでいるが、同じ言葉でも当時と今では対象が異なっていた点には注意を要する。
もっとも1950年の時点ですでに「無線と実験」をはじめとする無線雑誌では、意味不明な「簡易無線」よりも、おしゃれな「市民ラジオ」という言葉に飛びついたため、この使い分けは当初より崩壊していたのも事実である。
◆改正案では明らかにされなかった30W局の周波数
さてこのあと日本の簡易無線の改正案の解説が始まる。1950年のページでも述べたが改正案では簡易無線業務の周波数が明確になっていない部分があり、ここではそれに関する解釈の部分を紹介したい。
『改正案によれば第12條の2が追加されここで簡易無線局の電力が規定されている。即ち463Mc 及び 467Mc に対しては3ワット以下 他の周波数については30ワット以下と指定されている。次に第2節の周波数公開に際してこの簡易無線局には周波数の割当が可能であることを明瞭に示すことになっているので、詳しくはその公開によらなければならないが、その一部は後に述べる設備規則の中に示されている。』
「その公開によらなければならないが」との言葉から、まだ割当可能な周波数は公開されていないことが読み取れる。「その一部は設備規則の中に示されている」とのことだが、結局は「他の周波数」で、その詳細は明らかではない。
『無線設備規則は技術条件に関して定められているものであって、これにも一部規則改正の案が考えられているので、注目するに、周波数許容偏差の項では、従来は465Mcで0.4% と説明されたものが、改正案によれば、463Mc と467Mc の2波については0.4% で 他の周波数のこの業務の局は0.02% と説明されている。』
◆推測される30W簡易無線局の周波数
改正施行規則の条文では30Wの簡易無線局の周波数を「(2)簡易無線業務用の周波数帯に属する周波数であって、別に公開する前号以外の周波数」とした。前号とは3Wの簡易無線局で「(1)周波数463Mc, 467Mc」である。
まず周波数を推測するうえで最初の問題は「簡易無線業務用の周波数帯」がまだRRCより明らかにされていない点だが、とりあえず以下の3つの推測が成り立つだろう。
1)米国では460-470MHzがシティズンス・ラジオに分配されており、日本でもこの10MHz帯がそうだろうとする推測
2)唯一示された改正案中の、463MHzの偏差0.4%(1.852MHz)と467MHzの偏差0.4%(1.868MHz)を勘案し、少なくとも461.148-468.868MHzの7.72MHz帯が市民バンドだろうとする推測
3)最も少なめに見積もった、463-467MHzの4MHz帯が市民バンドかもしれないという推測
実際、1950年のページでも紹介したとおり、CQ誌12月号では「市民ラジオの規定変更か!」という速報の中で『・・・周波数463~467Mc 間の一定の周波数、出力30W以下、周波数許容偏差±0.02%以下。以上の二本建てになるらしく・・・』と、3) の解釈を示した。
◆屋井氏が示したバンドプラン
この記事の原稿はその内容から1950年11月に書かれたものと想像される。屋井武雄氏は改正案の要点をひと通り説明したあと、『なお一言付け加えると・・・』と前置きした上で(まだ業務別周波数分配表が承認される前だが)、日本の市民バンドはアメリカと同じ460-470MHzになると考えていることや、さらにバンドプランについての見通しも示された。
『以上が電波法及びその附属規則中の簡易無線局に関するものの大要である。なお一言つけ加えると0.4% の周波数許容偏差を持った周波数が463 と467Mcの2波公示されているが、我が国でも簡易無線業務の周波数帯は460~470Mc と考えられ そのうち460~465Mc は純然たる個人の申請によるものとし そしてそのうち463Mc は規格電力3W以下の真空管を使用した自励式の送信機を使用するもので、周波数許容偏差を考えに入れると約±2Mcが必要で そのため461~465Mcの周波数帯が与えられ、その下の460~461Mc の間には、0.02%の周波数許容偏差の送信機であれば、規格電力30Wまで認められている。
従ってこの463Mc は主として小型に組まれていわゆるハンディトーキー又はウォーキートーキーと呼ばれるものに用いられ、後者は固定局相互間の連絡を主体として或る程度の遠距離通信に用いられるものと考えてよい。
又465~470Mcは主として法人その他各種団体よりの申請に割当てられるもので、前者同様 小型の自励式のもの(465~469Mc)と、やや大電力のもの(469~470Mc)の二種に分けて考えられている。 』
以上のように電波監理総局の屋井武雄氏により、電波監理委員会RRC内では30W局用の周波数を460-461MHz(個人用)、469-470MHz(法人・団体用)をとする方針であることが明らかにされた。
しかしまだ正式に460-470Mcが簡易無線業務用周波数帯だと公表されてはいなかった。1947年のアトランティックシティ会議で採択された「業務別周波数帯分配表」に基き、我国の「業務別周波数帯分配表」を策定する作業は、(簡易無線業務の周波数帯はRRC内では早々に決まっていたと想像されるが)日本のすべての無線業務に及ぶものであるため、その完成に時間を要した。
Jan. 25, 1951 ・・・ 簡易無線局(Simple Radio Station)の局種記号がCRとして発令される
1951年(昭和26年)1月25日、GHQ/SCAPは対日指令SCAPIN第1744/29号 "Control of Radio Communication" でList of Japanese Radio Stations(1951年1月1日版)の承認とその発効を日本国政府に対して発令した。
これは連合国最高司令官の登録番号が付されたマスターリスト(連合国の周波数監理原簿)である。電波監理委員会RRCが日本の全無線局の一覧表を印刷して民間通信局CCSへ年2回提出し(さらに改定差分リストを別途年2回発行)、それをSCAP(連合国最高司令官)の訓令という形をもって、日本国政府へ発令する方法をとっていた。
リスト形式なので文字数を減らすために、無線局種の記載には定められた記号が用いられるが、このList of Japanese Radio Stations の1951年1月版で初めて簡易無線局に対して「CR」という "Symbols"(局種記号)が与えられたのである。
Simple Radio Station(簡易無線局)は普通に考えれば「SR」だが、既にMarine Radiobeacon Station に「SR」を使っていたため、RRCではアメリカ式にCitizens Radio Station から「CR」を採用した。
『CR Simple Radio Station: A station in the simple radiocommunication service not coming under the category of amateur service. 』
GHQ/SCAPによる占領時代が終わった後も、郵政省はこのリストの名称を「List of Frequency」に変えて英語のままで発行を続けた。1957年(昭和32年)より日本語で発行されることとなり、その名を「日本無線局周波数表」に改めた。発行間隔も長くなったが1951年(昭和26年)1月版以来、一貫して簡易無線を現わす局種記号には、「CR」が用いられてきた。
Jan. 26, 1951 ・・・関東電波監理局の新局舎お披露目にウォーキートーキーが
電波監理委員会の関東電波監理局が東京都文京区湯島6-21へ引っ越した。26日の午前に新屋舎の落成式を終え、午後からは電波監理行政への一般市民の理解と協力を得るために28日までの3日間 『電波文化展示会』を催した。
レーダー、無線テレタイプ、ラジオヒーター(高周波加熱機)など最新の電波利用機器はもちろん屋外では消防無線車も展示されたが、やはり来場者が最も注目したのはテレビジョンだった。初日は関係者のみで5,000人、一般公開の翌日は大学生が多く13,000人、最終日は12,000人の見学者でにぎわった。
この展示会には朝日新聞社の簡易無線業務用ウォーキー・トーキーも展示された。「無線と実験」誌の1951年(昭和26年)3月号に展示会の取材記事があるので引用する。『ジャーナリストの使命が増大し、報道の迅速化は各新聞社とも激烈な競争となって現れている。朝日新聞では今回写真のような小型軽量なトランシーバーを試作、許可の下り次第活躍すべき態勢を整えている。これが活躍することになるとこれを携行した新聞記者が現場へ急行し、現場附近のラジオカーに速報、更に本社へと電波が飛ぶというまことに科学的報道の迅速さが期待されよう。本機は総重量約1.5kg、 超再生、送受共用でその送信出力約250mW、周波数467Mc、有効範囲約2km、電源は単一4ケと積層電池(135V)を使っている。』
関東電波監理局新屋舎のお披露目の展示会に出されるぐらいだから、日本第一号の簡易無線局の予備免許(JKX20,JKX21)が与えられている可能性は十分あると想像される。記事にも『許可の下り次第活躍すべき態勢を整えている』とあり、既に予備免許は得ていて、あとは落成検査の合格(本免許)待ちのようにも受け取れる。
Feb. 5, 1951 ・・・Class B CRS の周波数許容偏差が0.5%に
アメリカではClass B(465MHz)のCitizens Radio Service の周波数許容偏差を0.4%から0.5%へ緩和され、1951年2月5日より施行された。日本(RRC)ではこれをどのように受けとめたか定かではないが、すでに許容偏差0.4%を前提に463, 467MHzの二波を設けると決めていたため、特にFCCへ追従するような動きには発展しなかった。
Feb. 23, 1951 ・・・戦後初の「業務別周波数帯分配表」が完成
1951年2月23日、電波監理委員会RRCは我国の戦後初めての「業務別周波数帯分配表」と「周波数割当要領」を可決承認した。この「業務別周波数帯分配表」で周波数460-470MHz帯と単一周波数154.53MHzが簡易無線業務用になった。
【参考1】我国の業務別周波数帯分配表は1927年に開催が予定されているワシントン会議への日本帝国案として、1926年(大正15年)4月20日の海軍陸軍逓信三省会議で合意をみたものが最初であろう。短波帯(1.5-60MHz)分配表で、アマチュアバンドとして80m(3.5-4.0MHz), 40m(7.5-8.0MHz), 5.5m(54.5-60.0MHz)が、短波放送バンドとして75m(4.0-5.0MHz)と27m(11.0-12.0MHz)が選定された。実際の個別周波数はその都度三省で協議するという条件で同年9月より実施された。
【参考2】ちなみに個々の周波数の割当を秩序正しく一定の基準に従って行うために作られた「周波数割当要領」は、1954年(昭和29年)3月に内容の一部が改正されて「周波数割当の原則」になった。
電波監理委員会RRCが作った「業務別周波数分配表」について少し補足しておく。第二次世界大戦で無線技術が急速に発展したあと、終戦で電波需要が急増したため、各国でカイロ分配表には準拠しない電波利用の横行が始まった。
1947年にアメリカで開催されたAC(アトランティックシティ)会議では、1938年のカイロ会議の200MHzまでの分配表を全面改定し、10.5GHz までの周波数スペクトラムを分配した。その骨格となったのがFCCのE. K. Jett がまとめたDocket No.6651であり、Citizens Radio Service もこの中で誕生した。
さてAC会議で決まった条約や諸規則の発効は1949年1月1日だったが、VHF以上の電波は他国へ混信を与えないことから、各国の裁量で1947年中から適時、新周波数への切り替えがはじまった。27.5MHz以下の短波帯の移行では他国との混信問題が懸念されるため、IFRB(国際周波数登録委員会)を設置し、各国からの個別周波数を出し合いそれを調整・登録し「国際周波数表」を作った上で、周波数移転を行うはずだった。ところが世界的に電波の需要が急増していたため収拾が付かないままAC会議は会期切れとなり、新分配表は承認されたものの、「国際周波数表」は完成せず、結局27.5MHz以下の周波数は当面の間、カイロ分配表によることにされた。(この点は非常に重要である。)
そこでPFB(臨時周波数委員会)を設置し、AC会議終了後はPFBにより「国際周波数表」の早期作成にあたることになり、短期間に数多くの業務別あるいは地域別の国際会議が開催されたものの、各国の電波権益が絡むだけに一向にまとまらず、作業は遅れに遅れ、ついに「国際周波数表」は完成をみなかった。この異常事態を解決するために1951年にスイスのジュネーブでEARC(臨時無線主管庁会議)を開くことになった。
1951年(昭和26年)2月23日の日本版「業務別周波数分配表」は、このような異常事態の最中にあって電波監理委員会RRCが検討に検討を重ね、27.5MHz以下の周波数においては、カイロ分配表を基本としながらも新AC分配表へ移行しやすいよう勘案されたものだった。
このサイトをご覧になっている方々は我国の11mバンドの業務別分配に興味がおありだろうが、昭和26年2月23日に制定されたRRCの周波数分配表では25.6-26.6MHz帯は放送業務だ。すなわちカイロ分配表(昭和13年)のままなのである。そして実際この分配表に従って、新しく開局した民間放送の中継用無線局に26MHz帯が許可された。1947年のAC分配表を表面的にながめただけでは、こういった移行期間の特別な事情が見えないので、AC分配表の解釈には特段の注意を要するところである。
【参考3】 1951年に開催されたEARC(ジュネーブ)では、とりあえず「国際周波数表」が出来上がっている3.95MHz以下の周波数帯だけはAC分配表へ(各周波数区分ごとに期日を定め)移行することにし、残る周波数帯(4-27.5MHz)はIFRBが引き続き「国際周波数表」の作成にあたったが、各国の利害が対立し、ついに完成をみないまま1959年(昭和34年)のジュネーブ無線通信主管庁会議で一応の結末を付けた。AC分配表の短波帯の実施には12年もの歳月を投下しても解決できないという難産中の難産だった。ゆえに私は1947年に世界の新しい周波数分配が採択されたと単純には捉えないほうが良いと思っている。
割当可能周波数を示す「周波数公開表」
さて改正施行規則第13條「(2)簡易無線業務用の周波数帯に属する周波数であって、別に公開する前号以外の周波数」という文言の"別に公開する" にあたるものは、(この周波数帯分配表を基にして作られた)「周波数公開表」のことのようである。
前述の屋井武雄氏が再び同様の記事「簡易無線業務と市民ラジオ」を執筆された。今回は電波時報1951年4月号で、簡易無線の周波数帯が決定した後に執筆されたものである。以下引用する。
『第13條(具備すべき電波等)には463 及び467Mc についてはそれぞれ空中線電力即ち規格電力が3W以下でこれ以上30Wまでの電力のものについては周波数公開表に示された他の簡易無線業務用の周波数のものが認められている。又同時にAM 又はFM型式の電波を使用することが認められるであろう。第2節 周波数の公開のところで第17條には法第26條によって別に周波数公開表が作られ、先に示した30W以下のものとしては460 から470Mc 及び154.53Mcが指定されている。』
続・逓信事業史第6巻,p78 (郵政省, 1958)に周波数公開表およびその公開制度に関する記述がある。
『電波法の規定に従い、免許の申請に資するために、一〇キロサイクル ― 一〇五〇〇メガサイクルの間において、割当てることが可能である周波数および割当てた周波数の表が作成され、公開された。この公開表には、電波監理委員会が昭和二六年二月二三日に決定された「周波数割当要領」が添付された。』
◆30W局の周波数は、周波数公開表で460-470Mc?(電波監理委員会年次報告書は460-461, 469-470Mc)
この「周波数公開表」は「周波数割当要領」と同時(2月23日)、またはその直後に公開されたようだ。上記の屋井氏の記事(電波時報, 1951年4月号)では『周波数公開表が作られ、先に示した30W以下のものとしては460から470Mc・・・』とされている。2月23日の「業務別周波数分配表」では460-470Mcを簡易無線に分配するとはあるが、これとの混同はないだろうか?
1952年4月23日、国会へ送付された電波監理委員会年次報告書(対象期間:1950年11月1日~1951年10月31日)では460-461, 469-470MHz帯が30Wである(下図)。
これは電波監理委員会RRCの網島第二代委員長の名のもとに国会へ提出された公式報告書なので、これを疑う余地はないだろう。しかし屋井氏の記事も勘違いではないならば、周波数公開表に記載された30W以下の簡易無線局の周波数が「460-470Mc」(屋井氏記事)から、少なくとも1951年10月31日までに「460-461, 469-470Mc」(RRC報告書)へ変更されたということだろうか?
正直なところ、私は「周波数公開表」なるものを良く知らない。開局希望者が電波監理総局(および地方電波監理局)で閲覧できたものらしいが、CB史を研究してきた自分としては、改正施行規則第13條のいう「30W以下の簡易無線局の周波数を "別に公開する" もの」を確認できていないのが残念でならない。
【参考1】アメリカのFCCは年一回、年次報告書を連邦議会に提出する義務を負っていたが、電波監理委員会RRCもこれにならい、電波監理委員会設置法第18條第2項の規定に基き国会に年次報告書を提出することになっていた。第1回報告書は1950年6月1日~同年10月31日の期間のもの、そして第2回報告書は1950年11月1日~1951年10月31日の期間を対象にしたのものである。すなわちこの第二回報告書に30Wの簡易無線局の周波数が決まった時期が含まれるので以下に引用する。
『11. 簡易無線業務電波を広く国民大衆に開放し、もってその福祉に寄与する目的で電波法が制定せられ、その大衆化策の一環として簡易無線局制度が設けられた。この局は、簡易な無線通信業務、たとえば出先の主人が自宅と連絡したり、医者が往診中自宅の方に新しい患者が往診を求めてきた場合、自宅と往診先、又はその途上の医者と連絡したり、あるいは登山隊相互間、工事現場と工事事務所との間の連絡等、日常生活に必要な通信連絡を行うもので、この局に割当てる周波数及び空中線電力は次の通りである。
周波数 空中戦電力
1 463Mc 及び 467Mc 3W以下
2 460Mc ~ 461Mc 30W以下
469Mc ~ 470Mc
154.53Mc
本業務の特徴としては、他の無線業務に妨害を与えない限り無制限に免許を与える点にある。・・・(以下略) 』
(電波監理委員会, 電波監理委員会年次報告書, 第二回, p50)
【参考2】 ところで「周波数公開表」には不都合な面があり、1956年(昭和31年)に中止された。続・逓信事業史第6巻より引用を続ける。
『この公開制度において、「割当てることが可能な周波数」を公開することには困難が生じた。たとえば短波のように長距離に伝わる電波は、いわば世界各国の共有物であって、各国が実際にそれを使用する必要の生じたときに、IFRBにそれを通告し、審査の結果、可の判定が下され原簿に登録されたときに、はじめて、それがその登録された条件の範囲において、その国の電波になるというのがAC条約および規則による制度であるからである。
いつ使うかわからない多数の電波を、あらかじめITUの原簿に登録しておくということは、厳格にいえば電波の国際管理方式に反する。そこで、三一年一二月に、施行規則を改正し、周波数の割当原則と割り当てた周波数を集録した「周波数リスト」を中心として公開を行うことにした。』
つまり「割当てることが可能な周波数」を公開するのは、いつ使うか分からないのに先行確保しておいた「ヘソクリ」を白状することに他ならず、これではまずいと「割当てた周波数」だけを公開することにしたらしい。
March 1951 ・・・154.53MHz追加の速報記事
460-470MHz帯がSimple Radio Service(簡易無線業務)の周波数帯になるであろうことは、(既に屋井氏が電気通信1月号で述べられていたし)皆の予想するところだった。しかしアメリカのCitizens Radio Service にもない154.53MHz の追加分配は全く思いもしない電波監理委員会RRC からのプレゼントだった。150MHz帯の追加の背景には、工業先進国アメリカを持ってしても 460MHz帯の機器の開発に多大な時間を要したという事実があり、我国にはもっと技術的ハードルを下げた周波数が必要だろうという現実的な判断がなされたのだろう。1949年10月に我国に電波行政権が返還された148-157MHz帯の中から1波が選択された。
技術的に実現可能であり、かつ民間通信局CCSにお伺いをたてなくても済む148-157MHz帯は、急増する各方面からの周波数需要に応えることができる、(RRCにとっては)切り札的周波数帯だった。その虎の子バンドから簡易無線業務に1波を確保したのはRRCの英断だったといえるだろう。ただし150MHzバンドでは周波数の余裕がなく周波数許容偏差は0.02% とされ、構造や製作が簡単な自励式ウォーキートーキーの可能性はなかった。
無線と実験1951年3月号は紙面の一部を割き、これを報じた。
『今回、新しくVHF帯 154.35Mc が追試可能となったが、本稿は従来の465Mc帯のトランシーバーの実験試作を詳述し、超再生受信機のクェンチング雑音に対する回路の研究が発表されている。』 (154.35Mc は154.53Mc の誤記) これは安立電気の秦武彦氏の「465Mc トランシーバーの試作」という記事に、編集部が速報的に付加した文章だと思われる。
この記事の最後のページには、行間も文字間も少し狭い、まるで割込んだかのような 「専用周波数追加 シチズン・ラジオに福音」という速報記事がある。以下引用する。
(なお文中、誤りと思われる部分には私が注を加えた。)
『専用周波数追加 シチズン・ラジオに福音
シチズン・ラジオに対しては460メガから470メガの周波数帯が割当てられることになっていたが今回さらに154.35(注:154.53の誤植)メガ(一周波)許容偏差0.02%が追加されるので、さらに発展の途がひらけることになった。
新しく追加される市民ラジオ用周波数も460-470メガ帯と同様の規定が認められる。つまり機器が型式検定合格品である場合には取扱者は特殊無線技士乙(注:改正規則により特殊無線技士 簡易無線電話)でよいので殆ど誰でも使用できる。しかし機器が自製品で合格品でない場合はその取扱者は第2級通信技術者以上の資格を必要とする。また現在の真空管の面より見て460メガから470メガ帯よりもむしろ一歩早く利用されるのではないかとみられるが、水晶制御を必要とするので自励式のポケット型携帯用には適用は困難とみられている。』
なおこの3月号の最後のページの「編集だより」には、国内周波数割当の一部が掲載されている。出典が明記されていないが、もし編集部が電波監理総局で「周波数公開表」を閲覧したうえでの速報ならば、460-461, 469-470Mcが当初より許容偏差0.02%, 30Wの簡易無線バンドということになるが、残念ながら私には判断がつかない。
Mar. 19, 1951 ・・・我国初の簡易無線局の本免許(JKX22, JKX23)
1951年(昭和26年)3月19日、早稲田大学に簡易無線局として初の本免許がおりた。コールサインがJKX22, JKX23ということから、これよりも先にJKX20, JKX21 のコールサインが誰かに予備免許されていると想像できる(私はそれが朝日新聞社の簡易無線局ではないかと思っているが、それを証明するものは一切ない)。なお簡易無線のコールサインの組立てについてはCB Callsigns のページを参照されたい。
早稲田大学の簡易無線局(JKX22, JKX23), 周波数467MHz(法人・団体用周波数), 出力0.1Wが、SCAP登録番号1789Sで承認された。4月20日のOfficial Gazette(官報)で告示された(RRC Notification 第400号/第401号)が、日本第一号なので以下に掲載しておく。
(JKX22)
【注】下記JKX23の告示(RRC Nitification No.401)の方はページをまたがっているでご了承ください
(JKX23)
◆FCCは検定機にこだわり、RRCは早期免許にこだわった?
アメリカとの一番の違いは、これは検定合格機による申請ではなかったが、本番用のJKXシリーズのコールサインで免許した点である。アメリカの連邦通信委員会FCCには、「検定合格機による誰でも使える無線制度」こそがCitizens Radio Service であるという非常に強いこだわりがあり、1947年12月1日にCitizens Radio Service を施行した後も、非検定機(BC-645改造機や自作機)での申請には本番用コールサインを与えず、Class 2 Experimental の範疇によりサフィックスがXで始まるコールサインで免許していた。
1950年6月30日、日本でも新しい電波監理委員会規則において、米国のClass 2 Experimental を「実用化試験局」という名称で定義した。当時の電波監理委員会RRCはFCCにならい、新たな試みの無線局にはまず実用化試験局で免許しておき、しばらく運用させた後で実用局へ切換えるアメリカ方式をとっていた。だから電波監理委員会RRCが、非検定機による簡易無線局の申請には実用化試験局(JJシリーズ)の範疇で処理してもまったく不思議ではなかったのである。
アメリカでさえCitizens Radio Service のプランが公表(1945年)されてから検定合格第一号CR401を承認(1948年)するまでに相当の年月を要した。さらに1949年(昭和24年)にAl GrossのModel 100Bがモンゴメリーワード社のAirlineブランドで本当に発売されたかさえ非常に疑わしい。
工業先進国アメリカをもってしてこの有様であるから、日本の電波監理委員会RRCとしは、電波の民主化のモデルケースでもあり、また広告塔でもある簡易無線業務(Simple Radio Service)を一日も早く免許して、国民や(RRCが報告義務のある)国会に示したかったのではないかと私は想像する。
結局のところ、無線機検定により誰もが使えるのが最大の特徴であるこの制度を、肝心の検定合格機がないまま、正規局のコールサインで見切り発車させることになった点は、我国の簡易無線の歴史の中で特筆されるべき事項ではないだろうか。
◆初の簡易無線局JKX22, JKX23 <感激の通話テストの様子>
早稲田大学山岳部では1年前の春山合宿でシチズンス・ラジオの実験局JJ2AK, JJ2AL(周波数61.43MHz)を運用したが、「無電第一号」の調子が良くなくあまり成果は出せなかった。1950年のページ参照。
今年はその改良版「無電第二号」(周波数467MHz)が簡易無線局JKX22, JKX23 として許可された。免許翌日の1951年3月20日と21日の様子を、早稲田大学山岳部(当時)の飯島貞二氏が書かれた『登山と電波』(電波時報1951年6月号)より引用する。
『 ☆ 26年3月20日 上高地西糸屋にて ☆
夕食もすんで皆をそれぞれ馬鹿話に興じていると表から無電を持ったOが大汗をかいて飛びこんでくる。Oの汗をふきふき語るところによると許可が遅れてやっと昨日下りたので夜行軍でとんで来たとか。「やっぱり間にあわなかったんだなあ」とOは如何にも残念そうにいう。実際稜線上での登撃は全部完了して後はベースキャンプの撤収を残すのみ。しかしまだ合宿中なので明日ベースキャンプと上高地間で使うことにする。
とにかく新しい機械を見せてもらう。皆の目がOの手許に注がれる。今度の奴は昨年の失敗からより軽便にして肩から胸へ機械をさげるようにしてアンテナも小さく受話器も電話式のもので歩きながら送受出来るスマートなものだった。とたんに皆今日迄の苦労も忘れてニコニコとゴキゲンになる。
早速夕食後のひとときをテストにあてることにする。ホールの両方に分かれて受話器をさしこみ発信。「JKX22」「JKX22」とコールサインが小さな声で送話器に吹きこまれる。受信の側をみると皆ニコニコしている。切り換えて受信、お互いに肉声の入らない様に小さな声でやっているのだが、非常に明瞭にしかも相当に大きく入って廻りの二三人も楽に聞きとれた。皆高級なオモチャをもらったつもりで、かわりばんこしゃべったり、むづかしい顔をしたりしている。』 日本初の簡易無線局JKX22, JKX23のテスト(初交信)は、上高地西糸屋での夕食後に行われた屋内試験(3月20日)だった。
そして簡易無線局JKX22, JKX23 による初の屋外運用は、翌21日に上高地西糸屋とベースキャンプ間で行われた。
文面にもあったように、今年の改良型「無電2号」は肩から胸に下げるタイプであることが見て取れる。なおこの無線機は沖電気製であると筆者の飯島氏が記されている。
『 ☆ 3月21日 ☆
あらかじめ打合わせた時間に発信することにして一方はベースキャンプの方へと出てゆく。同時通話の出来ない無電であるので、この時間をうまく合わせなければ何の形にもたたない。色々なさしつかえのため当分間同時通信は望めそうもない。一方通話の無電は片方が受信発信のどちらかが具合が悪いと致命傷で切換えも出来ないのだ。それでも今度の機械は相当に性能もよくお互いにはっきりと聞きとることが出来た。すでに合宿の計画はほとんど完了して、この通信も今は全く計画と関連がないので楽な気持ちテストすることが出来る。
3,000米の山々に囲まれた上高地で無電を使うことをどれ位夢見ただろうか。受話器からは絶えまなくおなじみの声が交る交る流れてくる。充分満足な結果を得て山を下る。』 昨年のJJ2AK, JJ2ALの時は、片方の機械の受信部が不良でうまく行かない面もあったが、今年の機械は充分満足できる結果が得られたようだ。
May 9, 1951 ・・・(可決成立)飛行場周辺での制限など
May 22, 1951 ・・・(連邦官報告示14FR4763, 即日施行)
FCC Rule and Regulation Part 19 のSection 19.2 (f) (h), Sec.19.14 (a) (b), Sec.19.64, Sec.19.65 が改正され、Citizens Radio の航空機発着エリアにおける制限の追加と、申請書式が変更された。
May 24, 1951 ・・・読売新聞社にも簡易無線局(JKX24, JKX25)が承認
1951年(昭和26年)5月24日、東京都中央区の読売新聞社の簡易無線局も、SCAP登録番号1797POで承認された。周波数467MHz, 電波型式A3, 出力0.5wでコールサインはJKX24, JKX25だった。
同日の読売新聞朝刊(3面)にその記事があるので引用する。
◎ "本社の簡易無線局免許 報道科学に一威力 ウォーキー・トーキー"
『・・・(略)・・・本社がかねて鋭意製作に努めていたウォーキー・トーキー(簡易無線)がこのほど閑静。廿二日電波監理委員会から わが国はじめての免許が下り、きょうから機械化報道陣に加わることになった。・・・(略)・・・送受信機は普通の電話受話機を箱形で大きくしたような格好で、全部で二キログラムにも満たない軽量さだ・・・(略)』
官報によれば免許日は5月24日なので、記事にある5月22日というのは工事落成検査が実施され、検査簿に合格印を受け取ったという意味ではないだろうか。また「わが国はじめての免許」とはいうものの、早稲田大学(JKX22, JKX23)が3月19日に本免許されており、これは報道事業用としての簡易無線第一号という意味だと解したい。1月の電波文化展示会にも出展された朝日新聞社のウォーキー・トーキーも申請されていたはずで、それよりも先に読売新聞社本免許されたから、こういう表現になったのではないかと私は想像してみた。
記事中のウォーキー・トーキーのテスト風景の写真によると、長さ30cm程度のカステラ型(長箱型)の無線機のようだ。新聞各社は昨年春に150MHz帯のラジオカー(報道用自動車無線)の実験局(実用化試験局)が免許されたが、まだ道も細く舗装されていない時代なので、ラジオカーが入れないような道へは記者が徒歩で現場に急行し、ウォーキートーキー[JKX24]→[JKX25]ラジオカー[JJ2AH]→[JJ2AG]本社 という取材送稿が想定されていた。
『(略)・・・電話設備のない法廷記者席から記者クラブを経て即刻公判の模様を送稿するといったことが出来、ニュース取材は一層スピーディとなるわけである。』と記事を結んでいる。
May 31, 1951 ・・・明星電気に467MHz の実験局(JJ2L, JJ2M)が承認
1951年(昭和26年)5月31日、明星電気株式会社の実験局(JJ2L/JJ2M, 467MHz, A3, 0.2W)が、SCAP登録番号17xxxxで承認された。常置場所は明星電気の目黒研究所(品川区上大崎)だった。
アメリカでは開発メーカーにはClass 1 Experimental(日本でいう実験局)でAl Gross氏のW6XAFなどを許可し、ユーザーにはClass 2 Experimental(日本でいう実用化試験局)でMulligan氏のW2XQDなどを許可したが、日本でも開発メーカーの明星電気には実験局として免許している。
さてこのJJ2L, JJ2Mというコールサインだが、これはGHQ/SCAP 民間通信局CCSが1949年(昭和24年)3月25日に川西機械製作所(8月より神戸工業に社名変更)に対して承認(CCS/DR第235号)したものが最初で、警察無線用無線機の製造・調整・試験を目的とする実験局(29.750/43.950MHz, FM, 50W)だった。残念ながら目指した国警への入札には落ちたが、JJ2L/JJ2Mで培った技術は地警(神戸市警察)の無線機に採用された。
早稲田大学の簡易無線の実用化試験局にはJJ2AK, JJ2ALという2文字サフィックスだったことから、当時の電波監理委員会RRCでは実験局(Class 1)には1文字サッフィックスを、実用化試験局(Class 2)には2文字サフィックスをというような使い分けを考えていたかもしれない。
June 1951 ・・・読売新聞社のウォーキートーキーの詳細が明らかに
誠文堂新光社の「無線と実験」6月号の表紙は読売新聞社のウォーキートーキーだった。そして『報道通信に活躍する 465Mc ハンディ・トーキー』という記事が掲載された。通例ならCitizens Radio の無線機のアンテナはAl GlossのModel 100B型のような半波長ダイポールまたは、Mulligan(W2XQD)のように1/4波長のホイップ型だが、時事通信社の試作機は珍しいV型である。
記事は、『467Mcのハンディ・トーキーを試作したので、その概要を述べよう。467Mcといっても別に恐れる必要はなく、その原理は短波や中波とまったく同じことである。ただ波長が64.2cmという短いものであるため、各部の寸法がそれだけ小さくなり、配線や部品の配置に注意を要することや、このようなセットにふさわしい真空管が非常に少ないということ等が違っている。』 という風に製作上の技術説明が続く。筆者は時事通信社研究部の富岡正春氏である。読売新聞の簡易無線機を、メーカーでもない時事通信社が設計するとは不思議な話しだ。
1950年のページで詳しく述べたが、1949年(昭和24年)暮れ、もしくは1950年(昭和25年)初頭ごろに、読売新聞社のラジオカー無線(155MHz)やウォーキートーキー(465MHz)を受注したのは、警察無線(30MHz帯FM)で実績を積んでいた東通電の栗橋工場だった。読売新聞社へのこれらの無線機の納入を最後に、経営合理化のために栗橋工場は閉鎖された。栗橋工場の従業員269名中、約50名ほどを漁業無線機や水晶発振子を製造していた川崎本社工場に受入れただけで、大部分は解雇された。この栗橋工場の技術課長だったのが富岡正春氏である。
ここからは私の想像になるが、簡易無線の周波数が465MHzから467MHzへ改正されることとなり、読売新聞社から周波数改造を依頼され、担当したのが栗橋工場から川崎本社工場に配置換えになっていた富岡氏ではないだろうか。この記事は読売新聞社の簡易無線(JKX24, JKX25)が本免許になるのを待って出版されたかも知れない。富岡氏がこの記事を寄稿した時点ではまだ東通電にいたが、何らかの事情で時事通信社の研究部へ転職され、掲載号が発売される頃には所属する社名が変わっていたと、想像力を膨らませてみた。時事通信社は1948年(昭和23年)8月26日、契約社に対し無線ファクシミリでニュースを送るための実験局(呼出符号JA9R, 43MHz, 20W)の許可を得た。この開発をはじめ時事通信社向け無線装置を担当していたのが栗橋工場の富岡氏だった(JA/JB Callsigns のJA9Rも参照)。
June 26, 1951 ・・・関東以外で初の簡易無線局が誕生(川崎重工)
1951年(昭和26年)6月26日、関東エリア以外で初の簡易無線局であり、また日本初の154.53MHzの簡易無線局が誕生した。免許人は神戸市生田区の川崎重工業株式会社だった。
コールサインは関西エリアの300番台で、JKX301,302,303,304,305,306が指定された。なおJKX301(携帯型)とJKX305(基地局型)は電波監理委員会では同一無線局としているため、委員会やそのあとを引継いだ郵政省の無線局数統計では5無線局(6コールサイン)として計算されている。
June 26/27, 1951 ・・・第一回アマチュア無線技士国家試験を実施
1951年(昭和26年)6月26,27日に第1回アマチュア無線技士の国家試験が実施された。アマチュアの資格には第1級と第2級が設けられたが、第2級アマチュア無線技士にはモールス符号の試験は課せられなかった。CW通信技能を要件としない、いわゆるノーコード・ライセンス(またはノンコード・ライセンス)と呼ばれるものの始まりである。
1927年のワシントン会議でアマチュアが私設実験局の一部として国際承認されて以来、アマチュアにはモールス符号の技能が必須条件とされてきた。
参考までに戦前最後のカイロ(1938年)で採択された、国際電気通信条約附属一般無線通信規則の第8条アマチュア局と私設実験局の第3項(Article 8 Amateur Stations and Private Experimental Stations, Sec.3 )を抜粋しておく。『・・・must have proved his ability to transmit passages in the Morse Code and to read, in radiotelegraph reception by ear,・・・』とあるように、アマチュア局と私設実験局には手送りモールスの送信能力と耳による受信能力が求められた。
そこに小さな風穴が開いた。1947年にAC(アトランティック・シティ)で採択された国際電気通信条約附属無線通信規則、第42条アマチュア局の第3項第1号(Article 42 Amateur Station, Sec.3(1) )では周波数1,000MHz以上ならばモールス・コードの技能は各国の電波行政当局に任せるとする例外が、初めて盛り込まれた。
1949年1月1日、AC規則が発効した。したがって1951年当時には、国際的にアマチュアのノーコード・ライセンスが認められていたが、それは1GHz以上の周波数に限られ、実質的には絵に描いた餅だった。
それにも係わらず、日本の(モールス試験のない)第2級アマチュア無線技士の操作範囲を『100W以下で、50Mc以上、8Mc以下』とし、入門者でも40m band の電話でオンエアできるようにした。この超法規的措置が採択されるまでには、『国際社会への復帰をなさんとする今、国際ルールに反することはすべきではない』という意見と、『荒廃した日本の復興には科学振興が不可欠だ』という意見が激しく衝突したらしいが、最終的に電波監理委員会RRCはこれを承認した。
1958年には第2級資格者を新設の(モールス試験のない)電話級『10W以下で、50Mc以上、8Mc以下』へ移し、国際ルールには適合しないものの、その電力を1/10に減じた。もちろんノーコード・ライセンスには賛否両論あるだろうが、多くの科学少年達を刺激し、電子立国日本の礎を築く一助になったのは間違いないと私は思っている。
1959年のジュネーブ会議では、国際電気通信条約附属無線通信規則の第41-44条を担当した第7委員会直属のワーキング・グループ(WG7F)が、144MHz以上ならアマチュアのモールス・コードの技能は各国の電波行政当局に任せることを決議した。「小さな風穴」が広がりはじめたのである。
新規則の発効は1961年(昭和36年)5月1日だった。郵政省はモールス試験のない電話級の操作範囲『50Mc以上、8Mc以下』を正すどころか、同年4月には逆に『21Mc以上、8Mc以下』へ拡大した。(1961年のページで触れるが、これは来る8月より27MHzを市民に開放するにあたり、有資格者である電話級アマが21MHzや28MHzを使えない不公平感を拭う措置だったと私は想像している。)
一方で批判も起きた。1960年以降、アメリカでCB局の運用の乱れが社会問題化すると、「日本は違法のノーコード・ライセンスで、市民をアマチュア無線に収容してずるいぞ!」的な声が米国CB界から挙がるようになったのも事実である。
1970年代の違法CB大ブーム時代には、その取り締まりに手を焼いていたFCCが、新聞紙上で日本の電話級アマチュア無線制度を痛烈に批判したことさえある(私自身リアルタイムでその新聞を読んだ)。1979年のジュネーヴ世界無線通信主管庁会議で、30MHz以上をモールス・コード技能不要とし、1982年1月1日に発効した。アマチュアの本質的な要件として求められていたものが、改正を繰り返す中で「せめて短波帯ぐらいは・・・」と、ここまでハードルが下げられたということだろう。
そして2003年に開催されたジュネーヴ世界無線通信主管庁会議では、ついに『アマチュアにモールス・コードの技能を課すかどうかは、各国の電波主管庁が判断する』と決め、2005年1月1日に発効した。知らぬ間に随分事情が変わったものだとつくづく思う。
June 30, 1951 ・・・アメリカのCRSが500局を超えた
連邦議会に提出されたFCCの年次報告書によれば、1951年6月30日時点でCitizens Radio Station は560局だった。
【局数統計】
その一方で開局申請数はなぜか192件へ大きく後退している。
【申請数統計】
統計期間である1950年7月から1951年6月には、ラジオコントロール用のModel CC が発売されたため、もっと増加しても良いはずである。私はまだこの謎を解明できていない。もしかしてModel 100B が市場から姿を消したのかもしれない。
July 1, 1951 ・・・FCCがアマチュア入門級(3.7MHz, 27MHz, 144MHz)を創設
FCCはAmateur の免許制度を改正し、入門クラス(Novice)を創設した。80m(3.70-3.75MHz)と11m(26.96-27.23MHz)の電信および、2m(145.0-147.0MHz)の電信または電話を、1年間の限定で運用できるというものだった。
この入門クラスには国際法にのっとり、モールス・コードの試験が課せられたが、1分間あたり5ワード(25字)の速度だった。なおコールサインのプリフィックス2文字目がNoviceの "N" である。若葉マークを付けて走る車のようなものだろう。
こうして11m Amateur Band(27MHz帯) はアメリカでは入門者バンドに指定され、(人気の点では80m Band に負けるが)再び賑わいを見せ始めたという。
【参考】 しかし1953年(昭和28年)2月20日に40m Band(7.175-7.200MHz)がNovice に開放されるや、11m Band は支持を失い、さらには同年3月28日にはNovice Bandの11m(26.96-27.23MHz)が、15m(21.10-21.25MHz)へ変更されてしまった。ここにNovice 用11m Bandは幕を閉じたが、11m Amateur Band が無くなったのではなく、Novice の資格では11m Amateur Band を使えなくなったということである。
Novice Class には水晶発振で、終段入力75W以下という制限があった。自励発振(VFO)は認められないので、一度水晶を作るとずっとその周波数でオンエアーすることになる。はたして26.960-27.230MHzのどのあたりの周波数が人気だったのだろうか?CB研究家としては興味あるところだ。
Aug. 8, 1951 ・・・横浜工作所にJKX20, JKX21が本免許
横浜工作所に船舶修理用として467MHzの簡易無線局JKX20, JKX21が本免許された。その呼出符号に注目して欲しい。早稲田大学JKX22, JKX23や、読売新聞社JKX24, JKX25を追い越している。
これを額面通りに受取れば、簡易無線の予備免許の第一号は横浜工作所で、何らかの都合で検査合格が遅延して今頃になって本免許されたということだろう。しかし私は朝日新聞社のウォーキートーキーが実はJKX20, JKX21の予備免許を得ていたのに、予定が変わり申請を取り下げ、これが空きコールサインになったところへタイミング良く横浜工作所がゲットしたのではないかと想像する。
朝日新聞社のウォーキートーキーは関東電波監理局新局舎のお披露目式に展示されたにも係わらず、この後も本免許されることはなかった。つまり開局申請を取り下げたとしか思えないのである。
Oct. 10, 1951 ・・・日本放送協会(JKX26, 27)にも許可
日本放送協会に簡易無線局(JKX26, JKX27)が許可された。
Nov. 2, 1951 ・・・法務府(JKX201, 202, 203)にも許可
名古屋の法務局に簡易無線局(JKX201, JKX202, JKX203)が誕生した。東海エリア初であり、また官公庁が免許人の第一号簡易無線局である。
先に述べた「無線と実験」6月号には東京超短波研究所の武田照彦氏の「市民バンド・465Mc 実用試験と機器」という記事に、『幸いにもある官庁の465Mc携帯用トランシーバーの実距離通信試験を行う機会を得たので、この際得た、いろいろのデータを整理し、とりあえずすの一部を報告させて頂く次第である。』とある。 「 ある官庁用」の簡易無線機をテストしたのだという。そして実際に通信実験していることから既に予備免許でコールサインは取得していることが伺える。この時期に官公庁で簡易無線の本免許を得たのは法務府だけだ。その次は1952年(昭和27年)7月18日の東京都特別区公安委員会まで官公庁には本免許されていないことから、武田氏がフィールドテストされたのは法務府に納入される予定の無線機だったのではないだろうか。
『今回の試験につかったトランシーバーは、・・・(略)・・・この機械の大きさであるが、主体は長さ27cm、断面6x7cmの四角のアルミケースにおさめてあり、電池をいれたカバンとヘッドホーンは別につくわけであるが、送話器(有線電話機用1A型カーボンマイク)は主体のなかにとりつけられ、ケースの窓からのぞいている。したがって電池のカバンを肩から横わきに下げ、ヘッドホーンをかけ、主体を片手で顔の位置へ持ってきて通話することになる。空中線は1/2波長の水平ダブレット型で直径3mmの銀鉄鋼パイプ2本で、使用時は主体の上部にさして用い、使用しないときはケース内部に簡単に納めてしまえるようになっている。このような空中線のとりはずし、格納ということも大切なサービスである。なおこの空中線をとりつけた場合、そのダブレット部分とケースとの距りは1cmである。ケースの左横に送受転換用ボタンがでている。』 (武田照彦, 市民バンド・465Mc 実用試験と機器, 無線と実験, 1951.6, 誠文堂新光社)
『試験は同じ型の携帯用トランシーバー2台の対向通信の形を主とし、別に送信機受信機各1台を補助として用意して比較を容易にした。試験場所は次の3ヵ所を選んだ。これはいろいろやむを得ない条件があったためである。 1. 港区田村町付近 - 市街地2. 京王線千川駅南方 - 平らな畑地3. 玉川二子登戸間 - 直視的5km もともとこの機械は実用4kmの試験ずみのもので、他の仕事のために有線電話の代わりに使っていたものなので、通達距離の最高記録をとるということは今回は問題にせず、むしろ使用者の立場で実際に屋外で使用した場合、どんな具合かをつかむのを主目的とした。したがって前記3ヵ所のうち1と2の場所での実験が大部分である。』 (武田照彦, 前掲書) 第一実験場) 港区田村町とは現在の西新橋付近。
第二実験場) 地図の左上を走るのが京王線。その京王線の千川駅の南側には逓信省(電気通信省)の電気試験所があった。現在は武蔵野市に移転し、NTT武蔵野技術研究開発センターになっている。中央部を横切っているのが小田急線で、地図の真ん中付近の駅が「成城学園前」だ。
第三実験場) 左下に川と平行に走るのが南武線で、これが小田急と交点する駅が「登戸」。そして地図右下の大井線と玉川線が分岐しているあたりが、交信相手の「二子玉川」である。
『大体の結果を述べて細部にわたろう。
1. 供試機の程度のもの4kmぐらいは実用距離であるが、周波数はよく合わせる必要がある。
2. 空中線をもうすこし工夫すれば直線10kmぐらい可能と推定された。
3. 市街地では著しい感度がおちる。左右に建物のある道路で1kmまでは通話可能を確認したが、ビルの裏にはいると、きわめて感度がおちた。
4. 通話は立ち止まって行う必要がある。供試機のようにマイクを本体につけたものでは、歩きながら通話すると音声が波をうち明瞭度をわるくする。
5. やや広く平らな場所でも2~3歩の移動をすると著しく感度が上がることがある。これは周囲からの不規則な反射によるのではないかと思われる。
6. 林や建物を背にすると感度がよくなる場合が多い。矢張り反射のためと考えられる。
7. 空中線の高さは感度に相当影響があり、受信時にアンテナを高くさし上げると感度を増す場合が多い。
8. 森のかげや川べりの低地に下りたら感度が増したという例もあった。』 (武田照彦, 前掲書)
初期の簡易無線の使用感を伝える歴史的にも貴重なレポートである。
Nov. 14 1951 (Docket No.10086) Proposed
Nov. 20 1951 (連邦官報告示 16FR11738)
市民ラジオ Class B (ラジオコントロール)の開局申請数は日を追うごとに増加していた。FCCは電波の一般開放への大きなニーズがラジオコントロールにあることを知ったが、このまま成り行きに任せておけば、そう遠くない将来に465MHz(Class B)で無線電話とラジオコントロールとの混信問題が起きるのは誰の目にも明らかだった。Class B はラジオコントロール専用ではないからだ。
またより安価で周波数安定度の良いラジオコントロール装置を市場へ提供するにはもっと低い周波数を追加すべきと考えたようである。そして白羽の矢が止まったのが27MHz ISM Band だった。
27MHz ISM Band とは27.120MHzを中心に上下0.6%の帯域(26.95728-27.28272MHz)を電波治療器や工業加熱器用に割り当てたものだ。 そして2次業務として、Amateur に26.960-27.230MHzバンドを、各種産業無線局や実験局などには27.230-27.280MHzバンドを割り当てていた(10kHzセパレーションで27.235,245,255,265,275MHzの5波を指定)。これらの無線局は2次業務なのでISM機器からの混信を容認する(がまんする)義務があり、通信用としては格下の2等席バンドといえよう。
1951年11月14日、FCCはこの27.230-27.280MHzバンドを Citizens Radio Service にも指定する方針を打ち出し翌15日にプロポーザルを発表。11月20日の連邦官報で告示し、利害関係者よりの意見受付の締め切り日を1952年1月11日までとした。もちろん27.230-27.280MHzバンドの先住民である産業用無線局や実験局との共用である。
ここなら周波数も低くて安価な装置の生産が見込めるうえ、所詮ISM優先の2等席バンドだから少々混信問題等があってもかまわないだろうという判断だったようだ。しかしこの案は全世界へ27MHz Citizens Band が波及するに至った大元の電波政策である。 後ほど述べるが、イギリスのGPO(General Post Office)がラジオコントロールバンドとして464.0-465.0MHzと26.960-27.280MHzを指定する方針を打ち出したのも1951年である。
Nov. 29, 1951 ・・・九州電力(JKX601, 602)にも許可
九州エリア第一号となる据置用簡易無線機(JKX601)と携帯用簡易無線機(JKX602)の本免許が九州電力に与えられた。全国各地で最初に簡易無線に飛びついた大口ユーザーは全国の電力会社だった。なぜ電力会社が無線機を必要としていたかも含めて、九州電力株式会社の機関紙「九電」1952年4月号pp.73-74に「九電の超短波簡易無線電話」(工務部通信課)という記事があるので引用する。
『今般当社に於いて九州最初の簡易無線局が免許を与えられましたのでその経緯及び概要を報告致します。簡易無線と言うのは昨年6月より施行されました電波法及びそれに基づく附属法規に依って定められ無線通信を一般に開放するために設けられたもので・・・(略)・・・』 (九電の超短波簡易無線電話, 九電, 1952.4, 九州電力)
<特殊事情>
『昨年12月旧九配送電課通信係に於いて簡易無線実験の話が起こり当時の高工務次長の御世話により研究費の支出をお願いし早速試作を行いました。今年2月初旬に試作完成しその後ずっと実験を行いましたが何分無免許のことで公然と電波発射が出来ず充分な実験が困難でした。』 (前掲書)
日本発送電の九州配送電課では、1950年(昭和25年)12月に設計スタートし、1951年(昭和26年)2月には試作機が完成したようだ。しかしGHQに財閥指定され解体の運命にあった日本発送電株式会社としては、開局申請もままならず、無許可実験となったようだ。1951年(昭和25年)5月1日、日本発送電は全国9地域の電力会社に分割された。存続会社も決まりやっと正式に申請できる環境になった。
<申請から予備免許>
『九州電力設立後正式な免許申請をする事になり6月22日電波監理委員会に対し免許申請を提出、その後数回申請書の訂正をしたため決裁がおくれ10月12日付けで予備免許が与えられました。それ以前昭和26年度上期研究費予算により送受信機の改良を行い一応検査を受けられる程度に整備しました。』 (前掲書) 当時は無線局免許申請に添付する工事設計書など関係書類の記載例など、お手本がないため何度も再提出するのは珍しくなかった。ところで簡易無線局で予備免許(Construction Permit)の日が明らかになっているのはこの局ぐらいで非常にめずらしい例である。JKX601とJKX602のコールサインは10月12日の予備免許で指定された。
<落成検査から合格通知まで>
『11月8日~9日に九州電波監理局より検査官が来社せられ落成検査が行われました。まず渡辺通りの本館屋上に固定局を置き携帯用送受信機を持って自動車にて南部大通りを南進し2kmの所まで充分通話が可能でした。それより移動局は蓑島変電所に行きしばらく通話した後本館に帰着しました。次に固定局を二日市紫ヶ丘県営住宅地に移し移動局は山口村方向に向かって西南進し直線距離約3kmまで通話を行うことが出来ました。翌月検査官より成績甲にて合格の旨発表されここに正式な使用許可が下されたわけであります。この簡易無線局は呼び出し符合JKX-601及びJKX-602が示す様に九州地区にて最初に免許を与えられたものでありまして今後は九州各地の現場において種々の実験を行い実用化を推進したいと思っています。』 (前掲書)
落成検査合格(本免許)の知らせは即日ではなく翌月に知らされたという。つまり11月29日に本免許されたことを、数日後に知ったようだ。
<無線機> ---- CB無線の元祖チャリンコ・モービル(JKX602)も
JKX601の概観は据え置き型だが九州全域を移動範囲として許可されている。周波数467MHzのA3電波で約0.5Wの空中線電力が得られる。 重量は約10kgで電源は交流100Vである。
JKX602は携帯型で上の写真では右手に持っているのが無線機(左手は送受話器)である。周波数467MHzのA3電波で約0.1Wの出力を得ている。重量は約1kgだが、無線機とは別に1.5Vの平角3号乾電池4個と、67.5Vの積層乾電池3個をカバンに詰めて持ち運ばなければならず、この電池の重量が約5kgだった。JKX602のもうひとつの特徴は自転車に装備できるようになっていることで、簡易無線におけるチャリンコ・モービル局の元祖である。自転車ライト用の交流発電機(15V,8W)で動作するように設計されたという。
<想定用途>
『・・・(略)・・・その主な用途は次の様な事が考えられます。
1.配電線保守及び需要家サービス関係
前述の様に都会地で2kmの通達距離がありますが都会地の営業所の直轄区域は営業所を中心として半径2kmの円内に概略包含されますので電燈需要家の不点事故修理に携帯すれば常に営業所と連絡が出来連続して巡回する事が出来ます。また配電線故障時の途中開閉または修理に携帯すれば携帯電話と同様にしかもそれ以上便利に営業所と通話できます。
2.送電線工事関係
主に架線工事の場合に電線の繰出地点に固定局を置き牽引する側に携帯用を使用すれば常時連絡が出来非常に便利であります。特に海峡越架線等には絶対に必要なものとなりましょう。その他海底ケーブル敷設の場合の水深測量等に利用範囲は非常に広いと思われます。』 (前掲書)