1912-1923

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これまでCB無線の入門書やハンドブックが数多く出版されてきました。これらではCB無線の生い立ちから書き始められることが多く、第一号CB無線局は1947年2月に免許された、New York 州 Elmiraの無線技術者John M. MulliganのW2XQDとするのが一般的でした。

たとえばElectronics Illustrated 1970年5月号(下写真)は、私がCB無線史を研究するきっかけとなった雑誌で、(もう随分変色してしまったが)今も大切に保管しています。この雑誌でもCB第一号としてJohn M. MulliganのW2XQDを挙げています。

しかし1976年になって、CB制度創設に関する国家機密が情報開示されたことにより、CB黎明期にはW2XQDだけでなく多くの人々、会社や組織がCB無線創設に関わったことが明らかになりました。これは本サイトの最重要テーマのひとつでもあり、後ほど詳しく紹介していくつもりです。

(How the FCC Stole CB, May 1970,Electronics Illustrated, Fawcett Pub., pp75-76)

一方CB無線すなわち Citizens Radio Service という単語の由来は、1920年代の米国で起きたCitizens Radio ブームに起因します。上の写真をご覧ください。"Citizens Radio Call Book"(Nov.1923) です。米国のCitizens Radio ブームは日本へも波及し、我国では苫米地貢氏により「衆立無線」と訳されました。Citizens Radioの性格を的確に表現したものだといえるでしょう。

では Citizen Radio とは何だったか?ここから話を始めることにします。

1) 無線の黎明期

100年前の無線送信機は火花式だった。放電で生じる電波なので、たとえLC回路を有する同調式送信機であっても純粋なる線スペクトルではない「汚い電波」である。 そして放電の瞬間に発生するので持続しない(直ぐに消滅する)電波だった。また受信機はまだ増幅機能を持たない、受動型だった。まずこの2点を念頭において欲しい。

そしてアメリカでは電波を統治する唯一の法律は特許法だ。これに抵触しない範囲であれば、みんなが自由に電波を発射できた。しかしそこは強食弱肉の世界で、大きなアンテナと、大きな電力で火花を放電させたものが勝者である。このような状況では混信が最大の悩みごとになった。自国内の無線局同士で混乱が起きるのはなんとかするとしても、外国船が出入りする貿易港周辺では、各国各社それぞれの(特許の)方式や周波数の電波が入り乱れることになるので、国際的な海岸局と船舶局の運用周波数や取扱料金規程を取り決める機運が高まった。

1906年(明治39年)10月3日より11月3日、世界30カ国の電波主管庁がドイツのベルリンに集まり、第一回国際無線電信会議が行われた。この会議で「国際無線電信条約 付属業務規則(Règlement de service annexé à la Convention radiotélégraphique internationale)」が締結されて、周波数500kHzと1,000kHz を海岸局と船舶局間の通信用として定めた(1,000kHzを通常波)。1910年6月4日、米国はこの条約に沿った国内法の船舶無線法(Wirless Ship Act)を制定したが、これを国家が電波を管理するるものではなく、いわゆるエマージェンシー無線の設置を船会社に義務付けるだけのものであった。

2) 特許権者が支配する電波

マルコーニを始めとする特許権者達は自分の発明を商品化するために会社を設立し、無線ビジネスを興していた。

有線による通信手段が使えない船舶局と海岸局間の通信用として注目され、競争が激化した。無線機メーカーの中でもマルコーニ国際海洋通信社(マルコーニ社の子会社で船舶通信分野を担当)は自社の無線設備と通信士をセットで顧客に送り込み、他社とは交信しない方針を打ち出していた。

1912年(明治45年)4月15日に起きたタイタニック号沈没事件である。1906年のベルリン条約の取り決めでは海難事故の防止には不充分であることがはっきりした。

タイタニック号沈没から2ヶ月後の1912年6月4日から7月5日、世界45ヶ国がロンドンに集まり第二回世界無線電信会議が開催され、以下のような取り決めがなされた。無線ビジネスに法の秩序を与えようとしたのである。なおこの会議では軍用局や陸上局は各国の自由とした。

ロンドン国際無線電信条約 付属業務規則(Detailed Service Regulations Appended to The International radiotelegraph Convention)

米国議会は国内法を整備して、電波の国有化の促進とその運用ルールに全面介入すること決めた。

1912年8月13日、米国で無線通信取締法 Radio Act of 1912 (Public Law 264, 62nd Congress, "An Act to Regulate Radio-communication")が成立した。その第1条で特許を監督する商務労働長官に無線管理の権限を与えた。電波は特許権者のものだったからだ。

『商務労働長官の許可なく、米国の個人・会社・団体は、各州・海外領土・米国船籍船舶もしくは外国と商業通信を行えず、違反者には$500以下の罰金、並びに使用装置・発明品は国が没収する。(要約)』と定めた。「非政府系無線局の商業通信を管理する法律」の誕生である。ここではなぜ電波の管理者が商務労働長官だったかに注目して欲しい。答えは簡単である。米国では電波は国のものでもないし、民衆のものでもない。特許権者のものだったからだ。

3) アマチュア局(Private Station)の法制化

周波数の分配は無線通信取締法第4條の中の取締規定(Regulation)の第1,2,15項で定めた。これにより波長200mより長い(すなわち周波数1,500kHz未満) 電波は商務労働省長官が管理することになった。なぜ波長200mより長い電波に限定したかというと、電波は波長が長いほど遠くに届くと信じられており、高い周波数は管理するに値しないゴミ周波数だったからだ。

その内容はロンドン条約にのっとり、500kHzと1000kHzを船舶局や海岸局に、188kHz以下を大陸間の公衆電報を扱う長距離商業通信用に指定したうえで、周波数188-500kHzを政府専用の周波数だと定めた。アマチュアは「200mを超えるな」とするだけで、どこを使えとも明示されなかった。無視だった。

第4条の取締規定第15項で私設無線(Private Station) の規制に言及された。アマチュアはこのPrivate Station のくくりに入った。

第3条

第8条

第9条

海岸局および船舶局は、自局が導入した無線機の方式によらず、相互に無線通信をしなければならない。

無線局を、なるべく他の同種局の業務を妨害しないよう組織すること。

無線局は、遭難信号を誰が発信していようとも、絶対的最優先で受信し、これに応答する義務を負う。

第15 私設局の一般制限事項(General Restrictions of Praivate Station)

商業上の無線通信をおこなう商業局や、販売目的の無線機の製造・開発の実験を行わない私設局(Private Station)は、商務労働長官の許可を受けた場合を除き、波長200mを超過したり、送信機入力1kWを超過したりしないこと。(以下略)

ロンドン条約では内陸局(インランド局)と軍事局は各国の電波主管庁の自由としたため、1912年9月28日に無線通信施行規則(Regulations Governing Radio Communication, Sep. 28, 1912)を制定し、第一条(Part 1. LICENSES--APPARATUS)C 、"Land Stations" において、以下の8つの内陸局を定義した。ここに初めてGeneral Amateur Stations が登場する。

CLASSES OF LAND STATIONS(Regulations, Part1.C)

DESCRIPTION OF CLASSES(Regulations, Part1.C)の第五項に「一般アマチュア局」が定義された。

5. General amateur stations are restricted to a transmitting wave length not exceeding 200 meters and a transformer input not exceeding 1 kilowatt.

『一般アマチュアとは、送信波長200mを超えず、そしてtransformaer(送信機)入力1kWを超えないよう制限された局をいう。』

英語の原文ではnot exceed 200 meters(波長200mを超えるべからず=1,500kHzより低い周波数を使うな)で、アマチュアは1,500kHz以上の周波数を自由に使えたかというとそうではない。1,500kHz以上で、自分が希望する波長を申請し許可を受ける方式だった。事実上はほとんど全員が波長200m(1,500kHz)を申請しここで運用された。なぜなら周波数が低いほど遠くへ届くと信じられていたからだ。

Radio Act of 1912の中の施行規則(Regulations, 1912)第15項と、この無線通信施行規則のアマチュアに関する規定は同じである。要するにAmateurは「商務省管理エリアである1,500kHz以下の周波数には立ち入るべからず」という意味だった。

4) 三極管の発明が無線に革命をもたらす

消滅する火花電波ではなく、持続電波を作るために、交流発電機の周波数をどんどん高くする試みが行われていた。無線施設はまるで発電所のような大型施設になっていった。

やがて無線通信界でとてつもなく大きな技術革新が起きた。1906年、リー・ド・フォレスト(Lee De Forest)が3極真空管を発明した。そして1912年、エテン(Herbert van Etten)、ログウッド(Charles Logwood)が3極真空管の増幅作用を発見したのである。

さらに同年には、以下に述べるアームストロング(Edwin H. Armstrong)の実験が無線通信の発展に劇的な貢献を果たした。

受信機の革新

送信機の革新

アームストロングは3極真空管増幅器の実験中に、出力信号の一部を入力側にフィードバックすると、増幅ゲインが飛躍的に増すことを発見した。再生式検波回路の発明である。これまで送信側の放射パワーに依存する受動型受信だったが、弱い電波を「増幅」して受信できるようになった。

アームストロングは、増幅器のフィードバック量をさらに増していくと、ついには3極真空管が持続的に発振することを発見した。私達が経験する、マイクのハウリング現象と同じである。 火花電波は直ぐに消滅するが、これは持続電波(CW:Continuous Wave)である。そのもうひとつの特徴は単一スペクトラム(1つの周波数)のきれいな電波でもあった。

ド・フォレストの3極真空管と、アームストロングの実験で、受信機には増幅作用とAM検波機能が与えられ、送信機には巨大な発電機を設備しなくても、簡単な設備で持続電波(CW)が得られるようになった。そのためAmateur に新たな運用カテゴリーが誕生した。

1916年、ニューロッシェル(New Rochelle, N.Y.)のキャノン(George C. Cannon)が、Special Amateur Station "2ZK" で定時的に音楽を送信し、それを受信する受信機を販売するという新ビジネスを始めた。これは新たな無線の時代の幕開けを意味していた。

5) アメリカでCitizen Radio ブームが起きる

しかしタイミング悪く、1914年に第一次世界大戦が勃発した。

1917年にはアメリカも参戦し、商務長官の命令で、国防上の理由から、全ての私設無線局(Private Station)は禁止された。そして周波数1,500kHzは静まり返った。

1918年11月11日、戦争は終結したが、アマチュア無線の禁止は解除されなかった。それでもどうにかARRL(American Radio Relay League) が米国議会の理解を取り付け、ようやく送信が許されたのは、1年後の1919年10月1日だった。

大戦前は無線電信が全てだった。しかし技術革新で無線電話の時代が幕開き、新たなビジネスモデルが生れはじめた。自分は電波で音楽などを送り続けて、その傍らラジオ受信機を作り、近隣の一般家庭に販売するのだ。これは電波で広告宣伝(Commercial Message)を送信する商業放送ではないし、受信料を聴取する有料放送でもない。ただ受信機を販売するだけだ。こうしてAmateur (=Private Station = 放送局)は急増し、これを皆がCitizens Radio と呼ぶようになった。

この写真は、アマチュア無線家ならご存知のARRL(American Radio Relay League)の機関誌でもあるQST誌1922年April, June, July, Augustの各号だが、QSTというタイトルの下の文字をよくご覧頂きたい。Citizen Radioの文字にお気づきいただけただろうか。(一時期だが)米国のアマチュア無線団体ARRLが自らのことを Citizen Radio だと名乗っていた時代である。なおCitizen Radio は法律上の言葉ではなく俗称である。

当時の無線局は、1)海軍の無線局、2)特許権者の無線局(軍用ではない船舶局や海岸局)、3)一般大衆の無線局(Citizen Radio)の3つに分類される。

つまりCitizens Radio とは広義では、政府系無線局(主として海軍無線局)でもなく、特許権で事実上"電波を私有化"していた無線会社のいずれにも属さない、第三のグループ (Private Station) の総称だった。 「一般大衆による、一般大衆のための、無線局」だと考えれば良いだろう。

しかし狭義では「アマチュア免許で運用していた、中波ラジオ放送局」のことを Citizens Radio と呼んでいた。 まだ放送(Broadcasting)や放送局(Broadcasting Station)とい概念も規則も確立しておらず、アマチュア無線のひとつのジャンルとして放送が行われた

無線電話の無線局なのでコールサインはアルファベットではなく東京1番」と「東京2番」だった(東京2番は自動車に設置された移動局)。

◎ 無線局の検定合格 (1922年5月30日)

また一部で濱地氏の免許を1922年(大正11年)5月30日とする記事もあるが、免許日は2月27日だ。ラジオ科学の1950年3月号に以下の記事とともに、左図が掲載されている。

『大正10年には、ついに研究が実をむすび、TH式(ハマチツネヤス式の略)の無線電話を完成した。このとき、彼はわずか24歳の青年であった。ついで翌11年には、この装置の特許を申請し、一方逓信省に対して、施設許可を申請したのである。この申請を受取った逓信省では、なにぶんにも最初のことなので、慎重に検討した結果、当時の第四部長だった逓信省技師横山英太郎氏も、実地について厳密な検査の後、時の逓信大臣野田卯太郎氏から、大正11年5月30日附で許可されることとなった。・・・(略)・・・写真は、このわが国最初の施設許可書である。』 (わが国で最初に施設無線電話を許可された青年発明家 濱地常康, 『ラジオ科学』, 1950.3, ラジオ科学出版社, p12)

「検定」とは戦後の言葉で言えば「落成検査」のことで、これに合格して初めて電波が発射できた。しかし戦前には「予備免許」、「本免許」という考え方はなく、あくまで最初に施設の工事着手を許した日が「免許日」となり、この日から起算して1年間が有効期間だった(検定は単なる「通過儀礼」的な位置付けでしかない)。

従って濱地氏の場合、2月27日が免許日で、5月30日に検定合格したため、免許の有効期間は残り、7箇月ということになる。検定合格に時間が掛かるほど、実質的な免許期間は短くなる仕組みだった。

それにしても私は戦前の無線局の検定証書をはじめて見たが、たいへん貴重な資料ではないだろうか。『右私設無線電話の機器及其の装置は工事設計に、適合するものなることを認め私設無線電信規則第九條に準じ本証書を交付す 大正十一年五月三十日 逓信大臣 野田卯太郎』とある。

◎ 通俗無線雑誌『ラヂオ』創刊 (1922年11月)

1922年11月、濱地氏は通俗無線雑誌『ラヂオ』を創刊した。創刊号の表紙には受信機の前でヘッドフォンを付けた和服女性のイラストが用いられた。ちなみに日本でJOAKラジオの仮放送が始まったのは、2年半も後の1925年3月22日である。この「ラヂオ」創刊号は米国の無線雑誌「Radio News」1923年(大正12)年7月号で紹介され、アメリカにも知られるところとなった(左図)。

濱地氏はアメリカでブームに成っているCitizens Radio を月刊『ラヂオ』で紹介し、読者に無線電話を技術を解説し、さらに実験部品も供給することで日本にもCitizens radio のムーブメントをおこそうとした。そして当時の科学青年達の心を掴んだようだ。

だが実際に逓信省から法2条第5号の私設無線局の許可を得ることができたのは濱地氏の外には、後述する本堂平四郎氏と安藤博氏だけである。それ以外はアメリカの新技術をアピールするために、新聞社がイベント会場用として一時許可を受けたものだった(法2条第6号)。つまり「ラジオ」誌に刺激され電波に興味を持ち、東京発明研究所で部品や装置を購入した人達は、結局は非合法な電波実験を行ったようで、「○○放送局」や「○○研究所」という自称コールサインで運用していたという。

熱烈な読者により中波の無線電話実験ブームに火がつき始めたころ、大事件が起きた。1923年9月1日、11時58分、関東地方を巨大地震が襲った。銀座(京橋区南紺屋町9)にあった濱地法律事務所と東京発明研究所は大火で灰になってしまった。

そこで東京市外大井町元芝830の敷地千坪といわれる自宅内に大井町工場を仮設し、ハマチヴァルブと呼ばれる真空管を製造。その後銀座の研究所を再建するも、震災直後でもあり営業は振るわず、また日本の Citizens Radio に先鞭を付けた『ラジオ』誌も僅か第二巻第九号(震災発生の月)までの11冊にして復刊されることはなかった。ライバル誌『無線と実験』の創刊も影響したのだろうか?

ぜんぜん儲からない東京発明所の運営資金は父・八郎氏が援助していた。濱地氏の無線への情熱は冷めることなく、その後も研究に没頭し、昭和7年11月に急性肺炎で34歳の若さで亡くなったという。地下1階の実験室で毎晩2時、3時まで実験に没頭し風邪をこじらせたのが原因らしい。床に臥してから2、3日の命だったそうだ。研究所員は最初は10人ぐらいだが、濱地氏が逝去した昭和7年頃には100人近くになっていた。(JA1FAR金子俊夫, "ハム前史紀行3 大正時代のモービルハム", 『CQ ham radio』, 1976年3月号, CQ出版, p342)

◎日本のアマチュア無線発祥の地 (2020年)

明治時代の古地図(下図[左])によると濱地氏が免許を受けた南紺屋町の「9番地」は、当該ブロックの「東端の角地」である。2020年現在はこの角地に銀座西ビル(銀座1-3-3)が建っており、ここが「日本のアマチュア無線の発祥の地」ではないだろうか。(この付近は各県のアンテナショップが並ぶエリアで、)ここ銀座西ビルの1Fには「食の國 福井館」が入っている。福井県のアンテナショップである。

上はCitizen Radioが頂点に達していた1922年8月のRadio News誌に出された、General Radio Company社の広告である。当時のCitizen Radioの規模が相当の数だったことが読み取れる。

『Our instruments are in daily use at the Bureau of Standards radio laboratory, the radio laboratories of the Army and Navy, the principal college and commercial research laboratories throughout the in the radio activities of the city as well as country, as well as by thousands of citizen radio enthusiasts.』

6) 日本にも伝えられたCitizens Radio

このように米国ではAmateu Radio のひとつの運用形態として、原始的な定時放送が始まったのだが、日本の一般紙でもその様子が伝えられた(無線電話の進歩と発展 素人用の普及, 大阪時事新報, Oct.6,1922)

これまで無線はモールス符号を習得した特別な人達のものだったが、無線電話(=Amateur=放送=Citizens Radio)が、一般市民にも扱えるものにしたと称えている。 『素人で科学に興味を持つ人の非常に多い米国の大都市には、素人が所有し操縦する無線電話のステーションが少なくない。これらの所有者は自分自身で、無線電話で音楽の演奏を送ったり、無線電話の到達する区域内に受話装置を所有している人々と会話を交換したりしている。・・・(略)・・・

特に牧師などは日々の説法を無線電話で数千の人々に伝えるのも可能だといわれている。実際に米国の無線電話装置の製造者達は、近い将来において受話装置の所有者に対し音楽を送る目的で広範囲に及ぶ無線電話のステーションを建設する時が来ると予想している。少なくとも1社は小さい蓄音機のような受話装置を作ってそれを説法、演説、音楽、市場の報告、政府の布告等に対して自由に使う計画を立てている。無線電話がこのように一般に普及するのは遠くないと思われるのである。米国政府は各地方で農業者や家畜売買人のために、家畜およびその市場の状態を無線電話で広く伝えることに着手したが、これがさらに拡張されるのも遠いことではあるまい。』

海軍局(政府局)や無線電報局(特許権者)ではない、市民による市民のための無線局の時代が到来したのだ。

7) Citizen Radio Call Book

左の写真は「Citizens Radio Call Book」 (Citizen's Radio Service Bureau 創刊:1921年, 廃刊:1939年)である。 無線局のコールサインとその周波数、送信地、出力を掲載した「ラジオ受信ガイドブック」でもあり、また受信機の製作技術誌でもあった。

1920年11月に家庭向けラジオ受信機の製造販売を目論んだウェスティングハウス社が商務省から初めてラジオ放送の許可を得た(KDKA)。当初は聴取者が伸び悩んでいたが、やがて人々が放送に興味を持ち始めた。それはAmateur界にも波及した。

全米各地で、「放送したいAmateur」と、「仲間と交信をしたいAmateur」が1,500kHzの1波で運用していたため大混信になった。一般人は音楽を楽しみたいだけなのに、そこにモールス信号の交信が混信してくるため社会問題としても取り上げられはじめた。

1922年2月1日、商務省は Amateur無線家による放送行為"Citizens Radio"について2つのプランを示して、意見を公募した。(Broadcasting, Radio Service Bulletin, No.58, pp.8-9, Feb.1,1922, Department of Commerce, U.S.Goverment P.O.)

1案) Amateur用の200 meter(1,500kHz)を、放送用の時間帯と、通信用の時間帯で使い分ける。

2案) Amateur用の200 meter(1,500kHz)の前後25 meterに、新たな2つの放送専用波を設けて、低い225 meter(1,333kHz) は特別なライセンスを要し、175 meter(1,714kHz)は現在のAmateur免許のままで放送行為を認める。

結局いずれの案も採用には至らず、1922年と1923年の規則改正で放送(Broadcasting)無線局が定義され、免許方針も明確化されたため、Amateur免許での「放送行為」はできなくなった。

多くのアマチュア無線家は新たな規則に従って、正規のラジオ放送局の経営者兼技術者として転身していった(アメリカのラジオ放送の創成期を担ったのはAmateur無線家だった)。こうしてCitizens Radio ブームは沈静化し、これ以降はAmateur無線とはお互いに交信するものを指すようになった。

1922年2月27日-3月2日、米国の各種無線局の周波数を考える会議が、ワシントンDCで開催された。Conference of Radio Telephony(第一回国内無線会議:First National Radio Conference)である。1912年の周波数分配時にはなかった放送バンドを取り決める必要があったことも開催理由のひとつだ。この会議ではAmateurを150-275 meter (1,091-2,000kHz)のバンド指定にする推奨案が採択された(実際にAmateur Band が設定されたのは翌年の第二回国内無線会議のあと)。

8) Radio Chaos ・・・電波は誰のものか?

この問題はくすぶっていた。ある周波数の電波の発生装置を発明し、特許を得た人が、その周波数の所有者であるというのが、1912年までの米国の考え方だった。しかし特許権者が電波を独占することが、国民の利益にはつながらないと考えた米国議会は(特許を監督する)商務省長官に電波管理の権限を与えた。

その一方で放送局は周波数や送信出力を商務省から押し付けられ、(受信障害の苦情を解消するために、)商務省から何度も周波数を移動させられた。はたして、そのような権限が商務省長官にあるのか?という不満が放送局の経営者には高まっていたのだ。

1926年。イリノイ州立裁判所(the District Court for the Northern District of Illinois)で、連邦法に照らし合わせると、商務省長官に周波数や出力を指定する権限はないとの判決が出た(Radio Act of 1912は違法)。人々は商務省の許可を得ずに電波を発射するようになり、電波は混乱状態に陥った。この社会現象を "Radio Chaos (ラジオ・カオス)" または "Broadcast Chaos" と呼ぶ。

この状況を憂慮したクーリッジ(Calvin Coolidge)大統領は1926年12月7日、議会による無線法の改定を急ぐように要請した。12月8日、米国議会は "Radio Chaos" に乗じて周波数を占拠した「ならず者」達の既得権(所有権)を停止する措置(Public Resolution 47, Dec.8, 1926, 69th U.S.Congress, 2d Session)を採択したのだ。

さらに1927年2月23日、新しい無線法 Radio Act of 1927 が議会で成立(Public Low 632, Feb.23, 1927, 69th U.S. Congress)。そしてそれに基づき、専門組織として連邦無線委員会(FRC: Federal Radio Commisson)を作った(FCCの前身組織である)。周波数は「所有権」ではなく、免許証による有期の「使用権」により扱うことを明示し、無線局の開設に求められる公共の利益 "Public Interest"、便益"convenience"、必要性"necessity"という理念を打ち出し、各種無線局が細かに定義された(これが現在の民主主義各国の電波法のお手本になった)。そして "Radio Chaos" は収まったのである。

【注】 1912年に制定された最初の無線通信取締法と混同を避けるために、単に"Radio Act"とせずに、"Radio Act of 1912"や"Radio Act of 1927"という表記するのが一般的。

しかし欧州では事情がやや違っていた。昔から王様が領民を統治し、王様が死ぬとその子供が権力を世襲してきた。そして新しい王様の決定に従うのが「善良な領民」だったのだ。そのような歴史を積み重ねてきた欧州では、政府が電波を管理し、国民は政府からその電波の使用を許されるというスタイルに抵抗は少なかったようだ。欧州各国では放送もつい近年まで国営放送の独占下だった。今ではいわゆる民放も許可されているが、まだまだ国営放送が強い。1980年代初頭まで欧州(CEPT)のCB無線は0.5Wで、大電力化には消極的だったことにも通じているかもしれない。

欧州からの移民が、アメリカ大陸に「自由の国」アメリカを建国した。この国には王様はいない。だから欧州や日本とは電波管理に対する考え方に根本的な差があったようだ。

つまり天皇制の日本は、王制の欧州各国と事情が似ていたのである。我国では政府から電波の使用を許されるという考え方を疑問に思う人はごく少数派だったであろう。そこへ敗戦でアメリカ式の考え方が一気に流れ込み、電波は国民のものと標榜するかたわら、郵政省が電波をがんじがらめに管理するという、誠に不思議な方法が昭和末期まで続いた。

1945年にFCCのE.K.JettがCB制度を作った。彼は1926年の電波行政の大混乱期に、通信将校エンジニアとして海軍に勤務していた。当然、この"Radio Chaos"事件を良く知っていただろう。そして1929年に海軍から連邦無線委員会(FRC)へ出向し、電波行政の道を歩み始めた。E.K.Jettの心の中では、「電波は誰のもの?」と何度も自問自答が繰り返されていたのかも知れない。

(放送だけは除き)電波を再び国民の手に戻したいとの思いが、CB制度設立への原動力になっていたのではないか?実際E.K. Jett は当初Citizens' Radiocommunication Service への政府からの制限は最小限に抑えて、各地の自治組織単位で運用規則を定め管理・運営すればよいと考えた。Jettは政府非介入の、誰もが自由な用途に無線を利用する制度を目指していたことからも、私にはそう思えるのである。

9) 日本のCitizens Radio活動家 濱地常康

日本のCitizens Radio活動家といえば濱地常康、本堂平四朗、苫米地貢の3名が有名である。

濱地常康氏は一般民衆へ無線電話を啓蒙普及しようとした大正時代の発明家である。著書に「発明はどうしたらできるか」(1922年)、「真空管式無線電話の実験」(1923年)、「無線用真空管の原理と応用」(1924年)などがあるが、そこには自分が無線の研究を始めたのは1910年(大正9年)頃からだと記している。

『余は無学なれども、余自身三年間に実験し試作し得た無線電話装置の通俗な作り方を創しもって諸子にこの面白くかつ有益なる実験をお薦めするのである。願わくば永く実験の友として、御愛読あらん事を -しかして諸子自らより良き装置を作られん事を- しからば余も諸子のために舞わん。

大正十二年六月吉日 濱地常康 識』 (濱地常康, "緒言", 『真空管式無線電話の実験』, 1923, 東京発明研究所)

このころ京橋区南紺屋町9(現:銀座1丁目3番)で父が経営する濱地法律事務所のビル内に、常康氏は東京発明研究所の屋号をあげたようだ。そして常康氏は全く独自の発想による「濱地式無線電話」なるものを完成させた。三極管の周囲に取り付けた電磁石を音声電流で駆動する。熱せられたフィラメントからプレートへ向う熱電子流を、音声信号で変化する電磁石の磁力でもって制御(変調)するものだった。

1921年(大正10年)8月21日の『大阪毎日新聞』に24歳の青年が無線電話器を発明し、見学した野田卯太郎逓信大臣が感服したという記事「簡単で軽便な無線電話機を二十四歳の青年が発明 野田逓相も実験を見て感服」があるので、一部引用する。

『「ホウ!こりゃよう聞こえるタイ」と野田逓相がスッカリ感服してしまった。しかも簡単で軽便な無線電話器が、たった24歳の青年によって発明された。この青年、名は濱地常康君といい、東京市京橋区大根河岸の弁護士濱地八郎の長男である。常康君は生まれついての発明の天才で尋常五年の時筆洗と絵具皿とを併せ用いた「改良筆洗」なるものを考案しマンマと実用新案の登標を受けたのが病みつきとなってそれからは学業そこのけで発明のことばかりを考るようになり・・・(略)・・・

こんな風で常康君の頭はダンダン発明の方にのみ固まってしまい、学校もヤット、独逸(ドイツ)協会中学を出ただけで、物理学、化学も専門的には学んでいない。それだけに今度の無線電話器の発明はなおさらもって面白いわけである。』 【参考】独逸協会学校中等部(普通科)。ちなみに専修科が現在の独協大学。

『写真にもある通り新発明の無線電話器は送話機受話機とも、丸テーブルの上に乗っかるほどに、簡単軽微なものである。・・・(略)・・・

野田逓相が評判を聞き伝えての実験で、感服したのも道理であろう。この無線電話器は今特許出願中であるが簡単にして軽便という。既に陸軍大学を始めその他数か所から器械の注文がくるという始末で・・・(略)・・・

濱地常康君談「先日も野田逓相と横山第四部長が来たので驚きました。横山さんは逓信省の研究室で、さらに研究をしてくれというのですが、私はそれよりもドイツへでも行ってウンと勉強してきたいとおもっています。」』

要するに私設無線施設の許可も得ずに勝手に電波実験を行っている青年のアジトへ、ノコノコと逓信大臣様が見学にやって来て、無許可電波発射の現場に立ち会い、「よく聞こえるタイ」と感服して帰ったという奇妙な話である。

しかしそれにはわけがあったようだ。濱地家の先祖は筑前国(現:福岡県)藩主 黒田家の杖術(しょうじゅつ)指南番だった。その筑前国藩主だった黒田家の顧問弁護士になったのが父・濱地八郎氏で、同じ福岡県出身で友人の野田卯太郎が逓信大臣だったからだろう。

父・濱地八郎氏は行政訴訟のエキスパートで、神奈川県にある大船観音を建てたという裕福な家庭だった。

濱地青年はこの新聞記事の年(1921年)に、フミ夫人と結婚したが、酒も飲まず、人付き合いが苦手で逓信省への誘いを断わり、ますます無線の研究に没頭していった。

ちなみに新聞記事中に登場する「横山第四部長」とは、逓信省の外局である(我国の電波研究の総本山)電気試験所第四部の横山英太郎部長である。日本独自の発明として有名なT(鳥潟)Y(横山)K(北村)式無線電話の発明者のひとりだ。

左の写真は濱地氏が設計製作した波長300m(周波数1,000kHz)放送用無線電話装置で、空中線電流最大5アンペアの性能があり、波長は下へ最大650m(周波数462kHz)まで可変できる。(濱地常康, 『真空管式無線電話の実験』, 1923, 東京発明研究所)

◎ 法2条第5号に規定される私設実験局(アマチュア無線局)を逓信大臣に申請

新聞で紹介されて、すっかり無線界の有名人になった濱地氏は逓信省へ正式に実験局の出願を行った。

ちょうど1922年(大正11年)は、ワシントンで開催が予定される無線会議への対応準備のために関係三省会議(逓信省・海軍省・陸軍省)が設けられた年で、省間で情報交換を始めた。

戦前は逓信大臣、海軍大臣、陸軍大臣の三名がそれぞれ所管する無線局の許認可権を持っていた為、免許する際には互いに支障がないかを事前協議をすることになった(もちろんアマチュア無線の許可も逓信大臣の一存では済まなくなり、陸・海軍の了解を得なければならない)。

1922年1月26日、濱地氏への無線許可に問題ないかを逓信省が海軍省・陸軍省へ問い合わせた(話第16号, 照会)文書が左図である。波長の項には中波の200-230m(1,304-1,500kHz)と長波の1500-1650m(182-200kHz)とあるが、これらが濱地氏からリクエストされた波長なのか、(実は濱地氏は他の波長を希望したのに、他の無線局への混信妨害等を勘案して)逓信省から指定された波長なのかはわからない。

逓信省からの照会に対して1922年1月30日、海軍省より「軍第44号」をもって以下のように「異存なき」との回答があった。

『大正十一年一月三十日 軍務局長

逓信省通信局長宛

実験用私設無線電話施設に関する件

本件に関し 一月二十六日附 話第一六号をもって御照会の趣 異存無之候 右回答す』 (軍第44号, 海軍省)

【参考】陸軍省からも「依存なき」の回答があったはずだが、その資料を(私は)発掘できていない。

◎ 日本第一号のアマチュア無線局が免許される (1922年2月27日)

1922年2月27日、逓信省は、濱地氏の無線を"話第1215号"で免許し、同日付けで本人および海・陸軍省へ通知した。

下図は海軍省へ送られた同日付けの通牒 "機器実験用私設無線電話使用ニ関スル件"だ(官報告示は3月1日)。ちなみにWeb上では3月1日に免許されたとする記事が散見されるが、それは官報で国民に免許事実を知らせた日であって、濱地氏の免許日ではない。

【参考】 戦前の官報告示では、当該無線局の免許日および免許番号は公表されなかった。従って官報で免許日を知ることはできない。"いつのことか分からない"が、その無線局が免許されたという結果を知ることが出来た。

「個人」アマチュアに対する日本第一号の法2條第5号免許である。父・八郎氏の友人だった野田逓信大臣が便宜をはかってくれたからだと、フミ夫人が語っている。

『逓信省の免許が下りたときには、飛びはねて喜んでいました。レコードを流すなど、放送に似たことも実験していましたし、研究所と都内を走る自動車との間での連絡実験もよくやっていました。・・・略・・・あるときは、京都の加茂川まで実験のため自動車をもっていきました。私も一緒だったので覚えているのですが、京都と東京の研究所間の通信ができました。あまりに熱中しすぎて、豆自動車が土手から落ちてしまいましたけれど。』(JA1FAR金子俊夫, "ハム前史紀行3 大正時代のモービルハム", 『CQ ham radio』, 1976年3月号, p342)

<参考リンク1>「食の國 福井館(Facebook)

<参考リンク2>「美食の数々が手に入る名店として名店として人気!食の國福井館

<参考リンク3>「食の國 福井館

<参考リンク4>「第18回ぶらり銀座 秋の酒まつり ふるさと7県利き酒ラリー」((「ぶらり銀座 酒まつり」というのは、現地で1,600円の当日券(スタンプカード)を購入し、付近に点在する各県アンテナ・ショップ7店を廻りながら、地酒とおつまみの振る舞いを楽しむスタンプラリーです。私は毎年、参加していましたが、知らず知らずのうちに「アマチュア無線発祥の地」を訪ねてお酒を飲んでいたようです。Hi)

10) 日本のCitizens Radio活動家 本堂平四郎

1870年岩手県に生まれの本堂平四郎氏は赤坂警察署長、新宿警察署長などを歴任したが、1919年に依願退職し、実業家としてのスタートを切った。日本放送史<上>(日本放送協会, 1965, p21)によれば、1920年(大正9年)の秋に帰国した義兄(報知新聞社の米国特派員)から、米国のCitizens Radio ブームの話を聞き興味を持ち、義兄とともにラジオの普及活動と放送機器の製造販売や輸出入を行う東洋ラジオ社を設立(1921年)した。

1921年(大正10年)には放送実験を成功させた。NHKの昭和5年版『ラジオ年鑑』より引用する。

『大正10年以来、民間における実験はラジオ知識の普及運動となり放送事業出現の機運を促進せしめた。その運動の先駆者として著名なるものは、大正10年、本堂平四朗が麹町元園町の白酔堂に送信所を置き、中島中尉邸へ民間初の試みとして放送したことに始まり、引き続き京橋々畔星薬株式会社の屋上を受信所として各新聞記者を招待し無線電話の実験を試みた。』

(民間における放送実験, 『ラジオ年鑑』, p602, 1930, 日本放送協会)

日本初の公開デモンストレーションだ。これは軍の通信を妨害するといわれるラジオ放送の許可反対論を緩和するのが目的で、陸軍の中島中尉の理解と協力を得て実現した。前掲の日本放送史<上>によると、東洋ラジオ社の貿易事業は三井物産会社が放送機の輸入を始めたため撤退を余儀なくされ、ラジオ啓蒙のための放送実験に力点を移したが、「差し当たり影響はないとしても将来、海上通信を混乱させる恐れがある」という予想外の海軍からの反対に合い、それが心配無用であることをとにかく実験で証明しようとしたものだった。

しかし本堂氏もまた逓信省の免許を受けてはいなかった。上記大正10年の公開デモンストレーションが(中島中尉の斡旋による)陸軍関連局として行われたものという解釈に立てば、逓信大臣には陸軍大臣の管轄する無線局への認可権はないのだから、これが違法実験とも言い切れない。

だがこの無線局の最終目的が軍用ではないのは明らかで、本堂氏は正式に逓信省へ申請を行った(申請時期は不明)。

そして本堂氏からの申請を審査し免許することを決した逓信省は、1922年(大正11年)7月28日に陸軍省と海軍省へこれを免許しても差し支えないかを照会(話第248号, 照会, 逓信省)した。

逓信省が本堂氏へ許可しようとした電波長は濱地常康と同じ波長200-230m(1,304-1,500kHz)だった(左図の第八項:使用電波長)。

ちょうどこの時期に、米国では1922年2月28日から開催された第一回国内無線会議でアマチュア無線用の周波数を正式に制定しようとしていた。

【参考】 これまでは帯域免許ではなく波長200m以下(1,500kHz以上)の中から申請者が希望する波長を個別に許可する方式

そしてこの会議でアマチュアバンドを波長150-275 m(1,091-2,000kHz)にする推奨案が採択されており、本堂氏への許可波長200-230m(1,304-1,500kHz)は、この米国のアマチュアバンド内に納まっているので、逓信省としては国際的にも整合するだろうと考えたようだ。

ところが1922年8月1日、海軍省から逓信省へ予想外の回答が送られて来た(1922年8月1日、軍第431-2号、実験用私設無線電話施設ニ関スル件)。

大正十一年八月一日 軍務局長

逓信省通信局長

実験用私設無線電話施設に関する件

七月二十八日附 話第二四八号をもって御照会の本件中 第七(八の誤記)項 使用電波長「自ニ百米 至二百三十米は左記理由により「二百米 もしくは二百米以下」に限定するを可とする当省の意見に有之候 なおその他に付ては異存無之候

右回答す

(1921年の)華府(ワシントン)国際通信予備会議ならびに(1921年の)巴里(パリ)国際通信会議準備技術委員会において議決せられたる所によれば、電波長二百米以上(1500kHz以下)は一般公衆通信用として国際的に配分せられ、また電波長二百米以下は私設無線通信用として一定条件の下に各国任意、これを許可することを得べし。もちろん右はいまだ確定的のものにあらずといえど、この方針をもち近々を適当とすべく、従って素人無線通信用としては一般に電波長を二百米以下に限定し置くを可と認む

海軍省の回答の趣旨は「我々日本委員も出席した1920年のワシントン予備会議と、1921年のパリ準備技術委員会の決議に沿ったものが適当で、アマチュア無線には1,500kHz一波もしくは1,500kHz以上の波長帯に限定すべきだ。」というものだった。たしかに海軍省の見解にも一理あるが、2月に濱地氏に182-200kHzと1,304-1,500kHzを許可したという既成事実があることや、米国ではアマチュアバンドに1,091-2,000kHzを推奨したことから、逓信省は海軍省の要求をつっぱねたようだ。

ちなみに濱地氏の法二条第五号の"機器実験"免許「東京1番」・「東京2番」と、本堂氏の法二条第五号の"機器実験"免許「東京5番」・「東京6番」が免許された時期のちょうど間になる3月27日付けで、東京朝日新聞社が法二条第六号の"無線電話の知識普及"を目的とする「東京3番」・「東京4番」の免許(3月27日, 話第101号, 通牒, 逓信省)を受けている。これは2日後の3月29日に官報告示(大正11年 逓信省告示第571号)されており、許可波長は960m(312.5kHz, 京橋の東京朝日新聞社)と1600m(187.5kHz, 上野公園内 平和記念東京博覧会第二会場)だが、これらに対し海軍省からの意見は付いていないようである。

1922年8月24日、逓信省は本堂平四郎氏に1,304-1,500kHzの「東京5番」と「東京6番」を免許した(下図:通牒"機器実験用私設無線電話運用ニ関スル件", 話第318号, 逓信省)。そして本人および陸軍省、海両省の三者にその旨が通知された。ところがこの免許に関し、なぜか官報で告示したのは2日前の1922年8月22日(大正11年 逓信省告示第1555号)だった。本来であれば「免許した」という事実が先にあり、それより数日後に官報で告示されるはずなのに、その順序が逆転しており、これは相当おかしな状況だ。ちなみに昭和15年に逓信省がまとめた『逓信事業史』第四巻の939ページにも、「8月24日に本堂氏に免許した」と明記されていることから、1922年8月24日が免許日というのは間違いないだろう。

本堂氏に続いて1922年8月31日に波長960m(312.5kHz)の「東京7番」と「東京8番」を免許(話第331号, 逓信省)された東京日日新聞社の場合、2日後の1922年9月2日にその事実が官報告示されている。やはり東京日日新聞社が波長960m(312.5kHz)を使うことに関し海軍省はクレームを付けていない。東京日日新聞社は法二条第六号の「無線電話の知識普及」の免許で、本堂氏は法二条第五号の「機器実験」(=アマチュア無線を含む実験局)の免許だからだろう。前述の濱地常康氏をはじめ、1927年(昭和2年)に免許された草間貫吉氏JXAXなど、いわゆる戦前のアマチュア無線家全員が法二条第五号による免許だった。

【参考】 東京日日新聞の無線には陸軍で無線を教えていた門岡速雄氏が協力した。『大正十二年(1923年)正月、東京日々紙が門岡速雄先生の設計せられた器械で三越との間に十日間程通話して一般に公開せられたとの事ですが、筆者は当時、地方に出張して居って実際の状況を見ませんから確実の事は存じませんが、相当良好であったとの事です。理学士門岡先生は日本陸軍無線教育の任に当たった功労者で、のち帝国無線を設立され、東京無線株式会社と合併後専務取締役として尽力し、その後事情あって日本無線株式会社に転ぜられました。実際技術として官界の佐伯先生に対し得られる士は同先生一人との事です。』 (苫米地貢, 『趣味の無線電話』, 1924, 誠文堂書店, pp37-38)

私の推測に過ぎないが、8月20日頃に免許し、8月22日に官報告示という予定で進めていたものが、海軍省との最終合意がとれず、もめているうちに、誤って8月22日に告示してしまったとは考えられないだろうか?そして24日になって決着したと想像してみた。・・・だが真相はわからない。

以上のように大正11年において、海軍省が本堂平四郎氏を、アメリカでいうところのCitizens Radio(放送したいアマチュア無線家)だと認識していた点は日本のアマチュア無線史を考察する上での貴重な資料であろう。

ところでアメリカでは第一回国内無線会議で150-275 meter(1,091-2,000kHz)をアマチュアバンドにする推奨案が採択されたにも関わらず実施には至らず、次の第二回国内無線会議(1923年3月20-24日)ではSpecial Amateurに220-150mを、General Amateurに200-150mをバンド指定にする推奨案が採択された。濱地氏・本堂氏への許可波長とアメリカの許可波長の関係を左図に示す。

1923年(大正12年)6月28日に商務省はこのバンドプランを実行し、一般のアマチュア無線バンドは中波の1,500-2,000kHzになった(そのため米国アマチュアには特別免許がない限り、短波は使えなくなった)。米国で短波が開放(1924.7.24)されるまでの13ヶ月ほどの期間ではあるが、日米共に中波アマチュアバンド時代というものが存在した。

すったもんだの末(?)、免許を得た本堂平四郎氏は、やがて野田卯太郎逓信大臣や後藤新平氏など有力者の後援も得られるようになり、軍部の反対論も和らぎ始めた。1923年(大正12年)春、東京有楽町の報知新聞本社に本堂氏の送信機を据えて波長230m(周波数1,304kHz)で送信し、第3回帝国発明品博覧会会場(上野公園)の洋食レストランで受信する公開実験を行った。ただしこれには報知新聞社の名義で免許手続きをしており「東京十番」(有楽町の報知新聞社)と「東京十一番」(上野公園の博覧会場)の免許を得た(1923年3月21日、大正12年 逓信省告示第521号)。本堂氏の免許は無線実験用(法2条第5号)だったので、知識普及用(法2条第6号)として別に申請する必要があったのであろう。東京十番と十一番を実際に運用した装置は、東京五番と六番のものだった。

『東洋レヂオと称する会社が報知新聞社の階上にあります。主として米国機械の輸入を目的とするとの事で設立当初は米国の技師二名程来て居った事は事実です。社長は本堂平四郎と申す方です。この会社が手に入れたウェスティングハウス社の機械で報知新聞社の名義で大正十二年三月二十日から上野に開催された発明博覧会の某洋食屋の二階に送話がありました。成績は大変良かったとの事です。』 (苫米地貢, 『趣味の無線電話』, 1924, 誠文堂書店, p38)

ようやく軌道に乗ろうとしていた矢先に関東大震災(1923年9月1日)で放送機材を失い、また政府が放送事業を始める事(純民間によるラジオ放送免許の不許可)を画策していることを知り、ついに志なかばでラジオ放送の事業化を断念し、会社を解散した。とはいうものの、いつの日かの復活の夢は捨てきれなかったのだろうか?「東京五番」「東京六番」の免許更新は毎年きちんと手続きをされており、本人からの申し出により廃止にしたのは、1929年(昭和4年)7月8日(1929年8月2日、昭和4年 逓信省告示第2224号)である。

11) 日本のCitizens Radio活動家 苫米地貢

大正時代末期(1922-25)の日本のCitizens Radio 運動の新撰組 "近藤勇" といえば、もう誰を差し置いてでも衆立無線研究所を主宰した苫米地貢(とまべち・みつぎ)氏だろう。

米国でCitizens Radio がブームになっていた1922年(大正11年)、苫米地貢氏の兄嫁・苫米地千代子氏がその著書で次のように回顧している。

『貢さんはその頃、ラジオの研究に夢中のようでした。アメリカで開発されて間もない、この無線の電波に好奇心をそそられ、アメリカのラジオの本を抱え込んで、その翻訳に取り組んでいました。泊まった翌日でした。貢さんが原書を持ってきて、ページを開き、「お兄さん、これ何と訳したらよいでしょうか」と訊くのです。夫は、指された箇所をみて暫く考えていましたが、「そうだね、『放送』としたらどうだろう」と、答えました。貢さんは、「そうですね、それが一番ピタリの感じですね、『放送』にしておきましょう。」この問答は、私が傍聴きしたものですが、貢さんはその翻訳に依って、「無線集粋」と言う分厚い本を編みました。』(苫米地千代子, 『千代女覚え帖』,June 1,1985,暮らしの手帖社)

「送りっ放し」と書いて "放送" (Broadcasting)。なるほど、うまく考えたものである。 【注】 なお「放送」という訳語の発案者については諸説あり

兄は苫米地英俊氏。オックスフォード、ハーバードに国費留学した秀才英語学者だった。いち早く米国の Citizens Radio の状況を知り得た日本人のひとりで、苫米地貢氏に多大な影響を与えただろう。ひょっとしてCitizens Radio を衆立無線と翻訳したのも兄の影響があったのだろうか。

そして苫米地氏は洋書の翻訳と並行して放送実験にも手を付けている。

前述の濱地常康氏がアンカバー活動に終止符を打って、逓信省から正規の許可を得た受けたのが1922年(大正11年)2月27日だが、苫米地氏はその年の3月上旬に放送実験を行ったと読売新聞のインタビューに答えているので引用する。

『・・・(略)・・・大正十四年三月、芝浦に仮放送局が出来てから十五年、ここにも放送草創時代が描き出す数多い苦闘史がある。 - "放送日本" の輝く精華を生み出したこの苦闘時代を日本放送協会普及部長苫米地貢氏にきく。氏は放送局開設前から本郷駒込林町に衆立無線研究所を開き "放送" 以前の私設放送局として当時のアマチュアーラヂオ研究家といわれた人である。』 (逓信文化七十年記念祭を迎えて(八), 『読売新聞』 1940.10.11, 朝p7)

1940年(昭和15年)10月11日の『読売新聞』(下図)はこのように苫米地普及部長を紹介し、本文がはじまる(写真に写った右の人物が、受信実験を行ってる苫米地氏)。

『 時計を見ると、まだ四時だった。午後五時放送開始というのに、五十人以上の人が受信室にあてた八畳の離れ座敷から廊下へ、庭にまであふれていた。本郷駒込林町の私の家から渋谷の友人の家までレコードを放送しようという夕だった。大正十一年の三月初旬頃、ひそかに実験するつもりが、外部に漏れて、隣近所から遠く埼玉県あたりのアマチュアー無線研究家まで馳せ参ずる騒ぎとなった。

その日の計画は実験所にあてた友人の家に電話がないので、五時を合図に私の本郷の家から助手達が放送を開始する。こっちはその時間に受信機のスイッチをいれるという約束になっていた。放送種目はワグナーのレコードということにしてあった。時間つぶしの挨拶演説も拍手喝采に終わって、もうそろそろよかろうと思って時計を見た。

「南無三!」

私の時計は依然として四時ではないか。しまったと思ったが、もう遅い、スイッチを入れたが、ガーでも、スーでもない。そっと時計を開いたら五時半だった。当時は放送用に蓄電池を使っていたので、いっときに二十分も放送すれば、電波がなくなってしまう。むなしくワグナーのレコードは大空に飛散してしまったのだ。私はすごすご、みんなの前にたって言い訳をした。ところが一人として不平がましいことをいうものもなく、その翌日、再放送の時には見事に成功した。 』 (前掲新聞)

しかし苫米地氏の無線との出会いについてはよく分かっていない。

日本科学技術史学会で高橋雄造氏が"濱地常康の『ラヂオ』から『無線と実験へ』 - 日本最初のラジオ雑誌"という研究論文を発表(『科学技術史』 第11号, 2010.7)されている。濱地氏と苫米地氏の関係を詳しく分析された唯一で最高水準の論文だが、p21には『濱地常康と苫米地がどのような経緯で協力関係になったかは、第1章で引用した『ラジオ科学』(伊藤永止)の記事以上ことは不明である。』 とされている。

その 『ラジオ科学』(昭和25年3月号)の記事とは次のものである。

『 話はちょっと横道にそれるが、当時、(濱地氏の)研究所にしばしば出入りした、近衛歩兵少尉の軍服で、ふさふさとあごひげをはやした青年将校がいたが、これが苫米地貢氏であった。 』 (わが国で最初に施設無線電話を許可された青年発明家 濱地常康, 『ラジオ科学』, 1950.3, ラジオ科学出版社, p12)

(もちろん高橋氏はこの論文発表後にも新たな発掘をされたとは想像しますが・・・) 1917年(大正6年)に『子供の科学』誌を創刊したことで有名な原田三夫氏が、御自身の回顧本(昭和41年出版)の中で濱地氏と苫米地氏の関係に触れており、もともと苫米地氏は弁護士濱地家の用心棒(ガードマン)をしていて、息子常康氏の無線研究に大きな影響を受けたという。

参考までに原田氏が1923年(大正12年)に「科学画報」を創刊した際の記述から引用しておく。

『関東大震災の大正十二年が明けると、新光社の仲摩は、私の著書の売行きが良かったので、科学雑誌を出したいと私に相談したが、もとよりも私も望むところであったし、・・・(略)・・・四月号から出すことになった。いろいろ検討の結果、題名を「科学画報」ときめた。・・・(略)・・・そのころ二人の青年が雑誌に関係した。その一人の柴田守周は無線の研究家で無線の製作記事を担当・・・(略)・・・ラジオ受信機の製作記事を毎月執筆した柴田守周は苫米地の弟子であったが、苫米地ははもとは当時有名であった濱地という弁護士の用心棒で、濱地の息子常康が早くから無線に興味を持って研究していたので、自分も無線技術をおぼえ、のちに軍隊で正式に習得したのである。

柴田が私のもとへ来たとき、苫米地は自製の受信機を売ろうとしていて、柴田を介して「科学画報」に代理部を設けて売ってくれないかといった。日本でもラジオ放送が始まろうとしている時であったから、私は小川と仲摩とで合名会社をつくり、神田駅のそばのビルに受信機のセットと部分品の店を設け、柴田を主任にして、大正十二年七月に開業した。おそらくこれはこの種の営業の日本での皮切りであったと思う。しかしこの店は関東震災で焼け会社は復興しなかった。』 (原田三夫, 『思い出の七十年』, 1966, 誠文堂新光社, pp222-223)

とにかく無線技術に関しては苫米地貢氏は濱地常康氏の弟子にあたるのは間違いなく、1922年3月より手を付けた放送実験の器材は濱地氏が製作した可能性は否定できないだろう。苫米地氏のゲリラ放送とでもいう実験は、(不定期かも知れないが)とにかく2年近く繰り返されたようだ。まだ完成品のラジオ受信機はなかった時代にもかかわらず、聴取者(ラヂオファン)はどんどん増えていったと(そのラジオ部品の通信販売を行っていたのが濱地氏)、苫米地氏が読売新聞のインタビューに語っている。

『 ファンは純然たる聴取者と、機械の研究者の二つに分かれどんどん増えて行った。当時の受信機は全部、部分品を自分で作っても千円から二千円かかったし、送信機は一万円位だった。こうして大正十ニ年(1923年9月1日)(関東大)震災直前には東京を中心にセットを持っている者が五千人位になった。

「こちらは大根放送局であります」

当時受信機を持っていた人はきっとこんな放送を毎晩キャッチしたことであろう。この「大根」は随分活躍して、その中に「麦畑放送局」なんていうのも現れた。われわれの向こうを張って私設の放送局がたくさん現れた。 』 (逓信文化七十年記念祭を迎えて(八), 読売新聞 1940.10.11, 朝p7)

なお当時、送信はもちろん、受信するだけでも逓信省の無線局免許が必要だったが、無線にみんなが飛びついた。

1924年(大正13年)5月、日本のISM機器の祖である伊藤賢治氏の無線実験社から「無線と実験」が創刊された。主幹の苫米地氏は発刊の辞を以下のように記した。

『発刊の辞 主幹 苫米地 貢

社会人類の文明尺度は,電気応用の状況に依りて、測定せられ、また電気精髄は雷智雄(ラジオ)によりて、代表せらるるとは、近時に於ける,学界の標語なるにあらずや。然るに、我国、斯界の現況は如何。無線放送の法令発布せられてより、既に半歳、今に至るも、一の放送局、設置あるを聞かず 実に目醒めざるも甚だしからずや。・・・(以下略)』 (苫米地貢, 発刊の辞, 『無線と実験』, 1924年5月創刊号,無線実験社, p2)

また『無線と実験』創刊当時の様子を引用する。

『創刊当時の無線と実験社は、伊藤賢治氏の住居でもあった赤門前の四階建の赤門ビルディング内にあり、四階の広い室で無線講習会を開いたり、またラジオの部品も販売していた。ラジオ狂(ラジオ時報狂) の俳優坂東彦三郎丈が、お伴に大きい時計を持たせて訪問して来たり、またラジオアマチェアは自慢のハモニカなどをマイクの前で吹奏して、自分の声が電波に乗って空をかけ廻るのを楽しみにやって来た。当時ビルディングの屋上に大アンテナを張って、小放送機で送信していたものだ。・・・(以下略)』 (古沢匡市郎, "25年前の「無線と実験」を回顧して", 『無線と実験』, 1949年3月号, 誠文堂新光社)

受信機を組み立てても、正規のラジオ放送が始まる前なので、確実に毎晩発射されている電波といえば夜九時の時報の合図ぐらいしか対象がなく、同社が通販した送信用部品も良く売れたらしい。もちろん無線実験社のCitizens Radioも、お客さんたちも、みんな無許可(違法局)である。

苫米地氏は衆立無線研究所を主宰し、全国に会員を募り、各支部をまわって講習会等開催したり、「無線と実験」誌を通じてCitizens Radio の啓蒙活動を行った。逓信省からは不法無線のリーダー的存在としてマークされていたが、早稲田実業学校の理科講師を辞め、東京放送局(現NHK、JOAK)の創設メンバーのひとりとなり、終戦直後まで日本放送協会に勤めた。

しかし教師時代には衆立無線以外にも名を残しているので参考までに紹介しておく。1924年(大正13年)2月25日の時事新報に36歳の早稲田実業学校の物理教師、苫米地貢氏が「激震自動予報機の発明」をしたという記事がある。半年前の関東大震災の当日、本郷の高台から火の海の東京を眺めていた時に電撃のように頭脳にひらめいたという。

『私の発明した予報器の原理は地震の波動と電波電流速度の相違の応用です。地震の波動は秒速三十町ですが震波電流の速度は七万六千里です。例えば相模灘に地震が起ったとして、それが東京に達するには三十一秒(凡そ省線電車の一駅停車時間)を要しますが、電流は約一秒間で達するのです、地震襲来の三十秒前にそれを予知して消火と避難の余裕を与えるは勿論、震源地地震の速度、震源地質の如何をも適確に知ることが出来ます。』

かつて "空中警察署長" とCitizens Radioマニアから恐れられた東京逓信局監督課の国米藤吉氏は、アメリカ同様に波長200m付近で勝手に電波を発射する日本版 Citizens Radio 時代を次のように回顧している。 【注】アメリカの200mは合法Amateur免許

『この風潮の先駆ともいうべきものは、雑誌では「無線と実験」であり、個人としては苫米地貢であった。苫米地は後年NHK周知課長として、ラジオの宣伝普及に功績を残したが、この頃は全く在野の人であった。当時の私共の立場からすれば苫米地はいわゆる不法施設の教唆者であり、扇動者であった。

諸処に目につく一般の不法施設者よりも、苫米地君あたりを捕えるべきであった。しかし苫米地君はなかなか上手に立廻ったものである。各都市に製作か、販売か、研究か、宣伝か、一体何が目的か知れないが、衆立無線と称する一団体を組織し、これが総師として東奔西奔している。臨時実験の申請はしているが、許可を待たずに実施する傾向があった。またその記事が「無線と実験」に掲載されて、いやが上にもファンを扇動した。

一方からみれば、「無線と実験」も苫米地君同様犯人と認むべきである。しかし他方からみれば当時のラジオ科学黎明期におけるアマチュア新撰組の近藤勇でもあった。すなわちラジオの知識の普及は必要であり、近く到来すべき放送開始に当たって、急に普及の出来るものではない。一般国民がこの文化施設の恩恵に浴すべきは火をみるよりも明らかであるから、余り無理解の弾圧を加うるのもいかがかとひそかに苦心したものである。・・・(略)・・・当時鬼監督とか空中警察署長とニックネームを頂戴したのも故あるかなである。今日放送局その他電波関係の仕事をしている壮年専門家は、皆当時の法令違反者の類に入るべき連中であった。』(空中警察署長と呼ばれる, 『生きてる人の追悼録』, p62, 1966, 不二通信社)

このように東京放送局JOAKによるラジオ放送が開始される以前に、日本でも "Citizens Radio" 時代があったのだ。しかし大正末期より相互交信を目的とする短波帯不法アマチュアの時代に移っていく。国米氏はみずから電波を発射し、いわゆるオトリ捜査により、短波帯不法アマチュアをきびしく取り締まったこともあったという。

「無線と実験」は伊藤氏や苫米地氏の手を離れ、誠文堂新光社から発行されるようになったが、戦前はまちがいなく日本を代表するアマチュア無線雑誌だった。そして1950年(昭和25年)には日本初のCB無線マニュアルである、無線と実験別冊『これからのラジオ』が発刊されたほか、27MHz帯の簡易無線創設時にはいちはやく特集を組みアメリカの27MHz事情を伝えたのも『無線と実験』である。CB無線の歴史上からも注目に値する無線雑誌といえよう。

1950年(昭和25年)2月10日、電波法案および電波監理委員会設置法案の審議で、第007回 国会の電気通信委員会公聴会に公述人として出席した苫米地氏は、自分は電波法案に賛成で、その理由を以下のように述べている。

『苫米地は三十七年間、無線及び放送に関する啓蒙運動をいたしておりまして、ただいまのNHKなども、私創立委員の一人でございました。またごく最近まで放送協会に職を持つておつたものでございます。と申しながら、別に放送協会を援助するのではなく、きようは純然たる電波の問題だけについて申し上げるのですが、なぜ賛成と申すかと申しますと、かつて私どもが放送以前にいろいろ電波を出そうといたしまして、願書を逓信省に出すにつきましても、たいがい半年ないし一年かからなければ、その許可はおりて参りません。学校等において予定の時間に電波を出したくても出せないので、ついその時間に無線電波を出す。そうすると早速逓信省から告訴を受けた。その回数においては、おそらく日本で最も古く、最も多いのでありまして、始末書は絶えず謄写版に刷つておいて出さなければならぬというような被害者でございました。それほど昔の無線法規というものは幼稚なものでございまして、日本のラジオ文化、無線文化というものについても、何ら顧慮しないものでございましたが、今回提案せられましたところの法案二つを拝見いたしますと、隔世の感があり、非常な進歩をいたしまして、日本の電波文化に対して非常な貢献をするところの画期的な法律だと存じまして、私はぜひこれを通過さしていただきたいと思います。』

12) 早稲田大学生の安藤博

上記3名のCitizens Radio運動の活動家のほかに、早稲田大学在学中より「東洋のマルコーニ」と呼ばれた大発明家の安藤博氏もまたCitizen Radio の影響を受けて無線電話の実験に没頭していた。安藤氏は20才で出版した「実用無線電話」でCitizens Radio を「民衆無線」と訳していた(実用無線電話, 安藤博, Oct.1924, 早稲田大学出版部)。

1939年(昭和14年)、安藤氏は秩父宮殿下の御質問に対して、1913年(大正2年)の「尋常小学校5年生のころより無線研究を始めた」と答えている。

『・・・秩父宮殿下には光栄の(発明家)十氏を西溜間に召され御歓談遊ばされた。殿下には学術振興会総裁におはすだけに科学に対しても御理解御造詣深く、一時間余に亙って専門的の御質問やら今後の御鞭撻に有難き御言葉を賜り、御予定を四十分余り御超過遊ばされ一同重なる光栄に感激している。なかでもデレビ進歩に貢献した多極真空管研究の安藤博氏は同氏が最年少者として殊のほか御注目遊ばされ、テレビその他に関し御熱心な御質問を拝した由で、ことし三十六歳の青年発明家安藤氏は一時すぎ退下後渋谷区千駄ヶ谷一の五六二の研究所でこの日の光栄を謹んで語った。「畏くも賜餐の光栄のみならず宮殿下から「今後もますます研究に精励せよ」との御言葉を拝しまして、この上もない名誉とただ感泣するのみです。殿下の御理解は極めて深くいろいろ専門的な御質問がありました。私が三河台小学校五年生時代からラヂオ研究に入り・・・(略)・・・』 ("若きテレビ研究家:秩父宮の御激励に感奮", 『読売新聞』, 1939.5.25)

そして明治学院中学部三年生だった1917年(大正6年)に、研究していた多極真空管を使って無線電話機を組立て、学院の紀念祭において、中学部理化学室と校庭を隔てた神学部問(数100m)で無線電話の実験を公開した(「アマチュア無線家」の末尾付近を参照)。これは日本最古のアマチュアによる無線の公開実験である。濱地常康の無線研究は1920年(大正9年)頃からなので、それよりも2年も早い。

1922年(大正11年)4月15日、大日本水産会が主催した懸賞付き発明募集の授賞式で、早稲田大学理工科の安藤博氏が、画期的な漁船用無線電話を考案・製作し二等を受賞した。審査は海軍工廠(現:築地市場)と沖合い20海里(37km)での実地通信により行われた。

『一等はなし。二等賞金千円が安中製作所の技師津守英五郎君と早大理工科の予科二年生、安藤博君・・・(略)・・・』 (『東京朝日新聞』, 1922.4.16, 朝刊p4)

『理化少年』誌1922年5月号(日本少年理化学会)に、その入賞無線機の写真と、『近時無線電話の進歩』を早大理工科 安藤博として寄稿した(左図)。このころより安藤氏は無線機の研究にも力を入れるようになったようで、当然ながら試験電波の発射にも及んだだろうが、逓信省の許可は得ていなかった。ついに東京逓信局が自宅へ摘発にやって来た。だが逆にこの摘発が正式免許へのきっかけとなった。

安藤氏は前述の『生きている人の追悼録』に国米氏の想い出を次のように寄稿している。

『大正十二年、私の研究のことや無線電信装置のことが新聞にれいれいしく書き立てられた。東京逓信局の電信係長の国米さんは、これは不法の無線施設であるとして、私の家へ調査に来られた。そしてそれが不法の無断施設で無線電信法に抵触するものであることを説明されると、同時に私に関心をもたれ、「こんなに研究されているのか、偉い、偉い、通信も上手で本職に劣らない。語学も達者だ。早速正規の手続きをして、堂々と実験を続け研究されて、日本のマルコニーになりなさい」と激励された。

これが縁でまだ実験用無線の私設の許可はなかった当時だが、国米さんの骨折りで個人私設の許可第一号が与えられました。それから国米さんは、特許は国内だけではなく、外国への申請もしておきなさいと勧めて下さった。業界新聞などに私が特許魔とか酷評された時でも、国米さんだけはいつも私の為に弁護して下さった。ありがたく思っています。』 (安藤博, 実用無線の私設第一号, 『生きてる人の追悼録』, p63, 1966, 不二通信社)

安藤氏は自分が日本初のアマチュア無線局だと主張されている。東京逓信局の国米氏の計らいで安藤氏に逓信省より許可が降りたのは1923年(大正12年)4月11日(官報告示4月14日)でコールサインは「電話:東京9番, 電信:JFWA 」(のちのJ1CK)だった。そして半年後に「電話:東京19番, 電信:JFPA」(のちのJ1CL)の増設が認められ、このJFPAが1926年(大正15年)10月に初の短波帯私設実験施設として38mと80mの運用許可を受けた。これもおそらくは国米氏の応援があったのだろう(免許関係については「法2条第5項施設」を参照)。

安藤氏は濱地氏の「東京1番」のことを知らないはずはないが、個人として無線電信の許可を得た第一号だし、また個人として短波帯(38m/80m)の許可を得た第一号であることから、自分こそがアマチュア無線局の第一号だと主張されたのかも知れない。この話題は別途取り上げるとして、ここでは特許の件に言及しておきたい。

【参考】 1922年(大正11年)12月23日、逓信省は海軍省軍務局長へ安藤氏への許可を照会(信第2455号, 逓信省)し、1922年12月26日に海軍省(軍第747号-2)より同意を得た。

特許80948号「多極真空管」1919年(大正8年)

特許42397号「大電力真空管」1921年(大正10年)

特許64414号「真空管用高圧電源」1922年(大正11年)

安藤氏がいう『業界新聞などに私が特許魔とか酷評された時でも・・・』とは、ラジオ受信に関する安藤氏と業界の訴訟問題だった。