JZ Callsigns



<印刷にはページ最下段の「Print Page / 印刷用ページ」をご利用ください> 2014.02.24

JZコールサインについて紹介します。「JZ+数字+文字」のサンドイッチ形式の呼出符号は警察無線の実験局に使われました。ただし1947年11月5日から1948年12月31日の14ヶ月間の短命でした。District Number(エリアナンバー, 地域番号)が地域を示さない特例的なコールサインです。

1947年11月15日に米軍から借用したリンク社とモトローラ社製の計20台のFM無線機に、JZコールサインの承認がおり、日本各地で電波伝搬の実験と研究が行われました。1948年夏、さらに15台の追加借用に成功しました。このFM実験は1950年春まで続きましたが、「警察業務への試用」ではありません。VHF移動体通信の特性を明らかにし、警察通信網の立案と、国警に配備する無線機を国産化する基礎データを収集する科学的実験でした。従ってこれを警察(業務)のVHF無線とするのは適切でないと考えます。(あえて挙げれば台風来襲時や歳末パトロールに、警視庁が一時的に 警察本来の "警ら業務" に借用した事例があります。)

2014年9月2日、FM方式による警察無線 超短波無線電話装置PR-1が国立科学博物館の未来技術遺産に登録されました。30MHz帯FMによる警察無線の立上げの歴史を簡単に要約してみましょう。

1946年にアメリカから2つの警察制度の視察団が来日し、警察通信の近代化を指摘されました。これを受けてGHQ/SCAPの指示により超短波移動無線協議会が組織され、1946年12月に日本初のVHF/FM方式による自動車無線(JPC4, 38MHz, 10W)が実験されました。そして1947年5月17日、GHQ/SCAPの民間通信局CCSは主要6都市に「中短波AM-超短波FM」方式のパトカー無線の導入を決めました。

1947年9月2日、第八軍のVHF/FM無線機20台の貸与を受けてVHFの研究を始めるようCCSより指示があり、同年11月5日に中短波AM基地局JZ9A-JZ9Cの3局と、超短波FM移動局JZ9D-JZ9Wの20局が承認されました。

また国産警察無線機のプロトタイプ(試作機)の基本要求仕様(Basic Requirements)を作るようCCSより指示された逓信省電気試験所は、1948年8月にそれをまとめ、学術研究会議の超短波通信特別委員会の検討を経て、工業会へ提示したのが1948年12月でした。

【注】それにしてもインターネット上で「1948年に30MHz帯FMで警察無線が始まった」との記述が散見されますが、1948年といえばようやくプロトタイプの要求仕様が12月にまとめられただけです。第八軍のFM無線機を借りて31.5MHzで実験が始まったのなら、1947年12月8日(内務省JZ9Dと新宿伊勢丹ビルJZ9F間)ですし、私には「1948年」の意味が良くわかりません。

そしてプロトタイプ基本要求仕様に基づく試作コンテストが実施され、1949年9月1日を試作品の提出期限としましたが、審査の結果は全社不合格。仕方なく国警は二次試験を実施し、1950年3月3日に送受揃って合格したのは8社でした。しかしこれは1948年12月提示のプロトタイプ基本要求仕様に基づく無線機の合格であって、日本初の警察無線機PR-1の完成日ではありません。この8社のプロトタイプ合格品の性能を吟味し、本番機PR-1型の要求仕様書へ反映させたのです。

ではPR-1の完成はいつだったのでしょうか。1950年4月1日、送信機・受信機101台と遠隔制御器2台の発注説明会でPR-1の要求仕様書がプロトタイプ・コンテスト合格8社に公表されました。4月10日にCCS立会いのもと入札・開票し、4月15日に松下・八欧・日無の3社が落札社に決まったのです。そして1950年7月15日にいち早く松下電器産業がPR-1型警察無線機の第一号を国警に納品し、分納が始まりました。いうならばこの日がPR-1の完成日でしょう。

1950年8月18日午前10時、国警東京都本部にてCCSおよび各界関係者を集め盛大なる開局式があり、我国の初の30MHz帯FM式警察無線がスタートしました。しかしここに至るまで、けして平坦な道のりではありませんでした。

1946年に企図されたVHF/FMパトカー無線構想は、1947年には主要6都市だけの「中短波AM-超短波FM」方式となり、1948年に再びVHF/FMに戻ったものの、管区本部内の県間通信用として位置付けられました。それが1949年後期にようやく日本全国の国警都道府県本部にパトカー無線を配備する計画になりました。しかし満足な予算が付かず全国配備は1955年(昭和30年)まで要したのでした。これら1949年以降の警察無線にまつわる詳細トピックスは New Prefix のページのJG/JJ/JPプリフィックスをご覧下さい。

国警(国家地方警察)が開発させたPR-1型無線機は国警大阪府本部にも導入(9月1日運用開始)されただけでなく、税収入の多い大都市の自警(地方自治体警察:人口5000人以上の市町村が自らの予算で運営する警察組織で、最も大きいのは警視庁)も導入を決め、大阪市警10月5日、横浜市警11月30日、警視庁12月13日、名古屋市警翌1月29日と次々運用を開始しました。当時の日本の警察組織はアメリカの「連邦警察FBI」と「ロス市警」のように、国警と自警の別組織になっていました。

(東京都公安委員会が組織する自警の)警視庁は、国警東京都本部の建物に同居していましたが、PR-1型を最初に導入したのは(国家公安委員会が組織する)国警東京都本部の方です。警視庁が導入したのではありません。ここは誤解しやすいのでご注意下さい。

なおPR-1型無線機は大変評判が良く、1951年3月に国鉄は上越線の水上-新潟間(JR2AD, JR2AE, 25W)と、山陰線の米子-福知山間(JR5AB, 25W)に除雪機関車(実験局)にPR-1型を採用して、基地局(長岡JR2AA,50W、越後湯沢JR2AB,50W、六日町JR2AC,50Wおよび山陰線の鳥取JR5AA,50W)と連絡通話を始めました。

CCSの電波統治時代は、CCSの無線局承認は官報には掲載されませんでした。1950年(昭和25年)6月に電波監理委員会RRCが誕生後は、(どういう基準なのかわかりませんが)大方は官報告示されていますが、歴史研究には、この時代の官報はやや役不足でした。本ページが占領下における日本無線史研究家の参考になれば幸いです。

  • 警察無線の歴史1(1932年10月19日より実験開始、1934年4月6日に警察無線が実用化)

無線が犯罪捜査に活用された事例は1923年(大正12年)までさかのぼる。東京三田にあった東洋軒のウエイトレス殺人事件の犯人検挙に、警視庁刑事の金子益吉氏が無線を使ったのが最初だといわれている。

『・・・(略)・・・大正十二年(1923年)正月 品川の東洋軒女給殺しを北海道まで追跡、漁船に乗って犯人が岸壁を離れたところへ馳付け、無電を使って検挙した日本最初の無電利用の犯罪検挙・・・(略)・・・』 ("凄腕金子刑事勇退", 『朝日新聞』, 1939.5.7, 夕刊p2)

警察無線が最初に検討されたのは、まだ関東大震災(1923.9.1)の爪痕が残る1924年(大正13年)春で、神奈川県警察部においてだった。警察電話が災害時に途絶した場合や、(平時でも陸地の)水上署から、所属の汽艇への通信確保のために導入を計画したが、逓信省の賛同を得ることが出来ず、結局実現しなかった。

『神奈川県警察部警務課では強震あるたびごとに警察電話が不通となり 各署との連絡が途絶するので その不便を除くためラジオ(=無線)を利用する事となり 目下調査研究中だが大体の計画では厚木、小田原、横須賀の三警察署と警察部とに装置を施すほか、水上署と水上署附属汽艇にも簡単な装置を施すこととなり予算は約三万円位である。無線電話を警察に利用するのは はじめての試みであるという。』 ("警察の連絡に無線電話", 『無線タイムス』, 1924.5.15, p4)

1931年(昭和6年)末頃、警視庁総監官房文書課の井上定宣電信係長を中心に移動無線局が計画された。その実現性を検証する目的で、警視庁が実験局J1BH(7100kHz, 電信/電話7.5W)の免許を得て、1932年(昭和7年)10月19日より試験を開始(s7.9.13, 逓信省告示第1629号)した。これが警察無線のルーツと呼ぶべきもので、(警察所間の固定通信ではなく)計画当初より移動体通信を目指していた。

我国の電波正史である『日本無線史』第二巻(第五節 警察無線, 1951, 電波監理委員会, p372)より引用する。

『昭和七年二月、移動無線通信計画を具体的に取上げ、その実現化に向って計画を進めていた。しかしながら当時の警察通信に無線を導入することは最初の試みであり、その成果又未知数とされていたので、研究施設として昭和七年十月、J1BH素人実験局として逓信省の承認を得その施設を改造し、移動無線通信施設の実験装置として発足し、技術的成案を得てから、本格的移動施設を設けようとの結論に達した。・・・中略・・・

当時警視庁係員中には素人無線研究家(いわゆるアマチュア)多数ありて、機器の設計、試作等には自らこれに当たり、月余にして、固定、移動装置共に完成を見たので、逓信省係官の協力を得て、都内及び三多摩地区に及ぶ全域を数度にわたり電波伝搬、感度ならびに明瞭度等につき野外試験を実施した。』

【参考】 1932年にマドリッドで開かれた国際無線電信会議で(アマチュアを除き)コールサインの数字に0, 1を使わないことになり、1934年(昭和9年)2月1日よりJ2BEに変わった。

またこの警視庁J1BHの移動無線の実験とは全く別に、水上警察に無線を導入する案が1933年(昭和8年)に急浮上した。

東京港に入る艦船の錨(イカリ)を落とす場所を決める"錨地指定権"は東京水上警察署長に与えられており、その指定場所の適・不適がそのまま荷役に影響するため、海運事業者にとっては最重要事項だった。

1925年(大正14年)3月26日より見張船北斗丸(251トン)を羽田沖に常時係留しておき、同署交通係員が北斗丸に繋いである自動艇「すみだ」で港外に仮泊している寄港船舶に近づき錨地を指定する方法を取ってきが、波が高い日には「すみだ」を出せず、北斗丸から手旗信号や旗流信号で伝えるしかなかった。さらに経済発展とともに入港船数が激増し、この方法による対応限界に近づいていた。

そのため警視庁は海軍省水路部より第五台場を借地して木造の仮見張所を建てたが、1933年5月に第五台場の仮見張所を整備して、(見張船を廃止し)入港船と無線電信で連絡を取ることを計画したのである。

まず1933年9月25日に鉄筋コンクリート高さ20mの見張所が完成し、同年12月25日より事務を開始した。そして翌1934年(昭和9年)1月より無線局の建設にも着手した。

【注】左図[左]の第五台場全景(1934年)では不鮮明で見張所がはっきり見えない。左図[右]は1946年撮影。

警視庁総監官房文書課記録係が発行した警視庁事務年鑑(昭和8年版)に錨地指定無線に関する記述があるので引用する。

『 東京水上警察署東京湾見張船北斗丸は既に船齢老朽し配置員の勤務に危険の所あり、昭和八年度追加予算をもって東京港第五砲台に見張所建設せられ、同時に船舶に対し錨地指定、その他救護の通信用として無線電信電話の施設決定ありたるをもって見張所各船舶間は無線電信、見張所 警察署間は無線電話の計画のもとに設計に着手し、十月逓信大臣に稟伺し、十二月四日まず無線電信施設を承認(官報告示は12月7日, 逓信省告示第2716号)ありたるにより年内に起工、明年一月待つこれを竣成せしむる見込にして 概要左の通

機器装置場所

東京港第五砲台 東京水上警察署台場見張所

空中線電力

電信(持続電波) 五「ワット」

使用周波数

五〇〇「キロサイクル」および四五四「キロサイクル」

施設費概算

参千九百円(別に電気および電話設備を含む) 』 (警視庁総監官房文書課記録係編, 警視庁事務年鑑 昭和8年, 警視庁, 1939, p300)

東京港に入る100トン以上の船舶に対し、東京水上警察署が無線電信を使って錨地を指定できるように、1934年(昭和9年)3月31日、東京港取締規則を改正(警視庁令第5号)し、同日より施行した(実際の無線運用は4月6日より開始)。

(第1~6條 省略)

第七條 総噸(トン)数100噸以上の汽船又は帆船にして内港に入らんとするときは水上署長より錨地の指定を受くべし

前項以外の船舶と雖(いえど)も水上署長において必要ありと認めるときは錨地の指定を為すことを得

第八條 錨地の指定を受けんとする船舶にして外港に到着したるときは信号符字を掲揚し又は無線電信を以て東京市芝区第5砲台 東京水上警察見張所を喚呼し 水上署長の指揮を受くべし

前項の船舶にして日没後来著したるときは外港に停船し日出を待つべし 但し特殊の事由あるものは水上署長の許可を受け入港することを得

(第9~28條 省略) (東京港取締規則, 昭和9年3月31日, 警視庁令第5号)

1934年4月6日、我国初の警察無線局として東京水上警察署台場見張所の無線局JHR(454kHz/500kHz, 電信5W)が運用を開始した(s8.12.7, 逓信省告示第2716号)

台場見張所のコールサインは(J1BHのような)実験局形式ではなく、(アルファベット3文字の)実用局形式のJHRで、この4月6日が警察無線の実用化の日である。台場見張所JHRは常時受信待機していて、入港船からの呼出しに応答し、モールス信号で錨地を指定するのが役目である。JHRの電信送信機は5WのUX245自励発振器だった(昭和13年3月、自励発振UX202A―終段UX865パラの20Wに変更)

つづいて1934年5月7日には台場見張所JHS(31.6MHz, 電話2.5W)と、明石町(現:築地警察勝どき寮)の東京水上警察署JHS2(28.6MHz, 電話2.5W)を結ぶVHF無線電話の運用も始った(s9.3.17, 逓信省告示第641号)。超短波による警察無線の実用局としてはこれが日本初である。【参考】呼出符号に0,1を使うことが禁じられたため「JHS1」はない。

翌5月8日の読売新聞が「ラヂオで東京湾の警戒」という見出しで警察初の超短波無線を報じた。

『 警視庁水上署と第五お台場にいる同署の見張所との間に無線電話を架設通話する件は・・・(略)・・・いよいよ七日より通話を開始した。この無線電話器は警視庁電信係の考案製作に成るもので、二種の超短波を使用し同時に送受話の出来る便利至極のもので東京湾の警戒に一大威力を示す事となった。 』 (ラヂオで東京湾の警戒, 読売新聞, 1934.5.8, 夕p2)

『電信(JHR)は四月六日、電話(JHS)は五月七日完成しその使用を開始した。』 (東京水上警察署特高主任 白石重右衛門, 当局水上警察の無線電信電話開通, 警察協会雑誌, 1934.6, p57)

『警視庁水上署(JHS2)と第五お台場にある同署の見張所(JHS)との間に無線電話を架設通話する件は、かねて逓信省に許可申請中であったが、その許可を得たので七日より通話を開始した。』 (ラヂオで東京湾の警戒, 読売新聞, 1934.5.8, 夕刊p2)

台場見張所JHS-明石町本署JHS2間の無線電話は5月7日の時点では一方通行だったようだ。

『昭和九年一月、警視庁では初めて無線電信装置機器の据付けをし、同年四月六日、東京逓信局の使用許可が下りるに従い、二名の無線電信技術員を置き事務にあたらせた。一〇〇トン以上の入港船が港外から、四五四~五〇〇キロサイクルで呼出符号「JHR」をもって見張所を呼び出し、これに見張所が応答する通信方法がとられた。

また一方、第五台場見張所(JHS)と本署(JHS2)間は陸上電話回線がなかったため、短波による無線電話が同年五月七日から開通した。しかしそれも見張所から本署への一方通行方式で、総合通話ができるようになったのは、本署(JHS2)に発信装置を備え、技術員二名が増員されたずっと後になってのことである。』 (東京水上警察署史編集委員会編, 『みなとと百年-東京水上警察署のあゆみ』, p201)

1934年5月14日午後、藤沼警視総監がモーターボートで台場見張所に渡り無線開通式を行った。順番的には陸上の警察無線実験局J2BE(元J1BH)を追い越して、水上警察JHR, JHS, JHS2 が先に実運用に入った。読売新聞より引用する。

『・・・(略)・・・モーターボートでやっと緑の萌え出ているお台場に上陸、するとさっそく室に飛び込んで「これが望遠鏡かね。どれどれ」と片目をレンズにおしつけて「うんなるほどよく見えるのう。沖の(戦艦)比叡も見えるわい。 」と相好を崩した。それから塔の上にのぼったり降りたり、無電をかけたり、いぢったりして午後四時こんどはランチで帰った。 』 ("海の藤沼さん", 『読売新聞』, 1934.5.15, 朝p7)

世界最初の警察無線は1916年のニューヨークの水上警察だといわれているが、我国でも水上警察が一歩先んじた形だった。台場見張所JHRの中波無線電信は、(錨地指定だけでなく)艦船内で発生した盗難・傷害等の情報を入港前に得られ、入港と同時に適切な措置がとれる画期的なものになった。

無線と実験誌が開局直後の東京水上警察署の2階に置かれた無線局JHS2を取材している。

『送信機は向って右端にある2個のミーターと、3個のダイアルが見える方で、内部は上下2段に分配されている。この上段は12-A2本をP.P.に結線したオッシレイターで・・・(略)・・・またその下段はヘイスィング方式による71-Aシングルのモヂュレイターと、12-Aを使用した音声増幅器2段が占めている。またパネル面上に見える2個のミーターは、向って左がオッシレイターのプレイト電流測定用で、その右がアンテナ用のサーモ・カップルド電流計である。・・・(略)・・・マイクロフォンは写真に見られるようなシングル・バトンのハンド型ソリッド・パックのものであった。・・・(略)・・・ 受信機は、同机上の左側に置かれてあって、内部は送信機と同様に、上下2段に分配されている。その中、上段は12-Aを2本P.P.に結線したディデクターが包蔵されていて、その出力側は下段に入って2分され、一部は同じく12-Aによるオーディオ増幅3段を経て、スピーカーに導かれ、また他の一部は同じく12-A1段のオーディオ増幅を経て、さらに12-Aによる単一方向増幅器(レクティファイアー)を通過してリレーを動作し、それによって信号器たるバザーあるいはベルを動作させ、相手局が発振を開始したことを表示するようになっている。』 (石山好郎, "「水上警察用(超短波)無線電話」を観る", 『無線と実験』, 1934.6, 無線と実験社, pp135-136)

このVHF無線機は警視庁による内製(28.6MHzと31.6MHzの二波による同時送受話式)で、相手の電波を感知するとブザーを鳴る機能も有していた。

『ちょうど係官がテストの必要が生じたので、静かにこれを拝聴することにした。まず受信機のスイッチがONされると、スピーカーからザ―という激しい騒音が流れ出る。次に送信機もONされる。―ここで僕は少しの間、眼を閉じてみた。そうして台場の方のバザーがけたたましく鳴り響いている光景を、いかんなく脳裏にほうふつさせてみたのだ。さあ、もう来るぞ。―と思う間もなく、スピーカーからの騒音が見事に消された。これは相手局がバザーで呼ばれてから、直ちに送信機を動作させた、そのキャリアー・ウェイヴがやって来た証拠だ。そこで初めてマイクロフォンに向って"モシ・モシ"と呼び掛けると、すぐに耳元で"ハイ・ハイ"と返事が聞かれる。』 (石山好郎, 前掲書, p136)

『機材は警視庁通信係技術者の手により自作、それぞれ設置の結果良好なる成績を得、当時の花形といわれる超再生方式超短波通信機として華々しく登場した。』 (第五節 警察無線, 『日本無線史 第二巻』, 1950, 電波監理委員会編, p380)

1939年(昭和14年)に東京水上警察署長の染谷庸氏が次のように述べているが、全国の水上署の中で無線を導入していた唯一の水上署であり、またそれが自慢だったようだ。

『 なお当署台場見張所には水上警察として我国唯一の特別施設たる無線電信局および無線電話の設備がある。無線電信(JHR)は海上遠くより出入船舶と通信することが自由であって、無線電話は、本署(JHS2)と台場見張所(JHS)との間の連絡を司るもので、実に新時代の警察を象徴するに相応しい特殊施設として内務省はじめ警視庁の誇りとするに足るものである。 』 (染谷庸, "水上警察の使命", 『東京港』, 1939年2月号, 東京振興会, p4)

【参考】 1941年(昭和16年)6月24日に「東京港取締規則」が廃止され、港湾行政が警視庁水上警察署長から東京市港湾部港長に移管された為、台場の無線は役目を終えて、東京水上署所属の警備艇「あさひ」に無線電話が移設され、終戦まで水難救助や密輸取締業務で活躍した。また水上警察署台場見張所は戦時体制下の1943年(昭和18年)に海軍に接収されたが、終戦後の1946年(昭和21年)9月、大人達の戦争に巻込まれ浮浪児(戦災孤児)となり、生きる為にやむを得ずよろしくない行動に走った子供達の隔離収容施設に生まれ変わった。その後、1955年(昭和30年)12月10日に第五台場警備巡査派出所として復活し、警察無線が装備された。

  • 警察無線の歴史2(1934年、函館の大火のころ)

話題を陸上施設の方へ戻す。警視庁J1BH(後のJ2BE)に続けて、群馬県庁J1BI(後のJ2BF)、北海道庁J7BAにも警察無線の実験局の許可がおりたが、ほとんど機能しなかったようだ。以下引用する。 【参考】警察や消防は内務省の一組織として各県庁に同居していた

『警視庁以外の道府県に於ては神奈川、山口、群馬県等に於て、管内用警察無線電信の施設を企図し、相当準備を進めたる向きあるも、経費関係等に於ける支障と、逓信省当局の許可困難のため何れも中絶し現在使用するものなし。・・・(略)・・・先年函館大火に際し有線電信電話施設の一時殆ど全滅に瀕したる際に於て、たまたま群馬県警察部の無線短波実験施設と北海道管内アマチュアー実験施設との間に無電通信連絡成立せるも、相手方が個人なりしと一般通信が逓信当局の実験通信の許容範囲外なりし等の事情に妨げられ殆どその実益を収むるに至らず。』 (警察専用無線電信電話の施設利用状況, 内務省警保局, 1937)

群馬県警と交信した、ご本人である田母上氏(J7CG)の回想を引用する。

『昭和9年まだ雪も解けやらぬ3月21日、・・・(略)・・・海底電線の中継所も火災を受け全焼し、そのため本州と北海道の連絡は落石無電局のみとなり・・・(略)・・・北海道庁の実験局の準備委員の木村氏より、なんとか内務省と連絡をとって協力してくれないかと依頼があった。小生は今日と違い非常通信も目的外通信として処罰される時代であったので、一寸ためらったが・・・(略)・・・J1AB(東京警視庁)とJ1AD(埼玉県庁)を呼んだが応答なし、これはどうしても駄目かなとあきらめにかかったら、突然J1ABが呼んできた。・・・(略)・・・小生が呼出しを始めてから2時間以上してから、とにかくJ1ABと連絡出来たので早速被害状況や急を要する救助物資の発送依頼等の電文を送ったが、J1ABから返事がない。これは駄目かなと思って受信機のダイヤルを廻すと、今度はJ1ADが呼んで来て、J1ABは故障したので、J1ABは受信して内務省と有線で連絡し、返事及びJ7CG宛の電文はJ1ADが送ると云ってきたので胸をなで降ろした処に、札幌逓信局の係官が来て送信を中止しろと運用停止命令書を示されたが、小生はなんとか有線が開通する迄見逃してくれと北海道庁の係員と共々頼んだ。余りにも熱心に頼んだので、係官もやむなくそれではコールを云わないで、続行する事にして交渉成立し難を切り抜け、その後約3日間非常通信を続けた。・・・(略)・・・許可は取消しのうえ行政処分を受ける事になっていたが、幸いにも多くの方々の懇請と当局の御理解により、罪一等を減じられて逓信大臣宛に始末書を出す事で円満に解決した。その後内務大臣より表彰状と金一封50円(当時としては大金)を頂く栄誉に浴した。』 (田母上起代士, "私のりれき書", 『CQ ham radio』, 1959.1, CQ出版, pp46-47)

実験局はアマチュアも、官設局も、メーカーも、みんな7100kHzなどの実験用周波数を共用していたから、(禁じ手だが)相互通信は可能な状況下にあった。田母上氏はまだJ7BAを準備中だった北海道庁の木村氏の依頼を受け、正義感より警視庁J1AB、埼玉県庁J1ADと目的外通信をされた。しかし田母上氏が交信したのは埼玉ではなく群馬県庁だし、この年の2月1日にマドリッド会議の決議に従って、J1プリフィックスをJ2に変更する処置(警視庁J1BH→J2BE, 群馬県庁J1BI→J2BF)がとられ官報で告示されているので、3月21日の函館の大火でJ1ABやJ1ADというのも変な話だ。さらに逓信省工務局が毎年発行する本邦無線電信電話局設備一覧表(昭和9年3月現在)には警視庁J2BEや群馬県庁J2BFはあるが、J1AB, J1ADは見当たらない。早々に札幌逓信局から運用停止命令を受け、コールサインを使わないことにし、その後約3日間運用されたという点や、函館大火より四半世紀が経過したあとの記事なので、大変失礼ながら田母上氏の記憶違いではないだろうか?

ところで警視庁(本当はJ2BE)が急に返事をしなくなり、群馬県庁(本当はJ2BF)が「警視庁の送信機は故障したが受信はできる」と伝えてきたが、この不可解な行動を私は次のように想像している。まず警視庁が東京逓信局(または逓信省)へ電話して、非常事態で札幌のアマチュア局J7CGと交信したいと問い合わせたところ、目的外通信で違法だと指摘され、さすがに警視庁が違法行為するのはまずかろうと、苦肉の策として群馬県庁警察部へ電話し「お前が俺らの代わりに交信しろと」命じた。

『函館大火災に伴う内地北海道間全線不通に際しては、函館、落石の両無線局および札幌郵便局は、いち早く東京、銚子、大阪、若狭の各無線局とそれぞれ臨時無線連絡を行い、被害状況の速報と緊急電報の疎通をはかり、災害救助上などに多大な貢献をなしたることは、未だ世人の記憶に新なる所であろう。』 (逓信省編, 2.陸地間通信, 『逓信事業史』第四巻, 1940, 逓信協会, pp907-908)や、『一方工務課各係長は、工務課長堤正冏氏官舎を本部として応急措置並に情報収集に付、対策協議の結果、札幌局無線と東京無線間、並に落石無線と函館無線間の連絡を保たしむると共に、・・・(略)・・・』 (池田清,『函館大災害史』, (社)北海道社会事業協会, 1937)によれば昭和2年春に開通した「東京無線電信局-札幌郵便局」間の短波電報ルートが生きていたことが分かる。函館の大火なので札幌は無傷だったのだろう。そしてこのルートで東京逓信局(または逓信省)が札幌逓信局にJ7CGの運用停止を指示したのではないだろうか。でなければJ7CG宅へ運用停止命令書を持ってこんなに素早く踏込めないだろう。私の勝手な想像だが。。。

もうひとつ別の見方もできる。警視庁と群馬県庁は本当にJ1ABとJ1ADのコールサインを使ったのかも知れない。1927年のワシントン会議の結果、実験局のコールサインが「J+数字+文字」を使うことになった時、(東京逓信局管轄エリアの場合)逓信省はまず無線電信法第一條の官設局にはJ1AA-J1BZ、第二條の私設局にはJ1CA以降を発行することを決めた。さらに官設局は、呼出符号「J1AA-J1AE」を逓信省の実験局に、「J1AF-J1AZ」を逓信の外局の実験局に、「J1BA-J1BZ」を逓信省以外の官庁実験局としたようだ。

【参考】 一例をあげるとAF-AZは逓信の外局である電気試験所J1AF(大崎第4部,旧JHAB), J1AG(平磯出張所,旧JHBB), J1AH(磯濱分室,旧JHCB)や,同じく外局の東京逓信局逓信講習所に指定され、BA-BZは官立学校や逓信以外の省庁。ただし県立などの公立学校や東京市の電気試験所など国立ではないものは私設局の扱いなのでCA以降。

J1AA-J1AEは逓信省なので、この非常通信に関して警視庁と群馬県庁には急遽逓信省のコールサインを使えと指示した可能性は否定できない。つまり逓信省の無線局という仮面をかぶらせれば目的外通信も可能になるという判断だ。ただし前述したとおりマドリッド会議の決定に従い2月1日から、逓信省のコールサインはJ1AA-J1AEは数字が2に変わったはず(外局の電気試験所もJ1AF→J2AF, J1AG→J2AG, J1AH→J2AHに変わっている)なので、警視庁がJ2ABを、群馬県庁がJ2ADを使った(逓信省から押し付けられた)のではないだろうか。

  • 警察無線の歴史3(1934年8月26日、車載通信系 元祖"パトカー無線" の試験運用スタート)

一方、警視庁総監官房文書課の井上定宣電信係長らが1932年(昭和7年)10月より試験していた移動用無線(J2BE, 7100kHz)の成績は良好で、これを警視庁に正式採用することを計画した。

同じく1932年頃より、東京電気(現:東芝)はフォード車両(左図)に無線受信装置を搭載し、走行時の振動軽減対策や電気系から発生するノイズ対策、車両用空中線などを研究していた。

警視庁はこの東京電気の車載無線に関する研究実績を評価し、中央通信所の送受信機および移動用送受信機6セット(無線自動車4台を含む)、無線電話の秘話装置、それに有線無線接続装置などを発注するために、それらの費用を予算化(昭和8年度)した。

【参考】東京電気研究所、角百喜技師が警察無線の設計を担当した。角百喜氏は東京電気の実験局J1CTを運用する一方、自宅にアマチュア局J1DB(元JXFX)を開設していたが、1930年(昭和5年)10月4日をもって廃局(s8.12.19, 逓信省告示第2848号)した。

1933年(昭和8年)5月、警視庁は逓信省へ警察無線を申請した。戦前の日本では逓信大臣、海軍大臣、陸軍大臣の三人がそれぞれが所管する無線局の免許権を持っていた。そしてお互いの混信を防ぐ意味から、無線局の承認や周波数の割り当てはこの三省会議で行う事になっていた。【参考】たとえばアマチュア無線局の免許であっても、まず三省会議の承認を得たうえで、逓信大臣が許可を出した。

三省会議では電波を発射する地点が定まらない警察の移動無線局が、自分たち軍用局の近くで運用して、混信妨害を受けては堪らんと、軍側が難色を示した。

警視庁総監官房文書課記録係が発行した警視庁事務年鑑(昭和8年版)に三省会議での悶着に関する記述があるので引用する。

『 非常変災時における帝都警備ならびに臨時施設の遑なき緊急事件に際し、警察活動の敏活を期すべき必須施設として、昭和八年度予算に計上せられたる警察無線電信電話は本年五月設計を完了し逓信大臣に稟請したる所、逓信陸海軍三省会議において軍部通信との混信問題に逢着し、容易に決定を見るに至らざりしが、警視総監、官房主事、特務部長、直接打開の途を講じたる結果、ようやく(1933年)十二月その承認内定を得たるにより、更に逓信省内示の案につき設計変更に着手し明年二月これを完了し同五月竣成の見込みにして概要左の通

機器装置場所 (固定) 警視庁

右は中央通信所にして送受信機を設置し庁内特設電話機を接続通話せしむ

変災時用として独立の発電装置を設く

移動用機器 送受信機五台

常置場所 警視庁

右は何れも自動車に積載す

空中線電力(最終電力増幅管入力の五〇%として算定)

中央通信所 電信二五〇「ワット」 電話一二五「ワット」

移動機 甲型 電信 五〇「ワット」 電話 二五「ワット」

移動機 乙型 電信 一五「ワット」 電話 七・五「ワット」

移動機 丙型 電信 七「ワット」 電話 三・五「ワット」

通信方式

電話を常用とし必要に応じ電信に転換す

電話 自動送受転換(秘密変調装置付加)

電信 持続電波「ブレーク、イン」方式

使用周波数

一九〇〇「キロサイクル」付近にて承認せらる見込み

施設費概算

五万二千円 内訳

送信装置(電線設備を含む) 一二〇〇〇

受信装置(接続装置、秘密装置を含む) 四九〇〇

空中線設備 二〇〇〇

通信室その他諸設備 三一〇〇

移動機(車両を除く)一台あたり 六〇〇〇

事務技術者その他従事者数

警察技手(主任) 一名

電信技手(無線通信士有資格者) 五名

その他 二名

追って実施の上は増員の見込み 』 (警視庁総監官房文書課記録係編, 『警視庁事務年鑑』 昭和8年, 警視庁, 1939, pp299-300)

1934年(昭和9年)4月6日、陸海逓三省協定に基づき、海軍省と陸軍省へ合意の照会をしたが、移動局間の通信を制限し、また移動局が他県へ出ないことなど、移動局があちらこちらで電波を発射しないように制限を加え、両省の理解を求めた。

『三、 本件施設に依る通信は警察用有線電信電話不通あるいは緊急事件発生に際し警視庁、移動場所相互間において警察事務上必要ある場合に限りこれを行い 移動場所相互間においては原則として通信すべからず

四、 移動装置の使用は原則として警視庁管内に限る 但し管外においてこれを使用したるときは遅滞なくその日時場所等を所轄逓信局を経由し逓信大臣に報告すべし 』 (逓信省電務局長, 官庁用無線電信無線電話施設の件, 電業第1025号 照会, 昭和9年4月6日)

その結果、ようやく軍部の賛同も得られ、警視庁JHT(1900kHz)と無線自動車JHT2-5(3475kHz)、可搬型送信機JHT6(3475kHz)が承認された(s9.5.2, 逓信省告示第1030号)このように足踏み状態が半年間も続いたため、警察無線第一号の名誉は 警視庁水上警察署 台場見張所のJHR(運用開始:1934年4月6日)に持っていかれてしまった。

『警視庁は・・・(略)・・・同庁ではこれが設備を計画し、かねて逓信省にその施設の承認方を申出中のところ、去る五月二日逓信大臣より正式承認があった。その大要は警視庁内には固定式を装置し、平時には庁内に待機しているが、有線通信の普通とか緊急事態の場合、必要な場所に自動車を急派し、事務用の無線通信連絡を行わんとするものである。』 ("警視庁の自動車無線", 『ラヂオの日本』, 1934.6, 日本ラヂオ協会, p64)

1931年(昭和6年)にニューヨーク市警は無線電話で警察無線をスタートさせた(ニューヨークの水上警察無線は1916年開始)。またロンドン警察は無線電信を採用したが、これは一般人の傍受に対する秘話性確保のためだと想像する。

日本では音声周波数反転方式の秘話装置を開発し、無線電話と無線電信の両用式としたほか、まだ整備過程にあった警察電話(警察専用の有線電話網)に接続できる、当時としては最新鋭の無線システムだった。ただし「警察無線の歴史4」で後述するが、下記の『秘密方法の変換』は実用化できなかったかもしれない。

『通信の方法は、電話及び電信の二種が要求せらる。指示、命令、報導の内容に応じて、任意に変更せらるる事が必要で、現用施設に於ける区分に従って運用する見込みである。傍受ないし盗聴に対しては、電信にありては暗号を、電話にありては秘密変調および発話時以外には搬送波の送出を自動的に停止する方式とし、かつ秘密方法の変換を行う程度に於いて満足すべきであろう。』 (井上定宣, "警察通信と警察ラヂオ", 『犯罪学研究』, 1934.6, 新光閣, p53)

こうして警察に割当てる周波数が正式に決定し、東京電気川崎工場ではラジオ自動車の最終仕上げに入った。

そのラジオ自動車の様子について、東京朝日新聞(1934年7月31日)より引用する。なお記事中にある「御自慢の秘密通話装置」については後述するが、当初計画した仕様は達成できず、単純な音声スペクトラム周波数反転方式で終ったようだ。

『警視庁のラヂオ自動車 - 移動無電局も既報の通り今春、川崎の東京電気工場で製作に着手したが、いよいよ来月の中頃から二本の触手を空にかざして市内を走り廻る。一寸見たところ変わっているのは屋根の上に突出た伸縮自在な二本のアンテナだが、車室の中は大違いで送受信器(電信一〇〇ワット、電話五〇ワット)からその動力になる蓄電池、ダイナモ、御自慢の秘密通話装置まである。【写真は出来上がったラヂオ自動車】』 ("電波で捕ふ:車上に二本の角 躍り出す「移動捜査陣」", 『東京朝日新聞』, 昭和9年7月31日朝刊, p13)

1934年8月27日朝、まず最初の2台(トラック型、JHT2, JHT3)が東京電気川崎工場を出発。警視庁5階の中央通信所(JHT)と通信試験を行いながら京浜国道を進んだ。沿道の住民はその異様な姿に驚き「潜水艇」と呼んだそうだ。中央通信所から藤沼警視総監がラヂオ自動車と交信しながら警視庁に到着。総監が正面玄関に横付けされたラヂオ自動車に試乗するところを報道陣に公開した。

以下、読売新聞より引用する。

『・・・(略)・・・中央通信所にがんばった藤沼総監、送話機を口にあてながら「総監だよ。いまどこを走っているかね。 」 「なに、札の辻。その辺にベッピンはいるかね。 」と愛嬌を振りまくなど大満悦だ。

ラヂオ自動車の外装は上半分が薄カバ色で中央に黒の帯をつけ、鉄棒を渡した小窓が四つ、四本のアンテナポールが車蓋にヌーと伸び、ちょっと「病院自動車」といった感じだ。やがて総監「街のサブマリン」に試乗し、ここでもニコニコ顔で「写真が撮りにくいか。もっと前に出ればいいか。 」と、よほどラヂオ自動車が気に入ったらしい。なおこの自動車は九月一、二日の関東防空演習には力強い「科学の威力」の小手調べを行うはずである。【写真は同自動車に試乗した藤沼総監】("街の潜水艇:けふお目見得のラヂオ自動車 ご満悦の藤沼さん", 『読売新聞』, 昭和9年8月28日夕刊, p2)

東京日日新聞の記事も引用する。

『・・・(略)・・・警視庁が約五万二千円の予算で川崎市東京電気株式会社に対し依頼したがその二台が完成し、廿七日午前十時川崎工場を出発し途中テストをやりながら警視庁へ送られた。ラヂオ自動車に高井技手が乗り込み、警視庁五階無電室には藤沼総監はじめ岸本文書課長、井上係長、各部課長等が集まり、まず総監が受話器をとり「モシモシ、ヤア総監です。聞こえますか。 」「ウンヨク聞こえる。今どこかね。 」「八ツ山下か。ウンウン事故はないかね。スピードは? 」「丗マイル(=48km/h)、ウンウン。 」と会話し、雑音ひとつなく頗る明瞭であった。

午後十一時半、警視庁正門へつき総監が今度は自動車からの試験をし、裏庭の車庫に納められた。このラヂオ自動車は社内に受信発信の両装置をつけ、上につき出た三本の触手アンテナは伸縮自在で高さが四米(4m)までのび、取りはずしが出来、これによって装置のスイッチ一つで電信、電話の同時送話が出来る。その効力は電信なら大阪まで、電話なら関東一帯に正確に聞き取れる。このほかに秘密通信装置によって会話の内容は全く盗聴出来ぬ仕組みになっている。なお近く二台の乗用式ラヂオ自動車(JHT3, JHT4)が製作されるはず。』 ("捜査陣の新花形 ラヂオ自動車 テスト見事パス", 『東京日日新聞』, 1934年8月28日夕刊p.2)

日本放送協会のラジオカー(無線中継車)が1年前より運用されていたが、「相互通信」という意味では、この警察無線の試験運用が陸上移動体通信(自動車無線)の先駆けだった。

【注1】 鉄道車両での移動体通信(実験レベル)なら鉄道者の方が無線テストは早い

【注2】 番外編だが、南満州鉄道が運営する長距離旅客バスが人里離れた山岳地帯で山賊団から繰り返し襲撃を受けていたため、安全運行(警備連絡)用に警備隊との連絡無線を導入したのも、ほぼ同時期である。

そして1934年(昭和9年)9月より試験運用が始まり、10月9日がその初陣となった。雑誌「無線と実験」から引用する。

『 "警視庁"の"レディオ・カー"は、検定後もなお慎重に本庁との連絡テストを行っていたが、去る10月9日、市電非合法ストライキ第3日目において、ようやくその出動命令を受け勇躍、戦場電気局付近の第一線に立ち、時々刻々状況の報告並びに命令の接受に華々しく活躍して"レディオ・カー"初陣の功名をほしいままにし、等しく"科学・警視庁"の何ものかを強調したと。 』 (石井好郎, "「レディオ・カー」の初陣", 『無線と実験』, 1934.11, 無線と実験社, p111)

東京日日新聞もラヂオ自動車の件を取り上げている(左図)。

『 この日警視庁では全管下各署七千人の日勤、非番警官を動員し非常配置につかせ「争議団員がアヂトから一歩でも出ることを極力阻止せよ」と各署に厳命し、一方電気局付近は特別警備隊=新選組=宮脇隊長以下二個中隊百五十名が出勤し・・・(略)・・・午後一時すぎには警視庁の新武器としてその効用を期待されていたラヂオ自動車も電気局付近に出動し刻々の状況を本部に放送する等、警視庁近来の大判振る舞いであった。 』 ("ラヂオ自動車:初めて出動す", 『東京日日新聞』, 1934.10.10, 夕p2)

こうして警視庁中央通信所JHTとラヂオ自動車JHT2, JHT3による試験運用がはじまった。

一方まだ納入が終っていない乗用車型JHT4, JHT5および可搬式無線機JHT6の計3台については、読売新聞(1934年11月20日)が 警視庁特別高等部(通称:特高)および警視庁刑事部に配備するラヂオ自動車が"今月末に完成" と報じているので引用する。

『 さきに連絡警備用の「ラヂオ自動車」を造って新陣容を整備した警視庁ではこんどはスピード捕物専用の「ラヂオ自動車」三台(注:うち1台は車載用ではない)を特高、刑事両部に備えつけることになり目下、東電川崎工場で製作中だが、本月末には出来上がる。新造車はスピード捕物の最前線をうけたまわるだけに三台(注:うち1台は車載用ではない)ともビックの乗用車で、例の警備用「ラヂオ自動車」と違ってボデーには全然装飾をほどこさず、色も黒塗りそのまますべてがスピード万能式。使用目的が違うのでラヂオの性能は警備用車より低下して電話は東京市内、電信は隣県にだけ通じる程度である。・・・(略)・・・

車内には電信技手のほかに刑事も乗り込める。これが完成すると警視庁のスピード捕物陣はいよいよ堅くなるわけだ。 』 ("スピード捕物:ラヂオ自動車 今月末三台完成", 『読売新聞』, 1934.11.20, 朝p7)

日本無線史第二巻(P377)によると、すべての納入が完了したのが1934年12月だった。また1934年8月に3台、同年12月に2台が納入され完了したとする書籍もある。

『昭和9年(西暦一九三四年)八月三台、十二月二台、合計五台のラヂオ自動車を新設した。このラヂオ自動車は事件突発せば直ちに現場へ出動し、社内装置のラヂオから警視庁五階の無電へ事件を報告する。また時には自動車間の連絡も行われるという。』 (南波杢三郎, 『犯罪手口制度』, 1940, 松華堂, p79 )

こうして無事納品されたものの、警察無線は再び苦難に見舞われた。試験開始より早々に警視庁JHTの1900kHzの3倍高調波(5700kHz)が佐世保海軍無線電信所に妨害を与える事件が起きたり、幹線道路沿線に住む住民のJOAK受信機に混信を与えるトラブルなどが続出し、実用化には1年の歳月を要した。

どうにか実用通信が可能になったのは1935年(昭和10年)2月頃で、本運用は同年8月からだった。

『最近JOAK管内に一部ラヂオ聴取者より相当有力な電話電波による混信問題が持上り、AKでその怪電波の出所を探査した結果、警視庁自慢のラヂオ自動車の所業と判明した。帝都をまもる警察用無線通信装置とあって苦情の持込みようもない訳であるが、この混信を防止するには果たして特別の装置を附し、あるいはセットの改造をしなくてはならないかどうか?4月11日付けをもって警視庁が公にした一般ラヂオ聴取者への注意書を掲げてみよう。・・・(略)・・・』 (井上定宣, "警察用無線のラヂオ混信問題", 『電気工学』, 1935.6, 電気工学社, p19)

『・・・(略)・・・昭和9年になって無線機6台が施設され実験を開始したのがそもそもの始まりである。この無線機は東京電気株式会社で製作され、周波数範囲は、1500kc から4000kcの中短波帯を使用し電信と電話に切替え使用できるほか有線電話の回線に接続して直接電話と話すことができる装置のものであった。当時の無線機は発足早々で技術的に多くの問題点があったため実用通信を行うまでには至らず、その後幾多の実験を重ねた結果、昭和十年八月になってようやく実用に供せられるようになったものである。この無線機は終戦の年まで本邦唯一の(警察の)無線通信施設として治安上有効に活用されていた。』("警察無線の今昔", 『自警』, 1956年11月号, 警視庁, p73)

ちなみに「日本無線史」(電波監理委員会編, 1951年[昭和26年])では警視庁JHT, JHT2-6の本運用開始を1935年(昭和10年)の8月としか書いていないが、「続逓信事業史, 第6巻」(郵政省編, 1961年[昭和36年])には8月1日という日付けが記録されている。

(昭和)一〇年八月一日から正式に業務を開始した。』(逓信省編, 『続逓信事業史』第6巻, 1958, 郵政省,1958, p209)

上図は1935年(昭和10年)5月1日に行われたデモ行進に際して、警視庁自慢のラヂオ自動車が先導した時の写真。

●警視庁 中央通信所(呼出符号JHT, 1880kHz, 電信250W, 電話125W) 【注】1936年1月、1900→1880kHzに変更

送信機は195cm(横)x 85cm(奥)x 215cm(高)で水晶発振UX202A→二逓倍UX865→励振UV814→終段UN204Bという構成。秘密通信装置(秘話装置)は52cm(横)x 28cm(奥)x 83cm(高)で音声周波数反転方式である。3段に分かれていて、上段と中段がそれぞれ送信用と受信用回路、最下段が反転用キャリアの発振部だといわれているが、その詳細は非公開だった。有線電話接続装置は送信機と受信機を警察電話に接続するものである。

中央通信所内の機器配置だが、オペレータ(上写真左)の背中側に送信機が並べてある(上写真右)。オペレータの机の上にあるのが受信機(SRP-201C型)、RF1段・IF2段増幅の九球スーパーヘテロダイン式で、調整可能範囲は1.5-4.0MHzだが3.475MHzに単一調整されている。大きさは55cm(横)x 20cm(奥)x 23cm(高)だった。受信機の隣は警察電話(10回線)への通話切り替え交換器。またオペレータの右側に床置きした装置が秘密通信装置(VI-224D型)である。オペレーターの背中側(上写真右)には送信機(GRP-215A型)を並べたが、一番左は受信機用DC電源とその充電装置だ。

このほかに停電対策として10馬力軽油発動機で廻す5kVA交流発電設備を設置した。この警察無線システムは電話では音声信号の有無検出による自動送受切替え方式であり、電信ではブレークイン方式を採用した(無線車両も同じ)。アンテナは屋上に逆L型(送受ごと)、五階の窓から放射状にカウンターポイズ5条を水平に架線した。

●警視庁 トラック型ラヂオ自動車(呼出符号JHT2/JHT3, 3475kHz, 電信50W, 電話25W)

1934年式フォードを改造した専用無線車がJHT2とJHT3だった。写真[左]は東京電気川崎工場で調整中の頃。写真[中・右]は警視庁構内で実働中のもの。これを2台製作した。

写真[左]が最終完成車両でアンテナマスト①~④の4本を立てた。この内3本が送信用マスト、2本が受信用マスト。どれか一本に送受両方の空中線を架線されたようだ。写真[中]はアンテナマスト①?の高さを車内から調整する機構で、最大に伸ばした場合に地上高4m、最も下げた場合で車に屋根の高さになる。車外のマスト②③は伸縮式のスティールパイプ。マスト④だけは固定長で必要に応じて取り外しできる。送信のカウンターポイズは車体の下に張り、受信は車体をアースとした。写真[右]は後部扉から見た車内の様子で中央奥が送信機、中央手前にテーブルがあり、左側はオペレータが座るソファだ。右手前下に見えるケーブルドラムは車両から離れた場所で遠隔操作するためのものだ。すなわちラヂオ自動車は電波状況の最も良い場所に停車させ、テーブル上の電話接続装置を経て、このケーブルで離れた指揮現場から遠隔操作が出来るようになっている。なお写真の頃はケーブル長は100mだったが、のちに200mになった。

中央奥のメーターが並んでいる装置が水晶発振式の送信機(GRP-216A型)でサイズは80cm(横)x 30cm(奥)x 60cm(高)、終段はUV814。保守時には写真[左]のように正面パネルが手前へ開き、下部のパネルは下へ落ちる構造で、真空管やコイル類の交換・調整が簡単に行えるよう配慮された。また送信機や受信機は緩衝装置で床から少し浮かせてあって、走行時の振動を吸収させた。

写真[右]では送信機の右側が秘話装置で中央通信所と同じVI-224D型。テーブルには電話接続装置やモールス通信用の電鍵が見える。写真では確認できないが、1.5-4.0MHz受信機(SRP-203C型)は秘話装置の下に置かれたが、このテーブルから遠隔操作できた。RF2段の五球再生検波式(2-V-2)で、20cm(横)x 16cm(奥)x 22cm(高)だった。

●警視庁 乗用車型ラヂオ自動車(呼出符号JHT4/JHT5, 3475kHz, 電信15W, 電話7.5W)

警視庁 特別高等部(通称:特高)および警視庁 刑事部へ配備

上記写真は東京電気川崎工場で撮影された、警視庁へ納入する直前のものである。各アンテナマストは伸縮型スチールパイプで送信用・受信用を左右それぞれ架線した。前述のJHT2,JHT3は4本マストだったが、こちらは3本である。個人的感想だが、なかなかカッコ良くて強そうだと思う。それぞれ特高部、刑事部の捜査用として配備されたが、JHT4, JHT5の活躍ぶりを伝える雑誌記事や新聞報道は発掘できていない。

戦前なので平穏時の警ら(パトロール)活動は行われていないので、これら捜査用車両を「元祖パトカー無線」と呼ぶのが適切かはともかくとし、戦前の東京の街をこのビュイックとラサールの無線車が走ったのは「史実」である。

JHT4とJHT5は車内が狭く、テーブル上の左が水晶発振式の送信機(GRP-217A型)で寸法はやや小振りの50cm(横)x 24cm(奥)x 43cm(高)。終段はUX865パラだった。そして送信機の右隣の上が有線電話接続装置。またテーブル下の右側が45V130Aのバッテリーで真空管プレート用の高圧を作る1400Vの発電機を廻す直流発動機に使っている。バッテリの左は1.5-4.0MHz受信機で、JHT2,JHT3と同じRF2段の五球再生検波式のSRP-203C型だった。スペースの関係か?あるいは予算の都合なのか、秘話装置は搭載されなかったようで、秘匿事案ではモールス通信が使われたと想像する。

ラヂオ自動車(JHT2,3,4,5)は中央通信所(JHT)との通信を原則とするものの、緊急時にはラジオ自動車間で相互連絡できるように、受信可能範囲は1500-4000kHzだった。しかし現代のように連続可変式ではなく、普段は中央通信所の1880kHz波を受けるために単一調整されており、いざラヂオ自動車同士で交信しようとなると、3475kHzへ再調整する必要があった。

●警視庁 可搬式無線機(呼出符号JHT6, 3475kHz, 電信7W, 電話3.5W)

上記写真は東京電気の試作品で、残念ながら本物のGRP-217Bの写真は探したが見つからなかった。第六装置は可搬式でサイドに取っ手が付いている。これは専用無線車両以外にも応急的に搭載したり、また必要に応じて現場へ運びこみ、無線通信を確保する目的の小型可搬式送信機で、ほぼ同サイズの受信機とセットで使用するものだった。水晶発振式の送信機(GRP-217B型)で終段はUX865、受信機はRF1段の四球再生検波である。東京電気より以上の全機材の納入が完了したのは、日本無線史第二巻(P377)によれば昭和9年12月であった。

【参考】(アマチュア局を例外とし)無線局の呼出符号の数字に0と1を使うことが国際条約で禁じられていたので、コールサイン「JHT1」はない。

1935年(昭和10年)8月1日より警視庁の車載通信系警察無線が実用化された為、実験局J2BE(元J1BH, 7100kHz)は免許期間満了時に更新せず廃局した。

  • 警察無線の歴史4(戦前の警察無線・消防無線の活躍)

もちろんラヂオ自動車は警備だけでなく事件捜査にも出動した。

日本無線史 第二巻(P378)によれば、1935年(昭和10年)8月に本運用を開始した警視庁(警察・消防)のラヂオ自動車は、さっそく9月末に東京府下千歳村船橋(現:世田谷区)で起きた強盗殺人事件の捜査に出動し、警視庁と捜査現場の迅速な連絡通信で活躍した。これが犯罪捜査に利用された最初の事件だった。

1935年10月1日の読売新聞( 朝p7)に、ラヂオ自動車の後部ドアを空けて、中で3人が通信している様子を撮った写真がある(左図)。

左図は黒くつぶれてしまい判別しにくいが、天井のアーチがわずかに確認できる。これから想像するに、刑事部に配備された乗用車型(JHT3またはJHT4)ではなく、トラック型(JHT2またはJHT3)のラヂオ自動車だと考えられる。

そのごも警視庁ご自慢のラヂオ自動車は天皇皇后両陛下の行幸の際には警衛のために毎回出動したほか、数々の捜査や火災現場にて終戦の年まで帝都東京を守った(左図:奥で電鍵を操作しているのは警視庁専属無線通信士の宮本氏)。

(警視庁の無線は)火災現場、警衛、メーデー、その他大衆運動取締、犯罪現場等との通信連絡に当たり相当効果を収めつつあり、昭和十年中、実際使用回数は試験使用を除き百回を算す。』 (警察専用無線電信電話の施設利用状況, 内務省警保局, 1937)

また1938年(昭和13年)2月23-24日に実施された帝都警報訓練に警視庁のラジオ自動車が参加した記事が朝日新聞にあるので参考までに以下引用する。

『警視庁防空課では敵機襲来の万一に備え・・・(略)・・・二日目の二十四日は一部通信施設の破壊を想定のもとに行なわれたが、新たに設備された交番のスイッチで数十ヶ所の大工場、百貨店、学校等のサイレンの利用、アマチュア無電隊、警視庁御自慢のラヂオ自動車の活動をはじめ、昼間の手旗信号、烽火(のろし)、吹流し、夜間の火光(かこう)信号等いづれも極めて短時間に警報を伝達し得ることが立証されたので当局も非常に喜んでいる。』 ("怒る防空陣 帝都警報訓練は完璧", 『朝日新聞』, 1938.2.25, 朝刊p11)

特に東京都三宅島の噴火の際には、警視庁のJHT4(または5)の無線機をばらして現地に送り、連絡業務に大活躍したそうだ。少しでも電力の大きな無線機を現地に送りたかったのだろう。このとき可搬式JHT6は使用していない。

『当時においては無線機の数も少なく、技術的に不安定な点があったり、利用者の認識が十分でなかった等の理由で積極的な活用は見られなかったが、それでも警備、警衛、捜査等に使用し相当の効果をあげていた。その二、三の実例をあげて見ると、昭和十五年五月三日(注:7月12日の誤記では?)、三宅島の雄山が爆発したとき海軍、逓信、両省の無線機とともに当庁の無線機も三宅島に急行したが、両省の機器が不調となったため当庁の無線機によって爆発現場の第一報が送られ、それが都内新聞各社のビッグニュースとして紙面をにぎわしたことがある。その他、府下武蔵野町に起きた美濃部事件(昭和十一年二月)、志村火薬庫の爆発事件(昭和十四年五月)、旧大蔵省の大火(昭和十五年六月)、および毎年のメーデー警戒等において、いち早く現場にかけつけ、機動的な活躍のもとに迅速な報告、連絡を行った等である。』("警察無線の今昔", 『自警』, 1956年11月号, 警視庁, p73)

なお東京だけに配備された警察無線だが、臨時的には大阪の警察でも無線が使われたことがある。1936年(昭和11年)10月29日に大阪湾で行われた観艦式に巡幸された天皇陛下の警護用として許可された(無線機の仕様など詳細については一切不明)。

『・・・(略)・・・観艦式に際し、当時の大阪警察部が逓信省の臨時許可に基づき、陸上警察本部と海上警戒船との間に無線電話連絡を成立せしめ、警護警備上、相当効果を収めたり。』 (警察専用無線電信電話の施設利用状況, 内務省警保局, 1937)

また逓信官吏練習所の無線実験室でJ2ABを運用されたこともある逓信省工務局無線課の高瀬芳卿氏が書かれた「短波実験局の設計と運用」によると、1936-37年(昭和11-12年)頃には朝鮮移動警察に呼出符号JSR2からJSR9までの8つの陸上移動局の免許が与えられている。しかしその詳細は分からない。

(高瀬芳卿, "本邦無線電信無線電話呼出符号表", 『短波実験局の設計と運用』, 1938.9, 誠文堂新光社, p243)

● 消防無線について

戦前は消防も警察と同じ内務省警保局の組織なので、これらの無線(JHT, JHT2-6)は警視庁消防部でも使用した。

消防無線としてのラヂオ自動車の初出動は1935年(昭和10年)1月6日午前に宮城(皇居)前広場で行われた警視庁消防部の出初(でぞめ)式だった。これをもって消防無線の嚆矢とする。

『豪華と精鋭をほこる帝都消防の出初式は梨本総裁宮殿下のはつの台臨を仰いで六日午前十時から宮城前大広場で華々しく挙行された。この日来賓は後藤内相、香坂府知事、牛塚市長、田代憲兵司令官ら約三千名に達したが、今年から一般の観覧が禁止されたので式場外は極めて静かだ。正十時、空砲一発の合図でいよいよ開式。まづ海軍軍楽隊の「君ケ代」吹奏裡に国旗が掲揚せられ全員佇立して宮城を奉拝。この時梨本総裁宮殿下には司令長早川消防部長の御先導で全員の最敬礼をうけさせながら式場に御到着。・・・(略)・・・恒例の模擬火災その他の催し物も今年から一切廃止されたので、ただこの木遣行列だけが大江戸の出初式の名残をとどめるだけで例年のお祭気分はスッカリ一掃されて厳粛な出初式に一変した。今年から新たに参加した消防部自慢のラヂオ自動車が人目をひいた。 』 (梨本総裁宮台臨 けふ出初式 ラヂオ自動車も参加, 『読売新聞』, 1935.1.7, 夕p3)

なおJHRがお台場見張所で本運用を開始した1934年(昭和9年)4月6日が「警察無線の本運用の始まり」とすれば、JHT, JHT2-6が本運用を開始した1935年(昭和10年)8月1日が「消防無線の本運用の始まり」といえるだろう。

『ラヂオ自動車は大火および特殊火災に出場し、無線電話および無線電信を以って応急連絡に当る自動車にして、電信電話両用の発受信機を備え、火災現場の状況によりては、本自動車を去る二百米突(m)の地点までコードを延長し、発受信を成し得る装置を有するのみならず、当市部区域にありては走行中においてもなお自由に発受信をなし得られ、停車中にありては警視庁管下全般において発受信し得る性能を有するものなり。』 (警視庁消防部, 『帝都消防概観』昭和11年版, 1936, 東京府消防協会, p104 )

しかしながら、消防無線としての活躍はあまりなかったようである。

『消防に無線が必要なことは早くから唱えられていたが、昭和9年、時の警視庁で移動無線局を創設しこれを試験的に消防に活用したことがあった程度で、通信の安定性、信頼度、通じ得る量からいって有線には及ぶべくもないと考えられ、このため消防独自の実現をみるに至らなかった。』 (東京都消防庁救急部救急課編, 『救急30年の歩み』, 1965, 東京都消防庁, p71)

昭和18年に出版された児童本の "警視庁消防署 見学記" にも、ちらりと無線自動車が登場するので引用しておく。

『また電話の無い不便な土地へ行った時に、司令部とのれんらくに使う無線自動車は、機械置場のすみっこの方に、かたつむりみたいなアンテナを立てて待機している。 』 (紙左馬, 警視庁消防署, 『科学見学記』, 1943, 興亜文化協会, pp143-144)

【参考】 戦後の消防無線JQ2A, JQ2B, JQ2C(1950年4月15日免許)については、新プリフィックスのページのJQプリフックスを参照下さい。

● 秘話装置について

参考までに我国の無線電話に秘話装置(音声周波数反転方式)が正式導入されたのは1934年(昭和9年)6月20日で、その運用開始状況を下表に示す(軍関係を除く)。東京、台北、新京(満州国首都、現:長春)に短波無線電話送信機を納入したのは(警察無線と同じ)東京電気だった。警察無線は8番目だが、その納入が1934年8月だったことを考えると、これら秘話装置は同じような設計仕様だと考えられる。

また「警察無線の歴史3」で触れた『秘密方式の変換』についてだが、逓信省工務局は音声周波数反転方式の秘話性を上げるために、送信側と受信側で同期させながら音声反転のキャリア周波数をスライドやホッピングさせようとした。しかし日本無線史第一巻によると"東京-新京"回線で試したが同期がうまくとれず断念したようだ。従って警察無線においても反転のキャリア周波数を変える秘話性向上策は実装できなかったと想像する。

◆ 国際電話の歴史(はじまり) ・・・おまけ

ちなみに国際電話(公衆通話回線)の始まりを、1934年(昭和9年)9月27日に国際電話株式会社(現:KDDI)が開設した短波無線 "東京-マニラ"回線だとする向きが多いが、これは戦前の逓信省が満州国との "東京-新京"回線を外地電話でも国際電話でもない料金の「日満電話」として設定し、逓信事業の分類としては日満電話を国際電話に入れなかったからである。

逓信省の昭和12年度 電務年鑑によると内地電話は市外は距離制、日満電話は1通話一律7円、国際電話は距離+時間制で例えばマニラだと最初の3分まで31円で、そのあと1分毎に超過料が掛かるといった具合に、料金体系ごとに電話を下記の6種類に区分していた。

逓信省の立場ではそうかもしれないが、私たちの肌感覚(国際電話=外国と接続する電話)でいえば "東京-新京" 短波回線で営業開始した1934年(昭和9年)8月2日が、我国の国際電話の始まりであろう。実際にも開通直後に次のような記述がみられる。

『国際電話の開通

国際電話は六月二十日から、内地・台湾間をつないだのみで、未だ国際の名には副はなかったが、去る八月一日に日満両国の間に無線電話が開通された。満州国内でこの日満電話につながるのは、中継局のある新京をはじめ、北はハルピン、南は奉天・大連の四大都市だけで、内地は内台電話の場合と同じである。料金は一通話七円である。

この日満電話の開通によって始めて国際電話の実を備えることになり、また両国航空路開設等と相まって日満経済および文化交渉がいよいよ緊密活発になるものと期待されている。なおジャバ(バンドン)・フィリッピンとの電話は今夏中、アメリカとは秋頃、ベルリン・ロンドン等ヨーロッパとは今年中に開通すべく準備を進めている。』 ("国際電話の開通", 『地理教育』Vol.20 No.6, 1934.9, 地理教育研究所, p114)

◆警視庁の戦前の呼出符号JHR, JHS, JHTのその後

終戦直後は警視庁が使っていたJHR, JHS, JHTのコールサインは欠番のまま空いていた。1949年(昭和24年)1月1日、我国の国際符字が半分以下に減じられたアトランティクシティ条約の発効に合わせて、全国の無線局の呼出符号が切り替えらた(呼出符号指定基準でJHは漁業用)。武生水漁業無線局JZS(2720/2785kHz, 長崎県壱岐)JHRに、厳原漁業無線局JZU(2720/2785kHz, 長崎県対馬)JHSに、宮古漁業無線局JZC(2720/2785kHz, 岩手県)JHTに指定変更された(JTからJZまでの頭文字が使えなくなったため)。

  • 警察無線の歴史5(逓信省の猛反対で全国通信網の夢はかなわず)

内務省警保局は各府県庁警察部を結ぶ、短波通信網を計画した。東京とエリア基幹局を結び、さらに基幹局から周辺の府県庁を結ぶものだった(クリックで拡大)。内務省はその建設予算を計上したが、逓信省が首を縦に振らなかった。

逓信省としては警察に分配する周波数はないし、警察は専用電話網(有線)を拡充させれば済む話ではないかと猛反対だった。この内務省と逓信省の対立は再三新聞でも取り上げられるほど大きな話題になった。しかし多くの警察関係者の努力にも係わらず、計画は暗礁に乗り上げ、全国通信網が実現することは無かった。

警察無線の生みの親ともいえる井上定宣電信係長は、警察無線網を断念し有線通信網の整備に注力した。

『我が警視庁に於ては同庁井上電信係長、約三年に亘る研究の結果、昭和十一年十二月「指令通信機」なるものを考案創設し、同月四日之が開通式を挙げた事は甚だ称賛に値する。該機械は有線式に属し、同庁五階の指令通信室に於てボタン一つ押せば、立ち所に管下八十四警察署の指令受信機に一斉感応して赤色豆ランプがポツとつき、各署は突発犯罪の手配・指揮命令系統の口頭通信を、居ながら即時聴き得るの仕組みである。』 (南波杢三郎, 『犯罪手口制度』, 1940, 松華堂, p79 )

すなわち戦前における我国の警察通信は、次に述べる新潟の例外を除いて、(有線の)警察電話網の整備によるほかなかった(下図クリックで拡大:昭和8年度末現在の警察電話幹線)。

  • 警察無線の歴史6(1938年、新潟に超短波無線が完成)

1938年(昭和13年)3月28日、逓信省は新潟県に対し佐渡島との警察無線電信/電話回線を許可する方針を固め、海軍省と陸軍省へ賛否を照会(電無第837号)し、異存無き旨の回答を得た。

そして同年7月、超短波による警察無線電信/電話回線が設けられた。

免許状の目的項は『二、施設ノ目的 新潟県庁ト佐渡島トノ間ニ防空通信及非常災害時ニ於ケル警察事務用非常緊急通信ニ使用』となっている。

逓信省はこれを例外として警察無線を新たに認可するつもりはなかった。しかし1945年(昭和20年)夏、ポツダム宣言の受託(敗戦)で事態は大きく動いた。

  • 警察無線の歴史7(1945-46年、短波帯による全国通信網の建設と完成)

太平洋戦争の空襲により有線網はズタズタに切られた。逓信院BOCは終戦直後の混乱期にGHQ/SCAPの許可を得ずに、海軍や陸軍の無線機を全国に配備して、短波帯の全国警察通信網を完成させた。戦前からの悲願の全国通信網が遂に完成した。つまり戦後の警察無線は「戦争で壊滅した警察電話の代わりに全国連絡網を確保する」目的で建設されたのがそもそもの始まりである。

1946年3月になってCCSの運用承諾が得られたため、BOCは1946年3月30日付けの逓波監第493号で、これらを、警視総監・府県知事・北海道長官が施設する官設無線電信施設として一括承認した。この全国通信網建設のドラマはGHQ/SCAP CCS のページで集中的に述べたので、ぜひそちらをご覧ください。ここでは1945年に建設された全国通信網の再編成(1946年)について説明する。

短波帯による全国警察通信網は1945年8月から9月に掛けて建設され、そして運用を開始し、1946年3月にはGHQの事後承諾も得られた。しかし1946年5月10日にGHQ/AFPACより"Allocations of Frequencies to Japanese Imperial Government" で、日本帝国政府に分配される周波数が発令され、BOCは警察無線の周波数を変更するとともに、コールサインをE系シリーズからJ系シリーズへ再編成した。敗戦で日本に割当てられている一部のE系の国際符字が、召し上げられた場合を想定しての変更だと考えられる。

いつの頃からかこの短波帯の全国通信網のことは人々から忘れられていった感が否めない。一番の要因は1950年8月18日に国警東京都本部にて実用化された30MHz帯FM無線が、1.VHF帯, 2.移動体無線, 3.周波数変調という技術的な話題性があり、繰返し無線書籍で取上げられ続けたのに対し、1945年秋に完成した短波帯の全国通信網は電波型式がA1(CW)の電報形式で、その周波数も中短波帯から短波帯で技術上の目新しさがなかったからだろう。短波帯警察無線が歴史から消えてしまう前に本サイトで紹介しておくことにする。当時の警察無線は以下の3種類に分けて取扱われていた。

1)警察無線全国通信網(内務省―府県庁間)

下図が1946年秋に再編成された11月現在の通信系統図だ(赤字は夜間用の周波数とコールサイン)。なお再編成前の通信系統図(1945年10月25日現在)はGHQ/SCAP CCSのページをご覧ください。国際アマチュアバンドの7.0MHz帯にあった警察無線の周波数7045, 7085, 7105, 7135, 7300kHzはいずれも日本帝国には分配されず使用を中止することになった。そして連合国人のアマチュアバンドとして使われることになったが、BCJ(日本放送協会)の放送中継用7257.5kHz, 7285kHzの2波だけは、Temporary分配という条件付きながらも、辛うじて継続使用が許された。

第二固定通信系(南方回線)は7640kHzで内務省[JPB]と、福岡[JPH]・香川[JPG]・広島[JPF]・大阪[JPE]の4プライマリー局(黄色)が相互間で通信できる(例1:福岡[JPH]→[JPB]内務省、例2:福岡[JPH]→[JPE]大阪のように通信可能)。

第一固定通信系(北方回線)でも同様に、8080kHzで内務省[JPB2]と、愛知[JPD]・宮城[JPI]・北海道[JPJ]の3プライマリー局(黄色)が相互間で通信可能である。さらに各プライマリー局(黄色)の管轄下にあるセカンダリー局(青色)相互間においても、静岡[JPT]→[JPU]岐阜のように通信できるようになっている。

しかし管轄エリアをまたいで長崎から京都へ連絡する場合には、長崎[JSS]→[JPH3]福岡[JPH]→[JPE]大阪[JPE3]→[JSC]京都のルートで電文が中継される。

さらに西日本の岡山から東日本の青森への連絡だと、岡山[JSJ]→[JPF3]広島[JPF]→[JPB]内務省[JPB2]→[JPI]宮城[JPI3]→[JSZ]青森というように中継される。電波伝搬上の理由で夜間は低い周波数を使い、コールサインも変えた。なお内務省と警視庁ルートだけは有線で接続されている。【注】JPB1がないのは(アマチュアを除くすべての無線局で)コールサインに数字の0, 1を使うのが禁じられていたから。

1946年11月分の内務省およびプライマリー局の取扱い通信量だけでも計25,799通(若尾孝太郎, 内務省警保局通信課内務技官, 警察無線に就いて, 『電波日本』vol42 No6, p5, 第2表 電報通数調査表 昭和21年11月分, 1946年12月号)にものぼり、有線通信網が機能不全に陥っている終戦直後の日本で、警察無線の全国通信網がいかに有益だったかがお解りいただけよう。

鉄道通信(渡辺正一郎, 鉄道無線こぼれ話1, 1982年1月号,p54)より引用する。『・・・(略)・・・海軍の無線設備と要員をそっくりそのまま内務省に移管し、周波数も海軍時代使用したままで本省と各県庁の連絡を始めたのである。もっともこの臨機応変の処置のお陰で、あの終戦の混乱期に内務省の有線回線がほとんどやられていたにもかかわらず、県庁との間の連絡が保たれ事なきを得たのである。』

2)全国特定重要警察署の237無線施設

さらに各県庁警察部の下には全国で237警察署(1946年11月現在)に無線局が配置された。周波数は1660-2280kHz間の7波でA3, 50W局で全国をカバーしていた。

内務省警保通信課の内務省技官である若尾孝太郎氏の記事を引用する。

『日本は地勢上1ヶ年を通じ各種の災害が発生しその都度多数の人命や財産に被害があるのが通例である。こうした際ほとんど必ず警察専用の有線施設および逓信省所管の電信電話もまた共に不通となるのがこれまた通例とするところである。この被害直後の通信暗黒時期を克服するには何といっても無線によるより他に方法がないのであって、この施設をして置く理由もここにあるのである。災害発生直後の情報が早ければ早いほど被害をより少なくする手段が講ぜられるのであって、災害が一応かたづいた後での通信復旧では、治安対策のためにはなんら役に立ち得ぬのである。A3電波で50W以下、1,660kcから2,280kc間で7波を使い、これを適当に割当てて、相互に混信のないように考慮の上全国をカバーしている。受信機は殆ど全部7球スーパーで県警察部で使用しているものと全く同じである。』 (若尾孝太郎, "警察無線に就いて", 『電波日本』Vol41 No6, 1946年12月号, p5)

無線よりも専用有線通信網の整備に力点を置いていた警察が、終戦の荒廃の中で、警察有線通信がいざ災害時には何の役にも経たないことを痛感し、全国の通信途絶が発生しやすい特定警察に緊急配備した無線局だった。これは1948年に応急無線(Emergency Police Radio)という名称が与えられその整備が加速した。

ちなみに「地元の治安維持活動に根差して運用された警察無線」という意味においては、この短波帯の「応急無線」が近く、パトカー無線にその座を譲るのは昭和30年代以降になってからである。

3)警察無線全国放送施設

当時の呼称のまま「放送」という言葉を使ったが、これはいわゆる全国一斉同報のことで、毎日5回(09:00, 12:00, 15:00, 17:00, 20:00)、内務省から全国の府県本部へ直接送信される無線電文(A1)である。前掲の若尾氏の記事によれば『警察関係の法令の改定や、その実施時期の通知とか、取締りの方針の指示等がそれである。中には少女誘拐犯人の全国手配などもこれによるのである。』 というように使われた。なおこの警察無線放送は昭和20年代後半には短波帯ファクシミリに置きかえられた。

4)一時免許された愛知県のパトカー無線

1935年(昭和10年)より警視庁が保有し実際に運用していたパトカー無線局(JHT2-5, 3475kHz, A1/A3)は終戦後は運用休止していた。その理由は解らない。しかしパトカー無線は消滅したわけではなく、天皇陛下の地方巡幸のさいに警備のために一時免許されていた事例が散見される。

そのひとつが1946年9月26日付けの"Temporary Employment of Radio Communication"(逓信省LS第25号)にてCCSへ申請されたパトカー無線で、コールサインはJPD6(Motor Car No.1)、JPD7(Motor Car No.2)だった。またこれらとの通信のために愛知県庁警察部にJPD5も合わせて申請された。1735kHzのA1電波で、出力はJPD5/6が15W、JPD4は100Wだった。

CCSはこれを"Temporary Employment of Mobile Radio Stations"(10 Oct. 1946, CCS)で承認したが、その承認通知のNFRの1項に以下の記述がみられる。

"NFR: 1. Application for the above radio system was made by the Governor of Aichi Prefecture through the Ministry of Communications. The radio stations are to be operated by the Japanese Police as a precautionary measure during the Emperor of Japan's contemplated visit to Nagoya-shi."

  • 警察無線の歴史8(視察団の来日と警察2大改革)

警察の有線電話は終戦後も回復するどころか通信線や設備の老朽化で状況は悪化する一方だった。そんな1946年春にアメリカから2つの警察制度の調査団が来日した。ニューヨーク警視総監ヴァレンタイン氏と、ミシガン州警察署長オランダ―氏が率いる調査団である。

彼らは大きく2つの問題を指摘した。まず特高警察のような行き過ぎのあった警察から、地域住民と密着した明るく開かれた組織へ変革すべき。もう1点は有線および無線の通信網を速やかに整備し、機動力ある治安維持組織に変えるべきだとした。この勧告を受けてGHQ/SCAPは直ちに動いた。

まず前者については、警察を統括していた内務省を解体した(1947年12月31日)。そして昭和22年法律第196号, 警察法(1947年12月17日公布, 1948年3年7日施行)で、アメリカの州警察と市警察にならって、国家地方警察(通称:国警、アメリカの州警察に相当)と地方自治警察(通称:自警、アメリカの市警察に相当)に分割した。警察法から自警に関する部分を一部抜粋してみる。

第40条 市及び人口五千以上の市街的町村(以下市町村という。)は、その区域内において警察を維持し、法律及び秩序の執行の責に任ずる。

第42条 自治体警察に要する経費は、当該市町村の負担とする。

第43条 市町村長の所轄の下に市町村公安委員会を置き、その市町村の区域内における警察を管理せしめる。


【参考1】 映画ポリスアカデミーはNYPD(ニューヨーク市警)、TVドラマのコロンボ警部はLAPD(ロサンゼルス市警)だが、これがいわゆる地元自治体が運営する自警組織である。 【参考2】 法第40条にあるとおり市町村が運用経費を賄うため、経営難に陥る自治体が続出するところとなり、1951年(昭和26年法律第233号)の改正で警察経営が困難な市町村は国警に委託できるようになった。さらにGHQ/SCAPが去ったあと、1954年(昭和29年法律第162号)に全文改定され、都道府県警察で一本化された。 内務省の短波帯警察無線の全国通信網はそのまま国警に引き継がれた。警察法第4条第1項で国家公安委員会の役割として『警察通信施設(自治体警察の本部から管下の下部組織に通ずるものを除く。)の維持管理に関する事項』を掲げており、国警無線の免許人は国家公安委員会になった。

視察団のもうひとつの勧告は警察通信の改善だが、特に有線系は無線系以上に急を要するとされていた。その劣悪さは、評判の悪い逓信省の一般加入電話の比ではなかった。

『警察電話線路は、太平洋戦争中十分保守が出来なかったので、通話がほとんど出来ない状態であった。線路ばかりでなく、その端末設備(交換機, 電話機)の老廃もはなはだしかったが、特に線路は建設の時から既に基準通りになっていないものが多かった。例えば地方の寄付及び労力奉仕で電柱を建て、鉄線を架したというような、応急架設的なものも相当あった。』 (『小野さんの生涯』, 1955, 故小野孝君記念刊行会, p83)

有線問題を担当したCCSのローチ氏とブランケンシップ大尉は、まず警察の「警察電話」と、逓信省の「加入電話」の接続を自由にし、民衆との接触を強めるよう指導した。逓信省はしぶしぶCCSの命令に従い、緊急通報(いわゆる110番)を加入線から行えるようにした。

次いで1948年6月11日の閣議決定「警察用電気通信施設の整備強化について」で、これまで警察が独自に建設してきた有線電話網を逓信省に移管させた。逓信省が(一般用も含め)全ての有線の建設・保守を担当することで、効率的に整備強化をすすめる作戦だった。

警察電話の移管を受けた逓信省は、1948年8月に警察管区本部間の電話線路を逓信省の線路に切り替えてくれた。これで少なくとも加入電話と同品位で、東京管区本部から福岡や札幌の管区本部に電話が掛けられるようになった。しかしそのあとが続かない。1949年に逓信省は電気通信省に変わったが、相変わらず地方の県本部から東京の国警本部への通話は困難だという、信じがたい状況が続いていた。警察の電話線の改修には数億円掛かると見積もられ、電通省による改善は予算がないのを理由に遅々として進まなかった。さらに電通省は警察に保守・建設費を負担するよう求めだが、国警側はそれでは移管した意味がないと突っぱねた。『警察内部では何故移管したのか理解に苦しみ、「自分のものを他人に渡して、それをあらためて損料払って借りるとは何たる不合理か」とばかりに非難ごうごうであった。』 (『小野さんの生涯』, 1955, 故小野孝君記念刊行会, p85)

それでも有線系が無事改修できたのは1949年春に小野孝氏が国警に着任し、粘り強く電通省と交渉を続けた結果だった。

また無線系は短波帯による県内通信網の強化整備を進める一方で、1947年夏、CCSは無線運用課(Radio Operation Division)に、アメリカからセコム(Seccombe)氏を呼び寄せ、警察無線の近代化を選任した。こちらはVHF帯FM方式だった。

  • 警察無線の歴史9(国産VHF機によるわが国初の自動車移動体通信テスト)

Seccombe氏が来日するまで、警察無線の近代化に何も手を付けなかったわけではない。国家地方警察本部の通信調査課長の木村六郎氏の記事が詳しいので引用する。

『FM超短波が取上げられたのは終戦後昭和21年秋、GHQの勧告によって設立された超短波移動無線協議会(内務省警保局長を会長とし、逓信省その他の学識経験者および製造会社より成る)の席上で、討議の結果FM超短波自動車無線を採用することとなった。その実験が始められたのは昭和21年12月から翌年1月にかけて日本電気の試作品について行ったもので、警視庁の固定局から京浜国道を走る自動車に対してFM38.5Mcの超短波を使用して相当の成績をあげたといわれている。』 (木村六郎, "警察通信と超短波", 『電波日本』, vol.49No.4, 1950.7, p4)

また内務省警保局通信課の内務技官の若尾孝太郎氏の記事にも登場する。

『方式、パワー、形態その他に就いて警察無線自動車技術協議会を作りここで専門的に審議している。試作中であるが今その内容を述べて見よう。通信方式は2波を以て同時送受信を行う。固定局ではこれに有線無線接続装置を附加して一般の警察電話と通話出来るようにする。・・・(中略)・・・波電はA3で変調方式は周波数変調いわゆるFMである。この方式は過去に於いて経験を持たぬため審議、試作共に慎重に取扱っている。・・・(中略)・・・変調方法はアームストロングとクロスビーとを試験することになった。』(若尾孝太郎, "警察無線に就いて", 『電波日本』, vol.41No.6, 1946.12, p5 )【注】 「波電A3で変調方式は周波数変調」については、次の「初のVHFパトカー警察無線の実験はAMか?FMか?」で触れる

この初期の日本電気の試作機による実験は、1946年12月9日に逓信省MOCより"Application concerning the experiment of radio patrol for Police Business"(逓信省LS第56号)で、霞ヶ関の警視庁JPC3(38.0/38.5MHz, A3, 20W)と自動車JPC4(38.0/38.5MHz, A3, 10W)が申請された。コールサインは実験局用の「文字+数字+文字」形式ではなく、通常形式のJPC3 とJPC4 だった。申請書(LS第56号)では実験の目的は電界強度・S/N・アンテナ放射パターンの測定と車両走行振動試験で、また開設を必要とする理由の第6項には「調査団ヴァレンタイン氏の近代化勧告」を挙げている。1946年12月12日付けでCCSの承認(期限:1947年4月1日)が下りた。

上記の木村氏や若尾氏の記事ではFM方式だったとしている。また警視庁発行の「自警」1956年(昭和31年)11月号の警察通信年表(P75)にも、1946年12月 『我が国最初の試であるFM式超短波無線電話のテストを警視庁で、日本電気株式会社の試作機により実施。』との記載があるとおり、FM方式で実験したことは間違いないだろう。

いや、そもそも試作した日本電気自身がこれをFM機だと述べている。

『終戦後、移動小型無線機について二、三の試作を行った。これについてその一部を簡単に紹介し、教示を得たいと思う。先ず昭和21年(1946年)には第2図に示す如きUTR-II型およびUTR-III型を製作した。これはリアクタンス管による変調方式で、同一筐体内に送信機と受信機とを組込んだプレストーク通信方式によるものである。

送受信周波数は30~40Mc/sの間で、送信出力はII型は10W、III型は20W、前者は移動用、後者はその固定用である。受信機は水晶制御の単一スーパーヘテロダイン式で、混合管より弁別管までを送信機の自動周波数調整に共用している。この装置の大要を第2表に掲げてある。またこの両装置を使用し、東京都内での伝播試験を第3図に示す。(周波数変調による東京都内の通信試験に就いて、坪井、昭23、春季三学会連合、予稿)』 (坪井貴志男, "超短波移動無線機", 『NEC 日本電気技報』第一号, 1948年10月, 日本電気株式会社, pp10-11)

上記でいう第2表(仕様表)によると、車載機UTR-II型(自動車JPC4)は終段807(1本)、高周波出力10W、電源DC24V-8A、サイズ223 x 344 x 388mmで、固定機UTR-III型(警視庁JPC3)は終段807(2本)、高周波出力20W、電源AC100V-4A、サイズ223 x 354 x 642mmである。なお受信部に関してはII型、III型、まったく同じ構成だった。

しかし1946年12月9日に逓信省MOCがCCSに提出した申請書(LS第56号)には、はっきりとType of Emission:A3 だと記載されている。下図は1947年1月30日付けGHQ/SCAP 対日指令SCAPIN第1500号のマスターリスト第5次改訂リストだが、これをみてもJPC3, JPC4 の両局ともA3である。

人口5,000人以上の1,605市町村が自警を経営することになった。そして準備が整った市町村より、市町村長が任命する「市町村公安委員会」(定員3名)を組織して、自治体警察を分離独立させていった。

また自警を置かない地域(5000人未満の小規模町村)を一括して、国警6管区本部(札幌、仙台、東京、大阪、広島、福岡)と、その下に置いた各都道府県本部で担当した。そして国警を維持管理するために、内閣総理大臣が任命する「国家公安委員会」(定員5名)を組織した。

この改革で例えば大阪市には国警の大阪警察管区本部(および大阪府だけを管轄する大阪府本部)と、自警の(大阪市の予算で大阪市だけを管轄する)大阪市警視庁の2つが置かれたが両者は完全に独立し、人事交流も禁じられた。国家中央の影響が及ばない地元密着の民主警察を作れとするのがGHQ/SCAPの指令である。

さらに1947年2月20日に逓信省が発行した"List of Japanese Radio Station, 20 Feb.1947, 逓信省MOC" でもA3でリストされている。次にこれについて補足しておく。

  • 初のVHFパトカー警察無線の実験はAM か?FM か?

まず左図をご覧頂きたい。これは1946年3月26日の連邦官報(11FR3158)で告示されたFCC Order 130-D の一部抜粋である。アメリカのアマチュア局の戦時制限はFCC Order 130-Aで28/56/144MHzと2.3/5.2/10/21GHz だけが解除されていた時期だが、1946年3月26日に27.185-27.455MHzと暫定235-240MHz Band の使用が即日施行された。11m Amateur Band が誕生した記念日である。

まだ7MHzや14MHzは戦時体制が解除されておらず、最も低いAmateur Bandがこの11m Band(27.185-27.455MHz)となった。私たちCB無線研究家には大変興味深いが、ここではその電波型式をご覧頂きたい。A0, A1, A2, A3 and A4 emissions, and also special emissions for frequency modulation となっていて、F1やF3という表記は使われていない。

戦前最後の無線の国際会議となった1938年のカイロ会議では、まだFM方式が実用化されておらず、国際的には Type of Emissions は持続電波をA電波、瞬滅電波(火花電波)をB電波とし、さらにA電波をA0無変調、A1電信、A2音響電信、A3電話、A4ファクシミリ、A5テレビジョンと定義されていたに過ぎない。

Type of Emissions の定義にFM電波を加えて、たとえばFMの電話をF3と表現することが採択されたのは1947年のアトランティックシティ会議でのことである。したがって1946年時点ではまだそのような表現がなかった。

我国で使用されたGHQ/SCAP, CCS のマスターリスト(占領政策における周波数監理原簿)もそうでType of EmissionsはA0, A1, A2, A3, A4 だけを定義し、もしFM方式の電話であってもA3とし、その他の特殊な変調方式はすべてA4で表記するよう決められていた。これにより警視庁のFM無線局 JPC3, JPC4 は、マスターリスト上ではA3との表記で歴史に記録されたというわけである。

したがって前述の若尾孝太郎氏の記事で『波電はA3で変調方式は周波数変調いわゆるFMである。』とあるとおり、1946年当時の逓信省MOCでは、FM変調の電話のことを「Type of Emissions がA3で、Modulation がFM」という表現方法をとった。

ちなみに我国最初のFM移動体通信実験1946年8月30日にCCSの承認を得て、各地の操車場にて実施された鉄道無線(操車場無線)だが(注:警察無線の方はFMの自動車無線としての我国初)、これも申請書は「Type of Emissions A3、Modulation FM」だ。東海道線の列車無線実験局 JB9J, JB9K, JB9L の申請書もそうである。 JA/JB Callsigns のページ参照。

  • 警察無線の歴史10(国産試作機のテストで妨害事件が発生)

1946年12月から翌年1月にかけて、日本電気製の無線機で実験したあと、日本の通信機メーカ各社でも試作機が次々と完成したようだ。1947年1月17日逓信省MOCは"Application concerning establishment of private experimental radio telegraph and telephone equipments"(逓信省LS第69号)で、これらをCCSへ申請(コールサインJ9XA-J9XO)した。1947年2月5日に民間通信局CCSは"Application to Establish Experimental Installation for Development of Fixed and Portable FM Radio Equipment" で承認意向を内示し、正式には次回のマスターリストの改訂でおこなうとした。

ところが1947年4月1日のマスターリスト第6次改訂で発表されたコールサインは、下表のようにJX9NからJX9Z、そしてJY9A, JY9B で、1947年5月1日までの期限で承認された。なぜ申請と承認で違うコールサインになったかというと、民間無線担当のCCSは関東・信越エリアをJ9にしていたが、第八軍は奄美・琉球エリアをJ9にしていたため、1947年2月20日をもってCCSが所管する日本人の無線局はJ9プリフィックスを使わないことになったからだ。詳しい事情は J callsigns JX/JY callsigns をごらん下さい。

既設の各種実験局J9ZA-J9ZMはJX9A-JX9Mへ指定変更され、そこへ新たに申請された警察関係の局には後続するJX9Nからが与えられたが JX9Zまで使い切り、JY9Aへ進んだことがわかる。これらは全てType of Emissions A3による承認だが、上述の時代背景からFM波だと想像される。

各社の試作品が完成し内務省へ納品されテストが始まったが、1947年(昭和22年)3月10-14日に、警視庁から0.5マイル離れた第八軍の施設に妨害を与える事件が起きた。原因は国産無線機の第二高調波(78MHz)の輻射だった。第八軍は警視庁に直ちに電波の発射停止を命じた。3月18日と20日に東洋通信機と日本電気の技術者がテストしたが、再び第八軍施設に妨害を与えたため即刻中止になった。

当時は日本の至る所で(性能不良の)日本製無線機のスプリアスが第八軍に妨害を与える事件が続出しており、逓信省は日本の無線局と第八軍との間に緊張感が高まっていることを危惧していた。しかし警察無線の実験の重要性に理解を示していたCCSの仲介により第八軍とのトラブルは事なきを得て、5月1日まで改修のための実験は許された。この事件はCCS国内無線課技術係のWhitehouse氏の部下V.J.Hultman氏により正式にCCSドキュメントとして記録(CCS, 20 March 1947)に残された。

1947年5月20日、MOCはスプリアス特性の改善を確認したとして、警視庁の実験局を、"Application concerning the test of police VHF equipment"(20 May 1947, 逓信省LS第102号)でCCSへ申請した。

1947年5月24日、CCSは警視庁の固定局JB9G(38.2/38.5MHz, FM, 30W)、自動車移動局JB9H(38.5MHz, FM, 10W)と JB9I(38.2MHz, FM, 10W)の計3局を承認した。当初の周波数とはやや異なっているが、万一第2高調波が輻射されても第八軍の周波数に重ならないよう配慮があったのかもしれない。

製造事業者にはJXシリーズやJYシリーズの実験局のコールサインを発行し、その運用テストした内務省にはJBシリーズが発行された。同じ実験局でも研究開発目的にはJX、実用化試験にはJBというような逓信省なりの使い分けが読取れる。

なおこの実験期限は1947年7月15日で承認された。前掲の木村六郎氏の記事の引用を続ける。

『昭和22年4月に数社の試作機が実験調査され、同年5月には(陛下の)京阪地方巡幸の際、ご警衛に使用し使用して効果をあげ(東洋通信機製)、さらに日電、日無、東通社の製品について通信実験を行ったこともある。』

天皇陛下の大阪巡幸の警備用として"Temporary use of mobile radio stations"(15 May 1947, 逓信省LS第105号)にて、大阪府庁警察部に設置する固定局JPE5(38.0/38.5MHz, FM, 20W)、2つの自動車移動局JPE6/JPE7(38.0/38.5MHz, FM, 10W)を5月23日から30日まで開設したいと申請した。1947年5月20日にCCSは対日指令SCAPIN第1693号<AG676.3(20 May 47)CCS>"Control of Radio Communications" でこれを承認した。 コールサインには大阪府庁警察部用のJPEシリーズが使われた。1946年に愛知県巡幸の警備のパトカー無線に愛知県庁警察部用のJPDシリーズだった例を踏襲したのだろうか。

このあと警視庁はJB9G, JB9H, JB9I のコールサインで上表7社(沖電気、日立製作所、日本電気、東洋通信機、東京無線、日本無線、国際電気)の無線機を取っ替え、引っ替え、テストしたようだ。

左図[左]は日本電気製の送信不要輻射を-60dBに抑えた改良機SU-202型(送信機)である。第八軍への妨害対策機だろうか。

(UTR-I型、UTR-IV型に)続いて同年、位相変調による送信機SU-202型を試作した。この内部を第8図に、使用真空管、性能の一端を第2表に掲げた。』 (坪井貴志男, 前傾書, pp11)

上記でいう第2表(仕様表)によると、SU-202型送信機は終段807(2本)、高周波出力30W、電源DC24V-5A、不要輻射-60dB、サイズ210 x 260 x 370mmである。

また日本電気では受信機のダブルスーパー化にも着手し、翌1948年前半には左図[右]のRUP-217型(電源DC6V-10A、サイズはSU-202型送信機と同じ)を完成させ、SU-202型と組み合わせて2波を使った同時送話が可能だったようである。

  • 警察無線の歴史11(主要6都市へパトカー無線の導入を決定)

1947年5月6日にCCSの国内無線課(Domestic Radio Division)にて、実験結果報告と今後の計画について話し合われた。議事録(Subject: Conference Concerning Japanese Police Radio Mobile Instrations, CCS, 6 May 1947)によると、出席者はCCS側はMr. Whitehouse, Mr. Sloan, Mr. McTighe の3名、日本側は西崎氏(逓信省MOC), 若尾氏(警視庁), Dr.田中氏(日本電気)である。

日本の主要6都市にVHF/FM無線機を搭載したパトカー導入の是非が話し合われたが、(3月に妨害事件を起こしたため)VHF帯を使用中の第八軍へ混信を与える可能性が指摘され、出力の大きい固定局(県本部)は中短波帯AMがよかろうとの結論に至った。

また警視庁の若尾氏は移動局(パトカー無線)は第八軍に混信を与えないVHFまたはUHF帯を選定し、東京10局・大阪5局が必要との見通しを述べた。

1947年5月17日、CCS国内無線課で二回目の会議があった。出席者はMr. Sloan, Mr. Mc Tighe(CCS)、Mr. Kimberling(G-2, CIS PSD)、日本側のメンバーは前回と同じだ。議事録(Subject: Conference Concerning Japanese Police Radio Mobile Instructions, CCS, 19 May 1947)によれば「東京・横浜・大阪・京都・名古屋・神戸にパトカー無線を導入する。CCSは固定局用に中短波帯AM4波を、第八軍は移動局用にVHF帯FM3波の周波数を空けて、まず東京エリアにて基礎実験を7月20日まで実施する。」と決まった。なぜこの6都市に決まったかというと、「速やかに6大都市に無線警ら自動車を配備すべき」との調査団オランダ―氏の勧告による。

警察無線史のまとめとして振り返っておくが、1946年末の時点ではパトカー無線はVHF/FMによる同時通話方式が想定された。それが1947年5月には「中短波AM-超短波FM」方式の6都市用無線になった。まだこの当時ではVHF帯パトカー無線の全国配備は考えておらず、警察無線とは短波帯の「応急無線(Emergency Police Radio)」が本流だった。

  • 警察無線の歴史12(30-35MHz帯5波を日本へ引き渡すことが決定)

CCSは30MHz帯の一部を警察無線用に日本へ返還することを画策した。しかしCCS技術課のWhitehouse氏と極東軍FEC通信課のHarcarik氏の協議では、35-40MHzを使うと、その第二高調波(70-80MHz)が、第八軍バンド(70-100MHz)の中に落ちるとFECは難色を示した。

1947年5月27日の極東軍FEC通信課からのCCSへの回答は1705kHz/33.5MHz(東京)、1760kHz/34.5MHz(横浜)、1715kHz/30.5MHz(大阪)、1760kHz/31.5MHz(京都)、1735kHz/---(名古屋)、1705kHz/32.5MHz(神戸)だったが、最終的な承認はシステム仕様が決ってからとなった。

第八軍が30-35MHzバンドの周波数(30.5/31.5/32.5/33.5/34.5MHz)を日本に明け渡すための具体的なステップはまだ決まっていなかった。ちょうどその頃(1947年夏)、CCSはアメリカよりCCS国内無線課の無線運用係(Radio Operation Branch)にSeccombe氏を呼び寄せ、同係の警察無線担当に据えた。ここからSeccombe氏が精力的に導入計画を推し進め始めた。

1947年8月8日、CCSのSeccombe氏と、第八軍通信局(Signal Section)のHagan少佐との協議で、東京・横浜エリアの第八軍が使っていない31.5/33.5/34.5MHzの3波については直ちに日本が使用しても差し支えない旨合意した(東京・横浜地区限定)。また日本各地に進駐する第八軍は、30.5/31.5/32.5/33.5/34.5MHzの5波の使用を3ヶ月以内に中止してCCSへ引き渡し、CCSは1947年11月1日にこの5波を日本の警察無線の実験用として逓信省MOCに許可することになった。

1947年8月29日、第2回目の会議では5波の明け渡し準備期限を、具体的に10月15日と決めた。

  • 警察無線の歴史13(第八軍のVHF帯FM無線機を借用)

1947年5月17日のCCSでの会議において、主要6都市で中短波帯AMとVHF帯FMを使ったパトカー無線を日本に導入することが決まった。しかし1946年12月12日から始まった国産無線機の実験では、第二高調波で第八軍へ妨害を与える事件をひき起こし、日本の技術水準を大幅に引揚げない限り、国産VHF/FM無線機による警察無線の実用化は無理だとCCSは結論付けた。

もともと日本では無線通信とは、技術者が無線機の「お守り」をしながら運用するものとの考え方であり、無線知識のない一般警察官が手軽に扱える設計にはなっていなかった点も大きい。これらを打開するためにSeccombe氏は、米国製FM無線機を日本人へ貸与し、研究させ、そしてコンテスト形式でメーカー各社を競争させることにした。

1947年9月2日の午後2時よりCCSで我国の移動体通信技術の発展に大きな影響を与える会議が開かれた。議事録(Subject: Renovation of Police Radio Sets, CCS, 2 September 1947)によると、CCS側の出席者はWhitehouse氏(国内無線課技術係)とSeccombe氏(国内無線課無線運用係)で、日本側は逓信省電波局から長谷氏と部下のYai氏、内務省からKauamitsu氏と通訳のShirohata氏、警視庁から若尾氏と石田氏、そしてTokyo Communication Mfg. Co. からTomiyoka氏である。【注】判別できない人名は原文文字のまま記した。

この会議でSeccombe氏は第八軍のモトローラー社製の送受信機20セットの貸与を受けて、日本側がこれを教材に超短波無線機の製造や、FM方式の回路構成と設計法、そしてVHF帯の電波伝播を研究しなければならないとした。

会議二日目の9月3日では第八軍のVHF/FM送信機と、国産中短波AM受信機を組合せる改修(基地局用はその逆)を、逓信省電気試験所にさせることを決めた。これは「リノベーション・オーダー」と呼ばれている(これは対日指令SCAPINにて発令されたはずだが、手元資料がまだ未整理)。電気試験所では貸与されたモトローラ社およびリンク社の無線機を分解し、その回路の構成や働きを細部に渡って調査研究した。そしてアメリカとの圧倒的な技術力の差を思い知るとともに、日本の無線産業復興のためにも貪欲に米国技術の習得に努めたという。

1947年9月15日から16日にかけてKathleen台風が来襲し、警視庁はさっそく第八軍のFM無線機4台を借りて、現場との連絡に供した。表向きは電波伝播実験と称されるものの、警視庁の場合は実用目的だったと考えられる。

『昭和二十二年九月のキャスリン台風、昭和二十四年八月のキティ台風には唯一の通信手段として活躍するほか浅草、淀橋警察署管内をパトロールして歳末警戒取締りを行った。』 ("警察無線の今昔", 『自警』, 1956年11月号, 警視庁, p74)

  • 警察無線の歴史14(JZシリーズの実験局が承認される)

1947年10月16日、Seccombe氏はMOCに"Application for the test of equipment and operation of Police Mobile Radio Service"(逓信省LS第195号)で、JZ9A-JZ9C(1705kHz, A3, 500W)とJZ9D-JZ9W(30.5/31.5/32.5/33.5/34.5MHz, FM, 50W)をCCSへ申請させた。もちろん「出来レース」である。

1947年11月5日にCCSより"Authorization to Test Experimental Police Radio Service"(CCS/DR第39号)で承認された。SCAP Registry Number 1740P である。ただしJZ9A-JZ9C は空中線電力を減力されて100Wでの承認だった。

こうしてSeccombe氏のもとで、貸与無線機20台による実験が始まったが、そのコールサインは借用無線機の各セットに割り付ける方法をとり、下表JZ9A-JZ9W が割当てられた。Seccombe氏の実験は日本全国に貸し出され実施されたが、貸出しの都度、そのエリアのDistrict Number で新しいコールサインの承認を受ける必要がなくなった。

当時は送信部と受信部が同一筐体に収まったいわゆるトランシーバーではなく、送受別筐体の2台1組で通信していた時代で、1947年5月17日に決まったのは、「基地局からパトロールカー」へは中短波帯1,705kHzで送信し、「パトロールカーから基地局」へはVHF無線で送信する警察無線システムだ。

もちろん後になってVHF帯FMの双方向通信に計画変更されたが、パトカー無線は「中短波AM-超短波FM」で計画スタートしたのである。

下表Set No.1から3(JZ9A-JZ9C)は1,705kHzの基地局用のもので、Set No.4以降の計20台(JZ9D-JZ9W)が米軍から貸与されたFM無線機の移動局だ。JZシリーズの実験局のコールサインは、1947年11月5日(CCS/DR第39号)で初めて承認されたのである。

1947年11月15日、MOCは "Application for the test Experimental Police Radio Service"(逓信省LS第218号)でCCS/DR第39号に基づく12月の実験計画書"Operating schedules of the test of Experimental Police Radio Service during December" が提出された。

実験計画書によれば内務省と警視庁に固定局を建設し、30.5/31.5/32.5/33.5/34.5MHz の各波間での混信調査と、31.5/33.5MHzを使って、新宿伊勢丹ビル7階と府中警察に建設した固定局と、内務省と警視庁のそれぞれが管理する移動局との通信実験ならびに日本製受信機の性能評価を行うとした。

【参考】 新宿伊勢丹ビル(左図)の2階以上は進駐軍に接収され(1階のみでデパートとして営業)、2階が進駐軍用ダンスホール、3-7階は第64工兵地誌大隊が使っていたがその一角の借用を許され、ここに警察無線の実験局JZ9Fが置かれた。

まず内務省(Set No.4, JZ9D)と警視庁(Set No.5, JZ9E), 新宿伊勢丹ビル(Set No.6, JZ9F)の3固定局の建設が始まった。そしてJZ9D(内務省)のアンテナが完成したので12月1日にその輻射パターンが測定された。12月8日にはJZ9F(新宿伊勢丹ビル)のアンテナ調節のために、JZ9D(内務省)との通信テストが行われた。さらに12月25日にはJZ9E(警視庁)とJZ9D(内務省)間で機器調整のための通信テストを実施し、12月30日16時をもって1947年の実験を終了した。実験には周波数は31.5MHzだけを使用した。

またこれら先行開局したJZ9D, JZ9E, JZ9Fにより、地方実験用に発送する無線機の調整用および事前テストを行った。

  • 警察無線の歴史15(プロトタイプのBasic Requirements 完成)

日本の警察にVHF/FMを導入するには国内産業育成の点からも国産無線機によるべきだと誰しもが想うところではあったが、肝心の技術力がまったく立ち遅れていた。Seccombe氏はまず逓信省電気試験所に米軍のFM無線機と取扱説明書を貸し与え、分解して電子回路の解析や性能試験、生産加工技術を学ばせると同時に、国産VHF帯FM警察無線機のプロトタイプ(試作機)コンテストの計画した。そして逓信省電気試験所にコンテスト用プロトタイプのBasic Requirements(基本要求仕様書)を作るよう命じていた。

このころ電気試験所は電気通信研究所(略称通研)に名前を変え、1948年8月にBasic Requirements 原案をまとめて、超短波通信研究特別委員会NRC(National Research Council)で協議し修正を加えた。そして1948年12月にCCS研究課のスタディ氏が無線機メーカー各社を招集し、Basic Requirementsを提示した。

その試作費は全て参加者の自腹で、コンテストで合格した会社だけが、本番機の入札に参加する権利が与えられるという日本では始めての発注方法だった。敗戦で軍需無線産業が壊滅し、倒産寸前の無線機メーカーも多いなか、各社は生き残りを掛けて開発費を捻出してコンテストに挑んだという。

超短波通信研究特別委員会NRC はSeccombe氏が作った学者組織で、1948年6月から1949年3月までの約10ヶ月間、日本の電波研究界の要人69名を集めて、日本学術研究会議の中に置かれた。設立の背景は仕様決定に逓信省の動きが遅く、それを加速させるのが目的だったといわれるが、けしてうまく機能したとはいえなかったようだ。

『逓信省は終戦後の混乱期に、自らの仕事すら充分果たし得ないとき、他省(警察)の仕事を米国流にテキパキ遂行することなど思いもよらず、消極的な協力をするにすぎなかったので、セコム氏はこの仕事を学会に持ち込み、学術研究会議(略称学研)の中に、抜山平一教授を委員長とする超短波通信研究特別委員会を設けて、・・・(中略)・・・しかし彼の求める研究問題は極めて現実的であり、具体的であったので、メーカーを除いたこの委員会の構成では結局、通研の委員に依存する外なく、屋上屋を架する結果となって、ますます仕事は停滞するばかりであった。』 (『小野さんの生涯』, 1955, 故小野孝君記念刊行会, pp79, 1955)

左図は1948年前半に日本電気が試作した30MHz帯FM携帯型無線機である。

『極めて小型に比較的近距離の通信を目的とした携帯用のウォーキートーキーの試作を行い、第13図に見るごとき外観を有するものである。上段には送受信機、下段は蓄電池である。防水あるいは防滴型とし背負いながら通話できるもので、周波数は30~40Mc/s帯である。使用真空管は全部ミニチュア管で送信出力は約1Wの位相変調方式の水晶制御である。受信機は同じく水晶制御の単一(シングル)スーパーヘテロダイン方式で、出力は受話器または小型ダイナミックスピーカーを鳴らすよう仕組まれている。』 (坪井貴志男, "超短波移動無線機", 『NEC 日本電気技報』第一号, 1948年10月, 日本電気株式会社, pp11)

同年12月にコンテストの基本要求仕様書が発表になると、各社はこれに注力するようになり、左図のような携帯型やメーカー独自仕様の無線機開発は一切が中止された。

プロトタイプの提出は翌1949年9月1日に締切られたが、設計から試作まで8ヶ月間しかなく、3社が棄権した。そして性能試験を受けた18社(内3社は受信機のみ提出)の全社が不合格という想定外の事態となった。そこで1949年11月に試作機を各社に返却して手直し期間を与え、1950年1月16日を再提出期限としたが、あまりのハードルの高さに5社が棄権する事態となった。再審査の結果、1950年3月3日に8社が合格した。

そして合格した各社プロトタイプの性能実力を吟味した上で、初の警察VHF/FM無線機「PR-1」の要求仕様を定めた。入札説明会が1950年4月1日に開かれ、送信機・受信機101台と遠隔制御器2台の要求仕様を発表したのである。プロトタイプの審査からPR-1型の完成までの出来事は New prefix のページのJG/JJ/ JPプリフィックスの各項を参照願いたい。

  • 瀬戸内海と対馬海域および鹿児島での実験(1948年1月 - 2月)

『特にFM超短波の実験については、セコム氏の異常な熱意による指導で、九州の国東半島を一端とする瀬戸内海航行船舶との移動通信実験、鹿野山を中心とする関東各県との通信実験、新宿伊勢丹からの都内通信試験、金剛山を中心とする大阪管区十二県間の通信実用化試験等が、殆ど全国的に行われ、ついには北陸の白山頂上に超短波中継局を設置する実験にまで発展した。当時のとぼしい警察通信技術者が、食料や、資材の窮屈な中で、血のにじむような努力をつづけたことは、今でも記憶に新たな人が多いはずである。しかし、我が国の習慣から見て、最も大切な制度と、人の問題が取り残されたために、いかにセコム氏が熱意をもって指導しても、国警通信は自らの力で動く余力がなかった。むしろ、彼が熱意をもてば、もつほど、国警の係官らはその応接にいとまなく、益々自力の発展がむずかしくなる始末であった。ときの樺山警備部長、金光通信課長は総司令部との打ち合わせに日夜をわかたず忙殺され、石田無線係長はCCS係官と同行して、彼等の矢継早な勧告に目を廻すほどの苦しさであったと言う。』 (『小野さんの生涯』, 1955, 故小野孝君記念刊行会, pp58-59 )

ここからはSeccombe氏の熱烈なる指導の下、日本全国で日々繰り返されたVHF/FM伝播実験のいくつかを、MOCがCCSに提出した実験報告書から引用して紹介する(Seccombe氏の実験は年間を通じて連日繰り返されたので以下はその一例である)。

JZ9A-C は中短波帯なのでVHF/FMとしてはJZ9Dから始まる。先に述べたとおり1947年11月より整備と施設建設が始まり、12月より通信テストを行ったJZ9D, JZ9E, JZ9Fの3局に続いて、JZ9G-M の7局分の無線機の整備が終わり、神戸と徳島と九州方面に発送された。この実験には31.5MHzが使用された。

最初の実験は瀬戸内海の大阪―別府航路の関西汽船の全面協力のもとに行われた。そのコールサインはJZ9Iである。1月15日には「なち丸」、1月16日から1月28日は「むらさき丸」、1月29日からは「にしき丸」を使って、15から29日の間、神戸のJZ9G(六甲山)と通信テストを繰り返した。当初JZ9G(六甲局)は六甲山ケーブル山上駅(海抜680m)に設営されたが、1月21日より山頂付近(海抜930m)の六甲山無線中継事務所へ移設された。1月21, 22日には、JZ9G六甲山と大分県のJZ9H両子山(海抜721m地点)との通信に成功した。1月25から29日にはJZ9M徳島との実験を行った。80%程度の了解度が得られ実用上は問題ないことが確かめられた。

「むらさき丸」JZ9Iは明石海峡から西進し、JZ9Gの電波が小豆島の島影に入るエリアではJZ9M(徳島局)との通信テストが行われ、その結果は良好だった。JZ9Mは徳島県庁(海抜5m)の警察無線室に設営され、庁舎屋上に地上高30mのアンテナを建てた。

二つ目の実験は大分県国東半島にある両子山の海抜721m地点に設営されたJZ9Hを中心に展開された。1948年1月19から26日早朝6時まで関西汽船「むらさき丸」JZ9Iとの通信テストを行ったあと、27日と28日は関門海峡附近にいた門司海運局所属のパトロールボートJZ9Jとの実験に入った。

パトロール船「きりゅう丸」JZ9Jは1月19日に大分港で無線機の設置・調整を終え、1月22日0700-1100に停泊中の大分港から、両子山JZ9Hおよび松山沖にいた「むらさき丸」JZ9Iと通信確認テストを行ったあと、関門海峡を抜けて対馬海域へ向かった。

JZ9H(両子山)は1月27日12時30分から28日15時00分まで対馬海域「きりゅう丸」JZ9Jとの通信実験を行った。そして(28日13時30分から一旦、瀬戸内海航路の「にしき」丸JZ9Iとテストをはさみ)2月1日午前8時25分から対馬海域「きりゅう丸」JZ9Jとの最終通信実験を行った。

2月前半は両子山JZ9Hと関西汽船JZ9Iの集中テストだった。2月7, 8日、大阪→別府便「にしき丸」、同日折り返して別府→大阪便となり9日まで。11日には大阪→別府便「むらさき丸」に無線機を積替えて、2月12日までテストした。

さて対馬海域から戻ったパトロール船「きりゅう丸」JZ9Jは、2月10日に門司港で「かいりゅう丸」に無線機を積替え、船上のアンテナ高を変えながらその効果を測定した。そのあと無線機を「おたか丸」に移設し、2月18日に下関市六連島で、そして19日に博多港へ向かって20日に門司港に帰港した。翌2月21日には山口県の山陰海岸側の仙崎に移動するなど、各所で両子山JZ9Hとの通信実験データを収集した。

三番目の実験は鹿児島県姶良郡牟礼岡(むれがおか)にJZ9Kが、鹿児島県薩摩郡下甑村(しもこしきそん)青瀬にJZ9Lが設営された。上図左のとおりJZ9Lは九州島の西方の東シナ海にある甑島(こしきじま)列島の下甑島である。1月に機材が搬入され、1948年2月4日に両局間での通信テストが始まった。実験目的はロンビックアンテナのひし形角度と利得の比較実験、および両局ともにロンビックアンテナと垂直ダブレットを交互に交換しながらアンテナの性能比較試験を行うことだった。

鹿児島でのフィールド試験では、日本電気製のUTR-I型の性能評価も行った。

(1946年のUTR-II型, UTR-III型に)次いで翌年(1947年)UTR-I型およびUTR-IV型を同一方式で試作した。これを第4図に示す。性能並びに使用真空管は第2表を参照願いたい。このUTR-I型2組を使用し、鹿児島と甑島(こしきしま)間83kmの試験を行い、・・・(略)・・・弱電力で実用的結果を得た。』 (坪井貴志男, "超短波移動無線機", 『NEC 日本電気技報』第一号, 1948年10月, 日本電気株式会社, pp11)

上記でいう第2表(仕様表)によると、固定機UTR-IV型(呼出符号J9XFで申請し、JX9Sに変更のうえ許可)は終段807(2本)、高周波出力30-40W、電源AC100V-4A、サイズ240 x 380 x 460mmで、車載機UTR-I型(呼出符号J9XGで申請し、JX9Tに変更のうえ許可)は終段6V6(1本)、高周波出力1.5W、電源DC6V-13A、サイズ242 x 144 x 388mmである。

なぜ鹿児島県が実験場に選ばれたかは私には分からないが、対馬海域JZ9Jといい、次に述べる北海道稚内エリアJZ9Q-Tといい、すべて新しい日本領土の国境地帯である。(鹿児島県奄美大島は琉球政府に組込まれたため、屋久島海域が日本国の最南端だった。)軍隊が解体された新生日本国では、国境警備という重要業務を国警が担うしかなかったからだろうか?

国家地方警察本部の警備部通信課長の金光氏が警察無線の近代化を説明した記事のなかで、VHF/FMの実験と並行してテレプリンター・ファクシミリ・ウォーキートーキーなどの技術研究の重要性に触れながら、以下のように記事を締めくくった。

『軍艦無き日本としては圏内治安確保の重責は一に警察に負わされていることを念頭に置きその神経中枢をより活発に、より迅速に、またより正確に活動せしめるよう、更に諸種の方策を講ぜねばならぬことを痛感している次第である。(二三・四・一)』(金光昭, 警察通信について, 『通信局月報』1948年4月, p20, 経済安定本部通信局)

  • 電気試験所大井観測所の受信協力(1948年3月)

1946年(昭和21年)よりVHF60MHz波の定点伝播観測を行っていたのが、電気試験所の犬吠分室J9ZK(送信)と埼玉県の大井観測所(受信)だった。その大井観測所が警察無線の31.5MHz波の伝播観測に協力することになった。【参考】犬吠J9ZKは1947年2月にJX9Kに指定変更

1948年3月13日正午より、大山(JZ9O, 700m高)、百草園(JZ9P, 100m高)、鹿野山(JZ9N, 300m高)、伊勢丹ビル(JZ9F, 40m高)の順番で各局30分間(4局合計で2時間)の試験送信を06:00, 12:00, 15:00, 18:00, 21:00, 24:00 の6回行った。これは毎週火木土の三回、3月末まで続けた。

『なお送信機ヴァルブの熱損を防止するため、1分間押切り、1分間休止を繰り返した。・・・(略)・・・百草園-大井、伊勢丹-大井等の見通し内の伝播に対しては中央値の日変化は認められないが、鹿野山-大井、大山-大井等の見通し外伝播に対しては、日没前後に多少電界の上昇がある。・・・(略)・・・なお次回実験に対しては都内伝播特性究明のため逓信省電気実験所芝橋分室で受信開始の準備を進めている。』 (松尾三郎/清水栄蔵, "31.5Mcの伝播試験", 『電波』 Vol.2 No.3, 1948.11, 修教社, pp88-91)

読売新聞がこの4実験局の試験について報じているので引用する。

『すでに約一ケ月にわたり神奈川県大山(JZ9O)、千葉県鹿野山(JZ9N)、府中百草園(JZ9P)、新宿伊勢丹(JZ9F)の四ケ所を基地に三一・五メガサイクルの波長で行った超短波試験の結果は極めて良好であり・・・(略)・・・この超短波無電は現在MPのジープに装備されている無電機と同一のもので、電波が直進性のため途中に山岳地帯があるとさえぎられるが短距離間の連絡には極めて便であり、中継所を設ければ長距離の連絡にも支障はない。なおこの超短波無電の利用はいまのところ国家地方警察だけに限られているが、ゆくゆくは警視庁をはじめ各自治体警察も警察自動車にこれを取付け、警察署から巡視中の警察自動車を直接指揮するためにも使用する。』 ("連絡は超短波で:試験も上々、国家地方警察に装備", 『読売新聞』, 1948.4.7, 朝p2)

  • 北海道(利尻島・礼文島)での実験 (1948年4 - 5月)

1948年4月から5月には、セット番号17-20番の4台が札幌警察管区本部での実地テストに使用された。コールサインは(関東エリアを示す)JZ9のまま使われた。アマチュア無線風に言えばJZ9Q/8, JZ9R/8, JZ9S/8, JZ9T/8 のような感じだ。

1948年4月14日から準備を始め5月13日まで、札幌警察管区の北部島嶼エリアにおいて北海道側との電波伝播実験が行われた。

北海道側は坂の下(JZ9Q)と、羽幌(JZ9S)に基地局が設営された。礼文島(JZ9R)では中央部東海岸の起登臼と南部の香深にて、利尻島では北北東の鴛泊と南南東の鬼脇に移設しながら通信実験と電界強度の測定を行った。

そのほか付帯テストとして、無線機に有線電話ラインを接続して、東京からの指令を無線で中継送受信するテストも実施した。

想定外だったのは5月5~8日の連日、10~13時の時間帯に東京エリアで通信実験中の電波が礼文島の香深(JZ9R)で受信されたことだった。それは時には羽幌(JZ9S)からの信号よりも東京の電波の方が強力で、強い混信妨害を受ける状況にさえなった。(まだ警察無線の実験局の段階に過ぎないが)スポラディックE層によるVHF警察無線の通信障害の第一号事例ともいえるだろう。通例では突然の遠距離交信ができて楽しいのはアマチュア局ぐらいで、その他の無線局や放送局には "Eスポ" など百害あって一利なしだが、5月8日の午前、ついに東京(警視庁)-北海道(香深/羽幌)間で交信するに至った。

そして警視庁JZ9E→ (31.5MHz) →礼文島の香深JZ9R→ (30.5MHz) →北海道の羽幌JZ9S→ (31.5MHz) →警視庁JZ9E のルートで指令の無線中継を試みて成功した。これについては東京エリアの実験報告書の方にも記録が残っているので、次に紹介する。

  • 東京主要4街道での走行実験中に北海道の電波が混信 (1948年5月5 - 8日)

東京エリアでは市街地における伝搬特性を測定するために、東京都日野町の百草園(JZ9P)に50W実験局と、25Wの自動車移動局(JZ9J)を準備していた。1948年5月1日、まずJZ9E(警視庁), JZ9F(伊勢丹), JZ9P(百草園)の3固定局間で相互通信実験を行った。周波数は31.5MHzを使用した。

5月5日~8日はJZ9Jが主要4街道を走行し各所において、警視庁・伊勢丹・百草園の3局から送信される電波のS/Nを測定した。 なお5月5日の日光街道の測定は、その一部を5月7日の午後に廻された。

5月7日13時15分より、移動局からの電波を百草園JZ9Pで受信中に、北海道で実験中の羽幌JZ9Sと礼文島の香深JZ9Tの交信波が突然入感(Signal Strength 3)し始め、13時25分まで東京での実験が乱された。

5月8日9時頃より再び北海道の羽幌JZ9Sと礼文島の香深JZ9Tが入感し始め、ついに警視庁―北海道で通信が行われた。信号は羽幌(Signal Strength 2)より香深(Signal Strength 4)の方が強く東京に届いた。10時30分まで北海道の電波が百草園で受信できたので、午後も試したが入感しなかった。さらに翌5月9日の7時より15時まで、東京から香深JZ9Tを呼んでみたがついに応答はなかったと実験報告書には記されている。【参考】この国警の実験報告書に登場する "Signal Strength" の2, 3, 4 という数字がいかなる値を基準にしているかは不明

  • 六甲山レピーターと金剛山レピーターの比較検証実験 (1948年5月2 - 22日)

1948年5月2日から5月22日に掛けて、国警大阪警察管区の中継局(レピーター)の設置場所を選定する実験が行われた。以下の4台が大阪警察管区本部での実地テストに使用された。2月の実験に使用した、大分県両子山のJZ9Hが大阪管区本部へ、国警徳島県本部のJZ9Mが金剛山へ移設された。

ひとつは六甲山中継局JZ9G(50W)で、もう一つは金剛山中継局JZ9M(50W)である。通信は大阪警察管区本部JZ9H(50W)と、関西汽船(大阪―別府航路客船)の「すみれ丸」JZ9I(25W)との間で行われた。 大阪管区本部JZ9Hと「すみれ丸」JZ9Iは33.5MHzで送信し、六甲山中継局JZ9Gと金剛山中継局JZ9Mはそれを受信して、34.5Mcで送り返す。

大分県国東半島の付け根にある別府港を出航した「すみれ丸」は愛媛県高浜沖あたりまで来たところで、金剛山中継局の電波が確認できた。また六甲山中継局を使った大阪管区本部との実用的な最大通話距離はおよそ250km(香川県高松沖)だった。両中継局ともに小豆島の島影では感度低下が観測された。

金剛山中継局は機材トラブルで満足いく実験を完了させることができなかったが、六甲山中継局と大差ない通信が可能と判断された。国警の各管区本部間の通信はこれまでどおり短波帯で連絡し、管轄する管区内の府県間通信だけを30MHz帯で行うことが企図されたが、大阪警察管区は近畿地方だけでなく北陸や岐阜・愛知までの広域(図中黄色の府県)であるため、最終的には金剛山の方が有力視されることになった。

  • 電気試験所芝橋分室(JZ9U)における電界強度測定 (1948年6月1 - 6日)

1948年6月1日(午前10時)から6月6日(午前10時)まで、東京・千葉・神奈川の各所(下表)から30分毎に送信し、それを東京都港区芝橋にあった逓信省電気試験所芝橋分室(第21装置, JZ9U, 50W)と電気試験所大井観測所の2地点で電界強度の測定を行った(芝橋は通信も)。各局の使用空中線はモトローラー無線機に付属していた半波長の同軸型スリーブアンテナを使った。

逓信省MOCがCCSへ提出した実験結果報告書には、はっきりとJZ9EはMPB(Metropolitan Police Board:警視庁)だと記載されている。なぜJZ9Eは国警都本部ではなく、自警として再発足したばかりの警視庁(23区が運営)だったのだろうか。

旧警察法(昭和22年法律第196号)は1947年12月17日に公布され、各市町村で順次自治警察が組織されていった。これまでVHF帯の警察無線創設をCCSと協議してきたのは、1947年12月31日に解体された内務省や、自警になる前の警視庁だったことから、警察組織が自警と国警に分割された後も、(自警の)警視庁は、国警のVHF無線システムに全面的に協力し続けたのではないだろうか。

また警視庁では1935年(昭和10年)8月10日より自動車無線(3475kHz, A1/A3)の正式運用を開始しており、移動体無線通信のノウハウだけでなく、これまで蓄積してきた無線技術全般についても、新設の国警東京都本部側にはほとんど移管されなかったのかもしれない。

JZ9Fが置かれた新宿伊勢丹ビルとは新宿三丁目の伊勢丹百貨店だと思われる。またJZ9Pは多摩丘陵の一角にある現在の京王百草園(もぐさえん, 東京都日野市)に置局した。これらは5月の実験で設営したものである。神奈川県大山と、千葉県の鹿野山は、東京警察管区本部のレピーター設置場所をどちらにするか決め兼ねており、その比較が目的だった。

この実験期間中の6月2日(午後10時)より3日(午前4時)の間、伊勢丹・大山・鹿野山のルートで電界強度レベルが変動する異常現象が観測された。送受間距離に比例して変動量が大きくなったと報告されている。

周波数31.5MHzが使用されたが、芝橋では33.5MHzへの妨害の影響も合わせて測定された。

  • 大阪警察管区本部の府県本部間の連絡通信実験 (1948年6月)

1948年6月いっぱい掛けて大阪警察管区本部では管下の各府県本部間の連絡通信をテストした。そもそも1947年5月17日に6大都市の警ら自動車用無線を想定して計画されたVHF/FM無線システムだったが、Seccombe氏はそれを拡張する方針だった。

これまで管下の各府県警察本部間は、有線電話連絡または短波帯電報通信で相互連絡を行ってきたが、肝心の災害発生時には相変わらず有線通信は合わせて途絶するし、短波帯の電報通信は効率や電波状態に依存する部分があり、使い勝手が良くなかったからだ。

ただし大阪警察管区は広範であり、単一無線システムで全域をカバーするのは無理との判断で岐阜および北陸エリアは分離された。愛知は準備が間に合わなかったのか(?)今回は見送られた。六甲山のJZ9Gは兵庫県庁に移設された。各府県本部は送信33.5MHz、受信34.5MHzで、金剛山はその逆とした。すなわち各府県本部間では通信できず、すべて金剛山との通信である。実験当初は金剛山から34.5MHzで送信されていたが、6月17日からは31.5MHzで送信するようにし(各府県本部の受信周波数も31.5MHzに変更し)比較された。これらは全て出力50Wの固定局で各府県庁と金剛山間の通信が問題ないことを確認した。

また6月22日には付帯実験として琵琶湖上の弁天丸(JZ9I, Tx33.5MHz/Rx31.5MHz, 25W)で北上しながらテストした。琵琶湖南端の大津を出て、朝10時から滋賀県本部(JZ9T, Tx31.5MHz/Rx33.5MHz, 50W)との通信テストを開始した。10時50分から11時29分には送受共31.5MHzに変更した。13時55分に琵琶湖北部の竹生島に到着したので一端閉局、15時00分に帰路に就いた。滋賀県本部(JZ9T)・京都府本部(JZ9Q)・金剛山(JZ9M)と交信した。大阪府本部(JZ9H)はよく聞こえていたが、交信は出来なかった。

【注】P.O. : Prefectural Office=県庁

  • 氷川丸との大山・鹿野山などとの通信実験 (1948年6月29日)

1948年6月29日午前、第10装置JZ9Jを設置した氷川丸が大阪を目指し横浜を出港し、東京湾から相模湾へ進みながら、JZ9E(警視庁)、JZ9F(伊勢丹ビル)、JZ9N(鹿野山)、JZ9O(大山)、JZ9P(百草園)の各局と通信を試みた(このテストには港区芝橋のJZ9Uは参加していない)。5月1-8日の東京4街道テストで自動車に搭載されていたJZ9Jが、今回は氷川丸へ移設されたのである。 この実験の目的は東京警察管区本部(国警)のレピーターを、神奈川県の大山と千葉県の鹿野山の比較検討を行うためだった。しかし中継システムとしての実験は行わず31.5MHz単波の通信テストだった。

一番初めに通信ができなくなったのはJZ9F(伊勢丹ビル)で13時半頃に伊豆大島付近で途絶えた。JZ9O(大山)とJZ9N(鹿野山)とは16時過ぎに伊豆半島の先端沖を少し超えたあたりまで通信が可能だった。最後まで確認できたのはJZ9O(大山)の方だった。

またJZ9P(百草園)も16時前の伊豆半島の先端沖まで通信できて、山地ではないが丘陵地の百草園が電波伝播上では良好な地点であることが改めて確認された。

  • 氷川丸と大阪管区本の各府県本部との通信実験 (1948年7月6日)

横浜を出港した氷川丸は大阪港に入港した。1948年7月3日に機材の調整を行い、7月6日の午前9時から通信テストを行いつつ、午前11時前に再び横浜へ向けて大阪を出港した。氷川丸(JZ9J)は神戸沖を明石方面へ進んだあと、12時すぎより淡路島に沿うように南進し、14時より紀伊半島に沿って東へ進みながら深夜まで大阪管区の各府県本部局との通信実験が実施した。この実験には6月中に事前テストを済ませた大阪(JZ9H)・京都(JZ9Q)・滋賀(JZ9T)・兵庫(JZ9G)・奈良(JZ9S)・和歌山(JZ9R)・三重(JZ9D)の全局が参加した。 見やすいように地図を2枚に分けたが上図が氷川丸の航路と時刻である。滋賀(JZ9T)と京都(JZ9Q)は明石海峡の手前まで、兵庫(JZ9G)と大阪(JZ9H)は紀伊半島の西端沖まで通信できた。地形の関係か成績が振るわなかったのが和歌山(JZ9R)で氷川丸が大阪湾を航行中は通信可能だったが、自分の真西あたりより南の水域では急激に悪化した。予想外の成績を出したのが三重(JZ9D)で山岳回折によるのか、ほぼ奈良(JZ9S)と同等の範囲で大阪湾内の氷川丸と交信できただけでなく、22時過ぎから24時前に掛けて太平洋を東進する氷川丸との通信にも成功した。

各府県本部の周波数は送信33.5MHz、受信31.5MHzなので、府県本部間では通信できない。氷川丸の周波数は金剛山と同じ送信31.5MHz、受信33.5MHzで、各府県本部は氷川丸または金剛山と通信する。いうまでもないが氷川丸と金剛山間は同一周波数なので通信できない。

氷川丸は横浜めざして東へ進んだ。7月7日の午前3時40分から午後1時30分まで東京方面の各局と再び通信実験を実施した。これは6月29日に横浜港を出港する際の実験の追試 となったが、6月29日とほぼ同じ結果が確認できた。

  • 国家地方警察の誕生による新通信網

1948年7月20日、逓信省MOCは"Alteration of Frequencies For Police Radio"(逓信省LS第375号)にて、国警の新しい短波帯通信網をCCSに申請した。

内務省時代の地方総監府を基にした旧通信網では、四国地方総監府(香川)と東海北陸地方総監府(愛知)のプライマリー局があったが、6管区本部に整理統合されたためだ。四国エリアは広島警察管区本部へ、東海北陸エリアは大阪警察管区本部へ吸収統合されたためだ(静岡は東京警察管区本部へ)。

  • 警察無線の実験を全国展開

1948年7月28日、逓信省MOCは警察無線の実験を全国に拡大するために、"Applications for Additional sets for Experimental Police Radio Service"(逓信省LS第382号)で40台の無線機の追加を願い出た。Set No.24-26(JZ9X-JZ9Z), Set No.27-52(JZ8A-JZ8Z), Set No.53-63(JZ7A-JZ7Z)の借用で移動範囲は全国一円だった。この申請から想像するに、District Number の9は特に意味を持たず、9を使い切った後は8, 7,...と順に若い番号へさかのぼる計画だったようだ。JZシリーズの数字は地域を意味するものでなかった点には注意されたい。

【注】最後のSet No.53-63だと11Sets分なので、必要とするコールサインはJZ7A-JZ7Kのはずだが、とりあえず原文のまま転載した。

残念ながら逓信省の思惑通り、計40台の追加提供の内諾は得られなかったようで、1948年8月13日には"Change of Additional sets for Experimental Police Radio Service"(逓信省LS第393号)で、15台の追加として再申請した。Set No.24-26(JZ9X-JZ9Z), Set No.27-38(JZ8A-JZ8L)である。

1948年8月26日、CCSはこれを"Additional Radio Stations for Japanese Police Experimental Radio Service"(CCS/DR第150号)で承認した。

  • 1948年8月の白山(石川県)実験

1948年8月13日には "Addition to the Schedule of the Test of Experimental Police Radio Service"(逓信省LS第394号)で8月に実施する実験の追加スケジュールも申請された。周波数は30.5MHzから34.5MHzまでの5波だった。これには大阪警察管区本部に属する北陸エリアの実験も含まれた。

【注】P.O. : Prefectural Office=県庁

和歌山(JZ9R)と奈良(JZ9S)は8月5日で閉局し、富山と福井へ移設された。また兵庫のJZ9Gと琵琶湖の弁天丸のJZ9Iは、石川と白山へ移設された。

  • 1948年8月の警視庁とパトカー無線の通信実験

1948年8月19日の朝8時より24時まで、東京都千代田区霞が関にある警視庁と、無線機を搭載したパトロールカー間で通信実験を実施した。警視庁は50Wの固定局で、パトカーは25Wだった。

  • 1948年11月の金剛山(大阪府・奈良県)と卯辰山(石川県)実験

1948年10月27日、MOCは "Application for additional Frequency for Experimental Police Radio Service"(逓信省LS第461号)で、近畿地方での実験で新たな第6番目の実験用周波数(39.7MHz)の追加をCCSに願い出た。

近畿地方と北陸地方では1948年11月1日から30日まで、大規模な警察無線の実験が実施された。これらの実験通信系はそれぞれ金剛システム(Kongo System)と北陸システム(Hokuriku System)と呼ばれた。

【注】P.O. : Prefectural Office=県庁

1948年11月22日、CCSは"Additional Frequency for Experimental Police Radio Service"(CCS/DR 193)で第6番目の周波数39.7MHzを、JZ9D-Z, JZ8A-Lの全35局に対して追加承認した。

  • 「全国に応急無線を整備せよ!」 絶対至上命令SCAPIN第2000号発令

1949年5月4日、対日指令SCAPIN第2000号が発せられた。これが解任されたSeccombe氏の過酷な置土産となった。

内容を要約すると「国内全ての管区本部、および県本部の警察短波帯無線局を1949年6月末までに、また応急無線については8月末までに、それぞれ指定の設備を建設し、正規の通信士を配置して、要請された最小限度の必要条件を満たすべし。」というものだ。

『この覚書の起案者であるセコム氏は約二年間に亙って非常に熱心に警察無線の発展に努力し、特に超短波の実験の現地指導に積極的活躍をしたのであるが、あまりにも自分の仕事に熱中し、日本の国情や、関係者の気持ちを無視する行動が多かったので評判が悪く、二十四年五月八日に解職されて帰米した。彼はその最後の時期に、今まで自分の考えていた警察無線の改善方策を一方的に文書で指令して、一挙に片付けようとしたのである。小野さんをはじめ、警察の関係者はこの覚書を受けて、その処置に大変な苦労をした。』(小野さんの生涯, p93, 1955, 故小野孝君記念刊行会)

では日本の警察無線や電波関係者を震え上がらせたSCAPIN第2000号の何が問題だったのだろうか。

『この覚書の最も大きな問題は通信士の資格を国際無線条約の規定通りにすること、応急無線局を各都道府県に二個以上設けて、これに必要な二級通信士を配置することであった。』(小野さんの生涯, p93, 1955, 故小野孝君記念刊行会)

また電波タイムスの創業社長である阿川秀雄氏も次のように記されている。

『昭和二十四年五月、GHQは「SCAPIN(スキャップイン)二〇〇〇号」すなわち「日本無線局に対する覚書」なるものを日本政府に発した。これは「覚書」とあるが、実は至上命令に等しく、その内容を要約すると「すべての管区本部および県本部の無線局は一九四九年(昭和二十四年)六月末までに、また応急無線については同年八月末までに、それぞれ指定の設備と資格ある要員を配置して、要請された最低限度の必要条件を満たさなければならない」とあった。

「これは絶望的といってよいほど苛酷な命令でした」---その当時の無線課長・鈴木清高氏はこのように述懐している。とにかく終戦後わずか三年余というときに出されたこの "至難な絶対命令" を期間内に成し遂げるということは不可能に近いことであったが、この困難を見事に乗り越えることができたのは、小野さんとこれを補佐する優れた人材があったからだと私は信じて疑わない。』(阿川秀雄, 『私の電波史』, p163, 1976, 善本社)

5月4日に発令されたSCAPIN第2000号で、6月末までに短波帯による基幹系通信網を整備せよ。そして8月末までに各県内に短波帯によるEmergency Police Radio(応急無線)網を整備し、正規の資格を持った通信士と交代させよと命じた。内容はともかくあまりに整備完了まで日が少ない。まるでイジメのような指令だった。

それでも何とかなったのは、SCAPIN第2000号が出される半月前(4月16日)に、GHQとMOCが三顧の礼で懇願し、逓信省を退官して民間の安立電気専務だった小野孝氏(網島電波局長の戦前の元上司)を、国警に呼び戻しており、この小野氏の手腕によるものだ。さらにJA/JB Callsigns のページで紹介した、渡辺正一郎氏が鉄道無線を立ち上げる際に協力した逓信省の若手エースの鈴木清高氏を国警の通信課長に据えたことにも依るだろう。

小野孝氏は6月15日に中野に警察通信学校を開学し技術者の再教育を開始するなど、精力的に次から次へとGHQや第八軍を相手に困難な交渉をこなし、また新たな施策を繰り出し、それがどんな苦難であっても成功に結び付けた。

小野孝氏は「警察無線の父」であり、我国の「移動体無線の父」ともいわれている。

  • 短波帯の基幹通信網の整備

1949年中には全国放送通信系(東京管区本部と各管本部を結ぶ6局)、管区内通信系(各管区本部とその管轄下の府県・方面本部を結ぶ44局)、応急通信系(府県・方面本部とその管轄下の警察署を結ぶ可搬式200局)、の他に離島通信系8局の計258局が整備された。これにより配備された送信機は2kW,10台、500W,16台、100W,162台、50W,216台の計404台、従事する通信士は約1,300名という大規模通信網として発展した。

  • 短波帯の県内応急無線網(Emergency Police Radio)の整備

30MHz帯FMの導入に最も精力的に活動したSeccombe氏が、なぜ短波帯による県内無線網の整備を命じたのだろうか。

Seccombe氏の警察無線の導入プランでは、管区本部内の県本部間を結ぶ無線としてVHF/FMを位置付けていた。

しかし広大な平地が広がるアメリカならともかく、我が国では直線距離は近くても、その間に大きな山脈や高い山々があって、VHFによる県間通信は困難を極めた。大阪管区の北陸方面と近畿方面をVHFで結ぶためにはどうしても富山県の白山に中継局を置き、大阪の金剛山の中継局と結びたかった。Seccombe氏はどんどんエスカレートし、白山にレピーターを置くために、風車発電や水力発電施設の研究開発までを、学術研究会議に命じるほどの異常な加熱ぶりだった。

つまりSeccombe氏は県本部間の中距離通信をVHF/FMに置き換え、県内の各警察署間の短距離通信は安価な短波帯で済まそうとしていた。何分まだ警ら自動車(パトカー)などほとんど無い時代だから、日本国の経済事情から考えても当然といえば当然かも知れない。

1949年当時はEmergency Police Radio(短波帯)を搭載した警備用ジープの前後に、長いポールを立てて逆L型アンテナを張って移動体通信を試みていた。このスタイルは昭和30年ごろになって、消防無線を(高価な30MHz帯FMではなく)安価な2MHz帯AM機で全国普及を目指した際にも採用された。なお消防用のトラックの方が車両が長く短波帯には有利だった。

この導入計画をひっくり返したのが、Sccombe氏と入れ替わるようなタイミングで国警に着任した小野孝氏である。小野氏は戦争でズタズタになっている有線網も(電気通信省改め電電公社に移管したので)やがて整備されるだろうから、管区内の県間通信は有線に任せておけば良いと考えた。それよりも県内の地区警察署間や、「警ら自動車」(パトカー)と県本部との移動体通信にこそVHF/FMは威力を発揮するはずだと予想した。

小野氏は総司令部幕僚公安係のモンロー氏を富山県の白山に案内して、Seccombe氏のレピーター設置計画がいかに無謀なものかを説明し納得させ、そして中止させることに成功した。こうして小野氏による各県内通信網としてのVHF/FM計画が再スタートした。

その決断の時期は正確にはわからないが、小野氏が着任した1949年春から徐々にそういう想いになり、1950年春の概算予算要求案をまとめる時点では、全国にVHFパトカー無線を導入する予算が算定されている。つまり1949年の終盤にわが国のパトカー無線全国配備の方針が、小野氏により決断されたのだろう。