熊本水遺産の一つであ味生池(灌漑池)は,和銅6年(713年)に初代肥後国司になった道君首名(みちのきみのおびとな)によって構築された.900年後,加藤清正の熊本城構築に伴う大規模河川改修で味生池は消失したが,農業の振興に大きな役割を果たした(関連ブログ).加藤清正による河川改修は,城下を流れる白川,坪井川,井芹川の流路を変更して氾濫を防止するためと城の内堀を造るためであった.大改修前の自然が造った河川は如何なるものであったかを知るために,古地図を熊本県立図書館等で調べてみたが,改修前の地図は見い出せなかった.
国土交通省 九州地方整備局のホームページに「熊本城築城に伴う白川、坪井川改修」という記事があるので以下に紹介した.
それによると,
1588年(天正16年),肥後に入国した清正は,茶臼山南麓(現在の熊本第一高校付近)にあった隈本城(古城)を,東方へ城の中心を移し、茶臼山一帯を城塞化した.また,城下町の整備拡張のため白川坪井川の流路改修を計画した.しかし当時の白川は,現在の代継橋から長六橋にかけて大きく北側へ蛇行し,そこへ東から坪井川が合流していた.また熊本城の西側を流れる井芹川は、二本木(現在の熊本駅南側)付近で白川に合流しており,流路が入り乱れており氾濫が起きやすい状況であった.そこでまず,現在の代継橋から長六橋にかけての蛇行部分の河道を締め切り,蛇行の始点から終点を掘りきってつなげ,流路を直線化することで,白川右岸にあらたな土地を広げつつ,城の外堀としての防御機能を持たせた.
熊府之図(江戸時代)
白川は,現在の地図では,代継橋辺りから北上し,市役所近くで坪井川と合流し,下流では船場町下流の屈曲点から長六橋付近で白川に至る流路を形成していたということになる.イメージを膨らまして想像してみてほしい.
また,白川と切り離された坪井川は,城の内堀として茶臼山の裾を西へ流下させ,下流で井芹川へ合流させた.その井芹川は下流の二本木付近で白川と合流していたものを石塘(背割堤)を築いて分離させ,新たな坪井川として河口の高橋(現在の百貫港)まで一本の川につなげた.井芹川との合流で水勢を増した新しい坪井川は,白川からの分離により阿蘇山からの火山灰土が流下堆積しなくなったことで水深が確保され,城下町の舟運路として大正時代まで重要な役割を果たした.清正はこのように,まず川を治めながら川のもつ恵みや機能を巧みに利用することで城下の整備を成し遂げ,現在にまで至る熊本城下の発展の礎を築いた.
前に紹介した「隈府之図」は上の説明に合致しているが,「隈府之図」では坪井側が城の堀に変わる点(坪井橋の少し上流付近)で分岐して,現在の地図では藤園中学校の裏を「我輩通り」に沿って西側にも堀が延びていることが分かる.その跡は現在は暗渠として存在している.以下のストリートビューは暗渠に架けられている橋のひとつである.坪井橋から西へ400m程度の地点である.熊本城と京町台を結ぶ磐根橋の手前である.
磐根橋について
磐根橋は,熊本城の北の県道1号線(「吾が輩通り」,漱石が熊本にいた頃は「通り」は存在しなかった)の上を通っている道路橋で,大正期に造られた幅広いRCアーチ橋である.
橋が架けられる前は,熊本城(茶臼山)と京町台地は地続きであった.江戸時代初期に,初代藩主細川忠利が肥後入国後,防衛上の目的から幕府の許可を得て両地区の間に掘が構築された.その際,お城と京町台地を結ぶ細い道(豊前街道)を残し,空堀(推定幅32m、深さ20m)とした.以後,新堀と呼ばれるようになったと言われている.明治44年に,軽便鉄道の開通に伴い,堀の間に残された部分にトンネルが造られ,さらに,大正12年,人も歩けるように堀全体が掘り下げられた.その際にお城と京町の間に磐根橋が架けられた.以後,昭和45(1970)年まで上熊本ー藤崎宮間には市電(坪井線)が走っていた.
市庁舎移転候補地について
現在,熊本市は市役所の移転&建て替えを計画中である.その理由は,耐震性能や防災拠点としての機能,執務スペースの狭あい化など,さまざまな課題を解決するためという.
耐震性能
現行の建築基準法が求める耐震性能を有していない
耐震補強工事は実施困難である
平成28年熊本地震で耐震性能が不足していることが判明した
防災拠点としての機能
主要な電気・機械設備が地下に配置されており、水害時に防災拠点としての機能を果たせないリスクがある
耐震性不足に加えて,「水害時に防災拠点としての機能」にも問題があるとのことである.現在地は白川の川底より3.3m低いという問題を有しているが,移転予定先のNTT桜町ビル跡地周辺も同様であり,浸水の危険性が解消することはないと思われる.
注)2020および2021年のブログで白川が「天井川化」している状況について紹介した.
熊本市統合型ハザードマップ(洪水・高潮・地震・津波・液状化) 2021年
天井川の実態(熊本,白川大水害,阿蘇,要因)2020年
加藤清正は阿蘇山からの火山灰土の流下堆積を避ける工夫をしたため,坪井川の水深が確保され城下町の船運路として大正時代まで使用された.
先人の知恵に習って,天井川の解消が先決ではないだろうか.
参考資料
池辺寺関連遺跡(国指定史跡, 池上, 百塚, 味生池) 関連ブログ
肥後の国司 道君首名(良吏, 713年, 続日本紀) 関連ブログ
(2025.1.20)