肥後の国司 首名

みちのきみのおぶとな


熊本の歴史を調べていくと,飛鳥時代の末に道君首名(みちのきみのおぶとな,663-718,又は道首名)という国司(律令制下,中央から派遣された官吏)の存在を知ることとなる.肥後熊本藩初代藩主の加藤清正(1562-1611)より900年位前に筑後・肥後を治めた名国司である.道君首名は,肥後を治めた人物として記録に残っている最も古い国司である.続日本紀にその記載があるとのことで,国立国会図書館デジタルコレクション元史料を調べてみた.

「道首名」で検索すると以下の7冊の書籍がヒットした.検索結果を以下に示す.各書籍の「目次:道首名→」 をクリックすると表示ページへ移動する.

最初の書籍は加能越氏族伝であり,道首名に関する各種の史料をもとに,時系列に詳細に解析ている.

前賢故実道首名に関する続日本紀の内容と人物画を掲載.残りは戦前の修身教育用の資料である.

オリジナルデータが記録されている「続日本紀」自体はヒットしないので,「続日本紀」で検索する必要がある.古史料をスキャナーで読み込み,画像としてデータベース化されているので,予備知識をもとに,目次(天皇の治世)から記載箇所を探した.


続日本紀 40巻 【全号まとめ】 古典籍資料(貴重書等)/その他 藤原継縄[他] (明暦3 [1657])

 続日本紀40巻の目次(続日本紀目録)では, 元正天皇の巻第八に「起養老2年正月盡5年12月 」とあり.該当頁を探した.左側メニューの目次・巻号を開き[4][57](7-8合本の巻4は57頁の意味)を選択すると7-8合本へ飛ぶ,「道首名」は,57頁中の3-4頁コマ番号では22‐23)に記載されている.


必要な頁だけをダウンロードすることはできないので,七,八巻合本(25.3MB程度)をダウンロードした.

画像データのテキスト化(OCR,光学文字認識)を行うために紙の変色を修正(彩度を下げ,輝度,コントラストを上げる)した結果は以下の通り.テキスト化するためにGoogleドキュメントで変換を試みたが,画数が多い古い字体のため十分な結果は得られなかった.

以下は明治時代に出版された書籍(国史大系の中の続日本紀)の画像データである.「句点」,「返り点」や「送りがな」を付加した「訓読文」になっている.

タイトル 国史大系. 第2巻 続日本紀. 著者 経済雑誌社編 出版者 経済雑誌社 出版年月日 1897-1901

国史大系. 第2巻 続日本紀 元正(ゲンシヤウ)天皇 第四十四代 ・巻第八 起養老二年正月、尽五年十二月/109 リンク



道首名についての記載は赤丸で挟まれた部分.

後者を参考に画像文字をテキスト化した結果を以下に示す.

酉辰.筑後守正五位下道君首名卒。首名少治律令。暁習吏職。和銅末。出為筑後守。兼治肥後国。勧人生業。為制修教(為制条)耕営。頃畝樹菓菜。下及鶏肫。皆有章程。典(曲)尽事宜。既而時案行。如有不遵教者。随加勘当。始者老少竊()怨罵之。及収其実。莫不悦服。一両年間。国中化之。又興築陂池。以広漑灌。肥後味生池。及筑後往往陂池皆是也。由是。人蒙其利。于今温給。皆首名之力焉。故言吏事者。咸以為称首。及卒百姓祠之。

(養老二年),筑後守道首名逝去,若い時律令を治め,吏職に詳しく,和銅の末,筑後守となり肥後国も治めた.人になりわいを励むよう勧めた.そのため,手順を制定し,耕させた.畝に野菜や果樹を植え鶏豚を養うことに及び,皆細則があり,事宜を尽くしていた.後に,時々,自ら調査を実行.(既而時案行).教えに従わない者は,随意罰した.最初は恨んだり悪口を言うものがいたが,その実りが得られるとなると従わない者は居なくなり,喜んで皆従うようになった.1,2年で国中方針に従った.堤,溜池を造り灌漑を広めた.肥後の味生池(西区池上),および筑後のあちこちにある溜池(柳川の掘割)は皆彼の実績である.その利をこおむり,今給足しているのは皆彼の力である.吏事を言う者は皆彼を称えた.

彼が亡くなると,百姓は祠を立てこれを祀った(高橋東神社,水前寺,味噌天神).

前賢故実について

前賢故実. 巻第2 図書 菊池容斎 (武保) 著 (雲水無尽庵, 1868)

  • 目次: 道首名(続日本紀を基に記述)

漢詩

書き継がれていく過程で微妙に変化している部分が存在するようである.


為制修教耕営.頃畝樹菓菜→教督耕種至植菜果

既而時案行→時躬案行

咸以為称首が咸以称首名となっている.

詳細を知るには加能越氏族伝の脚注が参考になる.

道首名 天智2年ー養老2年(663-718)


略年譜

天智 2年 663年 誕生

664年 唐/新羅の侵略に備えて水城が築かれる(現在の福岡県太宰府市)

文武 4年 700年 大宝律令撰定に関与

大宝元年 701年 大宝律令制定 39歳 従五位下

         僧尼令を大安寺に説く

和銅 3年 710年 平城京 遷都

和銅 5年 712年 新羅大使

和銅 6年 713年 新羅より帰国

筑後守,肥後守を兼任 51歳

         灌漑用水,農業,畜産指導

味噌天神建立

霊亀 3年・養老元年 717年

養老 2年 718年 正五位下  56歳 逝去

偉功を偲んで墓や神社,碑が建立された

貞観2年 860年 位下 追

首名の孫(広持)の代に,褒賞された(続日本後紀巻第四)

年甲斐もなく漢文に挑戦し,道首名の功績(略年譜)を調べてみたが,関連資料が複雑なため,理系人間の後期高齢者には簡単ではない.現代文に変換するサイトを探してみたが見当たらなかった.

なお,現在,「道君首名」等で検索した場合,ヒットするのは「道君首名」,「道首名」を取り扱った単行本などであり,古文書からの検索語の抽出は行われていない.原文に注釈や訓読記号が付加された画像からのOCRによる全文テキストデータ化は最新AI技術を駆使して現在進行中とのことである.

追記 Googleブックスでは書籍によっては画像データからの検索が可能であり,記載されている箇所を探すことができるとのことである.目下,調査中.

追記

道首名の政績については,郷土史家の鈴木喬氏が熊本県観光サイトに書かれているので,そちらをみてほしい.肥後の名国司 | 【公式】熊本県観光サイト

2021.8.3

参考資料

GoogleドキュメントによるOCR処理結果

左 整形後の画像データ. 右 OCRによるテキスト

道君首名、位、追大宮、文武の朝、律令を撰ぶに與り、大袋の初、敷を奉じて、仰尼令を大安寺に 説3、和銅中、進みて従五位下に放せられ、遣新羅大使となり、臨めて筑後守となり、養老二年、正 五位下に逃みて卒す。年五十六首名、少くして命を治め、史職に晚習せり。其の筑後守さな るや、肥後の事を掘し、生薬を勘助し、耕神を敬督し、栄果を植名、熱豚を養女に至るさで、曲に事 宜を益し、時に自ら接行して、教に遊はざるものあれば、瓶ち之を証貴せしかば、老少、親に之を怨 みったれども、収入に及び、服せざるはなかりき。又吸池を興築し、以て淡峡を描くせり。肥後 の味生池及び筑後所在の吸池は、皆是なり。人共の利を家り、今に至る文で、給足せり。故に、定事 を言ムもの、成以て稱首となせり。卒するに及びて、百姓、之を祠る貞観中、留して、共の 政敵を追褒し、從四位下を貼る