天井川の実態

熊本白川大水害を振り返って

2020年7月4日熊本県南地域,次いで6日北部九州の広い範囲が猛烈な雨に見舞われ,氾濫し,浸水被害や橋の流失などが相次いでいる.

被害を受けられた皆様方へ謹んでお見舞いを申し上げますとともに,一日も早い復旧をお祈りいたします.

7月11日,ここしばらく雨がやみそうにない,明日は我が身の状況です.

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これより1週間程前の6月27日4時半過ぎ,熊本市でも避難準備・高齢者等避難開始が発令されるほどの大雨が降った.午後3時過ぎに,熊本市内を車で走行中にフロントガラス越しに前方が見えない程の豪雨に見舞われた.目的地の西区島崎に到着すると,避難準備・高齢者等避難開始の指示が出ていると聞いてびっくりした.

避難準備のメールを見て思い出したのが,昭和28年 (1953) の熊本白川大水害と平成24年 (2012)の「経験したことがない大雨」 である.同時に心のどこかで「阿蘇山に雨が降らないでほしい」と願っていた.注)この日の雨量は105ミリ.

昭和286月洪水

昭和28年8月26日の熊本大水害については,平成24 (2012)年の「経験したことがない大雨」(白川沿川に越水被害)の中で,半世紀以上前の経験として簡単に紹介した.しかし,時間が経つと当時は見えなかったものが見えてきたこともあり,記憶に留めるため断片的な知見を整理してみた.

昭和28年の熊本大水害は「白川大水害」とも呼ばれている.そのわけは阿蘇カルデラに源を発する白川の氾濫によるものであるからである.

Googleの広域地図

白川大水害の二か月前(4月27日)に阿蘇中岳が大規模な噴火をしたことが下流域の被害を拡大させた.噴火に伴う大量の火山灰が,戦争中の山林伐採で荒廃し,保水力低下した山野に堆積していた.そこへ猛烈な豪雨が降り注いだため,白川の水は大量の火山灰や「ヨナ」を含む土石流となって,黒川との合流点より勾配峡谷を一挙に駆け下り下流の熊本市内に流入した.なお,1953年6月26日の降水量は熊本411.9mm,阿蘇432.3mmであった.

注)1953年(昭和28年)4月27日11時31分頃阿蘇山の中岳第一火口噴火し,巨大な噴石(大きいものは人身大)が火口周辺に飛散した. 兵庫県から修学旅行で阿蘇山を訪れていた高校生など多数の観光客が巻き込まれ6人が死亡約90人が負傷した

熊本市内の白川天井川のため,市役所庁舎をはじめ中心部は白川の水面よりも低く,被害を増幅させる結果となった.白川がどの程度天井川なのかを示した図が白川水系河川整備計画(平成14年7月)に掲載されているので,引用させてもらった.

昭和28年の水害の水位は,鶴屋デパート1.0メートル,下通り町アーケード1.5‐2.2メートル,熊本市庁舎3.36メートルと記載されている.図中の標高を参考に天井川の実態を理解してほしい.建物の名称の新旧対応は以下の通り:熊本パルコ(2020年2月29日閉館 )は半世紀前の新世界映画劇場跡地,県福祉会館は現在の南千反畑町の県総合福祉センター(白川公園).NTT九州病院(現熊本整形外科病院),熊本電報サービスセンター九品寺交差点(電停,バス停付近)である.

全市の約70%が浸水し中心部では平均水深が2.5 - 3.0メートルに達した.また市内17か所の白川の橋梁は長六橋大甲橋を除いて残らず流失した.熊本市内は噴火した阿蘇山の火山灰が混ざった大量の泥や「ヨナ」で埋まりその総量は600万トンおよんだ.

この大水害の半月後7月16日から17日にかけても集中豪雨があり,架けたばかりの仮橋の代継橋,明午橋白川橋泰平橋が再び流失したほか床上・床下浸水の被害が発生した

白川大水害による白川水系の被災状況 (折りたたみ文書)

死者、行方不明者 422 名

羅災者総数 388,848 名

流失及び全半壊戸数 9,102 戸

浸水家屋 31,145 戸

農地流失埋没 13,717ha

農地浸冠水 29,797ha

橋梁流失 85 橋(熊本市内 14 橋)

被害総額 241 億円(現在価値換算 1,700 億円)

出典:主な災害の概要:西日本大水害 - 国土交通省 九州地方整備局 (防災の取組みと過去の災害)


熊本県のホームページには以下のように記載されている

被害の概要

死者・行方不明者  563名

負傷者       557名

家屋全壊     1,005戸

家屋半壊   6,512戸

家屋流出   850戸

床上浸水   48,987戸

床下浸水   39,066戸

 

降り始めからの雨量                        

阿蘇山   750ミリ

熊本    617ミリ

出典:昭和28年6月26日水害 / 熊本県昭和28年6月26日水害)

昭和28年西日本水害 - Wikipedia 当日の地上実況天気図が掲載されている.


白川大水害については調査研究が進み対策(植林による保水力アップ,橋脚間隔の拡大)が講じられた結果,同程度の雨量では洪水を引き起こすことはない(例 昭和63年5月の降雨).しかし,時間降水量が極端に多い場合は対応できないことが平成24年7月の洪水で判明した.

ついでに

平成24年7月洪水(”経験したことない”表現適用第一号

平成24年 (2012)の7月12日の「経験したことがない大雨」については,このブログで紹介した.大雨直前(6月27日)に気象情報の改正で「経験したことがない」という表現を使うようになってから,最初の例となった.

アメダス 2012年7月12日 阿蘇乙姫

午前1時 15.5 mm

  2時 51.0

  3時 108.0

  4時 87.0

  5時 95.5

  6時 96.0

  7時 24.0

  8時 16.5

7月12日降水量  493.0 mm

熊本市はそれほど雨は降っていないのに,川の水位がしだいに上がり溢れる光景は不気味であった.市内では,小磧橋,竜神橋,明午橋で水が溢れ,明午橋右岸に位置する藤崎宮参道は川のようになったとのことである.新屋敷の我家の周囲の道路も水に浸かった.阿蘇のカルデラで降った大量の雨は,一部は伏流水になり熊本平野を潤してくれるが,ほとんどが立野の火口瀬を通ってカルデラの外へ流れ出し,白川を駆け下って有明海に達する.橋桁の幅を広くすることによって流木による河道閉塞に起因する洪水は起こらなくなったが,天井川問題は如何ともし難いため雨量が多いとその一部が堤防を超えてしまった典型的な例と言える.

平成24年7月自宅屋上から撮影した大井手にかかる橋(大江1丁目付近)の様子.

大井手は渡鹿堰から取水した水を流す農業用水路で渡鹿大江,新屋敷を流れて安巳橋.の下で再び白川に合流する全長2.6kmの水路である.


昭和28年白川大水害 我家の被害(折りたたみ文書)

当持,中学生だった私は高台(現西区島崎古庄公園近く,標高 37メートル)に住んでいた.停電でラジオが聞けなかったこともあり,大雨で市内のあちこちの河川が氾濫し市街地が水浸しになっているのを知らずに,坂道を下ってバス通りまで行ったところで愕然とした.道路と田圃の見分けがつかず中学校へ行くことができなくなっていた.そのような状況下,同じ町内に住んでいた西山中学校の加恵校長が腰まで水に浸かりながらぬれねずみになって朝帰りするのに出会った.徹夜した校長の話から中学校は壊滅的な状況であるのを知ることとなった.家の横の坂道をバス道路に向かって下った川沿いの家が流失しているのを知ったのはその後のことである.

当時,父は大江町居屋敷(現新屋敷)で薬局を営んでいたので,甚大な被害を被った.戦前は山崎町(電車通り)で開業していたが,7人の子供を育てるため,先祖代々住んでいた島崎に疎開した.戦後,再開局しようとしたが,借家人が居住権を主張して立ち退かないのでやむなく子飼橋近くに開局した.その子飼橋に上流から流れてきた大量の流木類が引っ掛かり,流れを堰き止めたため,子飼橋の大江町側の堤防が崩れ,川幅が2倍に拡がってしまった.67年経った現在もその状況(通常水が流れているのは川幅の半分)は変わっていない.洪水後の子飼橋付近の状況変化については追加資料(出典を含めて)を見てほしい.

子飼橋から600メートル程度しか離れていないところに開業した父の薬局は1.5メートル以上水に浸かった.父と3女の姉(勤務会社に近いため薬局から通っていた)は近所の産院の2階に避難し,難を逃れることができた.次の日,6キロメートル離れた家族のもとへ帰ってきた父は疲弊しきっていた.市内の主要道路が一応通行できるようになった夏休みに,大江町まで遥々歩いて後片付けの手伝いに行った際,流された橋,仮橋,水没したデパートの地下,街角に積まれた廃棄物の山に接し,子供心に復興が簡単ではないことを実感した.

水害は水の害と考えがちであるが,阿蘇山の火山灰を含んだ白川の水害は水+泥害である.薬局では薬効毎に引出しを用意して薬を分類するが,水が引いた引出しは膨張して開かず,開いても底には数センチの泥(火山灰)が溜まっていた.

当時の建材は耐水性が低かったため,建物の損害は甚大であった.試験室,調剤室等も造り直す必要があった.さらに,水に浸かった医薬品はメーカーが交換してくれたものもあったが,多くの医薬品を廃棄したため,新規開業に近い資金が必要だったようである.そのために所有していた先祖からの土地山林を手放さざるをえなくなった.

水害の様子は,写真なら一目瞭然である.昭和28年白川大水害の記録写真がないか調べたら,熊本県広報渉外課の企画・撮影による動画「県政ニユース特集 熊本県大水害記録」や熊本日日新聞ライブラリーの中に熊本大水害として記録されていることがわかった.

今回の避難準備の指示は幸い空振りに終わったが,決して過剰反応ではない.それにはそれなりの理由があることを分かってほしい.4年前の熊本地震によって歪んだ土地は,大量の雨でさらに軟弱になっているため,崖崩れ等が起こり易くなっている可能性がある.その上に,もし本格的に避難しなければならない事態になっていたとしたら,これまでと異なり,新型コロナ禍の避難は困難を極めたはずである.

今年は7月15日になっても梅雨が明ける気配がない.その間,線状降水帯に起因する豪雨に関する気象警報,注意報,避難準備・高齢者等避難開始,避難勧告,防災速報メールが数えきれないほど警報音入りでスマホに送られてきた.現在も進行中である.

今年のような梅雨は気象庁の職員をしてこれまでに経験したことがないと言わしめるほど異常であり,そのメカニズムの解明もこれからという段階である.梅雨前線を活気づけないためには地球温暖化を止める以外には手はないのではないだろうか.

追加資料 平成24(2012)年の「経験したことがない大雨」(白川沿川に越水被害)の中で引用した白川流域の概要 - 国土交通省 九州地方整備局 (PDF)に明午橋,子飼橋の被害状況を撮影した写真が掲載されている.

流失直前の明午橋の様子

洪水後の子飼橋付近の状況

流木により河道閉塞が起こり,濁流によりえぐりとられた大江町,左岸側の橋は保安隊によって架けられた仮橋(原文引用)

参考資料(引用順序とは異なり,順不同です)

県政ニユース特集 熊本県大水害記録 企画/撮影:熊本県広報渉外 ...

熊日写真ライブラリー 23の項目に分けられている.各項目は十数枚の写真で構成されていて,スライドショー形式でも見ることができる.

6・26白川大水害の記憶 - Wix.com  増水時の市街地の様子が詳細に記載されている.

大甲橋 - Wikipedia 水害時における堅固な橋の様子が記載されている.橋桁の間隔を広げる切っ掛けになった.

昭和28年6月26日 熊本河川国道事務所|国土交通省 九州地方 ...  白川大水害の簡単な説明.掲載されている写真の色調を変えてみた.

降雨記録に基づく九州地区における災害発生雨量の推定  土砂災害に関するシンポジウム資料(2002年8月).

昭和28年西日本水害 - 昭和28年西日本水害の概要 - Weblio辞書  広い範囲で水害を捉え,地域ごとに記述している.

白川水系河川整備計画(平成14年7月)

白川流域のあらまし 白川の全体的な地形,天井川の説明

熊本市街部の白川は、水位が地盤より高い”天井川” 国土交通省九州地方整備局立野ダム工事事務所「流域の特性と洪水被害 」

白川流域の概要 - 国土交通省 九州地方整備局 (PDF) 白川大水害後の子飼橋河岸の状況が説明されている.

昭和28年6月26日水害 / 熊本県 熊本市役所前の様子を写した写真が掲載されている.

(2020.7.11)

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