南八甲田・松森山 蔦温泉からの散策

青森県  804m  2013年6月16日

(2019年7月15日蔦温泉)

青森110山

391

蔦温泉の池のそばに大町桂月の歌碑と胸像。歌碑は複数あり、「終焉の地」碑や大きな文学碑もある。彼は土佐(高知県)の出身だと思うが、蔦温泉には大町桂月の面影がたっぷり。

温泉の右側にある遊歩道に入ると、紫や黄色の花(アヤメとキショウブ?)が美しい。

最初はひょうたん沼。松森山への案内はなく、長沼の先、月沼の手前にあるはずの分岐を目指す。長沼に着き、遊歩道から湖畔に降りてみる。

月沼まで0.1kmのところに松森山への分岐。それはブナ林の中の薄い笹ヤブの道。やがて、大きな岩に松が根を這わせているピークが現われ、その岩の上に「松森804m」の頂上標識があった。派手さはなく、簡素な頂上。

赤沼の東側まで回り込んだところで岸辺に出る。岸には倒木、湖の上に雲がかかっていて、水墨画のような幻想的な雰囲気。

踏跡は広い林の道となり、仙人橋との分岐を蔦トンネル方面に進む。思ったよりも長い距離を歩き、蔦トンネルの南側の先にある駐車場に出る。

大町桂月の墓に寄っていく。そこにも句碑があり、両脇に花が供えられていた。辞世の句、「極楽へ越ゆる峠の一休み 蔦の出湯に身をば清めて」というのは、まさに蔦温泉で死のうと思ってやってきたのであろう。合掌。もう18時で、薄暗い。

(2019年7月15日)

紫色のキキョウにスイレンの咲く池。温泉入口には赤いポストがあり、泊り客が記念撮影している。そして木造りの風呂の底から湯が湧いてくる温泉。ずいぶん久しぶりだ。風呂上りに大町桂月の展示室に寄っていく。写真で笑っているのは屈託のないやさしいおじさん。

「本名、芳衛。高知市出身・・・・・・東京帝国大学国文科在学中に帝国文学へ評論、美文、新体詩などを寄稿し文名を知られるようになった。代表作である『黄菊白菊』の刊行後、郷里の名勝、桂浜にちなんで桂月と号し筆名を高めた。十和田湖を訪れたのは明治41年(1908)8月下旬である・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・十和田湖、八甲田山はもとより下北、津軽まで足を運び、その取材にあたったが、大正14年(1925)、『十和田紀行』を未完成のまま蔦温泉で行年57歳の生涯を終えた。・・・・・・・宿近くのナラの古木の下に墓がある。ブナ原生林に覆われた山間の、いで湯の宿と幽寂な蔦七沼を愛し、終生、旅と酒を友とした。」(酸ヶ湯にある説明文)

 赤沼の東側まで回り込んだところで岸辺に出る。岸には倒木、湖の上に雲がかかっていて、水墨画のような幻想的な雰囲気。
 大町桂月歌碑2:沼で釣りをし、温泉で月見をした歌
 桂月、辞世の句
 「松森804m」の頂上標識。派手さはなく、簡素な頂上。
 スイレンの咲く池
 写真で笑っているのは屈託のないやさしいおじさん
 アヤメ
14:43 蔦温泉駐車場発14:54 温泉西側の遊歩道14:58 ひょうたん沼15:17 長沼15:25 赤沼入口16:27 松森山804m・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・登り1時間44分16:28 松森山発16:45 赤沼16:53 赤倉岳分岐17:23 トンネル登山口、R10317:47 遊歩道17:54 大町桂月の墓17:58 蔦温泉駐車場・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・周回3時間15分

MMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMMM

(2013年6月16日)

青森110山の本を銀行の待合所で見つけ、知らない山がたくさん含まれているのを知り、この本を手に入れようとしたが、成田本店では在庫なし、出版元の東奥日報にもないという。この日、県立図書館に探しに行き、だいぶ古くなったその本を見つける。(青森110山がネットに掲載中なのは、この後に知った)

県立図書館で借りた青森110山を助手席に置き、蔦温泉に出発。松森山に向かう。雪の無い雲谷、萱野高原、ロープウェイ。酸ヶ湯温泉の裏ゲレンデは斜めの残雪が残る緑の林になっている。冬は雪に埋まっている地獄湯ノ沢の入口の沼にも雪はなし。傘松峠は雲で、山は見えない。天気が悪い日に来ているから、これは仕方ない。

蔦温泉の駐車場に停めて歩き始める。池のそばに大町桂月の歌碑と胸像。歌碑は複数あり、「終焉の地」碑や大きな文学碑もある。彼は土佐(高知県)の出身だと思うが、十五年ぶりに訪れたときの歌、沼で釣りをし、温泉で月見をした歌、蔦温泉を紹介し、ほめたたえる文、雪の降る冬の情景の歌など。蔦温泉には大町桂月の面影がたっぷり。それから、温泉の右側にある遊歩道に入ると、紫や黄色の花(アヤメとキショウブ?)が美しいが、行き止まり。温泉に戻って温泉の左側にある遊歩道に進む。それは2003年に赤倉岳に登った時のルート。薬師堂のところに沼を巡る遊歩道の案内があり、最初はひょうたん沼。松森山への案内はなく、長沼の先、月沼の手前にあるはずの分岐を目指す。長沼に着き、遊歩道から湖畔に降りてみる。

月沼まで0.1kmのところに、「この先、赤沼までは山道で迷いやすいので注意してください」の表示があり、松森山への分岐に違いないので、その道に入る。それはブナ林の中の薄い笹ヤブの道で、あまり歩かれていないらしい。なかなか松森山に着かず、少しあせる。軽いアップダウンの道には残雪も出てくる。やがて、大きな岩に松が根を這わせているピークが現われ、その岩の上に「松森804m」の頂上標識があった。派手さはなく、簡素な頂上。

往路を引き返すかだが、まだ赤沼を見ていない。東に赤沼方面に向かい、そのまま蔦トンネルに出て、車道沿いに蔦温泉に帰ることにした。赤沼へのルートは踏跡もしっかりしており、歩く人も多いようだ。急坂を下ったところで、樹間に赤沼が見える。赤沼の東側まで回り込んだところで岸辺に出る。大きな湖の全景が見えるが、縦長の湖を縦位置で見ているので横幅は広くない。岸には倒木、湖の上に雲がかかっていて、奥に見えるはずの赤倉岳は見えないが、水墨画のような幻想的な雰囲気。蔦トンネル方面に向かうと、赤倉岳への分岐がある。ここは2002、2003年当時は通行禁止だった。この道の少し先に赤沼から出る沢の徒渉点がある。ここは2004年にスキーで登った時、雪に埋もれている沢を登ってきて、このあたりで対岸に登った覚えがある。踏跡は広い林の道となり、仙人橋との分岐を蔦トンネル方面に進む。蔦トンネルへの分岐表示はなく、余り歩かれていないようだ。思ったよりも長い距離を歩き、蔦トンネルの南側の先にある駐車場に出る。ここにも赤沼や松森山への案内はない。

車道を歩き、九十九折りの部分を下り、蔦温泉の入口の少し手前にあった遊歩道の入口に上がる。それは、蔦沼から長沼まで繋がっている遊歩道で、その入口は蔦温泉のビジターセンターのところだった。車に戻る前に、車道の東側にある大町桂月の墓に寄っていく。そこにも句碑があり、両脇に花が供えられていた。辞世の句、「極楽へ越ゆる峠の一休み 蔦の出湯に身をば清めて」というのは、まさに蔦温泉で死のうと思ってやってきたのであろう。合掌。もう18時で、薄暗い。


(2019年7月15日)

霧の初荷峠から十和田湖に下り、八甲田に向かって登っていくと蔦温泉は雨。10時まで待って温泉800円に入っていく。紫色のキキョウにスイレンの咲く池。温泉入口には赤いポストがあり、泊り客が記念撮影している。そして木造りの風呂の底から湯が湧いてくる温泉。ずいぶん久しぶりだ。風呂上りに大町桂月の展示室に寄っていく。写真で笑っているのは屈託のないやさしいおじさん。本を2,000円で売っているらしいが、店はまだ閉まっていた。傘松峠はガスと雨だったが、酸ヶ湯のあたりから晴間が見え、青森市内は快晴だった。

深緑ブナのR103

青森110山の本を銀行の待合所で見つけ、知らない山がたくさん含まれているのを知り、この本を手に入れようとしたが、成田本店では在庫なし、出版元の東奥日報にもないという。この日(6月16日)、県立図書館に探しに行き、だいぶ古くなったその本を見つける。(青森110山がネットに掲載中なのは、この後に知った)

県立図書館で借りた青森110山を助手席に置き、蔦温泉に出発。松森山に向かう。雪の無い雲谷、萱野高原、ロープウェイ。酸ヶ湯温泉の裏ゲレンデは斜めの残雪が残る緑の林になっている。冬は雪に埋まっている地獄湯ノ沢の入口の沼にも雪はなし。傘松峠は雲で、山は見えない。天気が悪い日に来ているから、これは仕方ない。

蔦温泉

蔦温泉の駐車場に停めて歩き始める。池のそばに大町桂月の歌碑と胸像。歌碑は複数あり、「終焉の地」碑や大きな文学碑もある。彼は土佐(高知県)の出身だと思うが、十五年ぶりに訪れたときの歌、沼で釣りをし、温泉で月見をした歌、蔦温泉を紹介し、ほめたたえる文、雪の降る冬の情景の歌など。蔦温泉には大町桂月の面影がたっぷり。それから、温泉の右側にある遊歩道に入ると、紫や黄色の花(ショウブ?カキツバタ)が美しいが、行き止まり。温泉に戻って温泉の左側にある遊歩道に進む。それは2003年に赤倉岳に登った時のルート。薬師堂のところに沼を巡る遊歩道の案内があり、最初はひょうたん沼。松森山への案内はなく、長沼の先、月沼の手前にあるはずの分岐を目指す。長沼に着き、遊歩道から湖畔に降りてみる。

大町桂月歌碑1

世の人の 命をからむ 蔦の山 湯のわく処 水清きところ

桂月が大正10年に十五年ぶりに蔦池を訪れたときに詠んだ一首。(出典:青森県の句碑・歌碑・詩碑・文学碑)

蔦温泉

大町桂月の胸像

「酒仙・鉄脚の旅人・大町桂月終焉の地」碑

大町桂月歌碑2

沼に舟うけ 姫鱒釣って 風呂で月見る 山の中

半年も蔦温泉に籠城しせるつれづれに甲子春日

(参考:青森県の句碑・歌碑・詩碑・文学碑)

大町桂月文学碑

蔦温泉の名はいまだ世に現れざるが、余の気に入りたる温泉也

十和田山中にあるが、なほ精しく云えば、石倉岳(南)の中腹に在り

一軒屋にて、本館には普通の旅館を迎え、別館には自炊湯治客を迎ふ

温泉の質は塩類温泉にして、浴場三つ、その一つは四間四方にて、本館に接す

三方開けて、浴しながら月を見るを得べし。その一つは一間に五間、三つに仕切りて温泉を異にす。その一つは、一間に二間、三條の湯滝を懸く

湯舟の気持ちよきこと天下に稀れ也

(参考:青森県の句碑・歌碑・詩碑・文学碑)

シャガ

アヤメ

キショウブ

大町桂月歌碑3

四方の木は みな冬枯れて ふる雪に 一もと青し 蔦の鉾杉

(参考:青森県の句碑・歌碑・詩碑・文学碑)

薬師堂

蔦野鳥の森案内図

長沼月沼鏡沼蔦沼菅沼瓢箪沼 蔦温泉大町桂月の墓

瓢箪沼の案内

長沼

赤沼への分岐

「この先、赤沼までは山道で迷いやすいので注意してください」

ブナの道

松森山頂上

月沼まで0.1kmのところに、「この先、赤沼までは山道で迷いやすいので注意してください」の表示があり、松森山への分岐に違いないので、その道に入る。それはブナ林の中の薄い笹ヤブの道で、あまり歩かれていないらしい。なかなか松森山に着かず、少しあせる。軽いアップダウンの道には残雪も出てくる。やがて、大きな岩に松が根を這わせているピークが現われ、その岩の上に「松森804m」の頂上標識があった。派手さはなく、簡素な頂上。

松森山頂上標識

赤沼

赤沼

往路を引き返すかだが、まだ赤沼を見ていない。東に赤沼方面に向かい、そのまま蔦トンネルに出て、車道沿いに蔦温泉に帰ることにした。赤沼へのルートは踏跡もしっかりしており、歩く人も多いようだ。急坂を下ったところで、樹間に赤沼が見える。赤沼の東側まで回り込んだところで岸辺に出る。大きな湖の全景が見えるが、縦長の湖を縦位置で見ているので横幅は広くない。岸には倒木、湖の上に雲がかかっていて、奥に見えるはずの赤倉岳は見えないが、水墨画のような幻想的な雰囲気。

仙人橋への道標

蔦トンネル方面に向かうと、赤倉岳への分岐がある。ここは2002、2003年当時は通行禁止だった。この道の少し先に赤沼から出る沢の徒渉点がある。ここは2004年にスキーで登った時、雪に埋もれている沢を登ってきて、このあたりで対岸に登った覚えがある。踏跡は広い林の道となり、仙人橋との分岐を蔦トンネル方面に進む。蔦トンネルへの分岐表示はなく、余り歩かれていないようだ。思ったよりも長い距離を歩き、蔦トンネルの南側の先にある駐車場に出る。ここにも赤沼や松森山への案内はない。

ブナの道

蔦トンネル登山口

ブナの遊歩道

大町桂月の墓

車道を歩き、九十九折りの部分を下り、蔦温泉の入口の少し手前にあった遊歩道の入口に上がる。それは、蔦沼から長沼まで繋がっている遊歩道で、その入口は蔦温泉のビジターセンターのところだった。車に戻る前に、車道の東側にある大町桂月の墓に寄っていく。そこにも句碑があり、両脇に花が供えられていた。辞世の句、「極楽へ越ゆる峠の一休み 蔦の出湯に身をば清めて」というのは、まさに蔦温泉で死のうと思ってやってきたのであろう。合掌。もう18時で、薄暗い。

大町桂月・辞世の句

極楽へ越(こ)ゆる峠の一休(ひとやす)み 蔦の出湯(いでゆ)に身をば清めて

(参考:青森県の句碑・歌碑・詩碑・文学碑)

(2019年7月15日)

 ハタザオキキョウ?

 

スイレン


睡蓮の池


蔦温泉


赤い郵便ポスト


桂月資料館

「本名、芳衛。高知市出身・・・・・・

東京帝国大学国文科在学中に「帝国文学」へ評論、美文、新体詩などを寄稿し文名を知られるようになった。代表作である『黄菊白菊』の刊行後、郷里の名勝、桂浜にちなんで桂月と号し筆名を高めた。十和田湖を訪れたのは明治41年(1908)8月下旬である・・・・・(続

大町桂月

(承前)・・・・・・・・・・・・

十和田湖、八甲田山はもとより下北、津軽まで足を運び、その取材にあたったが、大正14年(1925)、『十和田紀行』を未完成のまま蔦温泉で行年57歳の生涯を終えた。・・・・・・・宿近くのナラの古木の下に墓がある。ブナ原生林に覆われた山間の、いで湯の宿と幽寂な蔦七沼を愛し、終生、旅と酒を友とした。」(酸ヶ湯にある説明文)