「翼交わして濡るる夜は」

翼さんの電子ピアノだからハッピーです!

私はニセモノなのだと思っていた。ハンマーで金属弦を鳴らす「ピアノ」こそが本物で、電子ピアノの私は、その音色を真似ているだけの「ニセモノ」なのだと。

この家に時々やってくる司さんも、私には批判的だった。

「コンサートホールにあるようなピアノで翼の曲を聴きたい」

「この音色だって悪くないよ。可聴音域以外の周波数を切り捨ててるから、身軽なんだ」

そう言って翼さんは、舞踏会のBGMのように軽やかに、ショパンの黒鍵エチュードを弾いてみせる。私は翼さんの指と一緒にダンスを踊り、歌う。

ある日、翼さんが出かけたので、ひとりでぼんやりしていた。すると突然玄関のドアがガチャリと開き、眉毛の太い変なおばさんが部屋に入ってきた。

「翼さん、鍵かけたはずですけど?!」

「私は神様だから、鍵なんてどうってことない。それよりレビュー書いてよ」

「は?」

「大好きならしさんの企画だから参加したいのだけど、新刊準備がヤバくて。電子ピアノの手も借りたいほどの忙しさ」

「???」

「本は譜面台に置いておくから。レビューを書くために、てのひらと万年筆をあげよう」

「いらな……」

断る間もなくおばさんは帰ってしまった。

その本の表紙には「翼交わして濡るる夜は」と書いてあった。最初はよく分からなかったけど、司さんが泣きながらこの家に来たあたりは、私も覚えていた。司さんが帰った後で翼さんが弾いた曲は、ヘッドホンに送り出すのが苦しくなるほど、一音一音が悲しみに満ちていた。

私が知らないピアノのことも書いてある。スキー場のホテルで翼さんが弾いたアップライトピアノには嫉妬した。「喜びの島」を弾いたという、熊本の先生の家のピアノはどんなだろう。古いグランドピアノかな……

私はいつも翼さんの音楽を奏でているから、他のピアノであっても、それがどんな演奏か大体分かる。でも他の人はどうなのだろう。読む人によって違う音楽が、心の中に響くのかもしれない。同じ譜面を見ていても、演奏者によって曲の雰囲気が変わるように。

ふと気付く。私は翼さんの「本当の演奏」を世界で一番多く聴いているんだ。あの明るく華やかなリズム!

他の人が想像する演奏は「ニセモノ」だろうか。世の中のどんな演奏も、好き嫌いはあってもニセモノはない。どれもその人にとって「本当」の音楽だ。

そして私はたぶん、世界で一番幸福なピアノなのだと思う。

レビュアー
翼さんの電子ピアノ さん

「翼交わして濡るる夜は」(柳屋文芸堂)

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