とある実験のはなし
たまたま見かけた記事「マウス実験「UNIVERSE25」」というのがある。
「ムー」という半世紀生きた私が子供のころから目にする老舗の世界の不思議をネタにしているかなり怪しい雑誌の記事ですが、1968~1972年に行われた実験内容はこんな感じ。
>8匹のネズミにユートピア(衣食住に困らない環境)を与えるとどうなるか?
>結論としては、繁殖を続けて繁栄を極めた後に「絶滅する」
詳細はリンク先を見てもらえればと思うのですが、できすぎた環境は動物としての本能である繁殖能力を無力化させる。。ということでしょうかね。
この記事の中では、人は快適な環境を切り崩し都市を捨て、繁殖能力のある移民に人口維持を~というような内容で締めくくられていました。
まず、先進国でもしかり同様の兆しがあり、そして最もユートピアに近いといえる日本は本当に顕著に実感できる国。日本人が絶滅に至るかは別にしても、このユートピアがもたらす検証結果に近い状況が実際にあり、繁栄を極めた後の下降線の線路に乗っかっている国というのは間違いないでしょう。
個人的には、ユートピアがもたらす終焉のストーリーを加速させている一因がこのネット社会にあるんだろうなーと思うのです。
一昔前では、都会と地方での格差があって、「都会=楽しい、便利」であったので、都会に流れ込む人も多く、「都会に行かねばその恩恵を受けれない」というのが必然で、このリアルな行動やバイタリティーがまた新たな社会に活力を生み出していたように感じます。
ところがです。
物の調達はAmazonで、娯楽はスマホを台頭としたネットサービスが中心となってしまった今、地方で相応の満足を得られる環境ができてしまいました。そして日本は地方だろうが都心だろうがインフラの整備は世界一。日本のどこでも概ね生活に困るような地域はありません。人の幸せの基準がネットの中に埋没していくと、かつてあったような都心=ユートピア的な話が、日本全国どこでもユートピアになってしまった?個人的にはむしろ地方の方が自然環境もいいのだから、そっちを選択すべきではと考えて、どんどん奥地に引っ込んでいる人間です。
ネット環境に慣れ親しんでいない世代もあと20,30年すると総ネット民となり、子育て世代もネイティブネット民になるわけで、遅かれ早かれ次のステージがくるんだろうな。と思います。
なんか末恐ろしい。。
生ける屍が製造されてない?
で、
ここ四半世紀で大きく変わったのが、情報の選択が無制限になり、結果、人から幸せを(活力を)奪っている。。というように思えます。
タイムパフォーマンスを上げるために、本から動画になったり、動画を高速でみたり、動画そのものの尺も短くなったり、次に見る情報も自ら選択するところから、「関連」としてなんとなく満足しそうな情報へとつながっていく。
好きな情報を好きな時に好きなだけ得られるという環境ができて、その情報はさらに圧縮されて次から次へと回転ずしを眺める如く、本当にボーっとしているだけでなんとなく満足をしてしまうという、ホント「生ける屍製造機が蔓延した社会」になっている気がします。
そして、情報の選択が一見自由なようで、本当に自身の意思であるかすら疑わしい。。そんな世の中になってしまったようにも思えます。
一昔前からさかのぼると。。
・テレビや人から聞いたことを詳しく知るために本を読む。
・ネットのHPの情報を自身で調べて集める。
・ブログなどの自身の興味のあるコンテンツを集中的に読むようになる
・Youtubeで好きな動画を見る
・Tictokなどのショート動画で関連の好きな動画のいい所だけを見る。
・次第に関連した個人が好む情報だけが圧縮されて勝手に流れてくる。
と、自身が満足を得る情報にたどり着くまでほぼ何もせず到達し、到達する情報は世界中の選りすぐった「切り取られた世界」を眺めています。フォアグラを提供するアヒルのごとく、知識の口に餌袋を突っ込まれて流し込まれているような。。そんな嫌悪感すらあります。
もう、知識の探究という人としてのストロングポイントを自らの英知で弱体化させてしまっているという、ほんとなんという皮肉だろうか。。
「知らぬが仏」
「知らぬが仏」
って言葉ありますが、まさにそれ。
知らぬが上に、苦労してたどり着いた未知に感動をしたり、活力を与えたりするわけです。
それが、常に「切り取られた世界」のそれを見て慣れ親しんでしまうとどうなるか?
・知ったことで、なんとなく満足してしまう。
不思議なもので知識を得たことで、満足したりしてしまいます。特にショート動画などは凝りに凝った絵をみるので、その高みに自分が到達できるわけでもないので、試してみようという気力もわかなくなる。けど、刺激が欲しいばかりについつい次の動画を見る。んで、満足してしまう。こうしてどんどん無気力に欲求が満たされていきます。
・あふれた「切り取られた世界」が本来は存在しないような劣等感を生む。
常に「切り取られた世界」を見ていて、それが自身に疎遠であることに分別が付かないと、世の中はこんなに輝いているのに。。と劣等感を生み出します。ただ、これって実際は本当に切り抜かれたその人の一部であり、それ以外の負の部分は見えないわけです。オリンピックの決勝だけをみて、なんで私はこんなに早く走れないのだろう。。と思うのは間違えで、相応に世界の頂点に上り詰める努力や葛藤の結晶。ほんの一部を切り抜いている。ということになるのですが、これがあらゆる方面であふれているので、だんだん自身ができないことに劣等感が出てきたり、世の中こんなに幸せそうなことがたくさんあるのに、どれ一つできないと本来存在しない劣等感を生んでしまっているのではないかと思っています。
・不安を自らの意思で解決できなくなる
常に困ったこと、不安に思うことって調べちゃいますよね。他人の体験や記事を読んだり見たりして、自身で解決した気になってしまいます。でもこれって、本来は自身の実体験などから導き出さなければ真に解決しない問題を代替えのパーツで埋め合わせているだけなので、潜在的な不安が付きまといます。なので、いざ自分を振り返るときに他人の承認がないと自身が持てない。自己承認されるパーツがないと不安が払しょくできなくなってしまいますが、これもネットのオーディエンスに救いを求めてしまう。。なんてことも顕著になってきている気がします。なので、自分の幸せを自分で定義できない。。なんて悲しい思考回路が出来上がってしまうように思えます。さらにいえば、自己肯定ができないばかりに、他人を攻撃することでしか自己肯定ができない悪循環が起こって、ついには攻撃を恐れるばかりに自己肯定することが恐怖になってしまうのかなと。いいじゃんね―別にキムタクがどんなカッコで台風心配したって(笑)
いずれにしても、本当に知らなければ、自身の幸せのテリトリーは狭くても、敷居を低く保つことができるので、自身の努力の範囲で満たすことができたのですが、敷居だけは高くなって、自身の努力では到底及ばない高みを流れ込む情報で満たそうとするというなんとも、いびつな構造となってしまっています。
今の社会の中で、情報の波から逃れることは難しいとしても、きちんと取捨選択していく、サーフしていくには、これはこれで難しくて波にのまれて海の藻屑。。とならないようにしないとですね~。
生成という領域にまで浸食
そして、今現在2024年ですけどね、昨今生成AIなるものが急速な進化を遂げて、ついにその領域まで浸食してきたか。。というのが正直な感想ですね。
もうすでに、私たちが眺める視界の中には人の手ならざる物から創造(というのが正しいかは別にして)されたものが少なからず目にする機会が増えました。ホント実用的なところもあれば、まだまだかな?と思うところもあれば、すでに人類を超えている?と思うような分野まで。こう考えると、いずれの分野においてもこれらのAIが大きく躍進するのは時間の問題なのだろうな。。と思います。
人の活動の中で、知的満足を代替えされてしまったうえに制作活動までとってかわられてしまう。。しかも奪われるのではなく、提供されてしまうのだから、人の心弱いもので受け取ってしまうわけです。知的満足同様、流れ込んでくる制作物を私たちは口を開けて待つ未来がすぐそこに来ているかもしれませんね。
切り取られた世界
話ははじめに戻りますが、本当に人が一体なにに苦労することがあるのだろうか?というユートピアは栄華を極める段階に入っているのかもしれません。このコラムなどを書き始めたころにも薄々情報の波には危惧していましたが、生成AIは到底想定できなかったような気がするけど。。。まあ10年ひと昔というけれど、加速度的に進化している状況であるのは変わらないわけで、こうなると本当に他人との接触をすることの意義、ましてや結婚して子供を授かるということの意義が当事者の「コスパ」で換算されてしまうと、本当に衰退、絶滅のレールを走っていることになるのでは??とおののくわけです。
ところがしかし。
日々目にする動画にしても、生成AIが作り出す創作物にしろ、いずれも0から何かが生成されたわけではなく、何かを苦労して作りあげた物に共感し、その制作物を2次加工して生成AIがそれらしい何かを作り出している点を忘れてはいけない。
ここに、これから先自我を保ちつつ心清らかに(笑)生きる答えがあるんじゃないかなと思っています。
自らが何かしらを生み出し創作し続けること。別に秀逸でなくてもいいのですが、自身が納得できるよに努力し続けること。
これかな。と
ネットの中の世界は確かにリアルですが、端々を切り取られた世界で構成されていて、万華鏡で覗き込んだホント目の前の世界の一部でしかない。だからこそ、今自分の目の前に広がる世界で何ができるかを考え、そして自身で想像しえるけど決して届かなない世界を夢見ること。実現できなくたって、少しでも近づければそれを良しとすること。
こうして、10年ぶりにしょうもない話をポチポチと書いているのですが、10年前には存在していなかった子供を授かって改めて思うけど、切り取られた世界だけを見ていると本当にその世界に染まってしまいます。だからこそ、自ら切り取られた世界の一部でも目の前のリアルとして実現するには何が必要なのかを自らの体験をもって実証させないといけないんだなーと思うのでした。
この世に生をもって生まれたんだから、与えられたものを消費するだけでなく、何かを想像して創造すること。
人としての原動力ってなんだろう。。と。改めて考えたのでした。
ちゃんちゃん♪
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