2025年9月14日 聖霊降臨後第14主日 礼拝説教要旨
(ルカによる福音書 15章1節~10節)
イエスさまはなぜ様々な人と食卓を囲むのかとの理由を、譬えによって説明することで説明します。それは、見失った1匹の羊を「見つけ出すまで」捜す人の姿のようなものだと言います。残された99 匹は囲いの中にいるのではありません。荒れ野に置いていかれます。しかし、それでも見失った1匹の羊を捜しにいくのだとイエスさまは言います。この残された99 匹の羊の心境は、今日は読まれませんでしたが、続く「放蕩息子のたとえと」と題された11 節からの譬え話に登場する兄が代弁しています。残された羊として不満を口にします。しかし、それでも見失った1 匹を見つけ出すことはその人にとって必要なことであり、「友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と」喜びを分かち合うのでした。
もう一つの譬えも同じです。無くした1枚の銀貨を一生懸命に捜す女性の姿が譬えとして語られます。銀貨は1ドラクメだといいます。労働者の10 日分の給料にあたります。それが10 枚あったはずなのに、1枚無くしてしまった。この女性は夜を徹して捜します。ここまで読んでいるとはっとします。先ほどの羊の譬えでは、99匹の羊を危険な荒れ野に残して見失った「たった1匹」の羊を捜しに行く男の姿が描かれていました。その男は見失った1匹の羊を他の多くの羊より多く愛していたのだろうかと疑問を持ちます。しかし、二つ目の譬えでは無くした銀貨は他の9枚の銀貨と同じ価値の貨幣として描かれています。ここで私たちは、イエスさまがこの二つの譬えを語った理由に気付きます。1匹の羊も他の99 匹の羊も、羊の飼い主にとってどれも大切な羊であるという事実に気付くのです。
私たち一人ひとりを心から大切にしてくださる神さまの想いが描かれています。イエスさまは共に食卓を囲むことで、神さまの愛を示しておれます。
(司祭ヨハネ古澤)
牧師の小部屋 51
聖歌418 番「パナナグータン」は聖歌集では「FRIEND」と題名が並記されていますが、タガログ語で「責任」という意味です。英語の”responsibility”つまり”response + ability”=「応える能力」という意味合いが強い言葉で、私たちはお互いに対して責任があるとの意味です。ネットの機械翻訳とタガログ語辞書で単語を参照しながら訳してみましたので、ご紹介します。
誰一人として、自分自身のためだけに生きている者はいない/
誰一人として、自分自身のためだけに死んでいく者はいない
私たちは皆、互いに責任を負っています/
私たちは皆、神によって集められ、神と共にいます
私たちの愛と奉仕は、救いの報せを届けるでしょう
私たちは皆、互いに責任を負っています/
私たちは皆、神によって集められ、神と共にいます
国々は共に(同時に)歌うだろう/
主は私たちをご自身の子どもとして扱って(数えて)くださいました
私たちは皆、互いに責任を負っています/
私たちは皆、神によって集められ、神と共にいます
誰一人として、自分自身のためだけに生きている者はいない/
誰一人として、自分自身のためだけに死んでいく者はいない
私たちは皆、互いに責任を負っています/
私たちは皆、神によって集められ、神と共にいます
私たちは皆、神によって創造され、神と共にいます/
私たちは皆、責任を負っています
(司祭ヨハネ古澤)