2018年5月27日 三位一体主日礼拝説教より 「全ての人のために」 於:富田林聖アグネス教会
(ヨハネによる福音書 第3章1節~16節、特祷)
今日の特祷は神さまへの感謝として、「三位一体の神をあがめることができるようにしてくださ」ったことを挙げています。教会暦の祝日は多くの場合、イエス・キリストのご生涯や救いの出来事に結びついていますが、今日の祝日は教理的な事柄に結びついています。私たちが三位一体の神をあがめることができるようにしてくださった、そのことに感謝しています。信仰告白することができるように導いてくださった。そのことへの感謝と言えるのかもしれません。
なるほど。確かに今日の日課を見てみますと、旧約では有名な燃える柴の物語において、神がモーセに自己紹介をしています。「わたしはあなたの父の神である」と。その啓示によってモーセは自分の顔を隠すという形で、信仰告白をすることができました。
使徒書ではパウロが手紙の中で「この霊によってわたしたちは『アッバ、父よ』と呼ぶのです」と言います。。つまり、聖霊の導きによって私たちは神の子され、神に対してイエスと同じ呼びかけをすることができる、とパウロは言います。「父よ」と自分の神を認め呼びかけることができるのです。そして福音書では子なる神であるイエスが父と子と聖霊について語ります。私たちが信仰告白をするためには、自分の力ではなく聖霊のによって新しく生まれなければならないこと。そして、父なる神が世を、つまり私たち人間をどのように想ってくださっているか。また、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」と。つまりイエスをキリストと信じる者が一人も滅びないように、と神は願っておられ、そして全ての人が滅びないように、聖霊を送ってくださったのです。私たちが信仰告白できるように。イエスをキリストであると信じることができるように。なんという喜びでしょうか。
(司祭ヨハネ古澤)
2018年5月20日 聖霊降臨日礼拝説教より 「小さな復活」
(使徒言行録 第2章1節~11節)
復活の出来事というのは、復活、昇天、聖霊降臨を一つのこととして理解されていました。ですから、今日の聖霊降臨日は復活の出来事に一旦区切りがついた日とも言えます。復活の出来事の最終日ですから、日課を通して見てみると幾つかの重要なメッセージを私たちは受けているな、と感じます。
その一つが弟子たちを通して示される「小さな復活」の出来事です。イエスが十字架に掛けられ、復活された後のことを覚えているでしょうか。弟子たちは自分たちの先生が死んだこと、処刑されたことに落ち込み、また自分たちも捕らわれてしまうのではないかと恐怖に沈んでいました。体は生きていても、心は死に瀕していたのです。しかし、イエスがされた約束を信じ心を一つにして祈っているとき、弟子たちの上に聖霊が降りました。弟子たちは力強く福音を証ししていきます。今までは自分が捕らえられるのではないかと、恐れて語ることができなかった弟子たちが、イエスと共にいるときのように語り出したのです。いえ、イエスが共にいることが分かったからこそ語り出すことができたのでしょう。これが弟子たちの小さな復活です。
恐れや困難、悲しみに直面するとき、私たちも弟子たちと同じ状態になることがあります。体は生きていても心が死に瀕するときがあります。しかし、聖書は証ししています。キリストが約束を守ってくださった。だから永遠にキリストは共にいてくださる。それは、私たち一人一人が命の息を吹き込まれることです。キリストは私たちを集めてくださいました。それは私たちがそれぞれの人生を力強く歩むことができるように、困難があっても、共にその道を歩んでいけるように、そして私たちの人生そのものが、神のみ業を証しするものとなるように。
恵みに溢れる聖霊降臨の日、復活の出来事の最終日です。ハレルヤ。
(司祭ヨハネ古澤)
2018年5月13日 復活節第7主日礼拝説教より 「神さまへの願い」
(ヨハネによる福音書 第17章11c節~19節、特祷)
今日の特祷ではキリストに「永遠の勝利を与え、天のみ国に昇らせられた」神に私たちは祈りました。「私たちをみなしごとせず、聖霊を降して強めてください」、そして「救い主キリストが先立って行かれたところに昇らせてください」と祈りました。
永遠の勝利とはキリストのご復活のことにほかなりません。「死」という、はるか昔から私たち人間が最も恐れていたもの、それに打ち勝たれました。そして復活されたキリストを天に昇らせた神さまに、「私たちをみなしごとせず、聖霊を降して強めてください」と私たちは祈ったのです。「みなしご」とはイエスさまが弟子たちに「私はあなたがたをみなしごのままにしておかない」と約束された言葉です。「天に昇りっぱなしにならないでください」ということです。その約束通り、聖霊が送られます。来週そのことを覚えて私たちは祈るのです。
そして私たちは「救い主キリストが先立って行かれたところに昇らせてください」と祈りました。もちろん、死んだら神さまのところへ行かせてください、という意味も含まれているのでしょう。しかし、今日の福音書をみると、それ以上に、今を生きる私たちを守ってください、という意味合いが強いのではないでしょうか。イエスさまは神さまにこのように祈り願いました。「聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。私たちのように、彼らも一つとなるためです」と。
子なるキリストと父なる神が一つであるように、私たちも一つになるようにと。心を合わせることができるように、そしてキリストと一つになるようにと。キリストと一つになるとは、私たちが父なる神と一つになることでもあります。そして、それは私たちがキリストと共に生きて行くこと。それが今日、イエスが父なる神に願ってくださったことです。
司祭ヨハネ古澤
2018年5月6日 復活節第6主日礼拝説教より 「主に支えられて」
(ヨハネによる福音書 第15章9節~17節)
教会の働きはすべて宣教です。礼拝も小さな集まりも。また、教会に連なる私たちの日々の生活もそうです。「宣教」という言葉を別の言葉で表すと「神の愛を表現すること」と言えるかもしれません。では、なぜ教会は神の愛を表現しようとするのでしょうか。それはイエスさまが十字架の死という形で、私たちへの究極の愛を示してくださったからでしょうし、父なる神がイエスさまを復活させるという形で、イエスさまが神の子であることを証明してくださったからでしょうし、今日の福音書にある通り、生前イエスさまが弟子たちを通して私たちに「互いに愛し合いなさい」という新しい掟を与えてくださっていたからでしょう。
互いに愛し合うというのは、言い換えれば「互いに相手を大切にする」ということ、相手の命を尊重することです。
今日の福音書でイエスさまは「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」と言い、そして「あなたがたが出かけて行って実を結び、その実がのこるようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」と言います。
私たちが表現する神の愛が人を変える時があります。その人を生かす時があります。そして、わたしたちも、誰かを通して神の愛に触れるとき、変えられます。生かされます。それは別の表現をすれば、心から神を信頼する者へと変えられます。キリストと一つになって生きる者とされます。これらは、自分の努力だけでされるものではありません。互いに愛し合うなかで、そして何より、主の支えの中で起きていきます。私たちを支え、導くために主が送ってくれたもの、イエスが送るよと約束してくださったもの。それが聖霊に他なりません。私たちは、聖霊に導かれ支えられながら共に生きているのです。
(司祭ヨハネ古澤)