2020年7月26日 聖霊降臨後第8主日礼拝説教より (於:大阪城南キリスト教会)
マタイによる福音書 13:31-33,44-49a
「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」31b:32
本日の特祷では、主の働きについて、「あえて願い得ない良いものを」与えてくださるとありました。この主の働きが神の国(天の国)を完成させる、本日の福音書のメッセージの一つでもあります。主イエスはからし種のたとえを語りました。
興味深いことに、この「からし種」という単語は単数形で書かれています。畑に蒔かれたのは一粒のからし種です。それはどんな種よりも小さい一粒の種ですが、蒔かれればどの野菜よりも大きくなり、鳥が枝に巣を作るほどの木になる。このからし種はキリストが告げる福音=良い知らせのことを指すとも言われています。
すべてはとても小さな種から始まりました。主イエスの宣教はパレスチナの片田舎から始まりました。大きな都から始まったわけではないのです。それが私たちの住む地まで広がった。そして私たち一人一人を通して今なお働き、広がり続けています。
インドのコルカタで貧しい人のために働かれたマザー・テレサはこのようなエピソードを紹介しています。
あるとき、高価なサリーを身につけた女性が訪ねてきて、こう言いました。「マザー、わたしも、あなたのお仕事をさせていただきたいのです。」マザーはその瞬間に祈りました。マザーの働きを手伝いたいという彼女の申し出に対する答えを求めて祈ったのです。そしてこう言いました。「そのサリーから始めましょう。あなたが毎月安いサリーを買うことで貯めたお金を、貧しい人たちのために持ってきてください。」そこで彼女は、安いサリーを買うようになり、「いつの間にか彼女の生活自体も変わった」と言いました。こうして彼女は、本当の分かち合いの意味を知り、こう言ったのです。「自分が差し出したよりもずっと多くのことを、貧しい人たちから受け取った」と。この女性は自分も貧しい人のために何か働きたいと願っていました。それはおそらく彼女が真に生きるために必要だと感じていたことだったのでしょう。しかし、神はそれ以上のものを彼女に与えた。彼女の心の奥底で彼女も気づかないところで願っていたこと、それが彼女の生き方そのものが変えられる、ということだったわけです。
主は、貧しい人のために働きたいという女性の一粒の想いを大きな働きに変えてくださいました。貧しい人への働きだけでなく、女性自身の生き方を変えるものとなったのです。自分では力なく、何の役にも立たないと思っていようとも、主は用いて下さる。そして、言葉にならない心のうめきを汲み取ってくださる。それが、主のからし種です。(司祭古澤)
2020年7月19日 聖霊降臨後第7主日礼拝説教より
マタイによる福音書 13:24-30,36-43
「主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。 刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。』」29:30a
今日の福音書の後半は、福音記者聖マタイの教会で出てきた、このような疑問への応答であると言われています。「なぜ教会に悪い行いをする人がいるのか」。ですから、毒麦のたとえで大切にされていた「育つままにしておきなさい」というメッセージがすっぽりと抜けています。つまり、毒麦のたとえの解説部分は後に付け加えられた箇所だという訳です。
麦は穂が実るまで、それが良い麦か毒麦の判別が難しいそうです。麦が実るところには、なぜか毒麦も生えてくるようです。また根は麦の根と絡まり、毒麦を抜こうとすると麦も抜けてしまう。本当に収穫時に刈り取ってから麦と毒麦を分ける必要があるそうです。
時に私たちは一つの衝動に駆られます。「悪を取り除きたい」と。ドストエフスキーの「罪と罰」では、貧しい学生のラスコリーニコフが、彼の目に映る悪を取り除こうとしました。貧しい人の足下を見てお金貸す質屋のおばあさんの殺害です。ラスコリーニコフは、自分が彼女を裁く心を最大限正当化して殺人に臨みます。
しかし、主イエスは違います。「育つままにしておきなさい」と言います。もちろん、主イエスの活動を見ていても、好きかってにやらせておきないということではないでしょう。主イエスはファリサイ派や律法学者に対して、また弟子たちに対しても、間違っていることは「あなた間違っているよ」とはっきりと仰いました。そうではなく、人が人の命を・存在を否定することに対して、ストップをかけているのでしょう。
「育つままにしておきなさい」という主イエスの言葉は、「私たちの世界に悪が存在していても、ちゃんと神の国は到来するよ」という希望と励ましの言葉でもあります。そしてまた「あなたの目に悪と映る存在も、良い麦に変わっていくかもしれないじゃない」という私たち人間への愛の言葉でもあるのです。
「育つままにしておきなさい」という主イエスの言葉は、私たちひとり一人を慈しんでの言葉です。教会は人の集まりです。私たちが、主イエス・キリストの生ける<からだ>です。私たち自身の中にも良い麦と毒麦が生えています。しかし、その毒麦は良い麦へと変えられていきます。
私たちの信仰は時に何の役にもたたないように映ります。しかし、私たちが希望をもって主に従い生きるとき、毒麦に見えていたものが良い麦に変えられる、そのような力を発揮するのだと信じます。他者もそして自分自身も大切にする良い麦。それは主の愛に信頼する生き方です。他者も自分自身も大切にすることを恐れる毒麦。社会の毒麦が、そして自分自身が持つ毒麦が、良い麦へと変えられるよう、互いに祈り合い、支え合い、キリストの体として共に歩みましょう。(司祭古澤)
2020年7月12日 聖霊降臨後第6主日礼拝説教より (於:大阪城南キリスト教会)
マタイによる福音書 13:1-9
有名な絵画に、ミレーの「種蒔く人」があります。手に握った種を、腕を振って畑にばっと蒔いている絵です。主イエスの時代、パレスチナの農民もそのように畑に種を蒔いていたようです。
手で一面に種をまきちらし、そのあと種に土を被せました。ですから、畑からこぼれる種もあれば、土が上手くかからない種など、無駄になる種も多かったようです。種と収穫量との割合でいえば、かなり非効率的な手法だったようです。その分、思っていた以上に収穫できたときの喜びはひとしおだった事でしょう。
今日の福音書箇所には、種まきのたとえ話の解説を主イエスがされています。しかし、この解説は初代教会の人々が加えたものと言われています。
種まきのたとえの元の意味は、種を蒔く人の種、すべてが実るわけではない。無駄になることもある。しかし必ず実り、実った種は百倍、六十倍、三十倍と、とても豊かな収穫を得るのだ。そのように、神の国も、一見実らないようでも、私たちの目には失敗に映っても、必ず神の国は訪れるのだ。
このような神の国に対する考えが、主イエスの語られた種まきのたとえの元の意味でしょう。
この種まきの譬えを聞くとき、出エジプトの物語を想い起こします。エジプトから脱出した人々は、モーセに導かれて四十年間荒れ野を旅しました。当時の四十年といえば、今より寿命がずっと短いわけですから、世代交代が起こる年月です。つまり、出エジプトを行った第一世代の人々は、おそらく誰ひとりとして約束の地に辿り着いていないのです。モーセも約束の地に入ることはできませんでした。しかし、主は約束通り民を約束の地へと辿り着かせてくださった。
私たちの旅もそうなのでしょう。具体的な目的地はわからずとも、必ず神の国に辿り着ける。だからこそ、主イエスのみ跡を歩み続けるわけです。
私たちひとり一人にキリストとの出会いがあります。それはどのようなことだったでしょうか。まだ決定的な出会いがなくとも、何となくキリストが気になるな、という感覚かもしれません。いずれにせよ、その原点は私たちに蒔かれた種が芽吹いた出来事といえるでしょう。
そして、私たちには共通の原点があります。それは私たち人間が神の似姿に創られたということです。私たちの命が、存在がかけがえのないものであり、尊いものであることの根拠となるものです。だからこそ、私たちはキリストにならって、互いに支え合い歩みます。誰をも排除せず、そして誰からも排除されないように。神から与えられている尊い種を、命を、全ての人が活かせることができますように。(司祭古澤)
2020年7月5日 聖霊降臨後第5主日礼拝説教より
マタイによる福音書 10:34-42
当時のファリサイ派や律法学者が細かく律法の解釈を行ったのは、神の救いに留まるためでした。正しく律法を守ることが神と人との契約である、だからきちんと律法を守ることができるように、細かく解釈を行い全てのユダヤ人に守らせる必要がある、と考えたのでした。
しかし、全ての人が全ての律法を守れるわけではありませんでした。主イエスの時代の人々の中には、安息日であろうとも仕事をせざるを得ない人々が存在しましたが、ファリサイ派や律法学者たちは律法の遵守を民衆に画一的に求めました。それは当時の民衆にとって重荷となっていきました。律法を守れないがゆえに「罪人」つまり「神の救いから外れた人と」自他共に見なされたのです。他者からだけでなく、自分自身が「自分は神の救いから外れている」と認識することはとても辛く苦しいことです。当時の「罪人」と見なされた人々が背負う荷物は本当に「重荷」でありました。そして、主イエスがいう「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」という言葉は、今日の主イエスの言葉と直結するのです。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」。表現を変えれば、「律法を守れないということで、神の救いから外れていると見なされているよ。自分は救われないという苦しみを負っている人は、誰でも私のもとに来なさい。私がそうでないこと、あなたは救いに与る存在であることを示そう」。当時、「罪人」と見なされていた人々にとって、主イエスの言葉は心からの喜びであり救いであったでしょう。
今の私たちの教会で、宗教的な決まりを守らない・守れないために「罪人」と見なされることはまずありません。しかし、「私は救いに与れるような存在ではない」と自分自身を審いてしまうことはあるでしょうし、そのような人は多いように感じます。
今の時代にあって、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」との言葉を私たちが聞くとき、それは「私は救いに与っているのだ」と神への信頼を再確認することであり、そして「自分は救いに与れる存在ではない」と感じている人に、「あなたのことを神は救ってくださっているよ」と自信をもって告げることでもあるでしょう。
「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」と主イエスは言います。主イエスが生活をされたパレスチナの軛は二頭立てだそうです。「あなた独りで軛を負え」、と主イエスは言いません。「私と一緒に軛を負おうよ、私と一緒に歩もうよ」と言います。それは「私は救いに与っている」と信じる歩みであり、誰かが人生において困難にぶつかり倒れているときに手を差し延べる歩みです。主イエスと一緒に「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と私なりの方法で告げる歩みでもあります。そしてキリストに倣う道です。(司祭古澤)