2023年5月28日 聖霊降臨日主日礼拝説教より
主イエスが十字架刑で殺された後、弟子たちは不安と恐怖に包まれていました。そのような弟子たちの許に復活された主イエスは現れます。弟子たちの真ん中に立ち「あなたがたに平和があるように」と告げました。これは直訳すると「あなたたちの平和」です。そう言って手と脇腹をお見せになりました。
主イエスの手と脇腹には、それぞれ釘と槍の跡があったでしょう。傷跡と言える「傷の跡」ではなく生々しい傷です。そこから平和を感じることは難しそうです。しかし、手と脇腹の傷は、私たち人間が神さまとの正しい関係を取り戻すためにつけられた傷であり、私たちが自分本位に生きてしまうことで犯す罪の赦しのためにつけられた傷です。その主イエスが弟子たちと共におられる、この事実こそが平和なのではないでしょうか。
主イエスは弟子たちに息を吹きかけます。神さまによって人間が作られたとき、神さまは人間の鼻から息を吹き入れることで、その人は生きる者になりました。弟子たちも主イエスと共に生きるものへと変えられたのです。それは「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される」との言葉から分かります。本来は罪を赦すことができるのは神さま以外にありません。主イエスは弟子たちに「あなたがたは罪を赦すことができるのだ」と驚きの言葉をなげかけ、キリストがいつも共におられることを告げたのでした。それは復活された主イエスが共におられることで存在する「平和」が常にあることを示します。教会の誕生、それはキリストがいつも共にいてくださることを信じる人々が、「平和」を伝え始めた時でもあるのです。
(司祭ヨハネ古澤)
2023年5月14日 復活節第6主日礼拝説教より
インド東部ビハール州にダスラート・マンジさんという方がいました。彼の住む村から最寄りの病院へ行くには、大きな岩山を迂回して55キロの道程を歩く必要がありました。その岩山のために彼の妻は命を落とします。村人が同じ目にあわないようにと、マンジさんは一人岩山を削りはじめ、22年後には村の人びとと一緒に岩山に一本の道を作りました。そこにはマンジさんの祈りがありました。
主イエスは「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」と言います。主イエスがぶどうの木の幹で、私たち一人ひとりはその幹に生えている枝なのです。主イエスはこのようにも言います。「人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」と。私たちはぶどうの木の枝なのだけど、主イエスである木の幹に繋がるかどうかを選ぶことができます。しかし、主イエスは私たちに繋がろうとずっと働きかけてくださっています。「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる」と言います。「わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば」なのです。主イエスは私たちのためにずっと祈ってくださっているから、祈りの言葉が私たちの中にあるのです。「そのことに気づいてよね」と主イエスは言います。そのことに気づくとき、私たちは祈りにそった歩みを始めます。祈りに共感する人びとが共に歩みます。キリストが私たちのために祈り続けてくださいます。私たちは皆、キリストに繋がる存在です。
(司祭ヨハネ古澤)
2023年5月7日 復活節第5主日礼拝説教より
(ペトロの手紙 一 第2章1~10節)
「ペトロの手紙」の著者は、宛先である教会の人びとに「生きた石として用いられ」るようにと告げます。「生きた石」とは不思議な言葉ですが、手紙の著者は主イエスが「神にとっては選ばれた尊い、生きた石」であると説明します。著者は送り先の人びとに、キリストに倣うよう勧めているようです。そして、時を超えて今を生きる私たちにも手紙は呼びかけます。
手紙の著者は主イエスに信頼を置くようにと勧めます。なぜなら、信じる者にとって「生きた石」である主イエスは私たちを力強く支える「かなめ石」であるからです。「これを信じる者は、決して失望することはない」とイザヤ書を引用します。しかし、主イエスを信じない人びとにとって主イエスは、「つまずきの石、妨げの岩」となるのだと、これもイザヤ書を引用して手紙の著者は言います。主イエスを信じない人とは、この手紙の文脈で言えば手紙の宛先である教会に反対する人びとでしょう。その人びとにとって主イエスの生き方、つまり神を信頼し隣人を愛し、社会に居場所のない人びとの友となる生き方は理解しがたいものだったようです。
時代を超えて、今を生きる主イエスを信じる人びとである私たちはどうでしょう。失望することはないでしょうか。辛いことや目の前が真っ白になることもあります。しかし、最終的には何かに支えられその困難を越えていくことができる、そのような実際の出来事を通して私たちは「生きた石」の存在を感じます。そして、私たち一人ひとりもまた主イエスに倣う「生きた石」です。互いに支え合うよう用いられているのです。教会はもちろん、社会に対しても。
(司祭ヨハネ古澤)