2021年3月28日 復活前主日 礼拝説教より 於:大阪城南キリスト教会
(マルコによる福音書 第15章1節~39節)
「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」との叫びは、完全な 孤独におかれた主イエスの絶望とも言える一言だったでしょう。 私たちは主イエスと共に神の良き報せを聞いていたのではなかったでしょうか。
このような思いに駆られていると、百人隊長の一言が光ります。「本当に、この人は神の子だった」。政治犯として十字架にかけられた主イエス、弱々しくみすぼらしい主イエスを見て、なぜこの百人隊長は「本当に、この人は神の子だった」と感じたのでしょうか。理由はこの百人隊長だけが知ることですが、裁判から十字架で死ぬ主イエスをずっと見る中で、「この人は神の子だった」との結論にいたる何かを感じたのでしょう。主イエスの公生涯をずっと共にした弟子 たちが理解できなかったことがらに、たった半日一緒にいた百人隊長は主イエスが神の子であることを理解したのです 。とても不思議に感じます。しかし、ゲッセマネの園で「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と祈っ たそのことを、つまり神のみ心を何が何でも完遂する主イエスの姿が 言葉にできないメッセージを発し、それを百人隊長が受け取ったと言えば、言い過ぎでしょうか。
「愚か」の象徴であった十字架が私たちの救いの象徴となったことはとても奇妙です。しかし、当時罪人と看做されていた人々こそ救われる存在であると説いた主イエスのメッセージ 神のみ心もまた、当時の人々には奇妙に映ったことでしょう。
私たちは絶対的な孤独のうちに息を引き取った主イエスが、実は孤独のうちに死んだわけでは無いことを知っています。三日後に復活させられ、命が死に打ち勝つことを、主イエスの告げた福音が、救いが起こっていることを知っています。
私たちは百人隊長の感性を大切にしたいと思います。実際に見て感じたことを大切にする勇気を、言い換えれば自分を信じる勇気を大切にしたい。それは奇妙なメッセージかもしれません。神さまはあなたを大切に思っている、というメッセージ。奇妙に感じるかもしれません。しかし、それが主イエスが告げたメッセージ です 。
今の社会は、互いに愛し合うことの重要性が見直される一方で、自分自身が大切な存在であることを信じられない状態に置かれる人が増えているようです。そのような今だからこそ、十字架と復活の出来事を通して、私が、そしてあなたが大切な存在であることを再度確認いたしましょう。
(司祭ヨハネ古澤)
2021年3月21日 大斎節第5主日 礼拝説教より
(ヨハネによる福音書 第12章20節~33節)
今日の箇所では「人の子が栄光を受ける」や神が「わたしは既に栄光を現した」など、「栄光」という言葉が多く出てきます。栄光とは何でしょうか。一言でいえば、「神が神であることが示される」ということです。ですから、「人の子が栄光を受ける」ということは、主イエスが 神と同じであることが示されることですし、神が「わたしは既に栄光を現した」と言えば、既に神が神であることが示されたということです。神はいつご自身を示されていたのでしょう。それは主イエスの活動を通して示されました。そして神は再び栄光を現すのです。主イエスの十字架での死と復活を通して。
主イエスは福音を言葉で宣べ伝え、同時に病者を癒やし、悪霊を追いだし、律法を守れないがゆえに罪人とレッテルを貼られていた人々と食事を共にしました。それは行動による福音の表明でもありました。この主イエスの活動を通して神が示されたわけで す。
福音を宣べ伝えることは、麦の穂から落ちる一粒の麦になる道を歩むことでした。主イエスの活動は多くの人々の心を掴むと同時に、律法を軽視する人物と看做され、またローマ帝国から人々を扇動する政治犯と看做される危険を孕みました。「父よ、わたしをこの時から救ってください」「しかし、わたしはこの時のために来たのだ」という相反する二つの主イエスの想い・祈りは、一粒の麦が地に落ちた後に育まれる多くの命に目を向けての祈りなのでしょう。その命とは、全ての人、私たちを含む場所と時間を越えた命に他なりません。主イエスはご自身に従うよう私たちに呼びかけます。一粒の麦になるように、つまり栄光を現す器となるように。
今、ミャンマーの軍事クーデターに、現地の人々は非暴力の抵抗を行っています。朝8時になると、市民は一斉に鍋を叩いて軍への抗議を 表し ます。そして、海外に住むミャンマーの留学生たちは、市民的不服従運動を行う公務員が経済面を気にすること無く活動できるよう募金活動を行っています。日本ではミャンマーの国境付近での難民キャンプを訪れた経験のある同志社と立命館の学生が中心になって、この募金活動を広めています。これも想いと行動が直結した例 でしょう。
相手を思うが故に祈ってしまう。大学生は自分たちが留学したミャンマーの人々を思うがゆえに募金活動を行ってしまう。主イエスは、私たちを思うがゆえに十字架への道を歩んでしまう。どれも一粒の麦の形です。多くの命を養います。そこには神の栄光が現れています。養われている者の一人として、感謝と喜びをもって復活日を迎えましょう。
(司祭ヨハネ古澤)
2021年3月14日 大斎節第4主日 礼拝説教より 於:聖ガブリエル教会
(ヨハネによる福音書 第6章4節~15節)
先週は「 宮清め」として有名な聖書箇所でした。今日の日課も 「五千人の供食」として有名です。細かい違いはありますが、四つの福音書すべてに掲載されています。聖餐式の先取りと言われます。ヨハネ福音書では、もちろん聖餐式の先取りの意味もありますが、それに加えて重要な意味合いがあります。それは、「主イエスご自身が命のパンである」ということです。今日の箇所を読み進めていきますと、「イエスは言われた。『わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことが ない。』」( 35 節)との主イエスの言葉が出てきます。パンと魚、パレスチナでの食事を表す言葉です。日本で言えば「ご飯と味噌汁」でしょうか。パンと魚は確かに人々を生かします。しかし 、主イエスは 命のパンです。単に生命活動を維持するだけの食事ではなく、人が人として生きていくことができる、そのようなパンです。今日の箇所は、その「命のパン」への導入部と言えるでしょう。
主イエスは「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」とフィリポに尋 ねます。命のパンはフィリポの目の前に存在しています。この意味に おいて、主イエスの 問いは「あなたは私を何だと思うか、誰だと考えているか」という問いかけと言えるでしょう。この問いの答えをチラッと人々に見せた。それが今日の箇所、福音記者ヨハネが描く供食の出来事でした。
私たちは聖餐式で「あなたのために与えられた主イエス・キリストの体」と言ってパンを頂きます。それは、主イエス・キリストが私たちを生かしてくださっていることの確認でもあります。私たちが生きるにはパンの他に何が必要か、そのことを想い起こし神の恵みに感謝する時でもあるでしょう。私たちが生きるためには、パンの他に少なくとも、希望そして交わり独りではないという実感が必要でしょう。「その子はインマヌエルと呼ばれる」、主イエスの 母マリアが 聖霊によって身ごもるとき 、天使はそのように告げました。「インマヌエル」「神共にいます」。私たちは主が一緒にいてくださることを知っています。私たちがこうして共に教会にいるのは、神が導いて下さっているからであることを知っています。
「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」との問いかけに、私たちここう答えるでしょう。「あなたが私たちを生かし てくださいます」と。この喜びとともに、この大斎節を過ごしましょう。
主のご復活の日はもうすぐです。命が溢れる出来事です。
(司祭ヨハネ古澤)
2021年3月7日 大斎節第3主日 礼拝説教より
(ヨハネによる福音書 第2章13節~22節)
エルサレム神殿は、神殿の門をくぐりますとまず「異邦人の庭」と呼ばれる外庭がありま す 。ここはユダヤ人以外も入ることができま した。その次に「女性の庭」と呼ばれる回廊があり、ユダヤ人男女が入ることができます。ここには 13 個のラッパの形をした献金箱が置かれていたそうです。神殿を訪れた人は、ここに献金を捧げる決まりでした。今日の箇所にある 「 両替商 」 は、当時流通していたローマ帝国の貨幣、皇帝の肖像が彫られていた、を肖像のない献金用の貨幣に交換する商売でした。
「女性の庭」の内側には、「男性の庭」と呼ばれるスペースがあり、女生と障が い者や病人は入ることができませんでした。その奥には神が現臨すると考えられていた至聖所があり、垂れ幕が至聖所内部を遮っていました。至聖所には大祭司しか入ることが許されませんでした。 神の許には限られた人しか辿り着くことができなかったのです。
マルコやマタイ、ルカ福音書には、主イエスが十字架上で息を引き取るとき、神殿の垂れ幕が真二つに裂けたと記されています。主イエスの十字架での死によって、神と人との隔てが失われたことが暗示されています。ヨハネ福音書では、「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる 」との主イエスの言葉、そして「イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた」という一文を通し て、神殿礼拝が主イエスによって隔てのないものへと変えられることが示されています。
神殿で商売をする人々を追い出す主イエスに対してユダヤ人たちは言います。「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」。私たちも口にしたくなる時があります。「あなたを信じるからしるしをみせてください」と。しかし、それには及ばないと主イエスは 言います。「神殿の壁に、至聖所の垂れ幕に阻まれることなく、あなたたちは私を通して神に至ることができる」と。神と人との隔てを無くされた主イエス。 求める人が誰一人拒否されることなく救いに入ることができる、そのことを主イエスは示されました。私たちの交わり、教会の交わりも社会の交わりも、キリストを介して神が働いておられることを憶え、また 私たちは救いに与る存在であることを憶え、大斎節を過ごしましょう。
(司祭ヨハネ古澤)