2018年8月26日 聖霊降臨後第14主日礼拝説教より 「自分の想いではなく」 於:富田林聖アグネス教会
(ヨハネによる福音書 第6章60節~69節 )
「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」。イエスの弟子の多くがこのような反応をしたと福音書は語ります。キリストの肉を食べ、キリストの血を飲む人は、キリストと共に歩むことができるというイエスの話を耳にした直後の反応でした。
もちろん、「人の肉や血を食する」と聞いて驚かない人の方が少ないでしょう。ましてや、それが動物のものであっても、血を飲むことが禁じられているユダヤの人々にとってはなおさらのことです。
しかし、イエスの話をじっくりと聞いていれば、肉と血を食すということが、イエスを救い主として受け入れる・信じるということだと気づいたことでしょう。イエスの許を去ってしまった弟子たちに限らず、私たちは自分が持つ想いや願いから外れている事柄に直面したときには、それが真実であったとしても耳を塞ぎ、目を覆い、口を噤んでしまう存在なのかもしれません。
「あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています」とペトロは力強く信仰を告白します。しかし、このペトロでさえ、イエスが裁判を受けているときに三度、イエスとの関係を否定しました。キリストに信頼を寄せて従うというのは、時に厳しい道程なのでしょう。
それでもキリストは私たちの傍らで呼びかけてくださいます。「私はあなたを大切に想っているよ。あなたと共にあなたの人生を歩んでいるよ」と。「私を信頼して、私を受け入れてよ」と。それが「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者」であり、「このパンを食べる者」でしょう。一寸、神さまの想いに耳を傾けてみましょう。何が聞こえるでしょうか。
(司祭ヨハネ古澤)
2018年8月19日 聖霊降臨節後第13主日礼拝説教より 「いただきます」 於:京都聖マリア教会
(ヨハネによる福音書 第6章53節~59節)
私たちの食事は私たちが生きていくために欠かせないものですが、福音書でイエスは真に生きるために必要な食べ物について語ります。ここ数週間のテーマでもありますね。イエスは「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。」と言います。
ある司祭さんは「永遠の命」についてこのように仰っていました。「永遠の命には、私たちが死んだ後も生きるという意味がある。そしてまた、自分の生を肯定することをも意味する。」つまり、「私は生まれてきてよかった」と心底感じられること、「人生の旅路を精一杯生きること」、それもまた「永遠の命」が意味することなのだ、とその司祭さんは仰っていました。キリスト者として生きること、と言い換えることができるかもしれません。
「キリストの肉を食べ、キリストの血を飲む者は自分の生を肯定する者となるのだよ、キリスト者として精一杯生きる者となるのだよ。」とイエスは言います。キリストの真の生命が私たちの生命になる。私たちを真に生かすものへと変えていく。それがキリストの肉であり、キリストの血であるわけです。
イエスはこうも言います。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。」と。普通の食事であれば、食べたものが私たちの命の一部になる、ただそれだけ(もちろん大切なこと)ですが、キリストの肉を食べ、キリストの血を飲むと、キリストがいつも私たちと共に、正に文字通り共にいてくださるわけです。だからこそ、私たちは永遠の命を生きることができます。
(司祭ヨハネ古澤)
2018年8月12日 聖霊降臨後第12主日礼拝説教より 「生命のみなもと」
(ヨハネによる福音書 第6章37節~51節)
今年の福音書日課はマルコによる福音書ですが、ここ何週間かはヨハネによる福音書がよまれています。それは、マルコによる福音書に書かれている物語についての補足説明がなされるためです。五千人の給食物語から今日の箇所までを見てみますと、「イエスがどれほど私たち愛しているか」というテーマから、「私たちがイエスを信頼する」というテーマへとシフトしてきたように感じます。
イエスがこの世へと降りられたのは、父なる神の意志を行うためでした。神さまの意志・願いとは、神様がイエスに引き寄せた人を一人も失わないで終わりの日に復活させることだ、とイエスは言います。しかし。どれだけ人々がイエスに引き寄せられても、イエスに出会って信じる人と、今日の福音書に登場するように信じることができない人がいます。イエスに出会って信じる人には永遠の命が与えられる、とイエスは言います。「永遠の命」は、ある司祭によれば「私たちが死んだ後も生きるという意味。そしてまた、自分の生を肯定することも意味」します。
キリストは命のパンです。食事をすることで、食物が私たちの体の一部となるように命のパンも私たちの一部となります。キリストが私たちの体の一部、生の一部となります。それはキリストと一つになって生きることを意味します。
(司祭ヨハネ古澤)
2018年8月5日 聖霊降臨後第11主日礼拝説教より 「命のパンへの信頼」
(ヨハネによる福音書 第6章24節~35節)
「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、私を信じる者は決して渇くことがない。」
このイエスの言葉を聞くと、イエスとサマリアの女性の会話を思い出します。「この(井戸の)水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る。」イエスが与えてくださる水は私たちの内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出ると言います。喉を潤す水ではなく、私たち自身を潤す水なのですね。永遠の命に至る水、つまり「生きていてよかった。生まれてきてよかった。」と精一杯生きることができる水、ということでしょう。同じく、今日のイエスの言葉は、お腹を満たすのとは違うようですね。命の水と同じ、私たちの「生」に関わることのようです。
お腹を満たすことも私たちが生きて行くのに欠かせません。でも、私たちはそれだけでは生きられません。自分が存在してよいのだ、と心底感じられる場所が必要ですし、自分が必要とされていると感じられることも必要です。イエスさまからすれば、私たちがここに存在すること、それ自体が本当に意味あることですし、喜びです。それは福音書のイエスの行動を見れば一目瞭然。あなたの存在そのものが尊いのだよ。だから、他の人も同じように尊い。「自分を愛するように、隣人を愛しなさい。」というイエスの言葉が示す通りです。そして、存在そのものが尊いことを私たちに示すため、イエスは十字架にかかられた。ご自分が命のパンであることを示すため、私たちが真に生きるために必要な命のパン。キリストの愛に信頼を寄せて、これからも神と人とに仕えて行きましょう。
(司祭ヨハネ古澤)