2018年4月29日 復活節第5主日礼拝説教より 「一つになって生きる」
(ヨハネによる福音書 第14章15節~21節)
今日の福音書にあるイエスさまの主張はとても分かり易いなと感じます。イエスさまの掟を守る=イエスさまから愛される、それだけです。また、聖霊降臨の約束をしてくださったようですね。聖霊もまたイエスさまなんですね。聖霊降臨の出来事は、弟子たちがキリストと一つになった出来事、文字通り一つになったわけです。いわば、キリストとして生きて行く。それはイエスの掟を守る人がたどり着く生き方のようです。掟については来週の福音書に出てきますけども、「互いに愛し合いなさい」という新しい掟です。イエスさまからの命令です。互いに愛し合う。互いに大切にしあう。そのことを守る私たちは、だんだんイエスさまと一つになっていく。聖霊によってそのような生き方へと導かれます。
キリストと一つになった生き方とはどのようなものでしょうね。私たちが聖書から知り得るのは、一つは聖霊降臨後の弟子たちの、しかもごく一部の弟子たちの生きざまでしょう。どの弟子たちも印象的な生き方をしています。言い方を変えれば、多くの人の印象に残る生き方をしたからこそ、聖書に残っているわけでもあります。
私は、キリストと一つになった生き方というものは、何も誰の目にも印象に残る生き方だけじゃないと思っています。誰が見ても「あの人すごいなー」と感じる生き方だけが、キリストと一つになる生き方ではない。誰かを大切にすることで相手が生きることができる。このお互いが行う小さな働き、これが実は主の導きによるものなのだと知っている。これがキリストと一つになる生き方ではないでしょうか。そのように思うのです。
(司祭ヨハネ古澤)
2018年4月22日 復活節第4主日礼拝説教より 「一つの群れになる」 於:富田林聖アグネス教会
(ヨハネによる福音書 第10章11節~16節)
イエスが、「わたしはよい羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と言います。また「こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」とも言います。その群れには、いま導かれている人々だけでなく、これから導かれるであろう人々だけでなく、これから導かれるであろう人々も含まれています。私たちが心に留めている人も、また出会ったことすら無い人もです。
羊の顔は我々が見るとどれも同じだが、実際は一頭ずつ異なるようです。それぞれに個性があるのだとか。実際、パレスチナの羊飼いは、一頭ずつ見分けることができるそうです。
私たちはキリストに導かれて一つとなるのは、同じ価値観や同じ考え方にされる、つまり同質とされるということではなく、各々が持つ価値観や個性が尊重された上で、キリストの名のもとに一つの群れとされることでしょう。今の言葉で言えば、多様性が認められたうえで一つとなるわけです。聖書の言葉で言えば、私たちはそれぞれがキリストの体の一部とされています。
(司祭ヨハネ古澤)
2018年4月15日 復活節第3主日礼拝説教より 「キリストと私たちの交わり」
(ルカによる福音書 第24章36b節~48節)
私たちは復活のキリストに出会ったとき信じることができるだろうか。イエスの弟子たちもまた信じることができなかった。「疑いの心を持っている」とイエスに指摘されている。しかし、そのような弟子たちに対して復活されたイエスは、落胆することはなく、また咎めることもなく、弟子たちが復活を信じ、また聖書に書かれていることを理解できるよう尽力してくださる。福音書には「聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて」と書かれている。私たちが聖書を真に理解できるためには、そして復活を信じることができるためには、キリストの導きが必要なのだろう。
そのためには、キリストとの交わりが不可欠なようだ。先主日は怯えている弟子たちのただ中にキリストが来られた。これも交わりの一つの形。今日は、疑う弟子たちと一緒にキリストが食事をされた。ユダヤ社会において食事を共にすることは、真の信頼を表す。もっとも深い交わり方である。キリストはこの食事を通して弟子たちの心の目を開かせた。聖書を理解できるように、つまりイエスが復活されたことを悟らせた。これもまた、キリストが弟子たちの命に触れた瞬間であったといえるだろう。この食事は今も続いている。主日に頂く聖餐は、聖なる食事の略である。私たちは聖餐式において、いつもキリストと食事を共にしている。キリストは私たちの心の目をも開かせようとしてくださっている。
私たちは今後も多くの人と食事を共にしたい。多くの人と交わっていきたい。キリストが、疑う弟子たちから去るどころか、むしろご自分から交わりを求められたように、私たちも怯えることなく、多くの人と交わりを共にしたい。それは互いに命に触れ合うことでもある。互いに聖書を理解できるようにさせる営みでもある。なぜなら、私たちの交わりのただ中にもキリストが共にいてくださるからだ。
(司祭ヨハネ古澤)
2018年4月8日 復活節第2主日礼拝説教より 「キリストから託されたこと」
(ヨハネによる福音書 第20章19節~31節、ヨハネの手紙一 第5章1節~6節)
今日の福音書では、イエスが弟子たちに赦しの権威を譲渡します。これは弟子たちにとって、重責です。イエスは「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」と言います。一見すると、神が私たちの懺悔を聞いた後に赦しを与えてくれる、そのような権威を受けたかに感じます。しかしここでの「罪」とは、神と人との関係が正常かどうかということです。神との交わりが断たれている状態を「罪」と表現します。つまり、イエスは弟子たちに「人々と神との関係を正していくように働きなさい」と言ったわけです。
イエスは弟子たちに息を吹きかけられました。これは創世記の物語で、神がご自分で作られた人間に息を吹きかけた場面を想起させます。イエスは弟子たちに新たな命を与えると共に、重責な使命を与えられました。これが教会に連なるものの託されたことです。私たちは新しい生命と共に、使命をも受けています。託された責任が重すぎて、しんどくなってしまいそうです。
しかし今日の使徒書に目を向けると、これら一連のことがとても単純明快に記されています。「イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します」。神を愛する人は、他者を愛する。たったこれだけのことです。そしてこれは、イエスがその生涯をかけて弟子たちに、また私たちに伝えておられたこともあります。難しく考えることはなく、神から受けた愛を隣の人に繋げるだけ。たったそれだけのことです。私たちを包み込むこの神の愛の大きさにくらべれば、なんのことはありません。主の愛を感じながら、また多くの人々と歩んで行きましょう。
(司祭ヨハネ古澤)
2018年4月1日 復活日礼拝説教より 「復活のふしぎ」
(マルコによる福音書 第16章1節~8節)
今日の箇所は、復活日の出来事であるにもかかわらず、復活されたキリストが現れない不思議な物語です。福音とは「良き知らせ」を意味しますが、この物語のどこに「良き知らせ」があるのでしょうか。女性たちは恐怖のあまり口を噤んでしまったのです。
キリストの復活という究極の奇跡、つまり神さまの業の前にたつとき、私たちは一粒の種に神さまの働きを見るような、古代の人々の想像力と感性が必要かもしれません。弟子たちは先に行かれたイエスの許へ進んだのでしょうか。女性たちは恐怖から立ち上がって弟子たちに天使の伝言を伝えたのでしょうか。その答えは私たちが知っています。女性たちが証をしたからこそ、そしてそれを聞いた弟子たちが、スタート地点であるガリラヤへ行ったからこそ、教会は二千年の間続き、いま私たちはここにいるのです。
ガリラヤに集まった弟子たちは、復活のイエスに出会ったことでしょう。それは正に、神が造った命そのものとの出会いでした。弟子たちは初めてイエスに声をかけられたときと同じような姿だったことでしょう。しかし、見た目は同じでも、復活のイエスと共にいる弟子たちは、全く新しい存在でした。そこには新しい生き方をする弟子たちの姿があったのです。神さまに目を向け、キリストと一つになって生きる姿がありました。イエスの復活という命そのものに出会い、神さまの良き知らせに直面した弟子たち。新しい自分として生きて行く、そのスタート地点に立った弟子たちの物語。これが、復活の物語です。
(司祭ヨハネ古澤)