牧師の小部屋 ②
「 座右の聖句、想い出の聖句 」
「座右の書や想い出の一冊があるように、座右の聖句 や想い出の聖句もあるよな」とふと思いました。もちろんきっかけはあります。二ヶ月ほど前からホール手前の机に「ご自由にお取りください」、と新約聖書を置いています。平日に出入りする方が持ち帰って読んでくださると嬉しいな、との思いから置いていました。すると少 しずつですが減っており、聖書を読んでみようと持ち帰る方がいることがわかりました。
需要はあるわけですし、こちらとしては少しでも多くの人に読んで頂きたいので、次は外の掲示板下に聖書を ケースに入れて置くことにしました(11/27 現在は場所 だけ取っています)。しかし、ただ置くだけではもったいないので、何か工夫ができなか思い巡らせていたところ、ある方が「掲示板に聖書の言葉とそれにまつわるエ ピソードなどを貼ってはどうか。教会の皆さんに好きな聖句とその理由を募ってはどうか」とアイデアをくださいました。なるほど、掲示板に聖句だけが貼ってあるのも良いですが、その聖句にまつわるエピソードも一緒に書かれていれば、掲示された聖書の言葉が生きたものとなります。
そこで、皆さんから「座右の聖句、想い出の聖句、気になる聖句、励まされた聖句」などを募集したいと思い ます。次主日(12/4)に用紙と箱を準備しますので、ぜひ「座右の聖句、想い出の聖句、気になる聖句」をお寄せください。その後、聖愛カフェでお隣の方と聖句の分かち合いなども、ぜひ! もちろんLINE やメール、郵送も大歓迎です。
(司祭ヨハネ古澤)
2022年11月20日 降臨節前主日・子ども祝福礼拝説教より
(ルカによる福音書 第23章35~43節)
十字架にかけられたイエスさまの隣に二人の罪人がい ます。イエスさまと同じように十字架にかけられています。そのうちの一人が言いました。「私たちは悪いことをしたからその罰として十字架にかけられている。でもこのイエスさまは何も悪いことをしていない」。イエス さまのことをよく知っている人なんですね。その人はイエスさまに言います。「あなたが神さまの国に行かれたときには、わたしを思い出してください」と。この人は 「自分は当然天国にはいけないだろう」と思っているのですね。しかし、イエスさまは「あなたは今、わたしと天国にいるのだよ」と言うんですね。イエスさまにお願いした人はびっくりしたことでしょう。「え、わたし天国にいけるのですか」と。イエスさまどこにいますか。 彼と同じく十字架に架けられています。どこか高いところから下を見下ろして「あなたを救おう」とは言いませ ん。どこか離れたところでのんびりしながら、「あなたは救われた」とも言いません。イエスさまにお願いした人と同じ苦しみを受けながら、「アーメン。あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と約束されたのです。
皆さんはこれからどんどんと大きくなります。「出来ること」の選択肢が増えていきます。嬉しいことや楽しいことが沢山起こるでしょう。そして悲しいことや悩むことも起こるでしょう。そんなときは仲間や大人に相談してください。そしてどのようなときでもあなたと一緒にいてくださるイエスさまのことを、ぜひ思い出してください。皆さんがこれからも、神さまと多くの人の愛に包まれながら歩まれますように!
(司祭ヨハネ古澤)
牧師の小部屋 ①
「 知ろう、そして知ってもらおう 」
10 月26 日に小学校の「町たんけん」という授業で小学2 年生の生徒さん5人と先生、保護者の方が来会されました。先週、そのお礼状が届きましたのでホール掲示板に貼っています。ぜひご覧ください。来会した5人の生徒さんたちからは、「この教会はいつからあるのですか?」「子どもと大人、どちらが多く来ますか?」「みんなのためにどのようなことをしていますか?」といった質問を受けました。教会の歴史や礼拝のこと、色々なグルー プにホールをお貸ししていること、食事を求めて来会される方のことなどをお話ししました。付き添いの保護者 の方からも、いくつか質問を頂きました。
「町たんけん」でインタビューを受けて、いま教会が 行なっている情報発信は「教会外の人に私たちが知って欲しいと思っている事柄」であり、「教会外の方が知りたいと思っている事柄」を発信する必要もあるなと感じました。そのためには私たちが町のことを知っていく必 要があります。それは、この地域はもちろん、教会が社会に関心を持っていくことでもあります。 関心を持つといえば、教会の方とゆっくりお話しをし ていると、その方に関する新たな発見が度々あります。 牧師も今まで以上に教会の皆さんに深く関心を持ちなが ら、信仰の歩みを共に続けていきたいですし、皆さんもあまり話したことのない方との交わりをぜひ!
集まりにくい今だからこそ、ゆっくり話せる場を作って行きたいですね。もうすぐ降臨節です。キリストは私たちを私たち以上にご存知でしょうから、私たちがキリ ストを深く知ろうとする。そのような思いでもって降臨節を過ごしましょう。
(司祭ヨハネ古澤)
2022年11月6日 聖霊降誕後第22主日礼拝説教より
(テサロニケの信徒への手紙二 第2章16節)
本日の使徒書で聖パウロはこのように言っています。 「わたしたちの主イエス・キリスト御自身、ならびに、わたしたちを愛して、永遠の慰めと確かな希望とを恵み によって与えてくださる、わたしたちの父である神が」 と。「私たちの父である神」です。
私たちは毎主日に主の祈りを唱えます。「天におられる私たちの父よ」と。何かの折にふれて唱える祈りですから、私たちにとってとても身近な祈りです。だからこそ、何気なく「私たちの父よ」と口にしているかもしれません。しかし、よくよく考えればとんでもないことを言っているのです。神に対して「父よ」と呼びかけてい ます。私たちは福音書を読んでいく中で、主イエスが真に神の子であることを知っています。だからこそ、主イ エスが「父よ」と神に呼びかけることを自然なことだと 受けとめます。しかし、私たちが神を「父よ」と呼ぶことは恐れ多いことであり、不自然なことのはずです。
主イエスから「主の祈り」を直に教わったイエスの弟 子たちは驚愕したことでしょう。神に対して「父よ」と 呼びかけるように教えられたのですから。ガラテヤ書で聖パウロは言います。「あなたがたが子であることは、神が、『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります」(ガラテヤ4:6)。なるほど、私たちは神が送ってくださった霊によって、主イエスと同じように「アッバ、父よ」と神 のことを呼ぶ恵みを与えられ、それゆえに神の子とされたのです。私たちが「神の子」であり、神を「父よ」と 呼ぶことは神から与えられた大きな恵みであるわけで す。
(司祭ヨハネ古澤)