2018年7月29日 聖霊降臨後第10主日礼拝説教より 「キリストに送り出されて」
(マルコによる福音書 第6章45節~52節)
なかば無理やりガリラヤ湖へと船出させられた弟子たちは、夕方に逆風にあって前に進まなくなってしまう。それも湖の真ん中だから、戻ることもできない。そのような状態が明け方まで続いた。弟子たちにとって、その半日は永遠とも感じられるほどに長く、心細い時間だっただろう。絶望すら感じていたかもしれない。
そのような状態の弟子たちを目にしたイエスは、弟子たちのもとへ駆けつける。「弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て」と福音書には記されている。イエスは無責任に弟子たちを強いて船出させたわけではなかった。どうしようもなくなっている弟子たちの姿を見たイエスは弟子たちの乗る小船へと足を運ばれた。イエスが湖の上を歩まれたということは、キリストが行きつくことのできない場所はどこにも無いということだろう。湖の真ん中で進むことのできない弟子たちの傍らにイエスが来てくださったように、「この世の片隅でにっちもさっちも行かないわたしのところへもキリストは来てくださる。否、すでにいてくださる」。福音書は私たちにこのように語っているのではないだろうか。
私たちは聖書に導かれ、様々な選択をしながらこの世を旅している。その旅路では多くの場合、選択肢が限られる時、または選択肢が消えてしまう時がある。湖の真ん中で逆風にあった弟子たちの選択肢は、逆風によってそれまで存在していた「進む」と「戻る」が消えてしまった。今まさに「しんどいわ」と感じている人もいるだろう。そのような私たちに福音書は伝えている。「キリストはあなたがたを放ってはおかない」と。そしていつも共にいてくださるキリストは言う。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」と。そしてこうも言う。「あなた方が彼らの所に行きなさい。」とも。
(司祭ヨハネ古澤)
2018年7月22日 聖霊降臨後第9主日礼拝説教より 「キリストに養われて」 於:富田林聖アグネス教会
(マルコによる福音書 第6章30節~44節)
本日の福音書には「これに対してイエスは、『あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい』とお答えになった。」という箇所がありました。様々な町に派遣された12人の弟子たちが宣教を教えて帰ってきますが、イエスのいる家には四六時中人の出入りがあるため、彼らはほっと一息つくこともできません。「疲れただろう、人里離れたところで休んでおいで。」とイエスが弟子たちに言います。弟子たちは休憩するために人里離れた所へ行きますが、やはり人々はついて来ます。イエスはそのような人々を見て、心を揺さぶられ、教え、夕方になりました。弟子たちは「もういいだろう。彼らから離れてほっとしたいよ。」と思ったかもしれません。食料もほんの少ししかない。手元にはパンが5つと魚が2匹だけです。とても沢山の人達を養うことができません。それなら、彼らをここから追い払って、自分たちで食事をさせてきた方がよい。合理的だし、自分たちも一息つけます。弟子たちはその提案をイエスにしました。その返事が先ほどの聖書箇所です。
今日は今一度確認しましょう。私たちは皆キリストから直接恵みを受けています。イエスが人々にパンと魚を分けられたように、私たちが日々口にする食べ物も、そして日々生きる原動力となる魂の平安も与えられたものです。私たちが困難な時、しんどい時、キリストは私たちを追い返したりはしないんです。み言葉によって、そして食事でもって養ってくださいます。このことを思い出しましょう。
だからこそ、イエスは言います。「元気になった?お腹もいっぱいになった?じゃあ、次はあなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」
(司祭ヨハネ古澤)
2018年7月15日 聖霊降臨後第8主日礼拝説教より 「神さまがあなたを選んだ」
(マルコによる福音書 第6章7節~13節)
私たちは大阪聖愛教会、チーム聖愛です。監督はイエス様ですので、チーム・イエスが正式名称です。そのチームに一人の人が与えられました。今日按手を受けたMさんは、チーム聖愛、チーム・イエスの一員となって神と人とに仕える歩みが始まります。神さまから「私の手足となって働いてください」と、弟子たちと同じように、Mさんは選ばれたわけです。そこには弟子たちを選ばれたのと同じ、神さまの選びがあったことを憶えましょう。
さて、選ばれた人の新しい歩みにおいて、何を大切にして生きたらいいか、今日の福音書が教えてくれます。
イエスさまは選ばれた弟子たちを呼び寄せ、二人ずつ組みにして派遣します。近所の村々に派遣します。私はその身軽な旅姿に驚きます。旅には杖1本、パンも袋も金も、ただ履物は履くように、しかし下着は2枚着てはならない。杖は羊飼いの杖、羊は弱い動物ですので、オオカミや獣がやってくるとすぐやられてしまう。羊飼いは獣から羊を守るため杖を持っています。
身を守るものは杖一つ。ただただ神さまがお守りくださっていることに信頼して、神さまにより頼んで歩めということです。また二人ずつというのもそうですが、支えてくれる人を信頼して歩みなさい。お世話してくれる家に留まりなさい。金や持ち物に頼るのではなく、仲間同士を信頼して生きる。信頼関係を大事にして歩めということです。さらにイエスは人ひとりに力をお授けになります。これは汚れた霊に対する力ですが、やっつけるとか退治する力でなく、それと対していく、向かい合っていく力をお与えになります。
(主教アンデレ磯)
2018年7月8日 聖霊降臨後第7主日礼拝説教より 「自分を大切にする」
(マルコによる福音書 第6章1節~6節)
私たちは神に祈る時、しばしば「父なる神よ」や「全能である神よ」と神さまに呼びかけます。「全能」と言う時、全てを超越しているような、全ての能力を持ち何でも出来る、といったイメージが浮かぶかもしれません。しかし、新約聖書で「全能」を表す言葉は「万物の支配」や「万物の所有」を意味します。すべての所有者である神は、私たち一人一人の人生も含めて、所有するすべてのことに目を注ぎ、愛してくださっているということです。
私たちも様々な物を所有しています。修理しながら長年大切にしている物もあれば、壊れてそのまま処分する物もあります。私たち自身を自分が所有する物に例えるのは乱暴かもしれませんが、神さまは私たちを誰一人として途中で見捨てることはされません。むしろ私たちを大切にするあまり、ご自分のひとり子を十字架にかけられたのでした。この世界で起こる様々な困難や悲しい出来事について、そして私たちの人生に起こる悲嘆について、私たちと同じように涙を流す神の姿、キリストの姿がそこにはあります。また、私たちに起こる喜ばしい出来事、心から感謝する出来事に対して、同じように目じりをさげ、満面の笑みを浮かべるキリストの姿が「全能」という言葉には込められています。
神を中心に物事を捉えることは、私たちが理解できないことに直面した時に思考停止しろ、ということではありません。そうではなく、理解できないことが起こった時、特にそれが悲しみや困難や悲惨な出来事であった時、私たちが神さまから大切にされていることを忘れないことであり、自分を大切にすること、愛することでもあります。一言でいえば、神からの愛を受け入れること、そして何より、キリストに信頼を置くことにほかなりません。
(司祭ヨハネ古澤)
2018年7月1日 聖霊降臨後第6主日礼拝説教より 「私たちの教会」
(マルコによる福音書 第5章22節~24節、35節b-43節)
「教会」には様々な側面がありますが、重要なことは教会は集会所ではないということでしょう。教会は建物である前に人の集まりです。イエスを救い主、キリストであると信じる人々の集まりですから、そこにはまず人間がいます。私たちが人生の歩みにおいて、輝きに溢れるときも暗闇を歩いている時もあるように、教会の歩みも同じです。希望に満たされるときもあれば、中々希望を見いだすことができないときもあります。
今日の福音書では、信じることの重要性が記されています。すでに死んでしまったヤイロの娘を前にして、イエスの「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ」という言葉は、人々にとって滑稽で的外れな言葉でしかありませんでした。しかし、一人娘を心から想うヤイロにとっては救いの言葉だったでしょう。大の大人がイエスの足元にひれ伏するというヤイロの姿は、ユダヤ人男性からみて恥ずべき行為だったはずです。そこまでしてでもヤイロは娘を救いたかった。そのヤイロの心からの叫びにイエスは応えてくださったのです。神にすがる、神に心からの信頼をおくヤイロの祈りが訊かれた瞬間でした。
私たちの宣教が、福音を伝えたいとの想いが無駄にならないという希望が見えてくる物語ではないでしょうか。ヤイロが恥を承知でイエスの足元にひれ伏したように、私たちには泥臭さを伴なう時期も必要なのかもしれません。
私たち人間が一人で生きていけないように、教会も単独では生きていけません。それは、私たち個人がキリストの体の一部分であるように、教会もまた、キリストの体の一部分だからです。
(司祭ヨハネ古澤)