2023年4月30日 復活節第 4 主日礼拝説教より
今日の福音書では、主イエスが門であるという羊の囲いについて、主イエスが話をされました。羊飼いの声を聞き分ける羊です。羊の囲いに入ってくる羊を、門である主イエスは分け隔て無く迎えてくださいます。
教会は主イエスを救い主と信じる人々の群れです。そしてキリストの働きに参与する人々の群れです。ですから、教会は出自や職業や置かれている立場に拘わらず、文字通り誰もが足を運び共に祈り交わることのできる場でありたいと願います。
しかし、心では強くそう思っていても、中々実際はそうはいかない時もあります。そこは、私たち心を合わせて理想に近づいていきましょう。
逆に、私たちの側から教会と距離を置くこともあるでしょう。私たちがしんどい立場に置かれたとき、病に倒れたとき、自分の弱くなった部分を見せたくないな、と感じることがあるかもしれません。今の社会では、そうでしょう。病気で倒れることすら健康管理がなっていない、自己責任と言われます。しかし、主イエスが宣教を始めたとき、最初に足を運んだのは病気の人、しんどい立場に置かれている人のところでした。その人々を羊の囲いへと最初に招かれたのです。
出自や職業や置かれている立場に拘わらず招かれる主イエスは、私たち自身がどのような状態であっても変わらずに招いてくださる。いや、私たちが弱い状態になっているときにこそ、私たちを羊の囲いへと運んでくださる。本日の箇所からはそのような主イエスの姿が浮かんできます。
(司祭ヨハネ古澤)
牧師の小部屋 ⑩
「礼拝の中のことば」
聖餐式の中で語られる「言葉」(聖書や説教、祈りの言葉)について、ヘンリ・ナウエンはこのように言います。少し長いですが引用します。
「主の霊がわたしの上におられる、/貧しい人に福音を告げ知らせるために/主がわたしに油をそそがれたからである。/主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、/主の恵の年を告げるためである。(ルカによる福音書 第4章18~19節)
これらの言葉を読んだ後、イエスは言われました。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」この苦しんでいる人びと、捕らわれている人びと、目の見えない人びと、抑圧されている人びととは会堂のどこか外にいて、いつの日か解放される人びとのことではなく、今、ここで聴いている人びとのことだ、そのことがこのイエスの言葉で突然明らかになります。聴くことの中に神が現存し、癒やすのです。/神の言葉は、いつか後でわたしたちの日常生活の中で役立たせるための言葉ではありません。神の言葉はわたしたちが今、ここで、聴くことの中に、聴くことを通して癒やす神の言葉なのです。」(ヘンリ・ナウエン・影山恭子訳『燃える心で』36頁)
礼拝で語られる言葉は単なる情報伝達のツールではなく、私たちを神への感謝と賛美へと向かわせ、それらを私たちの日常へと招くよう促します。だからこそ会衆、奉仕者、司式者が心を合わせ、一つ一つの礼拝を大切に感謝と賛美の祭りを献げましょう。
(司祭ヨハネ古澤)
牧師の小部屋 ⑨
「文明の時間」と「自然の時間」
相田和弘(そうだかずひろ)さんという映画監督がいます。BGMのない、自ら「観察映画」と呼ぶドキュメンタリーを作成されている方です。ニューヨークで生活をされていた相田監督はコロナ禍を契機として岡山県の牛窓に移住され、ニューヨークでは経験しなかった「循環する時間」に癒やされて永住することを決心します。
相田監督は内田樹さん編集の「撤退論」の中で、詩人の山尾省三さんが語る時間の形を紹介しています。一つは「文明の時間」、もう一つは「自然の時間」です。
「文明の時間」は必ず前に進み、後戻りすることはない時間です。「たとえば文明社会の道具や科学技術は、必ず昨日よりも今日、今日よりも明日には進歩するのであって、後退したりしません(120頁)」。それに対して「自然の時間」は循環し回帰します。日本では毎年四季が巡るように、前に進むことはありません。人間も「自然の時間」に属します。「人間は誰しも、生まれ、成長し、老いて、死んでいきますが、このサイクルもやはり進歩しない(121頁)」のです。
教会の暦も「自然の時間」を歩んでいるな、と感じます。降臨節に始まり、主の降誕、顕現、主の十字架と復活、聖霊降臨、主の昇天を主と共に歩み、聖霊降臨後の一時主イエスと宣教の旅に出かけます。そして終末を経験し、主の降誕を迎え・・・この循環する時間の中で私たちは自身の信仰を養い友におられる主イエスを身近に感じ、自身の経験を誰かに手渡す。時々そこに癒やしが起こり主の導きを感じることがあるのは、教会が「文明の時間」ではなく「自然の時間」とも言える神さまの時間を生きているからかもしれません。
(司祭ヨハネ古澤)
2023年4月9日 復活日主日礼拝説教より
今日は復活日、イースターです。十字架にかけられ死なれたイエス・キリストが復活された。そのことを記念します。キリスト教会で最も古い祝日です。
聖書にある「復活」のもとの意味は「起こす」や「目を覚まさせる」の受動態です。つまり、「起きあがらせられる」「目を覚まさせられる」です。では、誰によって主イエスは起き上がらせられたのでしょう。そう、神さまによってです。神さまが主イエスを起き上がらせられた、起こされたのです。それが復活日の出来事です。
そして、最初の復活日にはもう一つの出来事がありました。それは主イエスの弟子たちが目を覚まさせられたのです。主イエスの復活に関する物語はいくつかありますが、その中には復活された主イエスに出会った弟子たちが、最初は目の前にいるのが主イエスだと気づかない、というものがいくつかあります。しかし、その人と話をしているうちに、「あ、この人イエスさまなんや」と気づくのですね。気づかされる、目覚めさせられるのです。目覚めさせられた弟子たちは、気づき以上のものを手にします。「あ、この人イエスさまなんや。ほんまに復活されたんや。イエスさまが私に教えてくださったことはほんまやったんや。神さまはいつも僕のことを見守ってくださってるんや」。「イエスさまが神さまやって信じていいんや」。弟子のペトロは「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました」と人々に語りました。復活された主イエスによって目覚めさせられペトロ。このペトロを通して多くの人がキリストに出会っていきます。その働きは今を生きる私たちにまで及びました。この大きな恵を私たちも誰かに手渡していきましょう。
主のご復活おめでとうございます。
(司祭ヨハネ古澤)
2023年4月2日 復活前主日礼拝説教より
十字架につけられた主イエスに向かって、そこを通りすがった人は言いました。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架 から降りて来い」。この人が発した言葉は、私たちが5 週間前に分かち合った福音書箇所を想い起こさせます。
5週間前、私たちは荒野で悪魔から誘惑を受ける主イエスの物語を聞きました。悪魔は主イエスに言います。 「神の子なら、飛び降りたらどうだ」。悪魔は主イエス に、神が自分を守ってくれるか神を試すよう迫りまし た。今日また、通りすがりの人物を通して主イエスは誘惑を受けています。「自分のために、神の子としての力を使ったらどうだ」と。
この二つの誘惑の言葉を聞くとき、私たちは今日の使徒書で読まれた一節が浮かびます。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず」(フィリピ2:6)、つまり「神と等しい 身分を手にしているにも拘わらず、それを手放して」ということです。主イエスは神と等しい身分を手放してお られました。それは私たち一人ひとりを救うためでした。
大斎節の2~5週目を通して、私たちはその人一人ひとりに働かれる神の業を知りました。同時に、福音書で語られる主イエスの働きは今を生きる私たちが信じる者へと変えられるため、信じ続ける者、主イエスに倣う生き方ができる者へと変えられるためであることを知りました。主イエスは、ご自身に与えられている特権を何一つご自分のために使うことなく、主イエス自身が出会った人々のために、そして時間を超えて今を生きる私たちのためにその力を使われたのでした。
(司祭ヨハネ古澤)