2022年2月20日 顕現後第7主日礼拝説教より
ルカによる福音書第6章27節
主イエスは「わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」と言います。しかし、「イエスさま、それは到底受け入れられない言葉です」と感じる時があります。松岡虔一司祭が語る「まさに私たちは色を失った枯野の草であり、み恵みの雨を切に求めた」とき。皆さんもそれぞれの人生において、「色を失った枯野の草」となったとき、「み恵みの雨を切に求めた」ときがあると思います。明確な「敵」はいなくとも、誰かに親切にするなど無理だ、と感じる時があると思います。そして時には、自分自身が自分の「敵」となることもあります。
主イエスは言います。「あなたがたは敵を愛しなさい」と。それはいと高き方の子、つまり神の子となることだと。「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」と。
それは敵であれ誰であれ「好きになりなさい」ということではないでしょう。そうではなく、「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」と主イエスが言うように、「敵」も神の似姿に創られた一人の人間であると確認することでしょう。なぜなら、「愛する」とは相手を「大切」にすることであるからです(ギュツラフが「お大切」と訳したように)。主イエスは律法を守る一方で、守ることのできない人々を人として接しない、律法学者や祭司たちを厳しく糾弾しました。これもまた、神に向き直るようにとの、主イエスが彼らを愛した(大切にした)一つの形です。
「敵を愛せよ」との主イエスの言葉。荒唐無稽に感じられる言葉ですが、キリストが私たち一人ひとりに向けての姿勢とも言えます。「わたしにはこういった欠けがある。だから主イエスは私を愛してくれない」ではないということです。「あなたが言う通り、あなたにはこう言った欠けがある。でも、それをひっくるめてあなたを愛していいるよ」とのイエスの姿勢です。
1945年8月9日、長崎に原爆が投下されました。その四日後、松岡安立司祭は「焼失した教会を見に行こう」と家族を連れて聖三一教会を訪れます。松岡虔一司祭は当時を振り返り、「教会の敷地には余熱で入れなかった。道路から一面灰となった教会跡を眺めた。祭壇付近に洗礼盤の石がころがっていた。父はそれを見て号泣した。初めて父の涙を見た」と語ります。焼け崩れた長崎聖三一教会で、安立司祭が涙ながらに歌った聖歌468番。4節は「輝きあふるる/みあと慕いて/信じてしたがう 道はうるわし」と歌います。荒唐無稽な言葉を私たちに伝えるキリスト。しかし、私たちに注いでくださる愛を感じて、キリストの愛を信じて従いましょう。私たちが流す涙から目を背けるのではなく、共に涙してくださるキリストです。み恵みの雨を受けながら、共にキリストの愛を高らかに歌いましょう。
(司祭ヨハネ古澤)
2022年2月13日 降誕後第6主日礼拝説教より 於:聖ガブリエル教会
柳美里という作家がいます。とても繊細な作品を書く作家さんです。横浜の黄金町が舞台の「ゴールドラッシュ」や「命」という作品が有名です。その柳美里さんが最近コロナに罹患して、その時の状況をSNSで詳細に報告されていました。コロナはただの風邪ではない、と。ある人が柳美里さんの報告に対して「それは主観だ。データで語っていない」と告げます。それに対して柳美里さんは「小説家の役割の一つは、データ(数値・数量・統計)から、一人の人間を救い出すことです」と返しました。データは確かに大切ですが、一つの数字の中にはひとりの人間が確かにいて、データがどのように語ろうとコロナの症状で苦しんでいる人が実在するわけです。小説家は、そのひとりにこそ焦点をあてる必要がある」と柳美里さんは言うわけです。
私たちは毎日、感染者〇〇人、重症者〇〇人、死者〇〇人、無症状〇〇%と言った風に多くの数字に触れます。しかし、その数字はただのデータではなく、10万人であれば10万通りの症状があり、熱や喉の痛みに耐える人があり、入院する人がいます。仕事を休む人、発症した子どもに心を痛める人がいます。キリストに連なる私たちもまた、柳美里さんの言うように「データから一人の人間を救い出す」ことを使命の一つとされているはずです。コロナだけでなく、多くの数字の奥にいるはずの一人ひとりの人間、人に心を向けて祈り・行動をしていきたいと願います。
今日は、そんな「ひとり」にこだわってくださるキリストについて分かち合いましょう。題をつけるなら「あなたを大切にするキリスト」となるでしょうか。
ペトロ達漁師は、捕れた魚を選り分ける仕事がありました。ユダヤ人は律法で鱗のついていない魚を食することが禁じられていたからです。ですから、漁師は鱗のついていない魚を湖へ戻すか異邦人に対して売っていました。しかしイエスは選り分けません。「私を信じている人だけおいで」とは言わないし、「あなたは来ても受け付けない」とも言いません。イエスを信じていなかったペトロに最初声をかけたように、キリスト者を迫害していたパウロに声をかけたように、律法で罪人とみなされていた病人や悪霊につかれた人を癒やされたように、イエスは全ての人を招いてくださる。その一人ひとりに目を注いで。だからパウロも、自分の生き方を正されたにも拘 かかわらず、感謝をもって宣教を行っていけたのではないでしょうか。
私たちはデータではありません、確かに存在する一つの人格です。イエスがペトロを漁師の一人としてみるのではなく、「ペトロ」その人として出会ったように、あなたにイエスは声をかけてくれました。だからこそ、主の働きに参与する私たちも、出会いを大切にしたいと思います。私たちは倒れても再び立ち上がることができる。小さな復活をすることができる。そのようなキリストとの歩み、キリストに連なる多くの人との歩みを続けて参りましょう。
(司祭ヨハネ古澤)