2019年3月31日 大斎節第4主日礼拝説教より 「キリストの赦しと愛」
(ルカによる福音書 第15章11節~32節)
この物語のクライマックスは、次男が父のもとへ帰る決心をする場面、そして父親が彼を迎える場面でしょう。「そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。」の箇所です。次男坊は恥を忍んで父親のもとへ帰る決心をしました。そして、父親はボロボロの姿で帰ってきた次男坊を、彼が遠くにいるにも関わらず、見つけ、走り、次男坊の首の上に落ちるようにがしっと抱きしめるのです。
人は何ヶ月も髪の毛を洗わないと、髪の毛は油でかちかちになります。体も汗で酸っぱいような甘いような臭いが漂います。でも、父親はそんなことは構わなかった。嬉しかったのです。毎日息子の帰りを待っていたのでしょう。家の外でずっと待っていたのでしょう。だから、遠くにいる次男坊を見つけることができたのでした。
これが、キリストの赦しです。愛です。たとえに出てくる長男が言うように、「あなたのあの息子が娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる」のです。人の感覚というものをたとえの長男は代表して言ってくれているのでしょう。「あんなやつを赦すのですか」と。でも、キリストは諸手を挙げて迎え入れます。その時のキリストの想いを物語の父親は代弁しています。「しかし、今は祝宴をあげ、喜ばずにはおられないではないか、このお前の弟は死んでいたのに生き返った、失われたのに見つかったのだよ。」こんなに、私たち一人一人をキリストは気にかけてくださっている。愛しておられるのです。
(司祭ヨハネ古澤)
2019年3月16日 プール幼稚園卒園礼拝メッセージより
幼稚園では楽しいこと、うれしいことがたくさんあっただろうし、悲しいことも元気がなくなったこともあったかもしれません。小学校に進んでも、うれしいことも、楽しいことも、悲しいことも、元気がなくなることも、色々なことがあると思います。でも、君は光の子です。神さまがいつも一緒にいてくださる。「光の子として歩みなさい」というのは、「君がいま、ここにいることが何よりも素晴らしい。だから、胸をはって大きくなってください。」ということでもあります。どうぞ、光の子として歩んでください。
保護者の皆さま、今日は本当におめでとうございます。「のっぽさん」として有名な高見嘉明さんは、子どものことを「小さい人」と表現します。よく子どもは「まだまだ何も分かってない存在だから」と思われがちですが、そうではない。小さいながらも一人の人として色々なことを考えて、また見ているよ、とのっぽさんは言うんですね。
子どもは神さまからの贈り物であると同時に、一人の人ですよね。これからはどんどん、「大きな人」へと向かっていきます。「あなたが存在することが素晴らしいのだよ」と、伝えていきたいですね。私たちもまた、光の子ですから神さまに大切にされている存在です。そして、子どもたちを照らす光でありたいですね。
父と子と聖霊のみ名によって アーメン
(司祭ヨハネ古澤)
2019年3月17日 大斎節第2主日礼拝説教より 「命を懸ける」
(ルカによる福音書 第13章31節~35節)
「わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない」とイエスは言います。「進みたい」ではなく、「ねばならない」のです。ここに、イエスの決意が見て取れます。何とか神さまの想いをやり切ろうという決意です。十字架にかけられ自分の命を失ってでもやり遂げようという想い。まさに命がけの道程でした。
私たちは必死に何かを行うとき、「命懸け」という言葉を用います。「命懸け」の「懸」という字は、「かかげる」や「示す」の他に「離れないようにする」、「つなぐ」という意味があるのですね。まさにイエスは十字架の死と復活をもって神の愛を示されました。それだけでなく、神と私たち一人ひとりを繋がれたのでした。私たちがそれぞれ神に繋がるということは、私たちがお互いに繋がり合うことでもあります。「私は葡萄の木。あなたがたはその枝である。」とイエスは言います。私たちが神と繋がる時、同時に私たちは互いに繋がります。支え合うよう促されています。お互いに愛し合うよう、大切にし合うように招かれています。そのためにキリストは命を懸けました。どこまでも神の想いに従ったのでした。私たちがその思いに応えるとき、神の愛を深く知る時、全ての人が「生まれてきてくれてありがとう」という父なる神からの声を耳にするのではないでしょうか。
私たちの命を、神と繋げてくださるキリストに想いを馳せて、この大斎節を過ごしましょう。
(司祭ヨハネ古澤)
2019年3月6日 大斎始日礼拝説教より 「断食と十字架」
(マタイによる福音書 第6章1節~6節、16節~21節・イザヤ書 第58章1節~12節)
何らかの報いを期待して断食を行った人物と神さまとの会話が、イザヤ書第53章3節に記されています。断食は形式的な行い(5節)ではなく、実質的な行いであると神さまは言います。それによれば、断食と今日の福音書で語られる善行(施し)は同一の行いと言えそうです。そして、預言者イザヤを通して語る、神さまが示す断食はイエスさまの行いそのものであり、イエスさまが語られる愛そのものです。
イエスさまは、静かな夜に人里離れた場所の山に入って、一人で祈ることが度々ありました。イエスさまが何を祈っていたのかはほとんど書かれていません。唯一、イエスさまが捕えられる直前、ゲッセマネの園で祈られた言葉が残っています。そこでは、できることなら十字架にかかりたくないというイエスさまの想いと、しかしそれでも神さまが望まれることに従うという、神さまへの想いが祈られています。それは、全ての人のために神さまに従うのだ、とのイエスさまの愛が示されている一場面です。すべての人のために、文字通り自分自身を施す、究極の断食と言えるでしょう。
イエスさまの断食は祈りに支えられてました。祈りをもってこの大斎節(四旬節)を過ごしましょう。それは、誰かに施すためだけではありません。キリストから受けている大きな愛を再確認するためでもあります。
(司祭ヨハネ古澤)
2019年3月10日 「東日本大震災から8年を迎えて」
東日本大震災が起こってから8年目の3月11日を迎えました。今なお多くの方々が仮設住宅での生活を余儀なくされていますし、他府県へ避難している方も多くいらっしゃいます。
私事ですが、私が初めて教会での勤務が始まったのは大震災の年でした。大震災が起こったときは実家がある大阪狭山市内を車で走っており、地震の揺れにすら気づきませんでした。実家近くの工場で車を点検して頂いている間、待合室のテレビでワイドショーをぼーっと観ていました。すると、どこかの港が波にのまれていく映像がいきなり目に入ってきて、「なんやこれは」と心で叫んでいたのを覚えています。どうやら地震があったらしい、しかもかなり大きな地震だったらしい、ということだけは分かりました。
地震のエネルギー量を示す「M(マグニチュード)」。あの数値が1上がるというのはとても大変なことなんですね。お恥ずかしい話、震災が起こってからそのことを知りました。
1923年の関東大震災が大体M8。正確には7.9。阪神淡路大震災がM7。正確には7.3。そして東日本大震災がM9。Mが1上がると、その地震で発生するエネルギー量は32倍。2上がると1,000倍だそうですね。今更ながら驚きでした。エネルギー量の詳細は私には分かりませんが、数字だけを見ても地震の大きさが感覚としてわかります。
8年前の4月、初めて教会での勤務が始まって早々に、大阪教区からの救援物資を東北の教会に運ぶお手伝いをさせて頂きました。10日間の滞在だったと思います。その間、新地町や岩手県の釜石に物資を運ぶお手伝いをしました。まったく役に立たなかったと思います。被災地の光景があまりにも凄惨でしたから、頭が完全に真っ白になっていました。
東北での短い滞在から大阪へ帰ってきたとき、梅田でやけ酒を飲んだのを覚えています。こんなことが起こったことが、そして無力な自分が無性に腹立たしかったからです。青臭いことを言っていますが、そう感じていました。
ほんの数分の地震の揺れで、私たちの日常は大きく変えられてしまいました。私たちは自分がもろい存在であり、与えられた命を生きている存在であることを知るとき、「当たり前」だと思って生きていた日々が、実は当たり前でないことに気づき、今私たちが存在していることの尊さに気づきます。
生かされている私たちが忘れてはいけないことは、「忘れない」ことでもあります。震災と津波で命を失った人々を忘れず、原発事故は起こり得ることを忘れず、仮設住宅で暮らす人や避難生活を送っている人がいることを忘れず、復興工事が現在も行われていることを忘れない。忘れないことが祈りにも通じるのではないでしょうか。東日本大震災から8年を迎えるにあたり、被災地を覚え、また私たちの日常でも「忘れない」ことを大切にしていきましょう。
(司祭ヨハネ古澤)
2019年3月3日 大斎節前主日礼拝説教より 「もう一度、確認しよう」
(ルカによる福音書 第9章28節~36節)
本日の福音書は「この話をしてから」という言葉で始まります。どのような話をイエスさまは話されていたのでしょう。それは、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」というイエスさまご自身の死と復活についての予告でした。また「わたしとわたしの言葉を恥じる者は、人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いてくるときに、その者を恥じる」つまり、「心からイエスを信頼せよ」という言葉でした。
これらの話をしてから8日ほど経ったとき、イエスさまは弟子の中からペトロ、ヨハネ、ヤコブの三人だけを連れて山に登り、祈りました。するとイエスの体が輝き、モーセとエリヤが現れてイエスさまがエルサレムで迎える最後について語り出したのでした。弟子たちは驚いたでしょうか、それとも恐れたでしょうか。驚き、また恐れたかもしれません。しかし、8日前にイエスさまが弟子たちに語ったことが確証されたのでした。
そして、現れた雲の中から声が聞こえます。「これはわたしの子、選ばれた者、これに聞け」と。出エジプト記を見れば、モーセがエジプトから約束の地へと同胞を導いた際、モーセは雲の柱に従いました。雲は神さまがそこにおられることを示します。主が言われたのです。「イエスは私の子だ。私が彼を選んだ。彼の声に耳を傾けて従いなさい。」と。
一連の出来事を見て、この声を聞いた弟子たちは誰にも話しませんでした。恐ろしくて話せなかったのでしょう。キリストであるはずのイエスが死を迎えるということが、理解できなかったのかもしれません。イエスさまとイエスさまの言葉を心から信じることができなかったのでした
私たちはどうでしょうか。心の底から信じ、語ることができるでしょうか。ただ語るだけであれば、相手の心に届くことはないでしょう。これは私自身に向けてのことでもあります。主イエスのご復活の日を迎える備えの期間、大斎節が目前です。もう一度、自身を振り返ると共に、「これに聞け」と言われたイエスさまの声に耳を傾けましょう。
(司祭ヨハネ古澤)