2018年2月25日 大斎節第2主日礼拝説教より 「主の想いに従う」
(マルコによる福音書 第8章31節~38節)
私たちはそれぞれが自分の想いや願いを持っています。それは優先度の低いものから深刻な願いまで様々であると思います。イエスさまの弟子であるペトロたちも自分の願いを持っていました。イエスさまがイスラエルの王となり、自分たちは王であるイエスさまの側近や要職に就くといったものでした。そのような願いを持つペトロにとって、イエスさまの「多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」という教えは受け入れがたいものだったでしょう。もちろん純粋に、イエスさまが殺されてしまうことを避けたかったという想いもあったと思います。ペトロは「そのようなことがあってはなりません」とイエスさまを止めようとします。しかし、イエスさまはどこまでも神さまの想い・願いに従順であるよう弟子たちに教えるのでした。これは時に厳しい道のりでもあります。キリストの受難の物語が示す通りです。
では神さまに従順である私たちは、自分の持つ想いや願いを押し殺して生きなければならないのでしょうか。そのようなことは無いようです。イエスさまは捕らえられる直前、ゲッセマネの園でこのように祈っています。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」自分が持つ想い・願いはきちんと神さまに伝え、その上で神さまが示された道を進む。それがイエスさまの願いではないでしょうか。
(司祭ヨハネ古澤)
2018年2月14日 大斎始日礼拝説教より 「自身を見つめる」
(マタイによる福音書 第6章1節~6節, 16節~21節、 ヨエル書 第2章1節~2節、12節~17節)
旧約日課を通して、神さまは私たちに「心を引き裂け」と言います。旧約聖書にも新約聖書にも出てきますが、ユダヤの人々は心底悲しいときや怒るとき、また後悔したとき、つまり心が大きく揺さぶられたとき、着ている衣服を引き裂くことで、その感情を表現しました。「私は悔いているぞ」「わたしは怒っているぞ」と目に見える形で周囲に示したわけです。しかし今日の日課では、「あなたが悔い改めるのなら、そのような目に見える形で示すのではなく、あなたの心を引き裂きなさい」と言います。どのようなとき、心が引き裂かれるでしょうか。
イエスを三度知らないと言ったペトロが「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言ったイエスの言葉を思い出し「いきなり泣き出した」状態。後悔しても仕切れない状態。これも心が引き裂かれる状態の一つではないでしょうか。
ペトロは心がかき乱される経験を経て、徹底した回心へと導かれました。それは使徒言行録をはじめ、ペトロの活躍が存分に示しています。「心を引き裂く」とは、別の表現をすれば「古い(今までの)生活態度を改め、徹底した回心と新しい心を求めること」と言えます。これは、私たちの教会生活でいえば、洗礼を受けることによって私たちが体験したことでもあります。古い自分に死に、キリストをまとった新しい自分に生まれる。これもまた心を引き裂く経験でありました。
わたしは洗礼の際の誓約もそうですが、聖職按手時の誓約を思い返すとき心がかき乱されます。「ああ、誓約と随分違う姿が今あるなあ」と。神さまから外れたところに立つ自分の姿を振り返るとき、そこに自分の罪が見えてしまいます。
自分の姿を振り返るとき「ああ、自分はだめだな」と想うことは恐らく沢山見つかると思います。しかし人間は自分のダメと感じるところは見つけやすい生きものでもあります。神さまにしっかりと向き直ることは必要ですが、自分はダメな人間だと悲観し続ける必要はないはずです。今日の使徒書にはこのような一文がありました。
「わたしたちは人を欺いているようでいて、誠実であり、人に知られていないようでいて、よく知られ、死にかかっているようで、このように生きており、罰せられているようで、殺されてはおらず、悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています」。私たちが持っているもの。キリストからの愛、導き、支え。再度自分自身を見つめ直してみましょう。私たちがどれほど神から愛されているか。そして私たち自身がどれだけ深い愛を持っているか。
(司祭ヨハネ古澤)
2018年2月4 日 「キリストの手を握ろう」
(マルコによる福音書 第1章29節~39節)
瀕死の状態であったペトロの姑をイエスが癒やしました。その場面を福音書はこう語っています。「イエスがそばに行き、手を取って起こされると、熱は去り、彼女は一同をもてなした」(31節) 。イエスが彼女の手を取って起こす、その瞬間熱はどこかへ去ってペトロの姑はイエス一行をもてなすほどに回復したのでした。
「手を取って起こされる」。この「起こす」は「復活される」と同じ言葉が用いられています。そして「立ち上がらせる」という風にも訳すことができる言葉です。どうにも辛くて、困難でどうしようもない状態。誰もが経験あることだと思います。しかし、キリストは私たちの手を取り起こそうとしてくださる。立ち上がらせようとしてくださる。このようなキリストの姿が描かれています。
私たちは日常の中で余裕を持つことが中々できません。イエスは忙しく時間を過ごしたときは、独り山へ退いて祈りの時間を持ちました。祈りは神さまとの対話の時です。私たちは忙しいとき、神さまのことを忘れてしまいがちです。そして、困難な状態で余裕がないと、すべてのことを独りで抱えこんで重荷に押しつぶされてしまいます。余裕がないと、キリストが手を差し延べてくださっていることに気づきません。どうぞ皆さん、祈りの時間を持って下さい。そしてキリストの手をしっかりと握り返してください。そして、私たちを引き起こしてくださるキリストに身を任せてください。キリストは何とかして私たちの手を取ろうとしてくださっています。この喜びを共に伝えて行きましょう。
(司祭ヨハネ古澤)