2022年1 月23日 顕現後第3主日礼拝説教より 於:聖ガブリエル教会
ネヘミヤ記第8章2~10節、ルカによる福音書第4章14~21節
イエスの時代のユダヤ教の教会(礼拝所)は、会堂(シナゴーグ)と呼ばれていました。そこの礼拝では、日課に従い律法の書と預言者の書が朗読され、ヘブライ語での朗読は庶民にわかるようアラム語に訳され、そしてみ言葉の解き明かしが行われました。イエスもそのような礼拝の場で人々に解き明かしをしていたわけです。本日の福音書ではイエスは預言者イザヤの巻物を朗読したとあります。
「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」
今日の旧約日課では、バビロン捕囚後の人々の姿を見ましたが、イエスが朗読した箇所は、正にバビロン捕囚の時代に預言された箇所です。貧しい人に福音を告げ知らせるため、メシアが来られる。主の恵みの年を告げるためにメシアが来られる、と。主の恵みの年、ヨベルの年と呼ばれる制度ですが、つまり全ての負債から解放される。奴隷から解放され、借金の形に取られていた土地が返却される。そのような重荷を下ろしてくださるメシアの到来が預言されている箇所でした。
イエスは言います。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と。皆さんは、「今日」という言葉を一月ほど前に礼拝堂で耳にしませんでしたか。おそらく耳にしているんです。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。」という言葉。そう、クリスマスに羊飼いたちが聞いた言葉です。「今日」という言葉。他にもザアカイの家にイエスが行かれたとき、「今日、救いがこの家を訪れた」とイエスは言います。この「今日」という言葉は、明日とか明後日に対しての今日ではなくて、今ここで、神の救いが現れた、神の力が満ち満ちている、約束が実現している、ということなのですね。
そしてさらに、イエスは言います「あなたがたが耳にしたとき、実現した」。「耳にしたとき」という言葉は、原文では「耳の中で」とあります。聞こえたとき、という事では無く、場所を示しているのですね。つまり、「あなたたちが聞いてくれたから実現した」ではないのです。神の言葉が、神の力がすーっと私たちの耳に入ってくるのです。そして実現するのです。
冒頭で、「時折、聖書の言葉がふと心に浸みる瞬間があります」と言いました。イエスが仰るように神の言葉が、神の力が私に入ってくるのだから心に浸みるのは当然かもしれません。旧約で見た人々も神の言葉が耳に入った後、ネヘミヤの指揮によってバビロニアに破壊尽くされたエルサレムの城壁と町を再建していきます。「主は共におられる」と言いますが、まさに、私たちの中に入ってきてくださる。文字通り、主と共に歩むわけです。そして、私たちは同じ主に目を向けるとき、主に励まされ顔を上げるとき、一つの体として歩んで行きます。いつまでも、いつまでも。
(司祭ヨハネ古澤)
2022年1 月16日 顕現後第2主日礼拝説教より
ヨハネによる福音書第2章1~11節、コリントの信徒への手紙Ⅰ第12章1~11節
主イエスの時代、婚礼は数日間続くものであり、またぶどう酒は欠かすことのできないものだったようです。ホストである花婿は食事や飲み物を用意するわけですが、ぶどう酒が切れることは名誉に関わる大問題だったのです。ゲストであったはずの主イエスの母マリアが主イエスに「ぶどう酒がなくなりました」と告げたということは、宴会場ではぶどう酒の在庫がなくなったことを知ったゲスト達がしらけた白い目で花婿を見ていたのかもしれません。恥と名誉の文化ですから、花婿は穴があれば入りたいくらいオロオロしていたことでしょう。「交わり」を「良い関係性」と捉えれば、しらけた場となったその婚宴会場での交わりは薄くなっていったわけです。
しかし、主イエスが清め用の水瓶の水をぶどう酒に、しかも上質のぶどう酒に変えられたことで、花婿の面子が回復するだけでなく、花婿を中心とした婚宴会場の交わりもまた回復したのでした。この婚宴の場に平和が訪れたのでした。主イエスが能動的に婚宴での交わりを回復してくださった。このことに目を向けたいのです。
「主の交わり」という言葉を私たちはよく用います。神さまを中心とした交わりです。普通、交わりというと、特定のグループや家族単位で行います。食事会などがイメージしやすいかもしれません。主イエスの時代も、一緒に食事をするつまり交わりの時を持つということは、その場にいる人と同じグループや身分であることの表明でもありました。今の日本でも、時には単にお付き合いでということはあっても、似たような感覚ではないでしょうか。
しかし、神さまを中心とした交わりにはそのグループは関係ないのです。主イエスが「罪人」と当時見做されていた人々と一緒に食事をしていた、そのことが主の交わりについて語っています。
そして、主の交わりは神さまによる交わりですから、神さまに用いられます。今日の使徒書で聖パウロが言います。「賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です」。
あらゆる年代、性別、立場の人々がそれらを気にすることなく神さまを中心に集まる。イザヤ書の11章を思い出します。「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ、幼子は蝮の巣に手を入れる。わたしの聖なる山においては、何ものも害を加えず、滅ぼすこともない」(6~9節)。これは究極の主の交わり、主の平和の状態だと思います。私たちは霊に与えられた賜物を持ち寄って、この状態を目指していきます。「夢物語だよ」と言われるかもしれません。しかし、これが神の国の姿としてこのようなイメージが聖書では紹介されています。
(司祭ヨハネ古澤)
2022年1月9日 顕現後第1主日・主イエス洗礼の日礼拝説教より 於:聖ガブリエル教会
使徒言行録第10章34~38節、ルカによる福音書第3章15~16節、21~22節
イエスの一番弟子であるペトロは、この神の想い・願いをイエスを通して、また神さまから直接メッセージを受けることで知りました。神の想いに触れたペトロの言葉から今日の使徒書は始まります。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました」とペトロは言います。そう感じる出来事がペトロの身に起こったんですね。そして、イエスとの旅を思い返すと、イエスもまた人を分け隔てなさらない方だったことに気がついたわけです。神はペトロに、その人がユダヤ人であれ異邦人であれ関係なく洗礼を授けなさいと告げました。その出来事を念頭に置いてイエスとの旅を振り返ってみると、「イエスは方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされた」事に、そしてその中には当時罪人と看做されていた人々が大勢いたことに気づいたのたでした。このことは、ペトロにとって正に目から鱗が落ちる出来事であり、気づきだったことでしょう。
さて、人を分け隔てなさらない神、そして神が人となられた存在であるイエスは、ご自分をも特別扱いされませんでした。本来なら受ける必要が無かったであろう悔い改めの洗礼を、洗礼者ヨハネに従う他の人々と同じように受けられたのでした。
神の想いは、「私は特別な存在だ」と上から告げられたのではなく、完全に人間の只中から告げられました。もしかしたら、ペトロはそのようなことも、イエスとの旅を振り返る中で気づいたかもしれません。
さて、イエスの時代には一般的な認識として「救われる人と救われない人」、という形で様々な分け隔てが存在しました。今の時代はどうでしょうか。今の時代は多くの場合、人を分け隔てすることは「差別」であり、区別でなく差別ですね、それは良くないことだから人を分け隔てするのはやめよう、という認識を持つことが推奨されています(悲しいかな中々全ての人に共有されるのは難しいようですね)。もちろん多くの人が頭ではそのことを理解していますし、人を分け隔てしないことがどれほど重要な事柄であるかも知られています。しかし、やはりどこかで「自分たちと同じようであることが良いのだ」という思いがある。人は自然とそのような思いを持ってしまうのかもしれません。
神は全ての人を救っている。既にお救いになっている。しかし、その事実に様々な事情から気づかないことが多い。だから、主はその人その人の日常を用いてその人を導く。占星術師が誕生間もないキリストのもとへ、彼の日常である星に導かれたように。アンジェロが彼の日常である強盗という行為を通して導かれたように。私たちもまた、それぞれの日常を通して導かれたはず。人によっては、生まれたときから聖書と祈りが日常だった人もいるだろう。しかし、その人もその日常を通して、「信じる」ということへと導かれたはず。
主は今もあなたを導いている。星が先立って目的地へと占星術師を導いたように、私たちもそれぞれの目的地へと導かれている。現在進行形だろう。キリストは全ての人を導くため、この世にお生まれになった。ハレルヤ!
(司祭ヨハネ古澤)
2022年1月2日 降誕後第2主日礼拝説教より 於:聖ガブリエル教会
マタイによる福音書第2章13~15節、(16~17節)、19~23節
福音記者マタイは、神のご意志が成就したことを表すときは「これは〜するために」と記し、神がその出来事が起こることを予想していたけども、神のご意志ではなかったことを表すときは「そのとき〜した」と記したのでした。ほんの少しの差ですが、この書き分けによって、神の意志で起こったことと、そうでないことが私たちの世界にはある、ということが分かります。
現在わたしたちに起こっているコロナ禍もそうです。「なぜ神さまはこのようなことをなさったのだろう」と、私たちは現況を憂いてこのような一言を口にします。もちろん神さまに「なぜ」と問うことは大切です。このような問いは神さまに信頼を置いているからこそ出てくる問いかけだからです。しかし、私たち人間の歩み方を脇において、すべての責任を神さまに求めることには、注意しなければなりません。クリスマスの悲しい出来事、幼児惨殺がある人間の権力欲によって起こったように、私たちの周りで起こる悲しい出来事の中には、私たちの歩みが誤っていたがゆえに起こることもあるからです。
もちろん、コロナ禍は誰か特定の人物が招いた災難ではありません。しかし、私たち人間がその創造時に神さまから頂いた贈り物を、主のみ心に沿って用いることができているか、を問い直す機会ではあるでしょう。
そして私たちは、自分自身を振り返るだけでなく、先を見ることができます。暗いどんよりした道程ではなく、光を見ることができます。クリスマスの出来事は私たちに語ります。幼子が惨殺されるという恐ろしく悲しい出来事の只中にも光があったことを。「しかし、(ヨセフは)アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き、そこに行くことを恐れた。ところが、夢でお告げがあったので、ガリラヤ地方に引きこもり、ナザレという町に行って住んだ」。
ヨセフはやはりエジプトから地元に帰ることを躊躇しました。恐ろしかったでしょうし、出来事があまりにも悲惨で悲しかったからです。しかし、主が共におられることをヨセフは聞きました。主がヨセフを愛していることを知り、ヨセフは主を信じて希望を持ったのです。だからこそ、一歩を踏み出しました。そのヨセフの行動は神のご意志が成就するための大きな一歩だったのです。
2022年の最初の主日。私たちも主が私たち一人一人に向けてくださっている愛を再確認しましょう。主が共におられることを信じましょう。そして、このような困難な中ですが、希望を持ちましょう。その希望は他者を照らす光となります。社会鍋がクリスマス・ケトルのような、暖かい愛が世界中に広まったように、私たちの希望も、隣人への愛として用いられます。
新しいこの一年が、主と共にありますように、私たちの信じる心を育む一年となりますように、希望に照らされる一年となりますように、主の変わらぬ愛を感じる一年でありますように。共に互いに祈り合いましょう。
(司祭ヨハネ古澤)