牧師の小部屋 ㊳
1月9日から10日まで、ナザレの家(旧ナザレ修女会修道院)で正義と平和担当者の集いが開催されました。そこでの報告の一部をご紹介します。
東北教区では、震災および原発事故から12年が経った2023年と翌2024年には片岡輝美さんの講演および長谷川清純主教との対談を記念礼拝に続けて開催されました。そこから東北教区の渡部司祭は被災地の現状を分かち合ってくださいました。
渡部司祭が強調されたのは、2011年3月11日午後7時3分に発出された原子力緊急事態宣言が現在も解除されていないという事実、この緊急事態宣言が解除されていないにも拘わらず、避難区域は解除されてきたという矛盾について。そして片岡さんの「この国は、悲しむ人の悲しみを、不安を許さない国だと思ってしまいます」という言葉でした。
「放射能に不安を抱える母親たちがその不安を言えない状況に追い込まれていった」ということ。つまり、避難区域が明確に引かれたことによって、避難区域に隣接しながらも「自主避難」という形でしか避難できない親御さんが、不安を口にできない「空気」が形成されていきます。この「空気」は被災地にも広がりました。
そして、この「空気」は震災以降に被災地で子ども時代を過ごした現在の若い親世代にも影響を与えているのではないか、と片岡さんは推測しています。福島県では児童虐待件数が増加しているそうです。震災直後、「必死な大人たちの中で泣けない、甘えられない時期を過ごしてきたことが原因の一つではないかと思っています」と片岡さんは語ります。
「頑張ることや前向きなことが良とされますが、大熊町から避難されたお母さんが悲しませてもらえない、絶望させてもらえない苦しさを訴えるのを聞いたときに、「悲しむ人々は幸いである」(マタイ5:4)のみことばの意味が真に分かったように思いました」との片岡さんの言葉が心に留まりました。
※引用は「東北教区報あけぼの」2023年4月20日号、2024年4月20日号より
(司祭ヨハネ古澤)
2025年1月12日 顕現後第 1 主日 ・ 主イエス洗礼の日 礼拝説教要旨
(イザヤ書 42章1~9節)
本日の旧約日課はイザヤ書が読まれました。この前半、1節から4節までは「主の僕の詩」と呼ばれている箇所です。とても優しい慈しみに溢れた主の僕=イザヤの言葉で言えば「わたし(神)が選び、喜び迎える者」の姿が描き出されています。
主の僕は「彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない」とイザヤは預言します。主の僕は支配者のように大きな声で命令する者ではないようです。それどころか、「傷ついた葦を折ることなく/暗くなってゆく灯心を消すこと」がないと言います。葦とは植物の葦ですね。日本でも川辺に群生している、あの細い葦です。聖書の地域の葦は高さが数メートルにもおよぶそうで、そして日本の葦と同じく折れやすい。そのため、籠を編むなど何かの材料にはなりにくいそうです。
そして、「暗くなってゆく灯芯」。油の切れかかったランプです。小さな皿のような器に油が入っており、そこに火を灯す芯がある。しかし、油がもう切れかかっているので、火は今にも消えそうに揺れ動いている。そのような状況です。
主の僕はそのような葦を切り捨てるどころか労り、今にも消えてしまいそうな、暗闇を照らすには余りにも不十分な火を吹き消してしまうことがない。今にも折れてしまいそうな私たちを、今にも心の火が消えてしまいそうな私たちを見捨てることなく心に留めてくださる。そのような主の僕の姿が描かれています。
「傷ついた葦を折ることなく/暗くなってゆく灯心を消すことなく」、主は私たち一人ひとりの人生を、そして私たち教会共同体としての働きを支えてくださいます。私たちと同じ、ひとりの人として洗礼を受けてくださった主イエス。それは、私たちもまた神の子であることを示されるためでもあったでしょう。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」。この呼びかけは私たちに向けられたものでもあります。
(司祭ヨハネ古澤)