牧師の小部屋 ⑲
「色々な祈り」
以前、九州教区で行なわれた「 ベテルフェローシップ 」という説教の勉強 プラス 教役者の交わりを行うプログラムに参加させて頂きました。プログラムのコーディネートを濱生司祭が担ってくださり、とても有意義な4日間を過ごすことができましたし、また祈りについての気づきが与えられました。
フェローシップということで交わりの時間も多く、濱生司祭が色々と昔のお話をしてくださいました。その中で、濱生司祭が神学生だった1970 年ころのお話がとても心に残りました。当時はどの神学生もお金がなく、そして神学校での娯楽といいますか、息抜きをする手段もあまり選択肢はなかったそうです。
息抜きといえば、皆でフルーツポンチを作るのが楽しみだったそうで、ソーダを手配する係、フルーツの缶詰を調達する係とあるそうですが、いかんせん皆お金がない。そこで、缶詰を担当する神学生はいつも決まっていたそうです。
それはパチンコが得意な神学生でした(時代を感じます)。その方は景品の缶詰を獲得するためにパチンコを打ちに行くのです けども、玉を打つ際、一発一発お祈りしながら打っていたそうです。半分笑い話ですし私はパチンコが大嫌いなのですが、その神学生は皆の大切な息抜きを行なうため、真剣に玉を打っていたのだろうと思います。心からの祈りでもって自分ができることをする。こういった祈りの形もあるのだな、と感じたお話しでした。
(司祭ヨハネ古澤)
牧師の小部屋 ⑱
「羊飼いとひつじ」
イエスさまはご自身を羊飼いに、そして私たちを羊にたとえます。
専門家から聞いたわけではないので、どこまで当たっているのかわかりませんが、羊というのは少しおっちょこちょいな面があるようです。羊は群れで行動する動物ですが、もし群れの一頭が何かの拍子に走り出すと、他の羊は走り出した羊の後にひたすらついていくそうです。自分がなぜ走っているのか、どこへ向かっているのか分かっていなくてもです。
だから羊には羊飼いが必要なのだそうです。新鮮な草が生えている場所へ、そして水飲み場へと羊飼いは自分の羊たちを案内します。「ひたすら従順に着いていく」という羊の特徴は、ここで発揮されるわけです。
イエスさまが生活し活動していたパレスチナ地方には、今も羊飼いがいて羊の世話をしています。その羊飼いについてこんな話があります。ある旅行者がパレスチナを訪れた際、羊飼いの少年に出会いました。少年はたくさんの羊と一緒にいました。旅行者はその少年に、「君の羊は何匹いるの?」と尋ねました。すると少年は「そんなの分からない」と答えました。「なんと無責任な」と質問した人は思ったのですが、少年は続けます。「何匹いるかは分からないけど、一匹ずつみんなの名前はわかるよ。どの羊がいないか、すぐに確かめられるんだ」と少年は言いました。何匹いるかはわからないけど、それぞれの羊の名前がわかる。羊からすればとても心強い話です。
(司祭ヨハネ古澤)
2023年9月10日 聖霊降臨後第15 主日礼拝説教より
(マタイによる福音書 第18章15~20節)
神さまが願っておられることを主イエスは「天の父の御心」と表現します。そして、今日の福音書箇所の直前ではそのことについて話しておられます。
今日の福音書の直前は ”「迷い出た羊」のたとえ” と言われる箇所です。100匹の羊がいて1匹が群れから迷い出てしまったなら、羊飼いは99匹を残してでも1匹を探しに行き、その1匹が見つかったなら喜ぶ、と主イエスが譬えを話す箇所です。最後はこのように締めくくります。「そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」。 この言葉を受けて主イエスは今日の箇所を語ります。たとえ教会の仲間が自分に罪を犯したとしても、その人が神さまの許に留まることができるよう可能な限り手を尽くしなさい、と。一人を大切にしなさい、と。とても考えさせられる言葉です。私たちの社会では、時代の流れについて行けない人が置いてけぼりにされることが多々あります。私たちの教会はこの数年間だけでも、できるだけ多くの人が共に礼拝できるよう工夫がされてきました。しかし、もしかしたらまだ出来ることがあるかもしれません。
「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」と主イエスは言います。私たちが神さまの御心を知ろうと祈るとき、主イエスも共に祈ってくださいます。私たちの教会は皆が共に心を合わせることができるよう、これからも工夫をしていきたいと願います。そして一方で、誰のいのちもとり残されない社会を求めて、共に祈っていきましょう。
(司祭ヨハネ古澤)
2023年9月3日 聖霊降臨後第14 主日礼拝説教より
(マタイによる福音書 第16章21~27節)
主イエスの受難予告を聞いたペトロは主イエスをわきへ連れていさめ始めました。「そんなことがあってはなりません」というペトロの言葉は、直訳すると「あなたに神の憐れみがあるように」です。これは、「神が恵みをあたえ、そのようなことが起こらないように」との意味です。つまりペトロにとって、主イエスが予告されたご自身の受難は、神の恵みによって避けなければならない事柄でした。もちろんペトロの気持ちは痛いほど良く分かります。私もペトロと同じ現場にいれば、死んで欲しくないと願ったでしょう。
しかし、今重要なのは神が何を願っているのか、ということでした。主イエスはペトロに言います。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」。強烈な言葉ですからどうしてもこの言葉が頭に残ってしまいます。しかし私たちが注目すべきは「神のことを思わず、人間のことを思っている」との一言です。
弟子たちは主イエスが王になり、自分たちはその側近になる、そのような未来を望んでいたようですが、主イエスが弟子たちに望む姿はそれとは180 度異なるものでした。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と主イエスは言います。権力ある者・力ある者ではなく、仕える者になりなさい、と言います。仕える者の極となる姿が、主イエスの十字架でした。十字架に架けられた主イエスは、ご自分の隣で十字架にかかっている罪人の懺悔の言葉を聞き、彼の為に祈ります。最後の最後まで、人に仕える主イエスの姿がありました。
(司祭ヨハネ古澤)