2017年12月31日「私たちが受けた恵み」 (ルカによる福音書 第2章15節~21節)
イエスさまのご降誕を記念する日から7日が経ちました。降誕日では、私たちの救い主の誕生を祝い記念しました。降誕後の主日では、イエスさまの降誕が持つ意味を思い巡らせるように聖書日課が選ばれています。
キリストの誕生を通して私たちは大きな恵みを受けました。ではその恵みとはどのようなものなのでしょう。使徒書では、それは私たちが律法の奴隷から神の子へと変えられた、とあります。ただ単に律法の指示に従う存在から、神さまによって立てられた救いの相続人にされたのでした。奴隷は主人の指示に単に従う存在です。「履き物をもってくるように」と言われても、奴隷はなぜ履き物を持ってくる必要があるのか、その意味を知らされません。しかし、子であれば「どこそこへ出かける用事があるから、履き物を持ってくるように」と親は言うでしょう。もしかしたら、「一緒にでかけるか」と声をかけて貰えるかもしれません。同じ救いに至る道であっても、律法に従うだけであるか神さまのお考えを知った上で救いの道を進むか、この二つの道には大きな違いがあります。
では、神さまのお考えとは何でしょうか。そもそも神さまはどのような存在なのでしょうか。今日の福音書にはこのような一文がありました。「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」(ヨハネ1:18)。そうです。私たちは神様を見たことがない。しかし、父の独り子つまりイエスさまが神を示される存在なのです。イエスと直に話をし、旅を共にした弟子たちはもちろん、それから二千年余りが経った今を生きる私たちもまた、福音書を通してイエスさまを知ることができます。それは神を知ることに他なりません。これが私たちに与えられた大きな恵みの一つでしょう。
そして、イエスの十字架での出来事と復活、昇天、聖霊降臨の出来事を通して、私たちはイエスと人生の旅を実際に行います。目に見ることはできませんが、イエスさまと共に旅をします。そして、私たちの人生の中心は自分自身からキリストへと変わっていくことでしょう。これがクリスマスの出来事がもたらした大きな恵みではないでしょうか。
(司祭ヨハネ古澤)
2017年12月24日 「恵みの光」 (ルカによる福音書 第1章26節~38節)
恵みといえば、私たちがこの世に生まれてきたことほどぴったりと当てはまる例は他にないでしょう。私たち一人一人が神さまからこの世に送りだされました。天使ガブリエルからみ告げを受けたマリアの場合は、その大きすぎる恵みを受けることができるよう、神さまがエリザベトを用意してくださっていました。これと同じように、私たちそれぞれが人生という大きすぎる恵みを受け取れるよう、神さまは多くの出会いを用意して下さっているわけです。そしてもう一つ出会い、キリストとの出会いをも用意していくださっています。「キリストと一緒に人生の旅路を歩みなさいよ」と言うわけです。全ての人にその恵みは差し出されています。受けるかどうかは私たち次第です。
暗闇を照らす光、救い主である光、つまりイエスさまは、多くの手に支えられないと生きていくことができない、赤ん坊の姿でこの世に来られました。その光は一人では動くことができません。私たちがその恵みのを受け取らなければ、光は広がっていくことはありません。しかし、私たちが生きて行くうえで欠かすことのできない光であり、人を生かす光であり、人の命が心底豊にされる光です。クリスマスのとき、キリストを信じる勇気をもち第一歩を踏みだしましょう。そして、神さまが私たち一人一人をどれほど大切に想っておられるか、イエスさまの誕生を通して再度確認いたしましょう。
(司祭ヨハネ古澤)
2017年12月17日 「洗礼者ヨハネとキリスト」 於:聖ガブリエル教会 (ヨハネによる福音書 第1章6節~8節、19節~28節)
洗礼者ヨハネは、イエスについて、つまりメシア(救い主)についてこのように伝えていました。「わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。」と。ヨハネがメシアであるイエスに対して抱いていたイメージは「聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」方でした。もしかしたら、力強く福音を伝え人々を導き統率する、そのような人物を思い描いていたのかもしれません。しかしヨハネの予想は外れました。イエスが行ったことは諸会堂で教え、福音を宣べ伝え、民衆の病気を癒やされた「だけ」でした。そこに力強さはありません。ヨハネの思い描いた「聖霊と火」で人々に洗礼を施すメシア像とはかけ離れたものでした。
しかし、イエスはご自分が今まで行なってきた業が、メシア預言の成就であることを明らかにされます。
目が見えずまた足が不自由であるがゆえに社会から疎外されていた人々は、見えるようになることで、また歩けるようになることで社会の営みに参加することができるようになったのです。それは人間の回復でした。「天の国は近づいた」と言ったヨハネの宣言が、まさにごく一部の地域でではありますが実現していたのでした。それは、ヨハネの想像する力強さによって引き起こされるのではなく、慈しみと愛といった柔らかさでもって行われていました。
(司祭ヨハネ古澤)
2017年12月10日「希望への道のり」 (マルコによる福音書 第1章1節~8節)
今日の福音書に登場した洗礼者ヨハネは道を整えた人でした。福音を人々が受け入れるための土壌を耕そうとした人物です。しかし、迷いなくという訳ではありませんでした。実際にイエスが働き始めると自分がイエスに対して持っていたイメージとのギャップに苦しみます。ヨハネはある出来事のために牢獄に入れられるのですが、牢獄から弟子を介して「救い主はあなたですか、それとも別の人を待たなければいけませんか」とイエスに尋ねます。洗礼者ヨハネは、悩みながらイエスと信じようとしていたのでした。イエスを直接的に間接的に支えた人々は、みな悩みながら信じていった人々でありました。イエスにまつわる人々はみな、忍耐した人でもありました。
しかし、最も忍耐しているのは神さまかもしれません。今日の使徒書にこのような一節がありました。「一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと、あなたがたのために忍耐しておられるです」(2ペト3:9b)。私たちが神様の方へ向き直るようにと、何千年と待っておられるのでした。すべては私たちを救うために忍耐され、イエスを私たちに与えられたのでした。そう、クリスマスの出来事です。
洗礼者ヨハネもこの神の願いを叶えるために道を備えました。不安の心を持ちながらも、神さまの計画を信じて、福音を信じで道を備えたのでした。そして私たちも道を備えていきます。私たちの人生に深く関わってくださっている神さまを信じて、これから信仰の道を歩んでいく後の世代のために。希望へと続く道を備えていきます。
(司祭ヨハネ古澤)
2017年12月3日 「歴史の終わりに身をおいて」 (マルコによる福音書 第13章33節~37節、コリントの信徒への手紙一 第1章1節~9節)
教会の暦では新しい一年が始まりました。イエスさまの誕生をお祝いする心の備えの時、降臨節に入りました。その最初の主日にあって、イエスさまは「終末(キリストの再臨のとき・神の支配が始まるとき)その時は必ず来るが、それがいつかは神さま以外には分からないよ」と言います。「だから目を覚ましていなさい」と。
聖書は時折、私たちに終末に立って「今」を見ることを促します。キリスト再臨とのとき、私たちはどのような状態になっているのか。だから今私たちは何をすべきなのか。終末を意識して今を振り返ると心が引き締まります。このことが、新しい一年の最初に行われるのです。
イエスは言います。「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。気をつけて、目を覚ましていなさい」と。この言葉を、語ることが苦手であるにもかかわらず、「恐れるな、語り続けよ」と主に励まされながらコリントで宣教中していたパウロが聞いたなら、「希望を持ち続けなさい」と受け取ったのではないか、と思うのです。そして私たちにとっても、「目を覚ましている」ということは「希望を持ち続ける」ということではないでしょうか。
降臨節の最初、私たちは終末からスタートしました。この道筋の先にはキリストのご降誕という希望の出来事が待っています。私たちに平和と喜び、そして愛をもたらしてくださるキリストの誕生です。そのような大きな喜びがまっているからこそ、私たちはしっかと視線を神さまに定めたいと思います。
(司祭ヨハネ古澤)