2024年12月22日 降誕日主日 礼拝説教要旨
(ルカによる福音書 2章1~10節)
聖書には、「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」とあります。しかし、この宿屋という言葉は「二階の広間=客間」を表す言葉です。主イエスの時代、少し大きな家であれば一階は家族が生活をする空間で、二階に客間がありました。住民登録のために親戚を頼ってきた人たちは客間に泊まったことでしょう。ヨセフとマリアがベツレヘムへ着いたとき、客間は埋まっていたようです。しかし、誰かの家の家族スペースに迎えられたのでしょう。
当時の農民の家は、一階に一段高くなった家族が生活する空間があり、一段低いところには家畜=動物を飼う空間がありました。一昔前の日本の農家と同じです。そして主イエスの時代、生まれたばかりの赤ちゃんは誰もが一枚の長い布に包まれました。主イエスもまた一枚の長い布に包まれたのでした。当時の農民がそうであったように、客間に空きがなかったヨセフとマリアも生まれたばかりの主イエスを飼い葉桶に寝かせたのでした。そこには当時の貧しい家の一般的な出産の光景がありました。旅先ではあったものの、ヨセフとマリアの日常の中で主イエスは生まれたのでした。身重のマリアとヨセフを迎えてくれた一件の家。飼い葉桶に寝かせられたイエス。当時としてはごく一般的な貧しい家に迎えられ、主イエスは生まれました。そこには神さまの働きの痕跡など見えないかのような、静かな日常の中での出来事でした。
小さな町に滞在した小さな家族から救い主はお生まれになりました。そして人々から煙たがられていた羊飼いたちが、救い主誕生の最初の報せを受けました。いつもと同じように仕事をしていた羊飼いに主イエス誕生の報せ、つまり救いの報せが訪れました。クリスマス物語は、救いは上からやってくるのではなく、救いは下から、日常からやってくると伝えます。天使ガブリエルからのみ告げを受けていたマリアは、羊飼いたちがもたらした報せを耳にして安堵したことでしょう。天使のみ告げは間違いではなかったのだ、と。
(司祭ヨハネ古澤)
牧師の小部屋 ㊲
「オー・ゴッド」という映画をご存知でしょうか。名曲「カントリーロード」で有名なジョン・デンバーが主演、1977年に作成された映画です。
主人公は真面目で親切で心優しく、大手スーパーマーケットの売り場主任として働いている男性です。彼は「自分は不信仰だ」と公言するように教会には全く足を運びません。しかしこの男性が神さまからメッセンジャーとして選ばれ「『神は実在する。神は人類を愛している』ということを人々に伝えるように」との任務を与えられます。最初は神の実在を疑い自分には何もできなから、と拒んでいた主人公。しかし神さまと話しを続けるうち人々に神の実在と愛を伝えようと奮闘します。新聞に記事を掲載し、彼を面白おかしく扱うテレビに出演もしますが、彼の言うことを信じる人は皆無です。挙げ句の果てには、不信仰な牧師を糾弾したために名誉毀損でその牧師から訴えられてしまいます。孤軍奮闘しますが、最後には神さまが法廷に集まる人びとの前で奇跡を行い、その場にいた人たちだけは信じる。このような内容のコメディーです。
この主人公が人々に伝えようとしたのは、「神は本当にいるよ。神はあなた方を愛しているよ」と教会がいつも言っていることでしたが、誰も信じません。それは主人公が神さまと直接話しをしたとも口にするからでした。「こんな名声もない人に、一介のスーパーマーケットの売り場主任に神が現れるはずがない」という先入観があるのでしょうか。なるほど、全く名前も知られていない人がいきなり「神さまと話しをしました。神はまだまだ生きていると言っていました」と耳にしたら、自分は信じるだろうかと考えてしまいます。しかし、聖書を紐解けば、神さまがまず心に留めたのは名前も知られていない人びとです。
このような、面白くも考えさせられる「オー・ゴッド」の上映会を来年2月13日(木)聖書の集いで行ないます。ぜひご参加ください。
(司祭ヨハネ古澤)
2024年12月8日 降臨節第2主日 礼拝説教要旨
(ルカによる福音書 3章1~6節)
洗礼者ヨハネが登場しました。マルコ福音書やマタイ福音書には、洗礼者ヨハネはラクダの毛衣を着て腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた、と記されています。今日の箇所では「神の言葉が荒野でザカリアの子ヨハネに降った」とありますから、洗礼者ヨハネは荒野で修行者のような生活を送っていたのでしょう。
神の言葉を受けたヨハネはヨルダン川沿いの地方に足を運び、悔い改めの洗礼を宣べ伝えます。預言者イザヤの「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」との言葉が成就したのでした。
荒野とは神以外に頼るものがない場所であり、出エジプトを果たしたイスラエルの民が試みを受けて神に背いた場所であると同時に、神との新しい出会いを果たした場所であると捉えられていました。その道筋をまっすぐにするのです。同じく引用されている預言者イザヤの言葉は「人は皆、神の救いを仰ぎ見る」とあります。洗礼者ヨハネは悔い改めの洗礼を宣べ伝えましたが、この場合の悔い改めとは神さまに導かれることを良しとすることと言えます。
洗礼者ヨハネが神さまから期待されていたことは、エジプトから導き出された民が神さまと新しい出会いをしたように、人びとが神さまに心を開く備えをすることだったのでしょう。それは、主イエスが語る言葉や行いが神さまの想いであることを人びとが知るためでした。
「言は神であった」「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」と福音記者ヨハネは語ります。とても詩的にクリスマスの出来事を表しています。洗礼者ヨハネが自身の日常生活の中で神の言葉に出会ったように、羊飼いも東方の占星術師たちもそれぞれの日常において、前者は天使に導かれ後者は星に導かれ救い主イエスに出会いました。私たちもまた、それぞれの日常の中でキリストに出会い導かれています。
(司祭ヨハネ古澤)
2024年12月1日 降臨節第1主日 礼拝説教要旨
(ルカによる福音書 21章25~31節)
キリストに連なる私たちは、降臨節最初の日曜日という一年の始まりに立っています。教会全体が私たちの救い主であるみ子を迎える準備で満ちているように、私たちひとり一人も神が人となられた方=主イエスを迎える準備の時へと入りました。礼拝が始まる前、一つ目のアドベントキャンドルに明かりが灯されました。希望のロウソクです。神が私たちと同じ人として来られたあの出来事は、私たちにとって希望の出来事です。しかし、み子の訪れがもたらすものは希望だけではありません。来週は二本目、その次は三本目、そして私たちがクリスマス礼拝を献げる日には四本目に火が灯されますが、それぞれが平和、喜びそして愛を表します。神の子の訪れは私たちに希望だけでなく、平和と喜びと愛をもたらしたのでした。そのことをまず、私たちはこのクリスマスまでの四週に想い起こしたいと思います。
皆さんの一年の中にも、皆さんひとり一人にとって大きな重大な出来事があったのではないでしょうか。それが悲しみの出来事であっても喜びの出来事であっても、そこにキリストが共におられたはずです。共に悲しみ、共に喜び、共に歯を食いしばり、共に胸を弾ませてくださる。そのようなキリストが、目には見えずとも確かに、皆さんと共におられたはずです。「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」との主イエスの言葉を思い出します。世の終わり、それは救いのとき、救済の時です。それが何時なのかは分かりません。主イエスの仰る通り、木々の葉が出始めて私たちは夏が近いと感じることができます。しかし、私たちは「何月何日に夏が訪れる」と予測することはできません。私たちは神さまの計画を垣間見ることはできないのです。しかし、キリストは目に見える姿で来て下さる。その希望を私たちはこの降臨節第1主日に再度確認します。
(司祭ヨハネ古澤)