2024年1月28日 顕現後第4 主日 奨励要旨
(マルコによる福音書 第1章21~28節)
今日の福音書箇所は先主日の続きです。四人の漁師を弟子にした主イエスは、安息日に会堂で教え始めた、と福音書は報告します。この会堂では、主イエスの権威が人間だけでなく汚れた霊にもおよぶことが示されます。
汚れた霊は「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」と叫びます。
汚れた霊は最初「ナザレのイエス」と主イエスの本名を叫びます。古代において相手の本名を呼ぶことは、相手を縛り自分の支配下におく呪いの行為でした。この霊も主イエスを支配下におこうとします。その上で「かまわないでくれ」と霊は命じます。これは「俺とお前は関係がない」という意味です。「俺とお前は無関係じゃないか、だから放っておけ」と言うわけです。今風に言えば「自己責任」でしょうか。「あの人困っているようだけど、私と関係ないし。あの人が困っているのは、あの人の責任だし。だから放っておこう」。汚れた霊による誘惑が今の社会に広がっているのかもしれません。
本名を用いて主イエスを従わせようとした霊でしたが、それは適いませんでした。主イエスは汚れた霊の名を用いるどころか、「黙れ。この人から出て行け」の一言で霊を従わせます。主イエスが持つ権威の強さが示されています。
この物語は私たちに問いかけます。「神の力をどのように捉えていますか?過小評価していないですか?」と。言い換えれば「主イエスに信頼して生きて良いのですよ。希望の光りがここにありますよ」と今日の物語は語りかけます。
(司祭ヨハネ古澤)
牧師の小部屋 ㉔
宮沢賢治の代表作に「セロ弾きのゴーシュ」があります。最近読み返す機会がありました。皆さんご存知かと思いますがあらすじをご紹介します。
ゴーシュは金星音楽団に所属しチェロを担当していました。楽団は町の音楽会に向けて練習をしています。しかし、ゴーシュのチェロの腕前はよくないようで、何度も指揮者から注意され怒られています。 ゴーシュは夜中までチェロの練習をします。すると三毛猫がやってきて、ゴーシュの演奏に注文をつけました。二日目にはかっこうが、三日目には狸の子が、四日目には野ねずみの親子がやって来ます。
ゴーシュの演奏に対して三毛猫がした注文には腹をたて、かっこうにも怒ったゴーシュでしたが、三日目、四日目になると動物の声に耳を傾けるようになっていきます。そして、野ねずみの親子とはゆっくりと話をし、病気である子ねずみを労ってパンを分けてあげるのでした。そんなことがあった後、音楽会当日。演奏中ゴーシュ自身は気づいていませんでしたが、ゴーシュのチェロの腕前は格段によくなっていました。アンコールでは指揮者からゴーシュが指名され大喝采をあびるのでした。 ゴーシュは動物たちが訪れたことを思い返し、自分の演奏に注文をつけてくれたからこそ、チェロの腕がよくなったことに気づきます。このようなお話しです。
中村哲さんは自身の人生をに重ねこのように言います。「賢治の描くゴーシュは、欠点や美点、醜さや気高さを併せ持つ普通の人が、いかに与えられた時間を生き抜くか、示唆に富んでいます。遭遇する全ての状況が古くさい言い回しをすれば天から人への問いかけである。それに対応する応答の連続が、即ち私たちの人生そのものである。その中で、これだけは人として最低限守るべきものは何か伝えてくれるような気がします。それゆえ、ゴーシュの姿が自分と重なって仕方ありません」。中村哲『わたしは「セロ弾きのゴーシュ」』NHK出版、pp224225
(司祭ヨハネ古澤)
2024年1月14日 顕現後第2 主日 礼拝説教より
(ヨハネによる福音書 第1章43~51節)
ナタナエルは主イエスが「まことのイスラエル人だ」と表現するほどに、聖書を学ぶ信仰深い人物だったのでしょう。当時熱心な人々は、広く枝を伸ばすいちじくの木の下でラビから聖書を学んでいたようです。「いちじくの木の下にあなたがいるのを見た」との主イエスの証言が、ナタナエルの信仰深さを示しています。
聖書を深く学んでいたからこそ、ナタナエルは「ナザレから何か良いものが出るだろうか」とフィリポに漏らしたのでしょう。しかし、フィリポは「来て、見なさい」とナタナエルに勧めます。「頭で学ぶだけでなく実際に会ってみなさいよ」とフィリポは勧めます。その勧めに素直に応じるあたり、ナタナエルの真面目さ、誠実さが現れていますね。ナタナエルはただの記号としてのイエスではなく、神の子イエスに出会ったのでした。
この物語をみると、私たちはフィリポが人=ナタナエルと神=主イエスの橋渡しをしていることに気づきます。旧約聖書の時代から、神さまは多くの人を介して人間にメッセージを・想いを届けようとしてこられました。創世記にはしばしば、神さまが天使を介して、しかもその人の夢を通してコンタクトを取る場面が描かれています。ヤコブという人物は母親のお兄さん、つまり伯父さんの家に向かう旅の途中、寝ている時に「先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた」という夢を見ました。その階段の傍らに神さまが立っており、ヤコブに話しかけたのです。
そして今日の福音書に目を戻すと、「天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる」と主イエスは言うのです。ヤコブの夢に出てきた階段、つまり天と地を繋いでいる階段はイエス自身であると。主イエスはご自身を通して天と地が繋がれると言います。主イエスと出会うことで、キリストとの交わりを通して私たちは神さまの想いを知ることができる。私たちはそのような恵みを受けたのではないでしょうか。
(司祭ヨハネ古澤)
2024年1月7日 顕現後第1主日・主イエス洗礼の日 主日礼拝説教より
(マルコによる福音書 第1章7~11節)
今日の出来事はクリスマスから30年ほど後のことです。主イエスが洗礼者ヨハネから悔い改めの洗礼を受けられた時のことが記されていました。「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた」(9節)と主イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた次第がさらっと描かれています。しかし、何かがひっかかります。悔い改めの洗礼とは、今までの生き方から神中心の生き方へと方向転換を促す洗礼です。神が人となられた存在である主イエスにこの洗礼は必要だったのでしょうか。
やはり主イエスが洗礼を受ける必要はなかったでしょう。ではなぜ主イエスは洗礼をお受けになったのか。想像するしかありませんが、やはり「神が人となられた」からではないかと思うのです。私たちと全く同じ人間になられた神。当時のパレスチナに生きる多くがそうであったように、貧しい生活を送られた神。当時の市井の人々が生活をするように主イエスも生活され、当時の人々が成長するように主イエスも成長され、人間が生きる上で経験する喜びや悲しみを経験された。だからこそ、神に従う生き方を望む人々が受けた洗礼者ヨハネの洗礼を、主イエスも受けられたのではないでしょうか。
ペトロは「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました」と語ったわけですが、正にキリストは全ての人と歩んでくださる。だからこそ、私たちも悔い改める存在として、つまり神さまと一緒に神さまの想いに沿った生き方を模索する存在として、多くの人と歩んでいきましょう。直接出会わない人がいるかもしれません。代祷で憶えるだけかもしれません。しかし、忘れずにその方々を心に思い描いて祈りましょう。クリスマスの出来事を通して、神が私たちの隣人になってくださったことを知りました。私たちも出会う人・祈る人の隣人として、また社会で起こっている課題に関心を持ちながら、この一年を歩んで参りましょう。
(司祭ヨハネ古澤)